無題

過去は変えられるけれど未来は変えられない。「それ逆では?」に応える

過去は変えられない。失敗は取り戻せない。でも後悔しても何も始まらない。でも悔やまれる。そんな思考をめぐらせてすっかり参ってしまった後輩を何人も励ましてきた。

率直に言おう。過去は変えられる。変えられないのはむしろ未来だ。私の知る限りでは実業家・斎藤一人さんやキンコン西野亮廣さんが「過去は変えられるけれど、未来は変えられない」と語っている。普通は逆の発想になりがちだが、そうとは言えない。

過去をめぐる真実と事実。変えられるのは「事実」

過去は、僕たちの記憶と各種記録をメインに形づくられている。「真実」ベースで過去を操作することはできない。でも「記憶」、もっと言えば「過去の捉え方」「理解の仕方」は変更可能だ。

例えば、過去の苦しかった経験をあなたがSNSで発信し始めたとする。やがて共感が集まるようになり、発信者としての力も得、結果、あなたが多くの人に勇気を送れるようになったとしたらどうか。過去の苦しみの価値は一変する。その過去は事前事後で同じとは見做せないだろう。また各種記録だって新たな証拠や歴史文化財等の発見で事実がひっくり返ることがある。実際に起きたこと=「過去の真実」は不変であっても、その出来事のごく一部が刻印された証拠や文化や記憶、つまり「過去の事実」は解釈次第で意味が変容する。

僕は幼い頃4年にわたりイジメに遭った。でも今は「いじめられたからこそイジメに悩む友のそばに寄り添って安心を共有できる」と感じている。その過去は感受性を豊かにすらしてくれた、と。

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僕は、若かりし頃に精神隔離病棟に入院もした。大病も患った。当時は新聞社の若手記者で登り竜の勢いで力をつけていた時期でもあったから、挫折はつらかった(つらいというか「死にたい」と100万回くらい思った)。同僚や後輩がスキルを身に着け昇進していく一方、僕は何もできない。能力も成長願望も衰減し、活字中毒の僕が3年間読書すらできず「人間のクズ」「生きていても無意味な穀潰し」と脳内反芻しまくっていた。でも(詳述は避けるけれど)今はそんな過去もセルフブランディングの武器になっている。様々な要因に影響され、また自らの心境や環境の変化によって、過去はやはり「変わる」。

未来は変えられない。「変えられる」はあり得ない

ところが、未来は変わらない。操作できない。というか、未来は現在の延長でしかない。「未来」は「現在」あなたが採っている生き方の反映で、それ以外はあり得ない。未来はまだ来ていない=存在していないのだから。仮にAからBに変わる、といった仕方で未来の変更を想定したとしても、Aという未来自体がそもそも存在しないのだから。「A→B」はあり得ず「AかBか」になるのである。

つまり未来は「AorB的に選ぶ」ものなのだ。未来は変えられないが、選べる。いま現在あなたが何をしているかで未来は決まる。変えられるとしたら未来ではなく現在の振る舞いの方だ。偶然的な出来事で、確実視された未来が変化するように感じられることもあるかもしれない。でもそれは「変わった」のであって「変えた」のではない。世界名言集などで時折紹介されている鎌倉仏教僧・日蓮の言葉を紹介したい。彼の「開目抄」という著作に「欲知未來果。見其現在因」とある。「未来の結果を知りたければ、現在の要素要因を見なさい」と。

大事なのは「今ここ」をどう生きているか

これらを踏まえると、未来のビジョンや構想をあれこれ練るよりも、現在何をしているか、何を考え実行しているかが(超×3くらい)大事だということが見えてくる。先程確認した「過去を変える」という営みも、もちろん現在の振る舞い如何による。現在のあなたの変化が、過去の解釈を変える。つまり「過去を変える」のも「未来をより適切に選択する」のも「今ここ」のあなたにかかっているのである。

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文学者・加島祥造は「ヒア・ナウ(今ここ)だけが本当の現実なんだ」「このヒア・ナウに熱心ならいい。老い込んだ気持ちでいるなら若くても年寄りだよ」と語った。今ここに熱心になれない人は、豊かさや幸福を「外部」に求めるようになる、と。

