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酒の黒歴史(1)生誕〜糖尿病の診断〜帰郷まで

初めて飲んだのは高校2年、学校行くと言って友人の家に3人で集まって飲んだ。高3の頃には下宿している友人の家に行ったりしたがまあ、水割りで2−3杯で動けなくなったものだ。

東京に出てきて好きに飲めるとなったら結構飲んだ。浪人の一年目は30分でビール3リットルというのが記録、やはりビール好きである。缶ビールの一リットル入が出た頃である。よく覚えている。

誰でも酒で失敗くらいしていると思うので僕も書いておこうと思う。

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未成年は罪に問われない

浪人しないで学校に入った友人と高円寺近くで飲んだのが一番最初の黒歴史。ベロベロになって覚えていないが「知らない家」に入り込んで酒を飲ませてほしいと頼んで追い出されたそうだ。その時一緒だった友人とは絶縁された。元気だろうか?

気がついたら高円寺の警察署のトラ箱の中である。どこかの噴水の中でじゃぶじゃぶ歩いていた所パトカーが来て、走っって逃げた時に鍵のない自転車に飛び乗ったのがいけなかった。「占有離脱物横領罪」と言う罪で放置自転車に乗って捕まった時に自分のものでないことが分かると前科者になる。多分18歳だったとおもう。未成年は罪にならないという事を知った。

裁判所で審理を受けて、「履歴書にかかなくともいい」と言われた。後日送られてきた「通知(裁判所からの手紙だとわからない配慮のもの)」がどこかにあるのだが見当たらない。裁判所で隣の法定からでてきた若者と母親がお辞儀して廊下に出た後で、母親を小突くのを見て憂鬱な気分になたのを覚えている。

文学部に行こうと思っていたのだが、この体験で法学部に進路を変えた。法律は知っておいたほうがいい。そしてそこには文学が有る。

娘は法学部へ、息子は文学部へと進んだ。二人には負けないで人生に向き合ってもらいたい。僕に残せるのは「黒歴史」だけである。

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4つの美徳

とにかく大学時代はよく飲んだ。この頃、酔っ払っても「嘘をつかない、女を口説かない、長く飲んでいない、陽気になる」と言う美徳が備わっっていることが分かった。これは習ってできるものでも、がんばてできるものでもない。酔うと本性がでるという。「泣き・笑い・怒り・説教上戸」とにかく偉ぶるやつは嫌いだ。自分を卑下するやつも気に入らない。酒飲むと女性がきれいに見えるが、向こうはそうは思ってくれていない。朝起きたら.....というような素敵なことは僕の世界には起こらない。

自転車をバイト先の塾のオーナーに頂いてその自転車を漕ぎながらゲロを吐いたことをよく覚えている。後に夜中に牛丼食べに行った帰りにその自転車が遺失物であったことが判明する。結局僕のところまでは波及しなかったが、塾の前に置かれていた放置自転車を僕にくれたという事である。

武蔵小杉の公衆便所でゲロを吐いてふと見たら茶色の封筒に「裏本」が入っていたのを拾ったことを鮮明に覚えている。あの本はどこ言ったのだろうか「金閣寺」と言う本で、とにかくびっくりした。おそらく貴重な歴史的資料である。

法学部でありながら、出版関係を志したのはあの出会いからかも知れない。卒論は「表現の自由」であった。その裏本は今ならスマホで子供でも見れるレベルのものであったが当時は衝撃であった。

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小さな出版会社から始まる転職の嵐

最初の就職先は、有名な大学教授の本を出している小さな出版会社だった。コネで入社出来た。就職はコネだよなあと思っているのはこの時の経験が大きい。飲み会で、著者の教授さんに説教されたのを覚えている。随分てっぴどくお前は空っぽなやつだろ言われたものだ。くだらんダジャレを言い過ぎたのであった。場を盛り上げようとする気持ちが空回りするのはよくない。今でもその人のことは覚えている。編集長に嫌われて半年でクビになった。

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好青年である。面影もない。

その後2年位の間にバイトで食いつないだ。忘年会で悪い事したつもりはなかったのに同席の女性にと突然ひっぱたかれた。女性にひっぱたかれたのは人生で2回、後一回は電車に乗っていて突然平手打ちされた。ニヤニヤシていたのが無礼だという。あったこともない人なのだがあまりにおぢろいて次の駅で降りた。あれは何だったんだろうか。田園調布と行ったらビンタされて下りた駅である。

