「オメラスから歩み去る人々」、誰かを見捨てることで成り立つ社会
アーシュラ・K・ル・グィンさんってそんなに読んでいるわけではないのだけど、この小説はヒューゴ賞の本の中で読んだ。小説自身は有名なので解説が多く有る。上手な解説も有るが、できれば原作を読んでみると良い。短いし翻訳も有る。
僕の認識では『「自分の生活が誰かの不幸のもとに成り立っている」ことを忘れてはならない』と言う物語である。SFとは思考実験である。ありえないことを想定してその時にどんな反応をするかを考えて、本質を知ろうとする。では、「それを知ってあなたはどうする」というところが問いかけなのだ。
ル・グインさんは、「誰かを不幸にする生活を捨て、荒野に何かを求める人々にいてもらいたい」と結んでいる。
格差をなくせなどとは考えていない。
ヒトに限らず、あらゆる生命の集団は「希少な価値」を奪い合うことは常であった。ライオンや、サバンナの草食獣、海の中のイワシも、サメもみな餌を奪い合う。
ヒトも変わりはなかった。飢饉になれば子供を売り、年寄りを山に捨てた。東京に出稼ぎに行く貧しい農村の物語はドラマにすらなったものだ。
人の場合は、「雑食」であった事と農耕という食物連鎖のわくを超えた生命を維持する方法を記憶する方法を見つけたのである。それこそが家族であって『シェルターであり、貪欲を戒める檻』であった。
貴族は奴隷を使って富を多く手にれる方法を学んだのである。
しかし、ものには程度というものがあるのだ。今の社会で見られるような大きな格差は存在しなかった。
そして、権威の手先である大学の教授などには解決の方法は見つからない。そもそも格差が無くなったらまっさきに切り捨てられる連中だから。
アイザック・アシモフさんは、エジプト時代の占星術師を引き合いにしてコイツラインチキ連中を論じる。農耕の種まきの時期などを星の運行から占星術師が神託として決める。それが失政であったときは神託を誤って読んだ占星術師の間違いだといい殺した。
今は、明らかな失政もそれを非難する庶民を『陰謀論・フェイクニュース』と言い論殺する。スターリニズムというのはこういう世の中を言う。
オメラスの時代的背景
1974年にこの物語は書かれた。まさにグローなリズムが国内の生産を外国に押し出して、従来南北問題と言われていた国の間の格差が国内に移設され始めた時期である。
物流のコストが下がり、製品を海外に売るのが良いこととなるが、アメリカ以外は貧乏なので物が売れない。「パブリック(公共財)」を維持するためと言う名目で消費するだけの「官僚・政治家」:地域で人々が生活のうちに共に維持してきた物を自分たちが行うと奪い取り税を高くする。
そして、庶民の貧困さえも「お役人」になれなかった劣った人間だからだと断ずる。勝ち組負け組などと言う言葉は、かつてはなかった。百姓は将軍様の奴隷だったのだ。「工商」は百姓よりは良い待遇で金銭的にも恵まれ、そのうちにも格差を作り、支配者層に団結して立ち向かわないようにしていた。ま、今で言う勝ち組の管理職である。おや、今と何も変わりない。明治維新は将軍から別な一派に利権が移っただけであり、敗戦はGHQ様に「利権の主」が移っただけなのだ。
昨今「社会派ドキュメンタリー」という分野が消えたように思う。格差の自己責任という恐ろしい考え方が一般的になってきたのも同じである。
優秀ならば、どこまでも金持ちになって良いのだろうか?
金持ちは余り有る富を樹液のように滲み出す。
その樹液にはアブラムシが集まり、金持ちを養護する。そして、多くの奴隷をつかう。これは、江戸時代でも平安時代でも同じ様にあった事だ。今に限ったことではない。
格差は極限までいくと、死んだほうがマシだと言ううことになる。今や、心療内科に行かせて、死なないように薬を盛るのだ。昭和初期においては覚醒剤が薬局で売られていた。
しかし、テロは終わらない。テロが封じられるとそれは内部告発や自殺として現れる。
アメリカでは教会に銃を持ち神様ごと信者と自分を殺す。日本では良さげな服を着た子どもをバス停で殺す。犯人は自分の人生を燃やして社会に対しての憎しみを表現する。
もっと大きくなると別な道が開ける、社会は揺れて、クーデターだのクメール・ルージュだの文化大革命だの起こる。しかし、それは権益を独占する人間が変わるだけで同じことが繰り返される。
スクルージは改心した。
何故スクルージ(ディッケンズの描く守銭奴)は改心したのか。それは、金では自分の「円満な老後」が買えない時代だったからだったのだ。
しかし今や大いに変わった。
高度治療で幾つまでも生きれると嘘を吹き込まれ、医学は富を得る。それは無理な話であるが、現代の守銭奴達は先を争って医薬品メーカーや専門家に金をつぎ込む。
もう金持ちは改心しなくとも良いのだ。神様も何も言わない。
僕は長く宗教を馬鹿にしてきた。
父と母をなくして知った。宗教とは、家族の絆を教えてくれるものだったのだ。そして自分の「死」を意識するということだったのだ。そして、共に生きることに価値を見出していた宗教は、誰かを見捨てはしない。
残念なことに、見捨てないためには「同じ神を信じる」事が必要であった。今や神様は「金」で帰ると信じられている。
この物語の問いかけている言葉は重い。
答えはそれぞれのヒトの内にある。
この答えに正直に生きることこそが僕には重要なことではないかと感じられる。
僕は一歩踏み出そうと思っている。「百年のお裾分け」を始めるのはその決意の印である。まもなくnoteにかけるくらいまで練り込まれるところであります。待っててちょ。