極言すれば「過去」も「未来」も「現在」からすれば「外部」にすぎない。過去や未来をどんなに思い煩い思考しても、価値は生まれない。今ここで何をするか、何を始めるかに圧倒的な価値の源泉がある。

とはいえ過去に盲目になり未来を慮らないのは愚

ただし、現在が大事だからといって過去や未来に無関心になってはいけない。過去を知り、未来を想像することは大切だ。

過去というと歴史を想起する人も多いだろう。歴史に「もしも」は禁物だと言われる。過去の文脈に「もしも」を仮定したところで、確かに今という現実が変わるわけではない。だが「現在から見て誤りとみなせる過去の判断」をきちんと反省し、その判断をより良いものに差し替えた時にどんな「今」になっていただろうかと想像することは、けっこう大事な営みだと私は思っている。

政治家ヴァイツゼッカーが「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目になる」と語ったことは有名だ。この箴言の意味を鮮明化するものこそが「反省」である。

おととい以下の記事を読んだ。

筆者の栗原俊雄さんは「『もしも』は為政者たちの判断ミスや不作為をあぶりだす、有益な思考実験にもなり得る」との信念で、かの大戦を始めてしまった大日本帝国の判断に「もしも」のさし挟みを試みた。詳しくは記事を参照してほしいけれど、その中で述べられている通り、当時の日本が現実的な落とし所として想定していたのが「講和」だった。もちろん講和にも条件が必要で、「ここまで段階を踏めたら講和に持ち込もう」という箇条はさすがに日本も決めていた。ただそれはあまりにも度が過ぎた妄想、具体的には「ドイツがイギリスを倒すに違いないという希望的観測の上に、イギリスが戦線離脱すればアメリカは戦意を失うだろうという空想を重ねた構想」(趣旨)だった。

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私だって、本件については思うところがある。
・ミッドウェー海戦の大負け時点でもし講和条約締結に持ち込めていたら?
・木戸幸一や吉田茂等の講和交渉の端緒がうまく開かれていたら?
・近衛文麿の天皇提言や幣原喜重郎、井上成美、高木惣吉らの研究動向が目的的に奏功していたら?

「そんなの無理だろ」という声が聞こえてきそうだが、上記栗原さんの記事は、そもそも終戦構想がしっかり立てられていたら戦争は回避できたのでは? という大胆な「もしも」を仮定し、その仮定と結果の比較から「(解答は出せないものの)為政者は時として国民全体の利益より自分が属している組織のメンツあるいは利益を優先するということであり、またその結果取り返しの付かない間違いを起こす」という信憑を手にした。そしてこう付言した。

「そのツケは、国策決定に関わらない市民に広く長く押しつけられる。蜃気楼のような終戦構想で310万人もの同胞を失い、今にいたるまで戦争、敗戦の後遺症を抱えている私たち国民が学ぶべきは、そういうことだと思う」

100万回「死にたい」と思ってきた僕が言いたいこと

過去に目を開き、未来のビジョンを描きながら、しかし生き方の軸は「今」に定めて最善の行動をとる。今ここを丁寧に生きることで、過去の意味を良質化し、未来のビジョンをしっかり選択できるようにする。もしあなたがこうしたスタイルを採るなら、選べる未来は豊かになるかもしれない。

もちろん、何度も過去を振り返り「あの時ああしておけばよかった」と思いをめぐらせることが無価値とは思わない。100万回「死にたい」と思念した僕が断言する。考えて考えて死ぬほど考えると、「死にたいと思うのが疲れる」という状態になって、次への一歩が踏み出せることがある。しかもその疲労感は意外にも歩みの確かさを裏づけてもくれる。また、未来の夢をあれこれ膨張させまくって楽しく妄想にたゆたうことも時に必要だ。それが未来のビジョンを豊かにする素因になる可能性があるから。

その上で、過去や未来への没入を価値最大化するのが「今ここを丁寧に生きる」スタイルであることを本稿では確認しておきたい。

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