中国の寝台車に乗ると思い出すこと。
昆明発成都行き寝台列車の喫煙所
国慶節の混雑のために予定に反して昆明に3日間潜伏するハメになった僕。
国慶節5日目にしてやっと移動を開始する。
寝台車のチケットを手にしれ日本出発当初から予定していた中国最初の目的地・成都に向かっていた。
僕には成都にどうしても立ち寄りたい宿があった。
そして明日以降は国慶節が終わるまでその宿に泊まる手筈になっている。
『どうして宿なんかが最初の目的地かというと。』
この宿、ある時期において中国を旅するバックパッカー界隈ではちょっと有名になった場所で。
今回はまずあの宿を目指そうということを最初のミッションに据えていた。
実ははじめて海外を旅した12年前。
僕もこの宿を目指して旅をしたバックパッカーの一人だった。
ただ、前回の記事で話したように12年前の旅では結局僕はこの宿に行かなかった。
なぜなら途中で旅が一気に方針転換することが起きたからだった。
あの時も同じように喫煙所に立ち、そこから物語がはじまった。
12年ぶりの中国の寝台車だった。
僕は寝る前に一本吸って寝ようと思って喫煙所に行ったが、吸い終えてもしばらくは当時のことを思い返しながらぼーっと喫煙所から外を眺めていた。
すると同じ車両の乗客がやってきて僕を見るなり自分の持っていたたばこを差し出した。
一本もらってくれという合図だ。
遠虚なく僕は差し出されたたばこを咥える。
『中国で差し出されたたばこを拒まない。』
12年前に学んだことだ。
それは中国の面白いたばこ文化だ。
今のように喫煙者なら中国人から差し出されたたばこは断ってはいけない。
中国では喫煙者同士、自分の持っているたばこを差し出すのは風習であり、礼儀でもあるらしい。
こんなふうに喫煙所でボーッとつ立っていると吸っていなくても中国人のおじ様がたばこの箱を差し出してくる。
「お前、ここにいるってことは吸えるんだろ?」みたいな感じで一本どうだ?とたばこを勧めてくれる。
これがコミニケーションの始まりの合図だ。
喫煙所は今も昔も各車両に一箇所づつあるので同じ車両の喫煙者はみな自然と集まる。だから列車の喫煙所は小さな社交場になる
言葉ははっきりとはわからないがおじさんはいろんなことを話してくる。
「日本人だろ?」
「旅行か?どこに行くんだ?」
「今までどこに行ったことある?」
こんな風に会話が始まり、一本吸い終える頃には彼らは親しい友人のように振る舞ってくれる。
「どうだ?これ食べないか?」と食べ物をくれたり、次の街の観光のポイントや時には連絡先を教えてくれたり、色々と世話を焼いてくれる。
そして吸いたくなると僕のコンパートメントまできてたばこに誘うようになる。
すると同じ車両のまた違うおじちゃんが先客でいたりすると今度は3人で喫煙所会議に花が咲く。
「どうだこのたばこは?俺の省のたばこだ。」
長距離列車に乗っていると中国各地の人が乗り合わせることはしばしばで、みんな自分の地域でしか売っていないたばこの自慢をはじめることがある。
それを吹かして『これはいいたばこだ!』と褒め称えるのが礼儀作法のようにだった。
後に知るのだが中国ではさまざまな省にたばこ公社があるそうで各省ごとに作っているたばこが違う。
例えばこれから行く四川省にはパンダのラベルのたばこがあったり、今までいた昆明のある雲南にはまた違う雲南だけのたばこが売っている。
ある街の雑貨店で各省のたばこ一覧というカタログを見せてもらったことがある。
日本でも売っている中国銘柄「中南海」だけでもたくさんのシリーズがあり、カタログにはそのほかにもパッと見でも百近い銘柄を載っていた。
それぐらい中国ではたばこ文化は多様化していて喫煙に対する敷居やイメージは日本とはちょっと違う。
