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さがしもの【エッセイ】一八〇〇字(本文)


TOP画像:パブリックドメインQ(著作権フリー画像)

このエッセイは、「第3回Reライフ文学賞」短編部門(2,000字以内)への応募作です。
当初は、同じ締切日(昨日の10月31日)の「風花随筆文学賞」に応募する予定だったのですが、(noteを含め)インターネットで発表した(する)作品は無効という事務局のお回答。(ブログ形式の場合は)noteの掲載作を認める本文学賞に、急遽、変更しました。募集テーマである「Reライフ」とは異なるかなとは思うのですが、いまの自分にとって大きなきっかけとなった出来事を扱う本作で挑戦します。
過日書いた「さがしもの【エッセイ】八〇〇字」を、1,800字に膨らませましたが、プロットは変えていません。1,000字分、内容を濃くすることに努めました。800字を、いかに1,800字にしたかを読み比べしていただければ、幸いです。

(注)縦書き原稿用紙のまま投稿しますので、数字は漢数字のままです

これからは、エッセイを対象にする文学賞に積極的に応募しまっせ。たとえ失敗しても、それが余生に活力を与えると信じるからであります(おいおい、最初から失敗覚悟かよ💦)。

(以下、本文)


 いまがあるのは、あの日の“一本の電話”があったから、と思うのです。                                                                       ※
  二度目の大学受験に失敗し、静岡・藤枝の遺跡発掘現場にいた。スコップやネコ(一輪車)を使ったトレンチ (溝)掘りが、毎日続く。重労働だったが、その分、挫折しかけていた自分を忘れることができた。慰めてくれたのは、発掘のバイトを誘ってくれた同期卒業のEと、その考古研の仲間たち。考古学の話には、聞き役だったが、出番は、大江健三郎の本。深夜まで語り合い、〈日本航空がお送りした音楽の定期便、『ジェットストリーム』。夜間飛行のお供をしましたパイロットはわたくし、城達也でした〉の、バリトンの声で深い眠りに着く。そんな、日々だった。

北海道・北空知にある進学校二年の年末、肺結核を患い、入院。落ちこぼれてしまったとの思いに、持ち込んだ『万延元年のフットボール』も、ほとんどページが進まず。しばらく、頭は、空洞のまま。

 癒しは、週に二、三回の、母の差し入れと、笑顔。「たくさん食べて、太るのが仕事だよ」と、大好物の豚カツや焼き豚を持ってきてくれた。バスで往復三時間かけて。

 当時は、ストレプトマイシンやパスの新薬が開発されており、「死の病」ではなくなっていた。それでも、退院までは、半年を要する。その後も自宅療養が必要で、やむなく、留年を決める。

 同期入学の仲間たちが、受験で追われているという話に、あせる気持ちを越えて、別世界のことのように感じていた。その年は、東大入試が中止され、狙っていた親友も方向転換を迫られる。学生運動が激しさを増し、世の中が混沌としている、時代だった。

 復学後も、すぐには体力や気力が回復せず。遅れを取り戻せないままに、現役受験に臨むも、失敗。一年間の条件で、札幌の予備校に入れもらえることに。しかし、現役で北海道大学に入り、革マル派に関わっていた同期卒業のTの影響を受け、運動に参加する。心配する母の話も、無視し続けて。

 受験まで半年と迫っていたとき。Tの兄が、「文學界」(一九六一年二月号)を持っていることを知る。発禁扱いになっていた『政治少年死す』が掲載されているのだ。さっそく、海賊版を自費出版することを、二人で企てる。予備校に通いながらも、毎晩、和文タイプを打ち続ける。四か月後に出来上がり、販売運動を続けていた。そんなころ、立正大学のEから、連絡が入ったのだ。受験期間中に寮に潜り込み、学内で販売しないかと。

 宿泊先が決まっておらず、渡りに船。二月初め。教養学部がある熊谷に向かう。むろん寮は、部外者、立入禁止。しかし、Eの「顔」で、事もなげにクリア。Eがいる十人の大部屋で寝泊まりする。春休みで帰省中の学生のベッドが使えた。最大の関門は点呼だったが、寮長が回る時刻、Eの「手下」たちの協力もあり、ベッドやロッカーに隠れ、難を逃れた。

 Eは、考古学研究会に所属していた。そもそも親分肌で、研究会の学生を中心に、上級生にもほぼ強制的に、「大江の発禁本だぜ、買え」と押付けたこともあり、持参した三十冊は、完売。しかし、当然の成行きだが、全て不合格となってしまう。

 二歳違いの弟・タカは、「アニキも知っているようにサ、オレ、勉強、嫌いだからサ、大学なんか行かない。東京の土木の専門学校に決めたっ。だから、ガンバレよ」と、言う。しかし、もう家族には迷惑はかけられない。寮を出てアパートを決めたあと、仕事を探しはじめよう、と思っていた。そのとき、Eから遺跡発掘のバイトに誘われる。早めに定職を決めたほうが良いんじゃないか…。迷ったが、三食付きが、魅力だった。

 約束は、とりあえず、弟が上京する三月末まで。トレンチ掘りが、長々と続き、「土方」仕事で終わるかもしれないと思いはじめていたのだが、ようやく、「塊」にたどり着く。それからは、発掘らしくなっていった。スコップから草削りになり、竹串、刷毛と徐々に繊細な道具に変わる。そして、図面描きまでやっていた、ある日。宿泊所に、母から電話があった。

 「お父ちゃんも許してくれたよ。タカと一緒に住んで、もう一年がんばりなさい」と。

 母は、その二年半後、大学二年のときに、急性劇症肝炎で旅立った。享年五十一だった———。 

(後記)

最後のフレーズにある、「大学二年のときに」を挿入するのを失念・・・ド失敗をやらかしました。💦

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