幸運な病のレシピ:大皿小皿・食事作りはめっちゃ楽しい、面倒だけどそれだけの価値はある。
医師は、あなたは間違えていない。病気が悪いのだといい薬を売る。医師の言うとおりにしていれば、安心だ。多くの種類の薬を飲んで検査値を正常にして、やがて身体は「輸液・経管栄養・胃瘻」と管だらけになって、幾度も同じような手術を繰り返して病院・施設で長く寝たきりになる。誰もが忘れた頃に一人で死ぬ。僕はまっぴらだ。
死ぬ瞬間まで庭を眺め、散歩して元気に食事作って生きていきたい。
物売りっていうのは買い手の求めるものを売る。
みんな料理は大変で嫌だからどの本も、「こんなに簡単、馬鹿でもできる」と「時短で手抜きでほら美味しい」ときれいな写真がてんこ盛りだ。
どっかのお店の宣伝だったり、「自分の名前つけた鍋」売ったり大騒ぎだ。けど結局、料理作りは続かない。レシピ本やレシピ番組はつまらない。だって、「あなたは変わらなくていいんだよ」「料理できなくともこんなに簡単なんだよ」と嘘ばかりつく。
一体誰が後片付けするんだ。買い物して余ったらどうする。食べ残しは捨てるのか?家族が嫌がって食べないことはないのか?
料理作りは面倒だ。食べる人の好みもあれば、後片付けも大変だ。家事分担などした日にゃ夫婦別れの原因となる。家事をディールの材料にしてはならない。
昨日の夕食昼に作った揚げ物がメインで夜は白菜の豚肉の汁にゆずを入れた。僕も妻も、小さい頃から「ゆずを輪切り」にしていれなかった。この辺の使い方ではないかも知れない。レモンのように苦味が出ないから美味しい。小皿に数日の間に作ったものや買ったおかずを載せる。大皿には昼の揚げ物と糠漬けに一昨日の酢豚。妻は仕事中だが一杯始めた。
僕は哲学者だから、人の見たくないものを見せる
50年前は嫁入りして何年も徒弟的な下働きで有無を言わさず叩き込まれた。そうしてやっと覚えられた。電気釜や水道がない時代はもっと大事(オオゴト)だった。
家庭科でならったくらいで出来るようになるわけがない。マニュアル通りにしたところで上手くいくわけがない。徒弟的に教えられるのは辛い、嫁姑が仲良くないのには理由がある。他所のオバちゃんなら仲良く出来ても自分の上司じゃそうは行かない。
食事は売っていないから、家庭で作ったものを食べる他なかった。文句など言ったら食べさせてもらえないから。餓死する(笑)。
「朝夕の食事はうまからずとも誉めて食うべし」とは北の賢人の言葉だ。息子は、そんなにまずいものばっかり食わせられていたのかねえと言った。
そして、家庭というシェルターは跡形もなく吹き飛んだ。「グローバリズムという獣」が僕らの人生を食い散らかしている。
朝は昨日の煮しめに20%引きになっていたピザにチーズ増量して食べた。
家庭というシェルター、欲望を閉じ込める檻
女性は開放されたというが、僕はそうは思わない。家庭ではパートナーとのセックスは強制されなく成っただろうが、会社じゃセクハラ・パワハラされ放題だ。セックスしてもらえない相手が可愛そう。セックスをディールの材料にしてはならない。
食事も商品として買うことが出来るようになっただけだ。誰かが儲けることになる。そして「病因のない病」に苦しめられることになった。後片付けはプラスチックの入れ物がごみとなり社会に転嫁されただけだ。いつか付けが来る。
家庭とは、相手とのセックスを我慢する、自分を我慢してもらう。上手くない食事を美味しく食べる欲望を閉じ込める檻だったのだ。そうして、セックスを介在する感染症や「食事が原因の災厄」から免れていたのだ。
ヒトというコロニーはマイクロバイオームがコントロールする。マイクロバイオームは「食事=仲間を招き入れ」と「セックス=引っ越し」を繰り返して世界に広がっていく。だから、食事もセックスも嗜好は変わる。ダレカレなくセックスしたいのは異常ではない。災厄のもとにはなるが.....
