マンホールからベンガルトラまで その2
再始動
回復のために昼夜関係なくずっと寝ていたので、相当早い時間に起きてしまったらしい。
まだぼんやりと外が明るくなってきたところだ。
小さな窓から人の声や移動式屋台が動いて軋む音が聞こえ出した。ヒンドゥー教や仏教の寺院の鐘の音が街に響き渡る。街が目覚めていく。
そろそろいけるかな。
ゆっくりと体を確かめる。
肋と腕は相変わらず痛いが少し動けるようになってきていた。
タオルで三角巾を作って右腕を固定して、久しぶりに狭い部屋から外へと抜け出した。
まだ明るくなりだしたばかりだというのに市場の方へ行くとたくさんの人がお店の準備をしていた。
野菜や果物を広げるおばあちゃん。甘そうなお菓子を揚げるおじさん、油の音がパチパチと耳に心地いい。色とりどりの砂山が並んでるように見えるのは香辛料だろうか。近くで息を吸い込むとエキゾチックな匂いが頭の中を駆け巡る。ようやくネパールに来たという実感が湧いてきた。
空港に着いて早々怪我をして、大人しくホテルで回復を待っていたので大したものは食べてないし街を歩いてもいなかったのだ。
腹が減ったなぁ、チャイがうまそうだ。
おばちゃんが路上でミルクティーを鍋で温めている。移動式のコンロみたいなものから火が出ている。
昔、インドに行った時はこのチャイと言われるミルクティーを気に入って、朝飯は必ず路上でチャイと一緒に食べていた。そしてネパールにも同じようなものがあるらしい。
チャイをひとつ。とおばちゃんに言うとティー?と聞き返された。
こちらではティーと言うのかな。
味はほとんどインドとおんなじで甘いコクのあるミルクティー。ああ、これこれ!
ほのかに鉄の匂いがするのは水の違いだろうか。
更に他の人が食べてた野菜入りのクレープみたいなものを注文。いや、食べてみるとお好み焼きに近いか。少し辛味があって甘いティーと合う。美味い!
ゆっくりと味わいながら立ち食いを続ける。
同じようにティーを飲む人や、そこでタバコを一本だけ買って吸っていく人。
それぞれがそれぞれのペースで談笑したり、すぐに立ち去ったりしていく。
そういうふうにしてネパールの朝は始まっていくのだった。
やっと生のネパールに触れられた気がした。
あいむろすと
マンホールに落ちてから三日ほどが経った。
どうやら腕と脇腹の怪我は良くなる方へ向かっている気がする。腕の曲がる角度が広がっていた。
再び朝から外に出る。
朝はいい。街が動き出す最初の瞬間、その国の生活感が滲み出る気がする。
今日はカメラを持って外に出よう。
サブカメラは壊れたので、ニコンの一眼レフカメラを持ち出した。それに24ー70ミリのズームレンズをつける。ニコンは写りはいいが重いのが難点だ。特に腕を怪我している時には。
怪我をしてない左手でカメラを支えて右手は添えてシャッターを押すだけ。できるだけ怪我をした腕に負担をかけないように。
よし、いけそうだ。まだ痛むがなんとか右腕はシャッターを押す高さまで動いてくれている。
明け方の路上にはまだ人の気配が少なく、犬が一匹歩いている。
慣れない国の街並みだと犬が一匹いるだけでも
ステキな光景に見えてくる。
犬は私から逃げるでもなく近づくでもなく、適度な距離感を保って、ついて来いと言うように振り返りながらゆっくりと街を歩いて行く。
導かれるように写真を撮りながら歩く。
細い路地に入ったり牛の歩く横を通ったり、瓦礫になった家の前も通りすぎた。
そういえばネパールのカトマンズ近くでは最近大きな地震があったらしく、瓦礫の家にはまだ崩れたレンガを運んだりしてる男性がいた。
私自身、東日本大震災を埼玉で体験したのでその時の恐ろしさを思い出した。
こういうレンガばかりの家は簡単に崩れちゃうんだな。
地震の時、その中に人がいたらと思うとゾッとする。
ずいぶんと日が経った今もレンガを運び続けている彼はひょっとしたらそういう家族の一人なのではないだろうか、そんな風に考えるとふいに胸が熱くなった。
犬はといえば、そんな私にはお構いなしにゆっくりとした足取りで先をいってしまう。
・・・と思ったら曲がり角でふっと居なくなった。
あれっ⁉︎
近くを探したけど、どこにもいない。
どこ?おいっ⁉︎ いぬっ!
