「LIFE!」という映画:自分に見えるもの、信じることの価値、企業は何のためにあるのか
「Life」という写真雑誌があった。すでに廃刊となった雑誌だ。
主人公のウオルターはごくごく平凡な男。17歳の時に父親をなくして、数日後にはピザ屋さんや鶏の唐揚げ屋さんで働き始める。父は彼に世界を旅させたいと思い、バックパックと手帳を用意したのだった。
しかし、世界を旅することは出来はしなかった。追憶とともにバックパックは仕舞い込まれたのである。
やがて「LIFE誌」に入社してネガの管理を任されるようになり16年がたった。母と妹と三人で家族であり続けるために必死に人生を生きてきた。
この物語は、彼のところに『送られてきたはずの「最終号の表紙のネガ」』を見つける旅の物語である。
ウオルターはいつも幻想する。今の「生きるに必死な生活」でない自分を、もっと別な冒険の世界を.......…。
しかし、それは他の人間から見たら「ぼんやり」している,「人の話を理解できない」、「言われたこともまともに出来ない」「何を考えているのかわからない」のだ。職場ではおかしな男としか見られない。ん、俺だ。
小学生ならば学習障害と言われ薬をもられる所だ。外見からは内面の豊かさは覗くことが出来ない。人は「壁」に囲まれた「モナド」なのだ。
人の価値はその内側にあるのだ。それを感じることは難しい。
この物語は、『企業とは誰のためのものか』と言うことを考えさせてくれる。
紙媒体が時代遅れとなり、ネット媒体へと経営者は「かじ」を切った。出版に関わる人材は解雇される。口先では残念だといいながらそこで働いてきた人たちを時代遅れの負け組とお払い箱である。
企業が理念を信じて世界を変えようとじていた時代があった。
しかし、「企業を所有すること」自身が富を生み、「本来持っていた理念」は邪魔なものとなったのである。
その理念を信じて身を捧げてきた社員の行き場のない怒りを淡々と描く。僕自身の体験と重なる。
経営者(所有者)は働いている人を物としてしか見ない。あたかも商品を作る「ラインの一部」であるかのごとくである。
収益が上がらねば、ポイと捨てる。それは仕方がないことではあるのだが、どうにもやりきれない。
企業は所有者の富を生み出す為の機械ではない。そこに生きる人の人生を作るものなのだ。
企業の所有者や経営者にも聖人君主はいるであろう、ラインの社員だからといって皆清廉なわけでも素敵な方々というわけでもない。
「ズル、怠け者。ダメな奴」もいる、と言うより、こんなやつに給料を払うのは無駄だと思うことも多い。いやほとんどかもしれない。ん俺だ?
しかしながら、それは大事なことではない。
僕は企業の再生を請け負うコンサルタントを憎む。外から見ていればいくらでも耳障りのいい言葉は並べられる。しかし、本当に大事なものは「価値を信じる仲間と共に生きる」ことなのだ。
ありあまる富を企業にと投資するスクルージー、そのおこぼれをいただく「Yesマン」ばかりの経営陣、真面目に企業で働き実際に回している人々はいつも踏みにじられる。
かつて企業は「仲間・家族」のものであった。
それを守ることこそが大事なことであった。
誰かを守ろうとしないで守られることはない。
今や、企業の主は「バズったら株式を公開して売り抜け」て小金持ちになろうという奴らばかりである。
それはそれで羨ましい事ではあるが.................…。
いずれ自分の人生も終わる。成したことは自分に返ってくる。それこそがアタワリというものである。
マイレージ・マイライフという映画を思い出す。2000年始めの原作からの作品である。この時代から「人非人の経済学」は顕著になる。
昔から金持ちはひどいことをしていた。しかし、限度というものがあった。今や何が起こっているのかさえも分からぬままに富を築く。
いまやスクルージーは改心する時間も機会もない。
そして家族の物語である。
息子に自分らしく生きさせてあげたいけど、父の急逝で叶うこともなくなった母の悲しみ。しかし、共に生きる家族の姿が描かれている。
それぞれに自分らしく生きようとする三人の姿が素晴らしい。
見事なエンドロールである。これほどに饒舌なエンドロールは見たことがない。わずか数葉の写真が物語を深く描く。
ウオルター少年と家族の姿が伝わってくる。エピローグでありプロローグである。みな息災な人生をそれぞれに生きるのだろう。
ベン・ステラーの優しい眼差しが感じられる。
僕らは、「他人に見えないもの」を見る力がある。
そして、互いに同じ人間であることを見つけることが出来る。
みな同じ人間なのだから。
To see the world,things dangerous to come to,
to see behind walls,to draw closer,
to find each otherand to feel.