世界中で喫煙習慣はたばこだけに煙たがられるようになっている今でも中国ではたばこは嗜みであり会話の糸口になるキーアイテムなのだ。
12年前も喫煙所での一本のたばこが僕の旅の行き先の舵を大きく切ってくれた。
12年前、定刻通りに北京国際空港に着いた僕はまっすぐ北京西駅に向かった。
北京西発ラサ行きの鉄道に乗るためだ。
はじめての世界の聖地を目指した旅だ。そして初めて行った世界の聖地がラサだった。
しかし僕はラサ行きのチケットを買うことはできなかった。
『外国人は北京でラサ行きのチケットは買えない。』
これは事前情報で知っていたのだ予定通りの出来事ではある。
噂では車内でチケットチェンジしてラサへの行き先変更をすることでラサまで乗れるという情報があったがどうやってチケットの行き先の変更をすればいいのかはわからないまま乗車していた。
乗りながら探せばいい。どうしてもわからなかった時の副案はある。
まぁとにかく乗ってみて探してみよう。
だから途中駅までのチケットを購入し乗り込んだ。
ただ席はない。
当時の中国には席がなくても乗り込める『無座』というチケットがあった。
この日は席が全て売れてしまったので乗車券だけのチケットしか手に入らなかった。
仕方ない。乗れるだけいいか考えた。
そして客車の通路に座るしかないのだが客車の中も同じようなチケットの乗客で溢れていて、結局たばこを吸うために喫煙所に行ったままそこに追いやられた。
そこで声をかけてくれたのが海外向けに家具商を営む中国人のお兄さんだった。
「日本人だろ?一本どうだ?」
まだこの時は中国のたばこ交換のルールを知らなかったのだが、遠慮するのも悪いと思ってたばこを貰った。
「で。どこに行くの?」
「蘭州だよ。」
この時はラサ行きの列車の途中駅である蘭州行きの切符を買っていた。
「ラサじゃないのか?」
「ラサに行きたかったけどチケットが買えなかったんだ。」
予定にあった副案というのがとにかく蘭州まで行くことだった。
蘭州までのチケットを買ったのには二つの理由があった。
まず一つは蘭州の次の駅・ゴルムドまで行くのはちょっとリスクがあったからだ。
この駅はただの田舎の停車場で宿もなければ観光客が来るような場所でもない。
『あんなところに何をしに行くのだ』と怪しまれる。
ただこの街はチベットとの境界線上にあってラサに向かうトラックの基地になっていた。
だからバックパッカーがここに来ると、もしかするとトラックの荷台に隠れてチベットに密航するのではないかと怪しまれる。
実際にトラックの荷台に隠れて密航した旅人の記録は存在していた。
でも検問も厳しく、見つかるとあまりいいことはない。
そしてこの『密航』というワードはもう一つの理由に関する。
当時チベット行きの列車は北京以外に上海や成都発なのど数本あったその全ての路線が蘭州を通過する。
これらの列車でラサに行けるのは合法の方法だ。
ただ駅の窓口では外国人にはラサ行きのチケットは売ってくれない。
車内でのチケットチェンジの方法で列車で行けるという噂だがで方法はまだはっきりしない。
なのでチケットチェンジができなかった場合は蘭州まで行ってそこから成都行きの列車に乗り換えてもう一つの入り口になっているある場所に行く。
これが僕の副案だった。
そのある場所というのが成都の宿だったというわけで、こちらの方が情報がはっきりしていて確実にラサに行ける。
だからこの宿は当時バックパッカーの界隈で有名になったのだ。
もう一つの蘭州を目指した理由はもしも方法が見つからないなら確実に行ける宿を目指そうと考えたからだった。
でもどうして外国人はこんなにラサに行けなかったのか?
場合によっては密航という手段を選ぶのか?
