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光の中へ潜るなら

今年の11月に、自分が生まれた場所をたずねた。
久しぶりの飛行機に乗って、そこからまたフェリーで小さな島へゆく、両親と祖母と過ごす3泊4日の旅だ。

生まれた場所は遠くて、ふらっと出かけられるようなところじゃない。
でも、そのほうが特別に感じることができて良いような気もして、心のどこかで安心しているところもある。

いったい故郷からどれくらいの距離に住むのが心地よいものなんだろうか?
もし目安となる数値があるのなら知りたい気もするけれど、きっと自分の言葉にならない感情を言葉で定義してバッサリと思考を切り落としたいだけだ。思考の節約をしたがっているだけなのだ。

「遠くてなかなか故郷には帰れず、けれどそれをゆるされていて、ありがたさは感じつつも大きな声で故郷と言っていいのかわからない」というわたしの気持ちも、誰に理解してもらうでもなくそのままでいい。

自分の気持ちがすっかり片付いてしまうなんて、「扱いやすい」くらいのメリットしかなく、そんなの大しておもしろくもない。

もし何かしらの方法で記憶に自由にアクセスできるなら、生まれたばかりの体で感じたこの島の記憶に触れたいと思う。
生まれた場所だよ、母が生まれ育った場所だよと、そう聞かされてはいるけれども、生後数ヶ月で神奈川の家に戻ったので自分自身は覚えていない。

事実と記憶の距離を寂しくも思うし、一方で想像を巡らせることもできて豊かだなとも思う。

3泊4日の道中は、もうこれ以上ないほどに晴れた。
初日は半袖のほうが快適なくらい。
太陽の光が強く明るく、でもやわらかく降り注いでいて、わたしはいつも以上に頻繁に「光がキラキラしているところ」を探した。

光を追いかけて意識をここから少し離すのは、小さい頃からこっそり楽しむわたしだけの文化だ。

視界の端、まつ毛の先に映り込んだプリズムのような光の球を見る。
次第に心が落ち着いてくる。
目を閉じて、開いて。
もう一度目を閉じて、開いて。
目の動きに合わせて動くキラキラを追う。
今日も世界はこんなにも美しい。

そういえば、写真を撮り始めた10代の頃、「自分の網膜からの視界を直接写真に収めたい」と真剣に考えていた。
というのも、カメラで写真を撮ろうとすると、カメラの厚みの分だけわたしの視界に写っている映像とズレてしまう。
それが悔しかったのだ。
だけどカメラで撮る以上は仕方ないよなあ、とも思っていた。

今でもこのテクノロジーがあればいいのにとはよく思う。
だけど今は、網膜とカメラの視界とのズレも楽しめているんじゃないかと思う。

カメラで写真を撮りながら「ほんとはもっとこう見えるんだけどな」とほくそ笑むのも楽しいし、自分の視界より写真が綺麗だったらそれもそれで嬉しい。
生まれたばかりのわたしが見た島は、わたしが今見ている島とは違うだろう。だから絶対に叶わない夢のように追いかけることもできる。
追いかけることができるなら幸せなのだと思う。どこにもあてがないよりはずっと。

今回の旅で撮った写真を見返していると、不思議と感覚と写りの差が少なかったように感じた。
それがどこを理由にしているものかは分からない。
普段、何かと荷物を多くしてしまい、こんな美しい世界を見せてくれるカメラを持ち運べないダメな持ち主なのに、カメラはなんて優しいんだろう。
いつだってしゃきっと仕事をしてくれる。かっこいいなあ。

90歳を超える祖母の家で食卓を囲んだ時間は、いろんな意味で夢のようだった。
祖母の、島独特の訛りは、島で育っていないわたしには聞き取るのが難しくて、おしゃべりを聞いていると徐々に眠くなってしまう。
島育ちの母を目の前にして、遠慮なく喋れると思ったのか、祖母のおしゃべりがスピードアップする。
ご近所さんの名前も、地名も、祖母と母だけが知っている思い出も、わたしには勘所がなくて理解するのが難しい。
この訛りも生まれたばかりのわたしの体に記憶されていたんだろうか?
イントネーションが心地よくて、懐かしい。

いつのまにやら多言語を嗜むようになったから、できるだけ言語で理解したいと思ってしまうのだけれど、こんなに身近な人の言葉がわからないのは少し切ない。
だから祖母の楽しそうに話す様子に、そっとまぶたでシャッターを切った。
わからなくても、また祖母と会って話したい。

晴れた朝には近くの海へ足を運んだ。

日差しの強さにたじろぎつつ、ずーっと足跡をつけて浜辺を歩く。
小さな岬の浜辺はわたしの歩幅でもすぐに端から端へ辿り着く。
わたしは生まれて何日くらいでこの海を見たんだろうか?
赤ちゃんを育てたことがないからまったくピンとこない。
「一番最初に来た浜辺はここだよね?」と母にたずねようとして、そのままぼーっと海を見ているうちに忘れてしまった。

でもいつか思い出したら聞けばいい。
思い出さなかったらそれでもいい。
父が、出産を終えた母と赤ちゃんだったわたしを迎えにきた日はそれはそれは暑かったと、この旅のあいだだけでも3回は聞いた気がする。

父と母が同じ話を繰り返すこともずいぶん増えた。
きっとわたしも繰り返し同じ話をするのだろう。
甥や姪も、すぐに大きくなってもっと饒舌に話すようになる。

ここでは何のタスクも必要ない、とノートを開かずに五感を使って時間を過ごした。
すごく忘れっぽいから、普段はタスクリストを手放さない。
ここでもし何かできるなら、なんだろうか?
両親とゴミ拾いをして、綺麗になった海辺を眺めた。
両親もぼーっとしていた。

海辺を適当に歩いて、祖母の家でちゃぶ台を囲んでご飯を食べる。
夜風がすごく強くて、まるで波の音に聞こえた。
眠ろうと瞼を閉じても海辺にいるような感覚に襲われ、夜中に何度か起きた。

こんなに言葉にし難い旅も、なかなかないかもしれない。
言葉にするのが好きなほうなのに、ずいぶん苦戦した。
今も全てを言葉に置き換えないまま、自分で撮った写真を遠い昔のように感じる。

36歳のときに、やっと自分の脳神経機能に偏りがあったとわかった。
そこから時間をかけて「"ふつう"にならなきゃいけないわたし」というモードから「"ふつう"とは違ったかもしれないからそれを確かめたいわたし」のモードに歩いてきた。
わたしが見ている島の風景でさえ、完全に同じ形で人と共有することはできない。
わたしも他の人の視界を完全に同じ形で体験することはできない。
でも、だからできることもあるかもしれない。
ズレて見えたって美しいものは美しいはずだから。

できないことと対峙していけば自分のゆるぎない頑固さを知るし、
自分と似たものを感じる人に目を止め、話をして、自分の姿を重ねて見る。
結局わたしは、自分が大して変わり得ない人間だと確信していて、またそうありたいと思っている。

変わらないもう1人の存在のように遠くにある生まれ故郷は、わたしにとって写し鏡のようなものなのかもしれない。
光に潜ったような明るい旅の時間を経て、はじめてそんなことを思った。






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