That is the purpose of life.
それこそが、未来を作る力なのだ。
ショーンに誘われ、ウオルターは自分という「壁」の中から飛び出すのだ。
そして多くの人と出会い、その人の壁を乗り越えることで自分を理解してもらうことが出来る事に気がつく。
「トム少佐の歌(Space Oddity)」のシーン大好き。ウオルターは愛する人にふさわしい自分になろうとして未知へと飛び出していくのだ。
リリース(2014年)の頃見たが、ピンとこなかった。しかし、心に残った映画であった。なぜか分からなかった。
先日、ちょっと見直してみようと気持ちになって借り直してみてみたのだが、参った。ボロ泣きである。もうしばらく映画を流しっぱなしである。仕事にならない(笑)。
この映画の売られ方を見ると、「お笑い」のお話のように見える(吹き替えの選定でもそれが見てとれる)。実は僕も最初に見た時は、それに目眩ましされていたのだ。しかし、このお話は少し違う。
吹き替えの力不足を語る方も多い。確かに「冒険の前と後」のウオルターのジャンプを声で表現するのは難しい。「冒険前のボンヤリ君」はそれなりに上手な人選であったと思う(笑)。
ビジュアルエフェクトの素晴らしさは、特筆すべきであるが、それに引っ張られすぎてはならない。
描かれているのは「人」なのである。ビジュアルエフェクトで驚かせる「びっくり箱のような映画」たちとは一線を画している。
ベン・ステラーって「ナイトミュージアム(ロビン・ウイリアムズの遺作)」なんかでも、色物系に見えるが「筋(負け組バンザイ)」が通っている。「LIFE!」と言う映画は、「生きること、働く事って」どういうことなのだろうか?と問いかけている。
社会全体が「富裕層に買い占められる世界へ」と変わっていく過程での小さなボーイミーツガールの物語なのだ。
ユキヒョウの写真を見てこの映画のことを思い出した。
毎日の生活の中に、真面目に人生を生きる人の尊さを感じる。
時給で人生を売りながら、笑顔で人と接する店員の人、朝から晩まで工場のラインで働かせられる人、僕はその瞬間の姿に美しさを感じる。
「Stay in it」まさにその瞬間に共にいるのだ。
毎日誠実に生きる他ない人たちのからピンはねした金で豪華な生活をする賢い方々がいる。しかし、その金は誰が作っているのだ?
勝ち組ともてはやされる。『人を人として扱わない「しかけ」』の中から富を築く。その富には「有象無象」や「Yesマン」が集まってくる。
高級レストランやスポーツジムに自家用ジェットでスポーツ観戦、なんと羨ましい(笑)。しかし、そこには本当に価値のあるものはない。
金で買えるものには碌なものはない。
そんな「輩」は平気で多くの人の生活を破壊する。
人生の終わりに、そいつらはどんな言葉を額に入れるだろうか。
昔は「最後に渡る川の向こう側」には『閻魔様』がいたものであるが、昨今はトンと噂を聞かない。
ウオルターの真面目に生きている姿を自然の中に生きるユキヒョウと重なっていく。ショーンは打算なく、自分の信じるもののために生きる姿を美しいと伝えてくれるのである。
「The quintessence of life」それは一人一人の内にあるものなのだ。
ああ、あの財布ぼくも欲しい。
おねだりをしたら妻に怒られた。
一緒に映画見ようかしら。
けどなあ、また見たら泣き出しそうだ。少し恥ずかしい。
良い映画である。
こちらの記事でユキヒョウのことお思い出したのです。
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