それはラサに行くためには特殊なもう一つのビザのようなものが必要だったからだ。
「パーミッション」または「入域許可証」という政府発行の許可証である。
これがなくてはラサ行きのチケットは買えないのだ。
この制度は現在も変わっていない。
『じゃあ許可証を取ればいいじゃないと考えるだろう。』
しかし当時ほとんどのバックパッカーが許可証を取らなかった。
なぜならその申請方法があまりに酷いものだったからだ。
まずこの許可証はチベット自治区に入るための許可証なのにチベットの首都・ラサでしか発行されない。
ラサに行くための許可証がラサでしか貰えないなんて本当に人を食ったような話だ。
じゃあどうするかというと現地の旅行会社などの代理店に申請に行ってもらう。
だがこれも簡単にはできなかった。
まずチベットの現地代理店には直接コンタクトや代行依頼ができない。
チベット自治区外のつまり中国側の旅行会社を通して現地代理店に申請依頼をする方法でしか獲得できない。
なので手数料が嵩む。
当時の情報ではこの許可証の発行料は日本円で500円程度だったらしい。
しかもさらにひどいのが中国の旅行会社で申請するには条件があり、旅行会社のパッケージ旅行への参加でしか発行許可が下りないというものだ。
許可証だけの発行はしてくれない。
つまりはチベットは中国の旅行会社のパッケージ旅行でしか行けない場所になっていて、どんどん高額になりしかも相手の言い値状態だった。
「ラサはテーマパークか!!」とツッコミたくなる。
だから当時世界中の多くのバックパッカーがチベットに密航していた。
許可証を持たずに検問をやり過ごしながら旅をする方法だ。
まだ当時は今ほど検問や検閲も厳しくなくてなんとか侵入できる状態だった。
列車でラサに行くルートはその中でも当時新しくできたばかりのルートであった。
ちょうど僕がこのルートを抜けたのは西蔵鉄道というラサ行きの路線が出来て一年も経たない時だったと記憶している。
そのために情報が少なくやり方がまだはっきりしていなかった。
一方で情報がはっきりしていたのが成都の宿が主催する格安ツアーの手配でラサまで行けるとう情報だった。
そのためこの宿にはたくさんのバックパッカーが集まり、みんなそこを経由してラサに到着しているらしかった。
ちなみにスマホもなく今ほどSNSなどの個人の情報発信ツールも発達していなかった当時は情報を得る方法はこうしたハブになっている宿に集まる旅人やそれによって宿に蓄積されて情報と掲示板サイトだった。
僕は当時ここまでの情報を掲示板サイトを使って集めていた。
この後実際にラサ行きのチケットの購入方法を獲得し、この情報を使っていた掲示板サイトに投稿したので以後の旅人でこの情報を頼りに旅をした人がいたかもしれない。
そしてこの方法を教えてくれたのが喫煙所で出会った家具商のお兄さんだった。
「チケットなら11号車で買えるよ。」
彼は普段から海外企業を相手に仕事をしているので英語が上手で丁寧に僕でもわかる英語で方法を教えてくれた。
当時の中国の長距離列車には一両だけ金庫のある車掌室があった。
そこでは乗客の誰でも行き先の変更や座席の変更を取り扱っていた。
例えば、僕のような無座の客が空いた寝台に移りたい時や、二等寝台から一等寝台に移りたい時などは現地の人たちも使うらしい。
そして11号車の車掌はチケット変更を望む者がいないか定期的に全車両を巡回していた。
「この車掌に会えばいいんだ。そしたらチケットチェンジができるはずだ。」
お兄さんとタバコを吸いながら話をしているとちょうど運よく隣の車両からその車掌が喫煙所にやってきた。
「ほら彼がそうだ。」
どうしてわかるかというと各車両に一人か二人は車掌がいて、その車両以外には出入りしない。なので車両を跨いで移動するのはチケット変更のできる車掌だけとのことだった。
「この子がラサに行きたいらしいよ」
みたいなことをお兄さんが中国語で説明してくれている。
そしてこの車掌さんも多少の英語が話せるようで僕にちょっと質問をしてからお兄さんに中国語で何かを説明し始めた。
「オーケー!大丈夫だ。ラサに連れて行ってくれるって。」
そういうと車掌は僕のパスポートとチケットをみて「それじゃあ後はよろしく」とお兄さんに任せて隣の車両に行ってしまった。
「君の顔を覚えたと言っている。だからこのあとは今から説明する方法通りに行動するんだ。いいね?」
まぁこのやり方がすごかった。
お兄さんは自分の席に僕を連れて行き、そこを譲ってくれた。
「僕はあと1時間したら降りるからそのあとは誰か来るまではここに座るといい。」
そして隣の乗客にも何か話したあと行き方の説明が始まる。
まず蘭州行きのチケットを蘭州を過ぎてからゴルムドまでの寝台に変更する。
つまり蘭州で降りないでそのまま乗っていろということだった。
蘭州を過ぎてから僕を探し出して車内で新規のゴルムド行きのチケットを発行するということだった。
窓口では買えないが車内でなら大丈夫ということなのだろう。
