絵を描き始めた日のこと/今、迷っている人へ

DSCF8174 - コピー

ひどい写真で申し訳ない。これが私のいる部屋だ。
このゴチャゴチャした物の中から、絵を描き始めた日のことを書いた走り書きのメモが出てきた。
そもそもちゃんとした文章にはなっていないので、これをもとに自分が絵というものを始めた経緯を改めて書いておこうと思う。

今更、という気がしなくもないのだが、今、何かしたくても何となく迷っている人、足踏みしている人には、私の経験が少しくらいは考え方のヒントにはなるかもしれない。

プロフィールにも書いたが、2005年、私は40歳になっていた。私は二十代から寂れた街や、通り過ぎる人々などを撮る、売れない地味な写真家をやっていた。しかし、この頃には、明らかに自分の感性や、撮る写真にも繰り返しが多くなり、自分の作品に行き詰まりを感じていた。

正確な日付はわからないが、その日は秋の晴れた日曜日だったと思う。
この日はいつもと少し目先を変えて、鎌倉に写真を撮りに出かけた。いつも寂れた街を好んで歩く自分にとっては鎌倉の街は美しかった、というか、美しすぎた。自分の感性が発揮できず、観光写真の出来損ないにしかならなかった。当時、私はデジタルではなく、フィルムで写真を撮っていたが、現像するまでもなく、出来の悪さは自分にはわかっていた。正午ころから撮影を始め、3時くらいに駅前のコーヒーショップで休憩を取った。暗澹たる気持ちだった。今日、下手に趣向を変えた分、落ち込み方も激しかった。
また明日からいつも通りの写真を撮るのか。ずっと繰り返しなのか。自分の心に空白のようなものが広がっていくのを感じた。

何となく、絵でも描くか、と思った。
何か違うことを始めれば、自分にも変化が起こるかもしれない。あるいは自分の写真にも…。
すぐに打ち消した。写真に行き詰ったから絵を描いてみる?…。なんだか安易な気がしたし、それに40歳になった今から?モノになるのにこの先、一体、何年掛かるんだ?
私は子供の頃は別として、絵というものをほとんど描いてこなかった。

しかし…私はふと、絵を「描く」ことは出来ないが、「描き写す」ことなら自分にも出来るかもしれない、と思った。

どうしてそんなふうに思ったのかは今でも本当にわからない。しかし、こう思った瞬間から今日まで、私は絵をずっと描き続けている。

では「描く」と「描き写す」で何が違うと、その時の自分は思ったのか。
オリジナルの絵画作品を描くことは今の自分には出来そうにもない。ただし、私には自分の撮った写真が無数にあった。その中から良いものを選んで、それをキャンバスに「模写」すればそこそこの「絵画」にはなるのではないか。つまり、絵画を発想や画風も含めて基礎から勉強する必要はない。写真を「描き写す」こと、つまり「模写」する技術だけを身につければいい。
これなら、今の自分でも出来そうな気がしたし、何か新しいことが始まる気がした。

いうまでもないが、この考えは間違っている。仮に「良い写真」を上手に描き写したところで、それがそのまま「良い絵画」になるはずもないのだ。(ちなみに、ここで予防線を一応、張っておくと、私は別に写実的な絵画や、絵を描く時に写真を使うことが悪いといっているわけではない)

今から思えばこの考えはとにかく安易すぎる。しかし、この時の私の精神力は落ちていたし、判断力も鈍っていた。
逆にこの「鈍さ」がよかったのかもしれない。まともに考えることもなく、行動することが出来た。私はすぐに撮影を止めて、画用紙と水彩絵具と筆を買って家に帰った。すでに夕方だったが、パソコンに入れてある自分の写真の中から、比較的単純な花の写真をモニターに出し、真っ白な画用紙とを交互に見ながら、恐ろしくのそのそと模写していった。

結局、最後は雑に色をつけて終わりとした。もう真夜中になっていた。こうして私の最初の「絵画」は生まれた。そして、それは紛れもない「駄作」だった。(この時描いた絵をここに出そうと思ったのだが、見つからなかった。この部屋のどこかにある)

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この日から私は絵を描き始めた。最初は模写の繰り返し、やがて様々な画材を試したり、自分の描き方のスタイルを模索し続けたが、どれも上手くいかなかった。
写真家の活動は何となく休止してしまった。画家としての活動はまだ始まらない。こんな日々が数年続いた。それでも何とか耐えられたのは、あの日、鎌倉に行ったあの日があったからだ。

結果だけを見れば、あの日の私の行動は全てが「間違い」だった。
本来、うら寂しい街の写真を得意とする自分が、目先を変えて、観光地の鎌倉を撮りに行った。そして失敗した。「写真」という自分の表現に向き合わず、別の「絵画」というジャンルに逃げた。それも、基礎から学ぶのではなく、写真をただ描き写すという安易な手段を使った。そしてどうしようもないものをたった一枚、描き上げただけだ。

結果が全て、というならこの一日の価値は全くない。ただし、別の大切なものを得ることが出来た。
写真を撮ることに失敗し、絵という別の自分の進む道を見つけた。そしてすぐに実行し、とにかく「物理的」に一枚、この世に出現させた。
たった一日で、悩んで、別の希望を見つけ、実行した。結果はともかく、その過ごした時間の精神だけでなく、身体全体を含む高揚感。
そういえば、写真を撮り始めたころ、私は確かにこの高揚感を持っていた。しかしそれは当たり前だと思っていた。特に大事に扱わなかったので、いつの間にか何処かに落としてしまった。

高揚感を持って「途中」を進むこと。その価値。
鎌倉に行ったこの日、絵を描き始めたこの日、何となくではあるが、無意識的に自分はそのことに気付き始めていた。

結果というものは派手だ。作品を完成させた時、作品を発表する時、それぞれ結果は出る。放っておいても自分の中で強く印象に残る。対して「途中」というものはどうしたって地味だ。
だから「途中」というものを強く意識すること。自分の中で「途中」を輝かせること。どうやらこれが、厄介な自分の精神というものを上手く操縦するコツのようだ。若い時には気付かなかった。といっても今でも時々忘れてイライラしてしまう。しかし、アイデアが出なかったり、上手く描けなかったりすることも、「途中の輝き」のひとつなのだ。それは金色ではないかもしれないが、何か別の色の輝きなのだ。今はそう思うことにしている。

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