確か千木に入社した小さな新聞社での新年会で、結婚間近の女の人と二人で新宿3丁目のバー(深夜プラスワン)に行ったことを覚えている。ベロベロになって一人で帰ってしまい、女性をひとりそんな所に置き去りにするとは男の風上にも置けないと罵倒された。その後口も聞いてもらえなくなった。その会社の先輩の左翼の活動家の女の子に恋していたが、他の同僚(嫌な奴)と付き合っていることがわかりこの会社もやめた。

新宿にもよく行った。財布を一回落としたことが有る。免許が入っていたのでどうすればいいかと悩んでいたのだが、新宿の警察署で半分に切り取られた財布が届けられていた。カードと免許は無事であった。1986−7年当時の新宿である。

カードと言えば、友人と飲んで気がついたら家に帰っていたのだがカードだけがなくなっていたことが有る。ポケットにあったマッチのお店に順に行ったら、ある店で、飲んだあとで「カードが使えない」事がわかり、担保にカードを置いて帰ったことが判明した。明日来ると約束していたのだが全く覚えていなかった。店長さんは笑ってくれた。水道橋のお店であった。この頃はとにかく金がなくて人にたかって飲んだりあまり行儀良くはなかった。

今では若者には寛大な爺さんであると自信があるのはこの時期のことが有るからだ。若い頃苦労(?)しておくと人に優しくなれる。時折説教する爺さんがいたりしてああは成りたくないなと思ったが、果たしてどうだろうか。

30年前の彼に聞いてみたい。

不動産屋(マンションデベロッパー)に就職

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営業と編集の中間のような仕事をしていた。好きだった子がいた。本当かどうかわからないが、営業の少し年上の男がその子と寝たというのを吹聴しているのを聞いて憂鬱になった。毎夜毎夜のチープな飲み会では、愚痴やら上下関係の確認やら、下らん自慢話や、プチ説教やらで切れそうになること仕切りであった。10年後コイツラのような人生を送るのかと思ったら嫌になった

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あの子はどうしているだろうか、佐渡の生まれで叶わぬ恋をしていることを知っていた。

連中との後飲み会には行かずに会社でパソコンを勉強し始めた始めた。IBM5550と言う機種でワンセット150万円の時代である。毎晩23時まで勉強して帰った。マルチプランという表計算ソフトと出会った。間取り図を書くのにMACIIを買ってもらえた。20代の終わりである。まだwindows95の出る10年前である。そのままMACのソフト会社に転職した。1987年くらいである。この時期は中野の会社から家(西武新宿線中井駅そば)まで歩いて帰ることが多く中野サンモールのあたりでで美味い店屋を見つけていた。丁度11時位だから酔っ払いたちの都であった。「居酒屋第一力」「神居古潭」「蕎麦屋さん(焼酎のそば湯割り)」まだ有るだろうか?あのへんは目をつぶってもはしごできるくらい詳しい(25年前の町並みでは有るが)。暖簾を見ただけで店の良し悪しを見抜ける特殊能力を得た。カードのリボ払いという地獄に住んでいた。この時期に情報部の方と知り合いになりRDB(リレーショナルデーターベース)の基本を習った。よく飲みに行った。

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この時のキャンプは糖尿病の宣告の直後で一滴も酒飲まなかった。一緒に行った友人に驚かれたのを覚えている。

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高田馬場のボイルストンと言うバーボンショップで20本飲んだら1本タダでもらえるバーボンラリーというのをやっていて、2周くらい出来た。後で聞いたら僕が一番最初に回ったのだった。お店の店長と仲良くなってバーボンのメニューを頂いた。これは宝物である。バーボンのお店にある酒は、だいたい飲んだことが有る。酒に詳しいというのは、酒を飲む時以外ではそんなに良いことはない。

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名称未設定4

転職したソフト会社では楽しかった

ソフト会社に転職した。月300時間残業した。あっという間に課長代理になれた(笑)。この時期はひどかった。27歳位での転職である。コンピュータはほほ知らないから教えてもらわなければならないが取り柄と行ったら厚顔さと知ったかぶりである。結構宴会があって、沢山酒を飲む芸で身を助けた。ライムサワーを最初に2ジョッキ頼んで、釣瓶打ちに飲み干すのである。これは受けた。後はベロベロになったらストリップした。朝気がついたら背広を洗濯機で洗っていたことが2回ある。よく日に背広のポケットからおしぼりで包んだ握り寿司がでてきたことも有る。確か2回、3回目は鶏の唐揚げであった。

