見出し画像

『群青』【エッセイ】二〇〇〇字(本文)

 3.11がくるたびに、3年前の「みちのく巡礼」の旅を想い出す。その年の9月に、その旅に触れる、記事を書いた。

 実は、この記事は、記念すべき第1号(2019年9月3日)。yoko_sさん星の汀さん足羽椋子さん副代理さんたちが遠路はるばる訪れてくれて、現在の「スキ」数は、15になっているが、当時は、ひと桁だったかと。

 その後も3本、3.11を想いおこすたびに書いている。「みちのく巡礼の旅」の続きを、と思っているうちに「567」がお越しになった。再開できるのはいつの日になるか。現地を訪れて、あらたなエッセイが書ける日を待ちながら、過去の記事をもとに書き起こすことにした。むろん、「〇〇〇〇〇」をも想いつつ。

               ※
 大震災から8年たった、6月末。「みちのく巡礼」の旅にでる。慰霊する祈りの場を、宮城の33の寺院に創設している、と知って。
 仕事の忙しさをいい訳にしていた。自由の身になり、遅ればせながらではあるが。以前は、「今さらなあ、ただの物見遊山になるだけかも」、と二の足を踏んでいた。しかし、内田樹氏が『聖地巡礼』で語っている。「霊的な緊張と人間的な弛緩が共存する経験のうちに“巡礼”の本質は存する」と。うんうん、そうだよね、“弛緩”もOKだよね、と“歩”を踏み出す。まず、68歳にして初の仙台周辺。2泊3日で、12の寺を車でまわってみようか、と。
 仙台といえば牛タン! 仙台周辺の寺をウォーキングがてら回った初日の夜、さっそく“弛緩”として舌鼓を打つ。翌日の本番に向けて英気を養う。
 3,11の映像で、一番衝撃的な地があった。閖上ゆりあげである。
 旅の前、ストリートビューで巡礼する寺院の写真をプリントしたのだが。その際、朝日新聞デジタルで、「閖上の東禅寺が六年目に再建」との記事を見かける。閖上は、700人以上の犠牲者がでたことと、「閖」という漢字が印象的だった。
 東禅寺に訪れてまず、立派な本堂と5mの観音像に感動した。住職は不在だったが、30歳前後の海老蔵似の、住職の長男が、出迎えてくれる。先代住職夫婦だけが寺に残り亡くなったこと、残骸の中から見つかった傷跡残る太柱を、再建に使ったことなど、30分位、説明してくれた。

画像1
画像2
画像3
画像4

(東禅寺)

 翌年、東禅寺をビューで見て、あることに気づいた。その時と違っていた。プリントにある撮影時期は、18年3月。現在のビューは、13年4月と、先祖返りしている。壊れた墓石は取り除かれているが、土台だけ。本堂は、屋根と側壁を残し、囲いで被われている。あの姿ではない。きっと、震災間もない寺と閖上を忘れないようにと、グーグルに依頼したと、推察する(いまもそのままである)。その強い想いに改めて、心打たれる。

画像5

(先祖返りのままのストリートビュー)

 東禅寺につく前に、閖上の更地になった広大な土地を歩き、名取川の土手から見回していた。すると、土手からぼーっと眺める、私と同じ歳くらいの男性が立っていた。私は、車に戻り、東禅寺の辺りを何周かしていると、その男性が車で追いつき声をかけてくれた。「東禅寺をお探しですか? そこでですよ」と教えてくれた。あまりにも立派過ぎたので、思いこみがあり、見過ごしていたのだった。男性の車を見ると、栃木ナンバーだった。

画像6

(名取川の土手)