だから宗教は厳しく禁じる。厳しい罰があるということはいかに頻繁に行われているかの証左である。不倫は誰でもいつでも機会あればしたいのである。しかし厳密なルールがあった。同じ宗教の同じ部族の構成員と見つからないようにするのだ。
流れ者とセックスすることは、そのコミュニティを危機に陥れる。子供は労働力で兵士だった。そして年金でもあったのだ。コミュニティの中で多いほうがいい。今のように厳密な親子関係は必要ではなかった。ジンギスハーンの第一子は妻が敵部族に誘拐されていると気に懐妊した。sかし、全く意に介されることなく平等に扱われた。「きれいな女・強い男・賢い男」ならば通貨としての価値も大きい。
この話はまた今度。こちらに少し書いています。
昼は揚げ物、妻が今日は仕事なので夕食の弁当にカツと唐揚げにサラダを作る。一戦終わった後の流しは大騒ぎだ。後片付けは半端ない。みんな揚げ物が嫌いなのは後片付けが大変だからだ。そりゃお手伝いさんや僕みたいな「下男」が入れは楽だろうけど、皆自分でやらなきゃ続かない。
僕のお昼は少し後からライ麦パンにポテトサラダとカツを挟んで食べる。朝ライ麦パンを見てポテサラにすることにした。
お店で食べるのもいいけど、3食食べる訳には行かない。注文して出てきたものを食べて帰って言うことは決まっている「やっぱお家が一番」。そんなお家はもうなくなったのかも知れない。
20時をすぎるとスーパーのお惣菜や魚が安くなる。妻の仕事は20時に終わるのでスーパーに寄って安くなったものを買う。このブリはすごかった。半分くらい食べて、残りはヅケ(醤油とワサビで漬け込む)にする。
僕は2015年にこのままだと失明するからインスリンと眼底レーザーで焼けと言われた。嫌だった。食事で向き合うことに決めて5年だ。その間に母はなくなり父も後を追った。毎日食事を作り、後片付けをした。そして糖尿病と向き合っている。けどね、もっと大事なことは。とても楽しいという事に気がついたということ。
食事療法などとくだらんことを言わなくともいい。素材の生命を大事にした料理は美味しいのだ。そして、医者いらずの身体になる。50年前になかった病で私達は今苦しんでいる。
社会の変化は余りに唐突で、連続的なのだ。
そして僕らは渦中にいるから気が付かない。しかし、この問題は社会の変化が身体に反映しただけのものだ。個人の問題ではない。過去に食事哲学者が見つけたように、社会の変化に向き合わなければならない。
医者や栄養士は「人参にはβカロチントマトにはリコピン、オリーブオイルは体にいい」そんなことしか言わない。ではそれ以外のものは入っていないのかね。サプリメント飲んでりゃいいのかね。
還元的に皿の上の食事を分析しても何もならない。身体というコロニーに取り込まれ、80兆個もの細胞がバラッバラに動き代謝していくプロセスこそ重要なのだ。
そして2つとして同じコロニーはない。サンゴ礁が同じ様に見えても全て違うように人の身体というコロニーはみな違う。それが生命というものだ。
誰にでも効く食事はない
青酸カリは誰にでも効く。薬と毒は同じものだ。特定の代謝系を壊す。検査値を変える。しかし身体を適切な形にしているわけではない。いずれ本質的に壊れる。
コップは割れるまで水は漏れない。ビルから墜落しても地面に激突するまではピンピンしている。検査値が正常でもケンコウなわけではない。
何よりも何を食べているかが大事。運動は一つ一つの細胞には意味がない。地球の自転を僕らが感じないようにだ。運動してが細胞が元気になるという妄言は医者が患者に病を自己責任と思わせるためのものだ。
明日食べるオカズが有る。カツは多分卵で閉じる。天ぷらはウドンが嬉しい。サラダはサンドイッチがいいなあ。煮しめはちまちま食べる。小皿は人生の縮図である。
毎日続けている食事作り。
毎日素材から食事を作っていると言っても誰も信じないから動画を撮っている。2400回を超えた。これから20年の間に徐々に作れなくなっていく。買い物にもいけなくなるだろうし(免許返上)、子供も一緒に住むことはあるまい。
母がそうだった様に鍋を炭にしたり、市販のものを美味しいと言って食べるようになるだろう。近所のドラストから鯖の缶詰買って食べる毎日になるやも知れない。冷凍食品食べたりすることだろうさ。いつかは施設のお世話になるだろう。
僕はその時に、食事の価値を信じている人が一人でも多くなっていてもらいたい。一番先に食費が削減される。しかし、それは間違えている。商品化された食事は少しずつ私達を殺す。
食事の価値
食事の価値とは、苦労をいとまないで、上達しようと努力すること。手間を惜しまないで美味しいものを食べようとすることなのだ。
生まれた時から料理ができるヒトはない。最初は下手で当たり前、諦めないことだ。
そして料理は自分にピッタリのものを探さなければならない。商品化された食事は誰にでも美味しいが、誰にもピッタリのものではない。
毎日身体は変わっていく。変わっていく身体に合わせて食事を変えねばならないのだ。つつがなく人様の世話にならないで、静かに人生の終わりを迎えたい。そんな食事を僕は見つけたい。