「ガープの世界」:When I'm Sixty-Four 64歳まで生き延びれたら.....
生涯に一度しかセックスをしなかったジュニー・フィールズの子供ガープの物語である。意識なく死ぬ直前の敵兵士(一等軍曹:TS)の勃起したペニスに跨り受胎した。脳を損傷していた彼は「ガープ」としか言えなかった。とんでもない物語の発端である。
浪人時代に、ちょっと上品なオッパイに惹かれ、古本屋で買った月刊プレイボーイで「始まりの一章」を読んだ。映画の公開はその後であった。
人生というのは恐ろしい。血まみれで生まれてきて、欲望に満ちた身体の命じるままに、殺し、犯し、傷つけ生きる。この映画では、欲望を満足させう単位としての「家族」を描いている。
スキあれば誰彼なくセックスをするのは「生命の律」である。性別関係なく、動物だろうが植物だろうが愛をささやくのだ。マイクロバイオームが求めて身体というコロニーを動かしているのだ。
犬が、人の足に交尾を迫るのもヒトが猫に頬ずりするのも『間違えている』わけではない。それが身体を統べる「蟲」の求めるものなのだ(笑)。
「性」を閉じ込める檻としての家庭が失われた時代の象徴である。今につながる多くの関係性の変化が描かれる。女性解放運動のうねり、レイプされ舌を切られたエレン、自ら舌を切り取る女性、登場人物は皆何かを失っている。
そしてベストセラー作家になった「ジェニー・フィールズ」は傷つき苦しんでいる「人生の患者」を受け入れる。
そして寛解、新たなる喪失。物語は終盤へと一気になだれ込んでいく。
欲望はピンポイントで相手を選ぶ。ヒトは自分の欲望に操られる時、マイノリティとなるのだ。
物語ではマイノリティに対しての暴力が繰り返し描かれる。しかし、どこにも「その他大勢」は描かれていない。そうなのだ、観客の視線が「マジョリティ」なのである。自分が、ガープではないことを気が付かせてくれる。
見ていることがつらい。やがて、訪れる物語りの終わりに観客はひとり取り残される。マジョリティとは、傷つかない所から他人を見捨てる視線なのだ。そして、いつか自分がマイノリティである事に気がつくのだ。
ジェニー・フィールズは患者を「外傷組」「内蔵組」「自失組」「冥府組」と分けた。しかし、ガープによればこの世界では我々は全て死に至る患者なのだ。
小説の最終章では全ての人々の落ち着き先が描かれる。僕はここが大好き。
血なまぐさい物語が透明感のある語り口で綴られる。
すべての血は死によって浄化されるのだ。
この映画を見て「When I'm Sixty-Four 64」って恐ろしい曲だなと思ったのは僕だけだろうか。今年3月で62歳になるから残り2年である。
所でなんで64歳なんだろうか。あちらでも年金は65歳からであろうか。作曲された当時は「年金=平穏なリタイヤ」を意味していたのだろうなあ。
あまりに凄まじくて、サンリオの日本語版を読んだ。
ジョンアービングさんの映画化された作品も随分見たが、この映画にはかなわない。小説の下巻の最後のエピローグだけでも読んだほうがいいと思う。素晴らしく好きだ。
人生もエピローグが大切である。自分では見ることが出来はしない。大切なものは、見ることが出来ないものだ。
1982年の映画、東京の名画座で見たはずである。
カンントリー風だとまた違った味わいがある。64歳まで生きれるといいね。
厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。