見出し画像

資本主義とキリスト教と日本人の法意識

この話は既にご存じの人が多いとは思いますが、一応話のステップとして触れておきたいと思います。

(1)明治政府の焦り

・以前の投稿でGHQがやるより以前に「明治維新が日本の伝統的価値を壊した」と書きましたが、その関連の話です。明治新政府はとにかく焦っていたのです。何故かと言うと不平等条約の撤廃です。このままでは列強にいいようにされてしまう。国民生活よりも国家安全保障が重大事だったのです。
徳川幕府を解体させ天皇親政を復古させたのまでは良かったとして、法体系(特に憲法)を列強が承認できるようなものにする必要があった。そのため、明治政府は短時間に独仏の法典を極めて模倣し、六法を作りあげた。極めて優秀な頭脳による猛烈な作業であったのは間違いないが、問題は従来の伝統的思想からは隔絶していたことにありました。その中でも特に問題なのは、西洋のバックグランドにはキリスト教があったため、強力な一神教信仰化体制の構築しようとしてか、天皇を神のような位置に置いてしまった。憲法のアンカーとなる何か歴史的で絶対的価値が欲しかったのではないかと思いますが、無理繰り作ったので、恐らく民衆の支持は十分無かったろうが、シナをやっつけ、ロシアをやっつけたことで神格を得るようになったのかもしれません。おかげで、キリスト教由来の資本主義は輸入できたように見えました。
一方で、福沢諭吉らは「和魂洋才」を唱え、注意を促していましたが、洋才には洋魂がその根っ子にあった。宗教、特に一神教への理解が不足していたので、知らず知らずのうちに和魂と洋魂のカオス状態に飲み込まれてしまった。

(2)資本主義の主な概念はキリスト教由来である。

①契約:
・「旧約聖書」「新約聖書」というぐらい、「契約」はキリスト教の根幹です。それは「絶対」である点が日本人の「約束」とは異なる。
・日本人の「約束」は属人的(=非客観的)で人間関係がベースにある。つまり、人間関係が変われば「約束」が変わる。「後でとんでもないことをした奴との約束」は変わることがある。「そっちがその気なら、こっちはこうしてやる!!」って。
・資本主義の「契約」は元々は神との約束。これは絶対である。神が「皆殺しにせよ!」とおっしゃるので、イスラエルの民はカナンの地で平気で皆殺しをしたのである。ローマ法王が「異教徒は人に非ず」というので、インディアンは殺戮されたのである。今の倫理ではとんでもない事ではあるが、神の契約(一方的ですが)を実践しなければ、彼らが神から皆殺しにされかねないのであった。宗教とはげに恐ろしきものです。(申命記第8章にそう書いてある。)

・資本主義の「契約」はそのような神との契約がベースにあるので「絶対」意識がかなり強い。少なくとも客観的であり、かつ人間関係から独立している。だから後でとんでもない奴に変わっても契約は変わらない。事情変更の原則も通じない。キューバに米軍基地があるのも、この契約観念と無関係ではないでしょう。「約束は約束」というわけですね。

少々余談ですが、契約に関して『日本人の法意識』(川島武宜)に面白い具体例があるのでご紹介します。この本は古いので、少々の違和感は目をつむって下さい。

ーーーーーーー
(例1)大東亜戦争中、農家に買い出しに行った大学教授夫人が次回の作物を予約した。次回行ってみると農家は「欲しいという人がいたのであげたためもうない」と悪びれずに答えた。夫人が「約束が違う」と文句をつけたが暖簾に腕押し。後に農家は「大学教授夫人と言うのは怪しからん、。手付も証文もないのに約束したと言って私を責め立てた。」そこでは農家の方が村人の支持を得ていた。
・つまりただの合意では十分拘束されない。(証文、手付があれば別)
・そしてもっと親密な人となら拘束力はより強い。⇒拘束力があるような無いような合意になっている。

(例2)地主小作人関係:家長的恩情⇒不確定・不定量の義務関係

(例3)大工の棟梁と施主の建築請負契約関係:一応代金は決まっているがたいてい高くなる。(厳密には請負ではない)

(例4)官庁と建築会社官庁側(甲)の義務は確定的ではない(甲側の事情で変動可)。甲の義務は甲の任意。要は確定していない。請負側(乙)の義務も不確定。工期の約定も一応。しかし、双方とも不満はなく、むしろ固定的確定的にすると融通性が損なわれ不安を感じさせる。融通性が重要で、争いは話し合いで円満解決することを優先する意識

(例5)身元保証契約現在でこそ少なくなったが、家内奉公人・家内従業員から大企業に至るまで被雇用者に行われていた。多くの場合は身元保証人の義務は不確定であった。「一切ご迷惑相かけまじく」という形式。字句通り解釈すれば無限責任だが、通常はそんな無限責任を双方とも期待していない。コトが起きたら、改めて話し合って問題解決を図る事のみが期待されている。裁判所判例も「保証人の責任は個々の具体的事情に応じてさだめるべし」としていた。その後「身元保障法」が昭和8年に制定され、2020年4月に民法改正があった。

