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ゆるい宗教/赤い布

川崎大師のすぐそばに馬頭観音堂という小さな場所がある。
https://omairi.club/spots/85588

私は今年の正月に川崎大師に初詣に行ったのだが、最初はここを通り過ぎてしまった。お参りを終えた後、その帰り道に初めてこの場所に気が付いた。
何とも味気ない小さな建物だ。ふと目をやると、その窓の格子に無数の赤い布切れが巻き付けられている。何かの呪詛なのか? 気持ち悪い。怖い。けど、妙に引き付けられる光景だ。
よくよく見ると、赤い布切れと見えていたものはほとんど全てが赤いペイズリー柄のバンダナだった。それも100円ショップで売っているような明らかに安い感じの物だ。呪詛、というものはその国の風土と密接に関係している。しかし、ここでは質素な造りの観音堂の格子にペイズリーのバンダナ。何だか、急にアメリカンな、しかも安い感じがして、怖いという感情が一気に減退してしまった。何だかつまらない、と同時に何で? バンダナ? 取り合えずそこにあるこの場所の説明書きの立て看板を読んでみる。

馬頭観音堂 川崎市大師本町八-十七

『馬頭観音堂は今から三七〇年以前に創建されたといいます。本尊馬頭観世音菩薩は畜生道に堕ちた人を救いあげるといいます。後に人々は馬や牛から受ける恩恵に感謝し信仰が盛んになりました。その昔、平間寺(通称・川崎大師)に参拝する人がお堂の格子に手綱を結ぶとどんな暴れ馬でもおとなしく待っていました。そこで赤い布に好きな人の名前を書き格子に結び良縁を願うようになり若い人のお参りが多いといいます。また馬の守護神でもあるので人参をお供えしてお参りしてはいかがでしょう』

この場所の370年の歴史をさほど大きくはない立て看板に無理やり詰め込んでいるので、何だかわかりにくい文章だが、要するに「畜生道(仏教的には死後、動物、虫などに生まれ変わること、現実世界では肉親感の色情など人間として許しがたい行為)に堕ちた人々の救済」→だんだんと「動物愛護」→さらに「暴れ馬=男?」と「赤い布=馬を飾る時の紅白の手綱のイメージか?」の組み合わせ →ということで「縁結び、恋愛」と、その時代によってこの場所の主旨というか、テーマが変わっているみたいだ。ずっと続いているのは馬の守護神であるということ。赤い布の発祥は遊女などの赤い長襦袢を切ったものかな? 私の勝手な想像だが。

それはともかく、どうやら今現在、機能しているのは最後の縁結びの部分だけのようだ。窓の格子に結ばれた赤い布を呪詛だと私が思ったのは間違いで、実際は縁結びの願掛けだったようだ。
私自身は特定の宗教に属しているわけではないので、何ともいえないのだが、時代によって宗教の持つ効果効能というものはこんなに変化してしまうものなのだろうか? これはよくあることなのか? それともここだけのことなのか?

それはどうでもいいことなのかもしれない。というのは、先程いったが、ここの格子に無数に巻き付けられた縁結びの赤い布の、約9割くらいが私の見たところ、布切れ、といえなくもないが実際は赤いペイズリー柄のバンダナだったからだ。(あくまで私が見た日は、ということである。他の日は知らない)

なぜバンダナ? そうか。恋愛の縁結びを願う若い子たちにとって、願掛け用の「赤一色の布」を手に入れることは案外と難しいのかもしれない。今時、繕い物をする家庭も少ないだろうし、家の中に使っていない布切れなどないのだ。たとえあったとしても、好きな人の名前を書きたいからその赤い布をくれ、と親には言いにくい。じゃ、どこで買うの? 洋裁店なんか近所にないよ。では100円ショップに行ってみる。真っ赤なハンカチは意外にない。タオルでは好きな人の名前が書けない。だったら赤けりゃバンダナでいいんじゃね? ペイズリー柄の上から好きな人の名前を黒マジックで書いてもあまり目立たないような気もするのだが、そこは妥協したのだろう。
要するにバンダナであるということには大した意味などなかった。赤い色であればそれでいい。

このゆるさ。もっとも御本尊の方だって馬の守護神でありつつ、かつては畜生道に堕ちた人間を救い、今では女子高生の恋愛相談にも乗るという、このゆるさ。

ここにはいわゆる様々な「〇〇教原理主義」とは対極の宗教の形があると私は思う。他所の国のことは知らない。しかし、ここ、現代の日本においてはこれくらいの宗教スタンスが理想的なのではないか。

そもそも御本尊自体がその時代によってその役目が変化してしまう。そして「縁結びの願掛け」という一種の宗教儀式を行う今の若い人たちも、その作法通りに頑張って赤一色の布切れを手に入れようとするわけでもなく、自分たち流に赤い布をバンダナで勝手に代用し(ちなみに、これは赤ではなくピンク色なのでは? というものもチラチラと混ざっていた。何となく赤ければいいらしい)、かといって例えばスマホをいじるだけで全てを完結させるわけでもなく、一応は自分でわざわざこの場所にやって来て「儀式」を行う。好きな人への気持ちは本当だろうし、手順は多少ゆるくてもこれはこれで彼女たちなりに真面目なのだ。

彼女らの恋の結末はともかく、こういった願掛け、あるいは呪い、また宗教や呪術、そこにあるのは「非合理」であるという魅力だ。私はそこに惹かれる。これについては、もう少しゆっくり考えてみたいと思っている。

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