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僕の部下で、とても色々なことを教えてもらった大事な友人と一緒に「ハ」をやっている所。カーボーイが気合を入れた時の掛け声である。

泉岳寺に事務所が移り、通勤が大変だったが五反田駅前のおでん屋さんやラーメン屋さんで夕食の一杯をしていた今はもう無いだろうか?おでんについての様々な知識はこの時期についた。

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会社の机である。寝泊まりが常態化していた。タバコも机で吸っていた、時代である。

そしてこの会社をやめることになる。皆僕が悪い。もう少し賢く立ち回れたかも知れない。お客さんにも、会社にも迷惑をかけた。僕が担当でウヤムヤにしてしまった物件もあった。僕は卑怯者だ。あのときのことを思い出すと、いてもたってもいられなくなる。今、仕事から逃げないのはあの時の事があるからだ。

僕の部下だった友人に言われた。どんなに怒られても命取られることはないのだから安心です。確かに、江戸時代の侍だったら切腹させられている。そう考えれば、正直に向き合えば良いのだ。

時折思い出す。彼はどうしているだろうか?

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ボイルストンでのお別れ会、みんなには苦労させた。どうしているだろうか?

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愚かであったし、思慮深くもなかった。慌て者でお節介で、借金ばかりで、先が見えなくて辛かったが、楽しかった。

酒は身体を壊すが、仲間たちに心を助けてもらっていた。

そして糖尿病と診断された

まあねえ、あれだけ凄い食い方していればねえ。この後の数年が今の幸運な病のレシピの中心になる体験だ。

随分昔に作ったwebサイト。なんと今と同じようなことを考えていた。

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縁の有る方に拾われて、六本木アマンドの裏の会社でソフトの開発をし始めた。残念ながら旨く行かなかったが、この時期の人脈が鉄工場の倒産後に生きる。2年位で新潟に帰ることになった。この時期は余り暴れていないが、高い店ばかりでないことを知って楽しかった。バイクで通勤していたのだが、飲んで朝起きたらヘルメットが部屋に転がったいた事も何度かあった。会社によく泊まった。経理ソフトを作ったのだが売れなくて迷惑をかけた。

クリスマスキャンプ

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新潟に帰る年の12月25日に八丈島でキャンプをした。バイクで島を回って楽しかった。多分33歳になったばかりだと思う。もう東京を引き払う用意をしていた。

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男2人と女性が一人である。彼女は昨年亡くなったと聞く。このキャンプ場で出会ったおじさんのことは忘れられない。北海道でガンと宣告されて、家族と別れ日本を放浪してここに来てキャンパーに米をもらったり釣りしたり地元の草刈りしたりしている間に何年も過ぎたという。僕もガンと宣告されたらここに来ようと思った。とは言っても既に糖尿病であった。

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八丈島の温泉、いい温泉であった。太平洋である。僕のお尻である。

1993年日本でのインターネットが始まる2年前である。世界がネットで繋がる直前に僕は都落ちであった。

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Part2に続きます。

(予告)大阪に行ってひどい目にあって帰ってきて(大阪大好き)、父の努めている工場の宴会ではベロベロになって玄関先でおしっこ垂れて、結婚してからも妻の嫁入タンスにおしっこしたり、生涯2回めのトラ箱(犯罪はなかった)入れられたり。独立してソフト会社作ってからはひどく荒れて、母と父が亡くなった後はまたひどくて.................noteは遺言のつもりで書き始めたので、どうしてもかかねばならないことでは有る。しかし、女性には全く縁がなかった人生である。これはなにかの祟りであろうか。雀百まで踊り忘れず。

新幹線は恐ろしい

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謝辞

このシリーズは、はりさんのnoteにコメントのがきっかけ。ありがとう。新潟に来る時は声かけてください最高の温泉ご紹介します。送迎しますね。コロナが落ち着いたら(娘の会社が県外の来訪者には厳しい制限している)うちで一杯やりましょう(笑)。この「あらせい」と言う旅館はすばらしいです。古いところが好きな方向けですが。

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医者は糖尿病になった僕を叱るだろう。もう治らな病気だと言うだろう。足は腐り目は潰れ透析をしなければならない病気だと言うだろう。インスリンで治療始めろと言うだろう。「自己責任」というやつは権威に絶好の口実を与える。