そして蘭州からゴルムドまでは寝台で行って、ゴルムドで一旦下車する。
下車するとすぐに11号車まで走ってホームを移動し車掌のいる車掌室まで来ることと言われる。
この時の説明はここまでだった。あとは車掌が助けてくれるとのことだ。
その後はお兄さんが周りの乗客たちに僕を紹介してくれ、西安や蘭州に行く人たちに託してくれたようだった。
「こいつを無事にラサに届けよう」と言ってくれたらしい。
日本の話、当時の中国の話、日本の漢字と中国の漢字の違いなんかをみんなでおもしろおかしく話したことを覚えている。
慣れてくると「これを食え」とか「寒いから毛布を半分貸してやる」とかお兄さんと別れたあとも蘭州まで丸一日くらい色んな同行者に助けてもらった。
もちろんみんなでたばこを吸いに喫煙所にも行った。
その間は他の乗客が僕の荷物や席を守ってくれた。
そして僕は無事に蘭州を過ぎ、寝台に移り同じ車両にいたおじさんたちともたばこを通うじて仲良くなり、手筈通りに夜明けのゴルムド駅に降りた。
降りると驚くべきことが起きる。
なんと11号車以外の扉はすぐに閉められたのだ。
だからホームを走って11号車を目指せということだったのだ。
まだ薄暗いホームを唯一開いたドアの明かりに向かって走り抜けもう一度乗ってきた列車に飛び乗る。
すると車掌は僕を待っていてくれた。
「よし!次はさっきまでいた寝台に戻るぞ」
「えっ?」
訳もわからず車掌に連れられてまたさっきまで眠っていた寝台に逆戻りした。
起きていた同じ車両の乗客が待ってたぞとばかりに迎えてくれた。
「さぁこっちだ!荷物を貸して!」
同じコンパートメントの最下段のおじさんは僕の大きなザックを自分の荷物の奥に隠してくれる。
「さぁ上にあがれ!」
車掌が最上段の通路側に迫り出した通路の天井と車両の天井の間の荷物入れに僕を押し込んだ。
「私がもう一度ここに来るまではここに隠れていなさい。」
そう行って下にいたおじさんに少し話をしてコンパートメントの扉を閉めた。
それから1時間ほど経った時に車掌が僕のところにやってきてゴルムド発ラサ行きのチケットを渡してくれた。
あれはきっと公安をやり過ごすためにやってくれたのだろう。
もう乗ってしまうと正規のチケットは持っているし、途中で下ろすこともできない。公安も見逃した責任を問われるのだろう。
列車はチベット高原を直走り、僕は多くの人の助けを得てついにラサにたどり着くことができたのだった。
僕はあのラサへの行き方やその後ラサであった出来事を思い出すともう一度チベットに行きたいという気持ちがずっとあった。
今は当時よりも規制が厳しくなって前回のような行き方はほぼ不可能だろうと思っていたが今度の旅でももう一度という想いはあった。
なら今度は成都から行けるチベットに挑戦しよう。
そうした想いと純粋に当時同じ場所を目指した旅人たちが味わった空気を感じたくて成都の宿を目指すことにしたのが今僕が成都を目指す理由だった。
そして成都に来て2日目の夜のことだ。
僕は一人でゲストハウスにあるバースペースでビールを片手にタバコを吹かしていた。
今は当時とオーナーも変わり、名前も変わり、名残は建物と残された日本の本ぐらいで日本人の旅人も誰一人いなかった。
「日本人でしょ?」
聞き慣れた日本語で話しかけてきた中国人が僕の隣の席に着いた。
「そうですよ。」
昨日も来ているのを見かけた客で、スタッフと楽しげに話していたのでここの常連さんなんだと思った。
「こんな国慶節の時に来て大変だったでしょ。」
もう大変てもんじゃない。
「もう大変でした。」
「よくこんな時に来るよね。」と彼は笑っている。
「なんで成都にきたの?」
「この宿に来たかったんです。ずっと。」
そこから彼に12年前の話を少しだけする。
ラサを目指したこと。列車で行ったこと。そしてこの宿に来なかった理由を。
すると彼から意外な答えが返ってきた。
「なつかしーーーー!大変だったよ。あの時も。」
「知ってるの?」
「当たり前じゃん。」
彼は今は近くの会社に勤める当時の宿のスタッフだった。
時々会社の帰りに飲みにやって来るそうだ。
その晩僕は少しだけ当時の雰囲気を彼を通して味わうことができた。
当時の旅の方法や、前のオーナーの話、宿のその後などいろいろ話してくれた。
もちろんタバコを吸いながら、ビール片手にだ。
そうして話していると他の中国人の旅人やバーの常連たちに囲まれていく。
「もう一本どうだ?」
他の常連客がビールを一本持ってきてくれる。
もちろんタバコも。これが一番大切だ。
「どこのたばこ?」
「四川省のだよ。」
ひと吸いすると
「良いね。これ。」
これが礼儀だ。
そしてみんなでそれぞれ旅の思い出や僕が見てきた東南アジアの話、日本の話で盛り上がる。
たばこが吸えることでちょっと良いことがあるというのが中国の一つの顔だと想う。
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