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【読書note】登園拒否と、「反ペアレンティング」

本日、読了。

読んでいる間に、何度か養老孟子氏の「子どもは自然」という言葉を思い出した。

本書では、子育てする親(保育者)を

木工職人 VS 庭師

というスタンスで説明しているが、私自身の日々の実感や、今後子育てにおいて起こるであろうあれこれを想像するに、育児と庭師のしごとはかなりの部分が似通っているかもなぁと思う。

よい親というのは、子どもを頭がよくて幸せで成功する大人に育てる親ではない。頑強で環境に適応し、回復が早く、いずれ必ず経験する思いがけない変化に対応できる、新しい世代を育てる親なのだ。
親の仕事は、ある決まったタイプの子どもを育てることではない。私たちの仕事は、何をしでかすかわからないさまざまなタイプの子が元気に生きられるよう、愛と安全と安定がそなわる保護された空間を与えることだ。私たちの仕事は子どもの頭を型にはめることではなく、その頭脳が許される限りあらゆる可能性を追究できるようにすることだ。

備忘録として、抜粋。


ペアレンティングは、学んだとしても、「○○べき」「こうなるはず」と、考えもなくそれをデフォルトにしてはいけないなと、改めて襟を正す。

ペアレンティングは、「いま、目の前にいる、この子の、あるがまま」を観察した誰かが言ったわけではないのだ。

学びは得ても、観察と思考を続けて、時に「型破り」な判断や決断も選択肢に入れておくこと。


最近の登園拒否などからも、私は本当に多くの気づきを得たし、娘とまるごとの私で向き合ったような感覚でいた。そして、娘から色んなことを教わったという気がした。(このあたりはまた改めて記事にしたいなぁ)

登園を遅らせたり、早退させたり、休ませたり…保育園の先生としては、娘の生活のリズムやペースを乱している、危うい選択という風に見ていたかもしれない。

しかし、これまでの娘のパターン、特性や発育段階を考慮して、葛藤はありながら、私は自分の責任と判断で、それらを行った。

まぁ、最終的なところでは、根拠のない野生のカンだったのかもしれないが、それも「母」というやめようのない、自然発生的な役割の声に従ったのだとすれば、それもある程度妥当なことなのかもしれない。

そして休み明けの今日、月曜日、娘はお気に入りのタオルを持っていくことを条件に、「保育園いく」と泣かずに、自分の足で歩いて保育園に入って行った。

思わす、泣きそうになった。


娘は日々成長し、小さな体と脳ミソをフル回転させながら、彼女の個性をかたちづくっているのだ。

親が教えてから、導けるなんて思うのは、おこがましいのかもしれない。

むしろ、私が娘と向き合い、必死に考え、時に弱々しく、悶々と、それでも何とか小さな選択や決断を積み重ねていく過程で、「親として、人として育っている」という実感をもらっているのかもしれない。


自分の体験と合わせて、すごく良いタイミングでインプットとアウトプットが同時に出来た一冊だった。

最新の脳科学や実験、発達心理学のエビデンスに基づいた興味深い本なので、育児に悩む方にとっても、おすすめである。

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