(例6)誠意条項:「紛争が生じた時は、誠意をもって協議する」は欧米ではまず見ない。欧米ではその代わりに仲裁条項がある。
ーーーーーーー

②法律全般:
『日本人の法意識』から表現を戴くと、

【西欧】
・「当為(規範)」と「存在(現実の社会生活)」は対置され緊張関係にある二元主義。例えば、神vs人、霊vs肉。少なくとも意識の上では当為と存在の二元対立はある。
「Fiat justitia, ruat caelum.」(正義を行うべし、たとえ世界が滅ぶとも)

【日本】
・神と人は対立するどころか同一視されている。(死んだら靖国へ、菅原道真は死後に天神様となる)
・人は神の創作物ではなく、神の子孫。同じ血を引き継いでいる。
・そして、現実との「妥協」は融通性があるとむしろ評価される。「交通違反」の手心。売春取締法、パチンコ…。

憲法が変わろうがこのような法意識はすぐには変わらない。

③労働:
・欧米人の元々の労働観は「労働は悪いことで苦しいこと。」しかし、パウロは布教に際して禁欲(何かを止める禁欲ではなく、何かをするために他は止める)を求めた。それが修道院のテーマになり、結果修道院は儲かって力を持つようになった。(実はこれが堕落の始まりではあるが)。これが修道院の外に流出して、労働が救済の手段となった。但し、「悪いこと、苦しいこと」という意識はそのままなのでイヤイヤ感は抜けない。
・日本では天照大神自身が労働されている(機織り、田植え)。エデンの園でのぐうたら生活は楽園ではない。(最近変わって来ましたか?)
・これも少々余談ですが、「プロテスタントの倫理が資本主義の精神を育てた」というマックス・ヴェーバーの有名な説がある(厳密には循環論だという説もあるが、それはともかく)が、そこで言われているプロテスタントの倫理と言うのは、日本人にぴったりする様にも感じています。

④内外別建
・キリスト教には外形的規律がない。求められるのは「心の中で信じること」だけ。そう、信じる者は救われる。つまり、外からでは、ほんとにキリスト教徒かどうかはわからない。
・ユダヤ教もイスラム教も外形的規律がある。5回お祈りをしろだとか、お祈りの方法もこと細やかに決まっている。
・イスラム教の世界ではイスラム法が優先される。契約は神のご意志で簡単に守られないのは有名な話。
・ちなみに仏教も本来は修行が必要だったのだが、日本では心の中で念仏を唱えるだけで良くなったし、浄土真宗では「余計なことをするな、ただただ阿弥陀の絶対的救済を信じるのだ」という。なので、日本では浄土真宗が一番寺院も信者も多い。それもダントツ(^^;)
そういう意味では、日本も資本主義と少しは相性が良かったのかどうか。

(3)日本人の法意識

・日本人の法意識は日本という国の歴史の中で育まれてきたもの。明治維新で資本主義を含む西洋「技術」を取り込んだが、和魂洋才のつもりが、知らず知らずのうちに洋魂も取り込まざるを得なくなった。
・前出の『日本人の法意識』の表現を借りると、資本主義や近代法の基本的な用語・観念・論理・思想が西洋的であった。国民生活の大部分(農村・山村・漁村)では西洋思想が想定した生活秩序とは異なっていたため、大きなずれが生じた。法律やルールを作っても、それが現実に行われるだけの「地盤」がない場合は、法律は社会生活を規制する機能は果たせない。そこには「地盤」が大いに関係する。

従って、資本主義も日本に入ってくれば、どうしても日本Tasteが混じってしまい、鵺のような資本主義になる。それ自体が悪いことではないように思う。グローバルスタンダードとか言って、それを無理やり欧米流に軌道修正するのもどうかと思います。仏教も儒教も、ラーメンもパスタも日本化して血肉化した日本人ですからね。

(4)本質的な問題

より本質的な問題は、このブログでは繰り返しになりますが、日本人としての真善美の判断基準・規範が見えなくなっていることなのでしょう。明治維新で壊され、GHQ壊され。その西欧もニーチェ以来のニヒリズムを引きずっているようだ。
判断基準・規範は法意識と密接に関わっていて、それも指導層の意識だけが問題ではなくなっています。各個人がグローバルに発信できる手段(デジタル的検閲はさておいて)を手に入れたネット社会ではより多くの個人の意識が合意形成に関わってきます。そんな法意識は慣習と同じで長い時間をかけて共同体の中で育ってきたものであるだけに簡単には代用が効かない。
何も江戸時代に戻れという訳ではないですが、昔から日本人が育ててきた判断基準・規範を思い起こす必要があるのではないかと思っています。このブログを書き始めたきっかけもそういう思いからでした。
東日本大震災で世界が驚嘆した日本人の行動。普段はかくれていた昔からの判断基準・規範・価値が大震災と言う未曽有の出来事で表面に現出したのだと私は思っています。