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【適応障害休職中】「成功」や「勝ち」を求めない生き方


1 こんな日もある


昨晩は辛い夜だった。

娘と就寝してから、夜中目が覚め、そこから寝つけなくなった。

同時に、得たいのしれない不安や恐怖が押し寄せてきた。

言語化しようとすればそれば、

お金がなくなってしまうのではないか?

ということだったと思う。

これに関連して、

・就労出来ないのではないか

・出来たとしても、またすぐにしんどくなってしまうのではないか

・休職したら、またお金の不安がやってくる

・まともに娘を育てられないのではないか

・娘はおろか、自分の一生もままならないのではないか

・一生お金の不安に苛まれ続けるのではないか

・それと共に、一生自己不全感に苛まれながら死んだように生きるのではないか

・生きていく意味とはなんなのだろうか…

まさに、ネガティビティ・バイアスの典型パターンである(苦笑)

学んだばかりの悲観主義者の説明スタイルそのものといったところ。

◆自分のせい(個人的)

◆いつものこと(永続的)

◆あらゆる面でこんなふうだ(普遍的)

自動思考で反芻する…

そうこうしているうちに、体中が痒くなってきて、夫を起こす(迷惑な話だ)。

情けなくなってしくしく泣いていると、熟睡中の娘が突然ムクッと起きあがり、

「ママ、大丈夫だよー、よしよし」

と、純真無垢な眼差しで哀れんでくるものだから…

ハッと我に返り、「ごめんね、ちょっと痛い痛いだったの」と、慌ててスタンドの灯りを消し、そのままいつしか眠りについていたようだ。


2 ブラックマンデー


翌朝、低体温の私にしては、基礎体温が高い…正常な月経周期を持つ女性ならば、間もなく月経が開始するほどの高温期の体温だ。

世間の長いお盆休みの雰囲気も、今朝でおわり。

そして、社会適合者(なんとも皮肉な言い方だろう…)は今日からまた、1週間がスタートする日。

一応、HSS型HSPだから、そんな世界の気配を察知してか意識し過ぎてか、はたまた低気圧の位置やら体調なんかも含めて、いつも以上に心身共に敏感になっているに違いない。

夫に昨晩、

こうなる(メンタルがガクッと落ちてしまう状態になる)のは、大体月曜日前だね。

と言われ、腑に落ちる。

そうだ、メンタルクリニックの受診を決めて、実質的に休職がスタートしたのも、そう言えば月曜日だった。


3 精神疾患と、偏見


今朝も何とか起き出して、朝の散歩をし、娘と夫のご飯の支度をし、娘を保育園に送り出せたことに感謝。

大丈夫、今の私の最低限は、こなせてる。

娘にも、愛情をそそいでる。愛おしい。


食事の支度中、ルーティーンのYouTube視聴。

適応障害になってから、度々見させて頂いているチャンネル。

今朝は、深夜に逡巡していたことが「お金」のことだったからか、「生活保護」という言葉が気にかかり、この配信を見た。


現在、日本の全人口において、

生活保護世帯  1.6%
精神疾患          3.3%

確認されていて、両方に該当する人も多いという。

精神疾患とは、統合失調症、気分障害、精神発達障害(知的障害)、発達障害などを言い、これに該当するとされる人たちが就労を継続することの困難さは、わが身をもって感じているところだ。

働く知識、技量、体力、知能に障害のある人がいて、かつ親族などからの援助がなければ、生活保護を取らざるをえなくなるのだ。

Youtubeで益田医師の話を聞いていて、一番深く考えさせられたことが、

現代社会には

能力主義と差別

という問題がある、ということだ。

確かに、私も適応障害と診断される以前は、「この世の中には才能や努力によって報われる」ことが多い、と信じていたかもしれない。

全てにおいてではないが、そういう側面が社会にあるのは仕方ないことだし、自分はその不文律に適応出来る側にいるのではないかと、無意識に思っていたかもしれないと、ふと気づいた。

しかし、益田医師の解説によれば、

才能や努力によって報われるという確固たる信念は、偏見にも通じる

という。

努力が可能である「体質や環境」、素直であったり性格が良いという「基質」、世間的にも経済的にもしっかりしている「親」、過去な今現在に選択した「会社」…

上に「 」抜きしたものは全て、遺伝や運といった、本人にはどうしようもない要素が多分に関係するものばかりだ。


だからこうすべきだ、と安直に解答が出る種のものではないし、実際医師は、

「解決策はない。知ると楽になる」

と言っている。

この流れで、

生活保護は“甘え”とは言えないし、無条件で人を否定は出来ないのだと結論する。

生活保護受給者には、最低限のお金と、多くの時間が手渡されるわけだが、その2つは同時に「結構苦しい」状態へ移行していくためのアイテムなのだということは、想像するに難くない。

障害で働けないのだから、それは非常に辛い時間になる(稀に、そうでない人がいるのかも知れないが…)

そして、その時間は最小限のお金で生き延びることが優先であるから、相当特殊な覚悟や行動を選択しない限り、自分の持つリソースを増やすのも難しくなる。

そうなると、これまでの人間関係が希薄になったり、社会から切り離されていく感覚に陥るのも容易い…


解決策はない、知ると楽になる。

自分のために、繰り返してみる…


昨晩あんなに苦しんだこと、過去の自分の価値観や、無意識の言動を省みるに、私自身に「偏見」が深く根差していたようだと自覚した。


4 「いい人」は成功できない


ひとつ、勇気づけられたこともある。

「いい人」は成功できない

というのが、世の常らしい。

ある程度悪いことをしてきた、裏表を使い分ける、清濁併せ呑む…

こういうことに長けている人、いわゆる「大人の対応」がそつなくこなせて、そこに対する罪悪感などの感情もうまく処理出来る人でないと、「成功」は出来ないのである。

私は、こういうことが(法に触れない範囲で)上手く出来る人がいるから、社会やビジネスが循環し、その恩恵に預かることも出来ている、とも思っている。

だから、益田医師が言うように、私たちが

「成功している」と言う時、決して手放しで誇れることではないし、恥じるべきことではないけれど、そんなに偉いことでもない

のだ、という意見に大いに頷くのである。


転職前は、とにかく「成功」したい、と考えていたのだと思う。


☑️お金をたくさんもらうために、自己欺瞞的に振る舞っていなかったか?

☑️自分自身の価値観、美徳にもとることをしようとしてはいなかっただろうか?

☑️世間や他人の評価軸を使って、自分や家族の幸福度を測ろうとしていなかったか?

☑️自分のこころの声に、きちんと耳を傾けていただろうか?

☑️見栄や欲、承認欲求の塊になってはいなかったか?

あらためて、じっくり検証すべきだろう…


そして、益田医師から、読書の宿題も。

HSS型をあわせ持つ私は、家に引きこもっていると、本当にどうにかなってしまいそうなので、朝の静かなカフェの一画でnoteを書いている。

ビジネス畑で生きることが可能なのか、哲学的に生きるか…

繊細な私が「成功」することは、ほぼ間違いなくないだろうなと考えつつ(苦笑)

「勝ち」を放棄すれば、比較からも解放されるだろう。

それはおそらく、少数派を生きる覚悟でもある。

私は一体、どう生きるのか。

自問自答は続く。

アイディアを形にするため、書籍代やカフェで作戦を練る資金に充てたいです…