あの戦車の中では若者が燃やされている:戦争は「金持ちがお墨付きを与えた犯罪」である。国が国民を守らなくなった時代、「スローターハウス(屠殺所)」で死を待つ市民たち
身分制度から抜け落ちているもの。
『士農工商』と言われるが、この一番てっぺんには「キャピタリスト」がいることが巧みに隠されている。「既得権益者やキャピタリスト」と言われる者たちである。
王族、貴族は「軍・警察」という組織を司る役人なのだ。税金という形で
「キャピタリスト」から提供された「利益」が彼らの力の根源である。
すべての経済活動の頂点にたち、「利益」を得る連中である。
かつて、富の根源は「食料」であった。どれだけの農業生産があるかで、その国の軍隊の力は決まった。「生産性のある土地と農奴」の時代から、「工場」と「スキルのある労働者」+「地下資源」の時代へと移る。
地下資源(食料資源も含む)を安定的に供給させる仕組み。
これが「民族自決」である。一次大戦から始まる代理戦争の形である。「地下資源を産出する土地」を工業国が支配する形は2つ。その地域の「民族を破壊する」か、「傀儡政権に独裁国家と強力な軍隊をもたせる」かである。
アメリカインディアン、中国の少数民族、多くの資源を産出する地域に生きる民族は包含する強力な軍隊を持った民族に破壊される。
民族自決という「錦の御旗」が生まれたのはごく最近である。
この戦争は今に始まったことでもないしこれが最後でもない。
二次大戦以降の戦争
それまでの戦争は、地域を支配して「直接税(農作物、産品)」を徴収するものであった。だから、農民を殺しはしなかった。その土地で作物を作らせて、武力によって搾り取る事が「支配」だったのである。
つまりあくまで「支配者」が「キャピタリスト」によって交代させられたのである。江戸時代を考えれば、「大名」は『お取り潰し・国替え・参勤交代』に縛られた官僚であった。百姓は「足軽」として徴兵され、死地に向かわせられた。これは今も変わりない。
無論、当時から金や地下資源も重要ではあったが、「工業」の飛躍的な付加価値の発明がなければ金の使いみちなど無かった。
地域のすべての利権は「企業」が作った商品を買うことで集まる。かつてはその地域であらゆるのは作られて自給自足されていた。グローバリズムはコストの安い仕入れを使って製品を高く売ることでキャピタリストに富を与える。かつて、イギリスは石炭でエネルギーを自給していたが炭鉱労働者のコストがかかるためにエネルギー転換をして多くの失業者を生んだ。
しかし、その利権はすべて「市民」の「商品の購買」を経由していた。
昨今は違う。金持ちはブランドを買い、外車をのりまわしす。
庶民はユニクロに100均で食事はワンコインである。
均一であるはずの水溶液が分離して交わらなくなるように、富裕層の経済活動と庶民の経済は分離しているのだ。『相分離の経済学』とでも言うべき現象が見える。
庶民は金持ちのお店には足を踏み入れない。金持ちはスーパーに買物など行かない。行くのは「小金持ち(金持っている貧乏人)」である。
民主主義国家では、シビリアンコントロール=「選挙で選ばれた官僚と政治家(アメリカの大統領)」が利益の分配の総元締め。
独裁国家では、「暴力組織に愛された個人(ロシアの大統領)」が利益を分配させる。
そして、仕入れた石油を製品にして利益を稼ぐ。石油が売れるのは買う物が入る彼である。
1980年代、国家はキャピタリストに買い取られた
世の中の金持ちには2種類いる。『地下資源の出る土地の「所有者」』と、その『地下資源を使った商品を作る施設の持ち主=「キャピタリスト」』である。昔から、金持ちと貧乏人はいたが、ここまでの格差はなかった。
もちろん、それ以外にも大金持ちはいる。「金のなる木」の持ち主である。平たく言うと「家主」や「金貸し」、「特許著作権」の所有者である。この連中は、法に守られて、仕入れが恐ろしく低額でありながら広範囲から金を集める仕組みである。
カートおじさんの見つめる世界
テレビでロシアの戦車がアメリカの武器で破壊されるのを放送するのは見るに堪えない。あの中ではロシアの青年が黒焦げにされているのだ。
常に戦場で殺し殺されるのは敵味方に別れた「人間同士」なのだ。
2020年に亡くなった父は特攻隊の生き残りである。二次大戦の体験を子供に話したいと言って、話した。『ABCD包囲網』にやられて真珠湾に攻める他無かったのだという。もう恨みっこなしでいいじゃないかという。
友や家族が殺されたことを伝えたかったのだと思う。
僕は父の言葉を忘れてはならないと思う。
殺し、殺されるのは同じ「人間同士」なのだ。一生懸命働いても大していいこともなく翼賛会の流すテーマを口ずさみながら戦場に向かうのだ。
侵略者は殺されても当たり前だというのは「戦争の指導者」の言い分である。訓練だと言われて戦車に載って気がつけば黒焦げの死体である。故郷には父母も友人もいたであろう。僕の息子くらいの歳であろうか。故郷で心配している家族のことを考えると涙が出てくる。
2007年、カートおじさんは長い旅を終える。お疲れ様。忘れません。
憎むべきは敵ではない。兵士として駆り出しながら自分はのうのうとして居る方々である。アイツラは皆お仲間なのだ。
戦争は大変な投機のチャンスである。兵器産業にしたら在庫一掃である。誰が庶民を燃やして大儲けしているのだろうか。
しかし、これからが大変である。
戦争は、戦っているときよりも復興のほうが金になるのだ。有象無象が入り乱れてつかみ取りである。
僕は神保さんのVIDEO NEWS の会員(フクイチの原発報道のときからである)であるのだが、今回もすごく良い番組が多かった。
異なった視点からウクライナを知ることが出来て面白い。ウクライナが多様な国であり、マリウポリは1960年代の北九州をイメージできるという。主力産業の鉄鋼業の都市であるという。この地域にもウクライナの「政商:オリガーク」がいたという。今はどうなっただろうかと話す。
厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。