辺りを見回したが、影も形も見当たらない。
しょうがないと、来た道を戻り出した。
なんだよ、知らない国で知らない犬とのお散歩、楽しかったのに。
ん?
残念な気持ちと同時に、急に不安な気持ちが湧いてきた。
おや・・・。
ここはどこ?
犬任せでついてきただけなので、自分がいる場所がわからなくなっていた。
ホテルはどっち?
おやおやおや、これは迷子というやつだろうか。
いい大人なんですけど。
ホテルの名前もネパール語で書いてあったから読めないので覚えていないし・・・
はっはっは、これは間違いなく迷子だね。
ふふふ、大人の迷子が子供の迷子と違うのはパニックになって泣き叫ばないところだよ。
いや、ホテルの周りは昨日散歩したのでなんとなくわかるからね。近くまで行きさえすれば帰れるに違いない。
とかぶつぶつ独り言をいいながら背中には冷や汗をかいている。
初めての国で自分がどこにいるかわからなくなるなんて、ひょえー。
ともかく見たことある道に出るまで歩き回るのだ!
あっちへ行ったりこっちへ行ったりしてるうちに本格的に自分がどこにいるのかわからなくなる。違うエリアに来てる気がする・・・
だんだんと足も心も疲れはててきた。
路上屋台を発見したのでティーを一杯頼んで飲み干す。
ああ、心のオアシス!ネパールミルクティー大好き!
椅子もないのでそこら辺の石に座り込んで足の疲れをとる。
ぴっかーん。
さーて、休憩したことで頭がリフレッシュしたのか、この困難を脱する手をひとつ思いついていた。
ホテルの近くの風景写真をさっき撮っていたのでその写真をタクシーの人に見せればそこに連れて行ってくれるんじゃないだろうか。
うーむ、我ながら素晴らしいアイデアだ。
賑やかな通りに出るとリクシャが並んでいた。日本で言うところの人力車だ。ネパールやインドではメジャーな乗り物で、人力なので遠くまで行くには向いてないが、安いし小回りが効く。
リクシャのおじさん達に恐るおそるカメラの液晶を見せながら話しかけた。
「あのー、ここら辺に行きたいんだけどわかりますか?」
「なんだなんだ、ほうほう、迷っちまったんだな。見せてみろ、あー、ここはあそこじゃないか?やっぱり、この建物があるからそうに違いねえや。」
という具合におじさん達が話し合ってどうやら場所がわかったみたいでひと安心。
リクシャで連れて行ってもらえることになった。
ちなみに私はほとんど英語は出来ない。今のやりとりは私の心のイメージでしかなく、実際のところはこんな感じ。
「えくすきゅーずみー。あいむろすと。あいわんとぅーごーでぃす。」
と言ってカメラの画面を見せると、リクシャのおじさん達がなんかわからんネパール語で話して、乗れ。と言うようにリクシャを指さされる。そして頷く私。
これが客観的な目から見た本当のところだ。
こんな拙い英語でもなんとかなるもんだ。
でもいつかは相手の本音を英語で聞けるくらいになりたいな。という希望は持ってるんだよ。キラキラリン。
話しは戻る。
俺が連れて行こうと言ったのはダリと名乗る坊主頭のおじさんだった。
周りのおじさん達もヤツなら間違いないといった感じで納得している。
本人も俺に任せろと親指を立てる。
笑ったら歯が二、三本抜けているところがチャーミング。
しかしこのダリが食わせ物だった。
いや、悪い人ではないんだよ。むしろいい人。
でもねぇ、なんというか。
うーん・・・マイペース?