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父母がくれた、「魔法のメガネ」

来月8日が父の一周忌だ。4月くらいからnoteを書きはじめて一周忌までには書きたいことをかけるだろうと思ったがまだ終わらない。やっと入り口だ(笑)。

「魔法の眼鏡」とは食事哲学者の桜沢如一先生の著作である。なかなか面白い方で、時代の変化が多くの問題を起こしていると見抜き、人にとって正しい食事を提唱している。やがて、マクロビオティックと呼ばれる食事運動につながっていく。今でも大きな潮流である。

「魔法の眼鏡」とは食材に対しての評価を見抜き、どんな物を食べれば良いのかという知識の体系である。そして、面白いことに「医学の権威」を否定している。自分の中にこそ真実が有るのだという。

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父との5年間

母が2016年に亡くなって、父の身の回りの世話から食事作りからみなすることにした。介護認定はなかったので、皆僕と妻でみることにはなったが基本的に僕の役割となった。父の家の掃除や洗濯、トイレには毎日、小便溜まりを作るので拭かねばならない。フンドシはうんこを付けたものを持って食事に来るし、風呂にしても家の風呂に入る。実家の風呂は入ることは危険であった。

父の食事に関しても色々と試し始めた。何よりも、こころが狂うことが怖かった。僕を「真也」と認識してくれなくなったら施設にお願いする他無いと思い始めていた。

父が美味しいというものを作るようにした。一緒に食事をして色々と話をする。昔のこと食べ物のこと、最初はボケ防止のつもりで話しかけていたが、僕も気が付かないことを教えられてそれがまた面白い。

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新発田の物語:『百年しばた』

父は大平洋金属の新発田工場で50年働いた。最後の10年は「新潟金属」名前が変わった。東京本社にいる社長のお目付け役で工場長を牽制して、社員を雇う面接から組合対策、必要とあれば定年後再雇用に、解雇社員に嫌われる仕事だ。新潟に帰ってきた僕は仕事がなく、「新潟金属」で3年働くことになる。この体験が様々な気づきを与えてくれた。

同じ会社で働くことで共通の友人も出来、敵も出来る。ルールを学び遠くから成長を見守る。僕と父は幸せであった。工場の生活は手取り15万円で辛かったが、東京での「家賃、リボやサラ金」に追われた生活よりマシであった。

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50年前の地域の社会は.....

「家業が企業」であり、「生活が仕事の一部」だった。無論僕の時代はもう違うが、小さかった頃よく父の会社に夕食の弁当を届けに行ったものだ。

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一方では農家が元気で、商店が活気ある町並みを作り、大きな企業がいくつか有り、次男、三男を受け入れて給料を払う様になる。本家と分家の関係が徐々に変化していく。そして、地元の企業が力を失い、都会の企業を目指して子どもたちは行ったきり帰ってこない。

都会の大学を出て故郷に錦を飾る世代があっという間に終わり、政治の利権を求め土建屋が幅を利かす。地元では、時給で働く労務者とピンハネ御殿に暮らす地域のボスが幅を利かす。なあに、日本の金がなくなれば残るは御殿ばかりになるさと思いながらもハラワタは煮えくり返る。

僕は、母の初七日の前日、地域のボス野郎を殺そうと怒鳴り込んだ。

母が、その辺でやめてきなさいと言ってくれたと今でも思っている。

家業と生活は分解され、子供は時給で働くから一緒に暮らせない。年寄が暮らす施設が林立して孤独の中に死んでいく。毎年健康診断をして検査値が異常だと薬をもられ、いずれは辛い死に方をする。統計的にはそうなってしまったのだ。

父母は幸いであった。最後まで自分をしっかりと持って、自宅で死ねた。

父はつらい思いをして亡くなったが、皆僕が悪い。これからの一生を償いにする。正直に一生働いた老人が、同じ苦しみの中で亡くならないように頑張る!約束だ。今でも父の最期を思うと涙が止まらない。医者はうーんとつらい思いをさせて老人を殺す。

食事こそがピンピンコロリの人生の終わりを迎えさせてくれる。

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父母との20年

父母との20年は妻とのいさかいの20年でもあった。結婚して10年妻は母と口を利かなかった。父の不用意な一言が原因である。そして、息子が生まれた時にも一悶着があった。一度だけ妻をぶったことが有る。一生忘れないからお前をぶつし離婚すると宣言をした。なぜか今も夫婦である。

母がなくなる4-5年前に嬉しそうに僕に話してくれた。妻がお茶を入れてくれたという。人と人との結びつきは些細な一言で壊れ、互いに変わるには長い時間がかかる。関係の修復は難しい。

父は引退して、自動車の運転も出来なくなっていく。母の病院への送迎や多重投薬からの脱出(食事と僕が側にいることで母はすべての「薬」から逃れ2ヶ月後に亡くなる)。断薬については考えさせられたが、僕は酒から逃げられなかった。依存は環境に対しての自己防衛である。

別な盾がないままにやめると命に関わる。母の場合は僕が側にいたのが良かったと妻は言う。アンタが一番の薬だという。

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様々な議論を見るが、驚くほど社会の構造の変化を見ていない

妻と母の確執は明らかには「父母の世界」と「妻の世界」の確執であった。この確執には多くのパターンが考えられる。僕は「心の病」と言うのは社会の変化を抜きにしては語れないと思う。

そして、この10年は格差の固定した10年であった。格差の固定も、全く同じ構造の中で語るべきだと感じる。

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亡くなる少し前。妻との関係も修復されていた。

梅干の漬け方や、タクワンの事、母になんとか習うことが出来た。笹団子は無理だった。苦労の多かった人生だったと思うが。終わりは良かったと思う。いくら大金持ちになっても、死ぬ間際が苦しかったら仕方あるまい。

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2010年の写真である。2016年の初めに母は亡くなった。

人生もお日様に干されて渋さがきえる。うん、オチが付いた。

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厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。