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格差の方程式:根をもつこと

シモーニュベイユを読んだのは随分前のことだ。安吾にはまり、実存主義という言葉に惹かれニーチェ、ドフトエスキー、サルトル、キルケゴールと読み、西欧の哲学というのが神様と自分自身の葛藤であるのだという類型的な理解にとどまり、日本は一神教ではいから、理解できないのだという『公式見解』に納得をして、それ以上には考えないままに通り過ぎていったのである。

彼女の著作の『根をもつこと』と『工場日記』そして日本での当時の解説書を読み、まあ、そんなところであろうかと思ったものである。20歳そこそこの僕には遠い昔のインテリお姉さんとしか思えなかった。

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宗教は必要か

その後、浪人〜大学時代に熱中したのはヴィトゲンシュタイン=>ラッセル、ホワイトヘッドであった。「世界の名著」にはお世話になった。

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彼の「論理哲学論考」から始まり、言語学本を読み始めた。鈴木孝夫(あまり好きではない)を経由して、田中 克彦さん(大好き)と出会い、チョムスキーからソシュールを知り、構造主義へと興味は移った。やがてピンガーさんへと進んで未だに僕はガリガリの構造主義の基盤を持つ。

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就職して毎日忙しく消耗していった。何とか潜り込んだ出版会社も瞬時に首になり、四畳半一間(35,000円)の部屋に住みながら、大家さんの小屋のタマネギをいただき(窃盗)、風呂代もなく外の水道で水浴び(ヘンタイ)をして面接に行っては就職には落ち続け、バイトで食いつないだ。

父母はコメは送ってくれたが、当然仕送りはなく、食えなくなったら帰ってこいと言ってくれた。僕を大学に行かせてくれる時に、「こんなところに帰ってくるな」と言ってくれた気持ちを思いながら面接を受け続けた。

いくつかの会社にはいるが、腹黒そうな経営者の顔、先輩(10年後の自分)を見ては、ここにはいても仕方がないと思った。伊達に30回以上の転職はしていない。

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当時の食事が糖尿病(幸運な病)を招いた。水虫が足の指を癒着させて、脛の半ばまでグチョグチョになった。血糖値は正常範囲内であったが、毎日母が送ってくれたコメばかり食っていた。時折唐揚げのチキンを買ってはおかずにして袋ラーメンライスを食っていた。

宗教については「民衆のアヘン」と言う程度の認識であった。ラッセルを代表格にする「知的なインテリ」こそが世界をつくると信じていた頃である。当然僕もインテリ(自称)であった。嫌われるわけである。

運良く、入社した不動産会社の手先の会社で、パソコンを勉強して、やがてソフト会社に転職する。データベースを学び一丁前のつもりになった。会社の経営に疑問を持ち、自分ならもっと上手くやれると思い、独立。

当然失敗して借金にまみれ、新潟に逃げ帰ることになった。1994年当時である。まだコンピュータはIBMが「世界に数台あれば良い」と言っていた時代である。

今の時代との断絶を決定的にする時代であったが、まだ目に見えるほどではなかったと思う。それに気がつくのは2015年代である。

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僕の工場日記

新潟に帰ってきても、職がないからどうにも行き詰まった。父が50年勤めていた工場に工員として入ることになった。この時の経験は大きかった。
会社が、社員を平気で見捨てることを知ったのだ。
工員は同じ土地に住んで互いをよく知っている。家庭のことも同じ職場で共に仕事をして、それぞれに悩みを持ちながら何世代もの繋がりの内に生きている。
農業との兼業も多く、夏には採れたスイカを持ってきてくれたり、一緒に貝を取りに海に行ったりしたものだ。

しかし、経営者は会社の利益のために、社員を切る。これは組合の委員長として苦しい日々に知ったことだ。

本家・分家の意味

父も母も本家の為に大変頑張った。援助したし、言われれば何でも手伝った。
経済は地域で小さく閉じており、互いに皆知り合いで困ったときは助けあった。家族を愛しむように互いの家族の行き来があった。
憎むことも愛することも共に生きるのだから当たり前にあったことだ。
しかし、この50年で経済はタガが外れる。
食事も作れないくらい忙しく朝から晩まで会社に閉じ込められる。時給とローンはセットで私達を奴隷にする。

父の本家は乾物屋で、グローバリズムが商売を大きく壊していった時代である。やがて、商売はうまく行かないで分家が集まって食事をしたり、助け合ったりもしなくなる。
母方の実家は、政商として権威を持つようになるが、やがて失われる。

母の実家の宴会、みな鬼門に入るか縁を切って知らぬ仲となった。

「たわけ者」というのは「田分け者」だという。本家の持っている財産を分割することは愚かなことなのだという認識はあったのだ。
今で言うならば、M&Aと言う人非人のやり方。不採算部門をリストラしてキャピタリストの利益を減らさないと言うマジック。を指すのだ。

この変化は、単なる人間関係の変化ではない。社会の構造が変わり切り離された為に起こったのだ。
植物は、季節には花びらを散らし、葉を落とし土地を豊かにする。幹や根からは炭水化物の含まれた樹液を流す。樹液によって蟲(マイクロバイオーム)は集まり次の生命につながる。

本家という経済の中心が消えて、みな企業の時給に群がるが、それは社員の生活を考えて決まる金額ではない。経済という豊かな土地が生むものは遠くのキャピタリストのものとなり、循環しない。
キャピラリストの垂れ流す金に群がり、豪華ヨットや高級ブランドは潤っていく。問題は誰もがお金が大好きだということである。
今に始まったことではない。

繰り返される問いかけ

私達は、苦しみや悲しみに出会い、愛する人の喪失やどうしようもない渇望に身を焦がす。喜びは喪失の悲しみをうちに秘めている。
人生は苦痛の連続で、どんなにお金があってもそれは変わりない。

年老いていくこと、死への恐怖これは、金では解決しない僅かなもの。自分が大きな生命の一部であると感じることは心安らかなあの世への旅立ちを迎えさせてくれる。

自分の存在は何なんだろうかと言う問いかけに答えるものが「宗教」であり、宗教が具体的な形を取るものが「家族」なのだ。

この50年で、すっかり「家族=宗教」の形は変わったが、秦の始皇帝は不老不死の薬を求め、ピラミッドもミイラを隠して専門家の言葉を信じた。

嬉しいことに、オリガルヒもプーチンも、 イーロン・マスク もビル・ゲイツも皆朽ち落ちてマイクロバイオームだけが勝利する。

宗教は、満に足ることを戒めとする。

ここに朽ち落ちて次の生命に受け継がれるのだ。


根を持つこと


ベイユは、神を失い、家族を失い、行き着くところそ求めながら短い生涯を終える。
今の時代を見つめていた。
宗教という「抽象的な価値の集合」は「家庭と言うルール」に現れる幻想でしかない。決して伽藍に閉じ込められた記念品のことではないのだ。

そして、宗教はキャピタリズムと同じ「律」を持つ。
多くの財を尽くして伽藍を作り、苦しむ民から金を集める。
宗教が大事なのではない。
一人一人の心に去来する『「神や釈迦」を求める心』こそが私たちの根にあるのだ。


この記事のコメント欄の補足です。



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厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。