誰がどう見ても悪いのは僕だ。僕がこんな生活しなければよかっただけなのだ。では、お聞きしたい、どうすればよかったのだ?東京に一人いて、家に料理を作ってくれる人もなく。安い給料でカレーと立ち食い蕎麦と牛丼しか食うものはない。そんな中で必死に生きていたのだ。

僕は自分の人生をバカにすることは出来ない。とても大事なものを得た人生であった。

紙に食事を書かせてバツつけるくらい馬鹿でもできる。医者や看護婦の食事指導くらいクソなものはない。只々患者を叱る(ちょっと褒める)食事指導などで金を取るとは(レセプトに有るとおもう)、「説教強盗」というのがいたと聞くが、それどころではない。恥を知るべきだ。

知識で生活は変えられない。商品化された食事から抜け出すには大変な努力と覚悟がいる。検査値の異常はわかりやすいシグナルである。けどね、今の社会に生きる人は、同じような食事をしているのだ。ドッグフードのような食事である。乾燥した炭水化物をふやかして小綺麗な皿に乗せて食べる。生命のかけらもない。みんなもれなく辛い死に方をする。

家族は、共に苦しんで、どうしたら良いか考える。分かるだろう、本当の問題は、共に苦しみ癒やし合いながら生きる家族を失ったことなんだ。

ナラティブメディスン(傾聴療法)というのが流行っている。

患者の話を聞いて良い判断をするというふうに考えられている。しかし多くの医師は患者の自己責任だと納得させてとんでもない治療を行おうとする。

精神疾患というフェイクな病にしてもそうだ。鬱も統合失調症も検査値(本人の申告)の異常なのだ。眼科耳鼻科によく似ている。

そもそも「共に生きている家族」ならば「傾聴」などというものは必要ない。よく知っているはずなのだ。問題は、同じ家に住んでいながら互いを知らない人の集団を家族と呼んでいるところなのだ。家族と言うのは、DNAの判定でも、戸籍上の権利でもない。考えてみれば夫婦というのはこの2つは全く違っている(笑)。

「病因のない症状だけの病」が大流行だ。この病は生活に対しての身体の当たり前の反応なんだ。薬で検査値を正常にしても合併症と言われる最悪の人生の終わりは必ずやってくる。

そして医者は「検査値の異常」を「病因」とフェイクして、僕らを薬漬けにしようと虎視眈々である。彼らは、薬売ったり取り返しのつかない手術したりするのが商売である。患者が勝手に寛解しては困るのである。

名医のような顔をして、よく話を聞く医者ほど危険である。

心を許してはいけない。生活を変えるほかにこの災厄から逃れる方法はない。「あなたのことは皆分かっています」という医者ほど怖いものはない。自分自身の自立心を奪い去ってくれる。騙されてはいけない。

生活を変える事は指導など出来ない。依存と向き合って生きるように長く終わりのない夜道を歩くようなものだ。医師に出来るわけがない。

そして、医師も同じ様に辛い人生の終りを迎えるのだ。

今検査値が正常でもそれは何も表していない。地面に激突するまで飛行機は壊れない。コップは壊れるまで水は漏らない。大事なのは「生活」である。僕はこの50年で変わった食事の中にこそ、この大流行の原因を見る。

僕はバカにするように「目が潰れるんだぞ分かっているのかインスリン使って眼底のレーザ凝固しろ」と言った傲慢な眼科医に感謝しなければならない。あのクソ野郎のおかげで権威と戦う決心ができた。自分の病と向き合うことができた。

実は次の眼科では真逆の医師であった。実によく話をきいてえ褒めてくれる。いい人では有ったが、危うく白内障の手術するところだった。恐ろしくねって行くのを止めた。しかし、僕の人生には何も不都合がなかった、今のところはであるが(笑)。

無論、あたっているときもあるだろうさ、自分で学んで病に向き合わなければならない。主治医は自分なのだ。医師は患者の望む治療をするという範囲において侵襲的な治療を行っても犯罪ではない。

確かに、僕だって、眼底から出血始まったらどうするかわからない。不安で仕方がない。「専門家」というのはシトシトと心に入り込んでくる。

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僕は自分の糖尿病を恥ずかしいとは思わない。とても大事なことを学んだ人生の一部である。少し不便だけど、あの頃には気が付かなかったことも気がつけた。

どうせいつか死ぬ身である。自分に納得の行くように生きて死んでやる。

お、ますます遺言である。

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厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。