 3日目。旅の最終、仙台から1時間以上かかる西光寺に向かった。御参りは11時には終わるだろうから、そこで昼食をとろう。寺の近くには、蕎麦屋が多いはず。「五穀断ち」の五穀には、麦は含まれず、僧侶や参拝者にとって、貴重な食材だったことから、らしい。
 しかし、2日間、11か所をまわったが、門前の蕎麦屋は、なかった。が、秋保あきう大滝近くにある西光寺の前に、あった。大滝を見物し、参拝を済まし(「ボケ封じ地蔵尊」の御守も買い)、民芸風な造りの店に、入る。
 十割の天ざるそばと、みそ田楽を注文。期待通り! 〆は、そば湯。デザート? さくらんぼも一緒に。すると女性が、「15分もお待たせしたと。店主からです」と。恐縮した。トイレを借りたく、開店前なのに店内に入れてもらったのだが、開店まで待たせたことを、詫びている(何と洒落ていることか)。
 鮮紅色のご利益をいただき、帰路についた。

画像7

(西光寺)

画像8

(二代目 たまき庵)

 ことしで11年。いまでも3万人以上(2月現在)の被災者が、「日常」に戻れていない。

 「〇〇〇〇〇」の方々が国を離れざるをえなくなっているように、福島のひとたちは、故郷(くに)を離れ、いまだに戻れない人たち、戻ることができても、「群青」の故郷ではなくなっている人たちもいる。
 その現実を機会あるたびに、想いおこし、考え、支援するきっかけにすればいい、と思っている。
 地震や津波は、防災施策で防御できることもあるが限界がある。天災である。しかし、東日本大震災が他の大震災と異なるのは、人災の側面もあることだ。つまり、福島第一原子力発電所の事故である。原発事故がなければ、多くの避難民を出さずに済んだ。彼らは、津波では助かったひとたちだ。同様に、「〇〇〇〇〇」のひとたちも戦争という「人災」の被害者である。人災であれば、ともに防ぐことができるだろうし、避けることもできたはずだ。しかし、現実は、「理不尽」そのものである。

 思想家として、機会あるたびに、われわれに考えるヒントを与えてくれた、(冒頭の)内田樹氏が、「アエラ」の取材に答えている。その彼でさえ、答えを持てないでいる。断定できない難しさを感じる。

 最後に、震災で離ればなれになった仲間を想って作られた合唱曲、『群青』を。
 この曲は、福島県南相馬市小高おだか中学の震災翌年の卒業生が仲間を思いやった「つぶやき」や「書き留めた言葉」を、小田美樹教諭が詞にまとめ、作曲した。
 実は、早大オープンカレッジのエッセイ教室のあるクラスメイトが都内の合唱団団員で、東京・府中で催された発表会でこの曲を唄った。小田先生もいらっしゃっていた。

 作曲の小田美樹先生も映っています。24分と長いですが、伝わるものがあります。

『 群 青 』

ああ あの街で生まれて 君と出会い
たくさんの想い抱いて 一緒に時を過ごしたね
旅立つ日 見える景色は違っても
遠い場所で 君も同じ空 きっと見上げてるはず
「またね」と手を振るけど 明日も会えるのかな 遠ざかる
君の笑顔今でも忘れない
あの日見た夕日 あの日見た花火 いつでも君がいたね
当たり前が幸せと知った 自転車をこいで 君と行った海
鮮やかな記憶が 目を閉じれば 群青に染まる
あれから二年の日が 僕らの中を過ぎて
三月の風に吹かれ 君を今でも想う 響けこの歌声
響け遠くまでも あの空の彼方へも 大切な全てに届け
涙のあとにも 見上げた夜空に 希望が光ってるよ
僕らを待つ群青の街で ああー
きっとまた会おう あの街で会おう 僕らの約束は
消えはしない 群青の絆 また 会おう 群青の街で

 noter仲間、アルプ・スナフキン氏のこの曲から始まる記事につなげます。

ヘッダー画像
(昨日の朝日新聞の見開き広告)

 ヤフーとLINEの共同企画で、昨年から始めた「3.11に検索すれば、10円寄付できる」キャンペーンを、今年もやっていましたね(終了)。(ちょっと「10円」ってのは、と思うけども・・・、それでも昨年は、12,000千件弱が集まったようです。私も、ポチっと。昨日の朝時点で8,000千件でした)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?