無題

政治に強い関心を持つ人同士が食い合うのいい加減やめたい。

先日ごあいさつした室井佑月さんの『この国は、変われないの?』を読んだので、感想をここに書く。室井さんとは政治信条も意見も政治関与の作法も異なるけれど、彼女は端的に「大切な態度」を示している。それは、右派・左派・リベラルなどの括りで雑に回収してはならない「民主主義にとって大事な態度」なので、ここでそれを提示したい。

「あたし」が自主的に表現することの意味

まず結論。「民主主義にとって大事な態度」とは何か? それは「自らが自治意識を持って自主的に自分の意見を述べる」という態度である。別言すればそれは、「私が政治の自治を担っている」という意識に基づいて「自分で考えて出した答えを自らの意思にしたがって表現する」という姿勢をいう。室井さんはそうやって生きている(と私は感じる)。

彼女は同書で「私はこう思う」という意見を陳情ぎみズバズバ書いた。自らを指す人称に「私」でなく「あたし」を用いているのも好感が持てる。彼女の文章を読み始めると、「あたし(ゃ)こう思うんだよね~」という室井節が私の脳内で炸裂する。きっと社会学者・宮台真司さんで言うところの「任せてブーたれる」という態度でなく「引き受けて考える」を地で行っているからそういった息遣いが聞こえてくるのだろう。

付言するが、「任せてブーたれる」とは「選挙等で選んだ代表者に『あとはお任せ』的に政治自治をぶん投げて、いざ失敗すれば文句だけ言う」という態度を指す。「引き受けて考える」は「自身が政治の主権者であるとの自覚のもとに、社会問題を自分事として考える」態度だ。国は私とあなたで自治する、という自覚みたいな。

「依存的」であることは基本的に民主主義にとって良くない。「あとはお任せ」では十全に機能しない。これは、政治思想家で自ら政治家でもあったアレクシ・ド・トクヴィルが昔から指摘してきたことで、今でもこれに多くの識者が同意している(というか異論のある人っているのかな)。トクヴィルは「自主」といった意味合いの態度の必要を頻繁に語った。政治参画の「アクセル」としての機能を期待して。

と同時にトクヴィルは「個人的な自制」についても語った。「公益に照らして、個人の欲望と好みを抑えること」の大切を訴えた。「こうした方がいい!」という個人の思いが、共同体的には「そうは言っても、それだと困る人、出るよ」となってしまうことが、自治においてはよくある。そんな時に「理想的にはこうしたいけど『みんな』のことを考えると、うーん、妥当なところでここらへんに落とし込むかな」と「ブレーキ」が踏める自制心を持つこと、これがトクヴィルの求めた態度である。

総じてこれは「アクセル」と「ブレーキ」の適切な併用の勧めと言える。

室井さんは相当程度に自主的だ。表現もしている。室井さんは「左(派)の人」と見なされることが多いらしい(同書によると)が、彼女は靖国にも参拝する。それに驚く人が少なからずいるようだけれど、そもそも彼女は「右」でも「左」でもなく「あたし」として行動しているので、彼女にとってはそれが自然なのだ。

もし仮に「左」というか、リベラルな態度を彼女が採用しているとしても、それは、リベラルな秩序について論じたジェームズ・マディソンが言うところの「人間の多様な才能の保護を政府第一の役割とせよ」(趣旨、『ザ・フェデラリスト』 斎藤真ほか訳、福村出版)という思想の「求め」なのだと私は思っている。

一方、「ブレーキ」をどこまで踏んでいるかは、彼女としっかり話をしたことがないのでわからない。

日本の政治への関心・関与の仕方が何を生むか

『この国は、変われないの?』の主たる呼びかけは、ざっくり言うと「政治に(あるいは、悩んでいる隣りの人に)もっと関心を持って!」、そして「声をあげよう!」ということになる。特に日本では、「政治に無関心」、いや、もっと正確に言うと「投票行動にまで至らない」人が増えれば増えるほど、確定的な組織票を持つ政党(自民党とか公明党とか)が安泰さを確保できる状況になっている(よく言われることですね)。選挙日に雨が降ると、組織票を持つ人たちは「ラッキー」と思ったりする(実際ちょくちょく見かけた)。なぜなら「有権者の足が雨で遠のけば、投票率が下がり、相対的に組織票の威力が増すので、自公などが勝ちやすくなる」からである。

ちなみに今の自公政権なら、国民の3割の支持をガッチリ固められれば、有権者の7割が反対する政策でも強行できてしまう(思想家・内田樹さんの受け売り)。7割がまとまりを欠いていれば、特にそうなる。

こういう状況が健全だと私は思わない。

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投票に行かないという行為は事実上「自公を支持する」結果につながってしまう。政党云々に限らず、それは政体として不健全だ。だから(だと思うが)室井さんは「アテンション」機能を担おうとしている。政治においては、一党の政策が事実上「必然的に選ばれてしまう」政体より、可能性ある選択肢が多様にあった方が望ましい。オルタナティブというか、代替案を示したり、「案」とはいかないまでも問題提起に努めたり、あるいは愚策を否定したり、という作法が政体に含まれていた方が良い。もちろん、大衆の関心が高まればなお良い。

室井さんは、そういった関心喚起機能と「代替」を提示する機能を担っている(はず)。『この国は、変われないの?』はオルタナティブというより「カウンター」っぽいけれど。

君の意見に反対! でもそれを言う権利は守るよ!

ここからは理想めいた話。でも、とても大事な話。

先に引用した政治学者トクヴィルの言う「民主主義に大事な『自主的な個人』」は、どうしたら生まれるだろうか。一つ大切にしたいのがヴォルテールテーゼ、「私はあなたの意見には反対だ、だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という態度である。本稿にひきつけて表現すれば「室井の言うことは酷すぎる! マジでヤバい! でも彼女がそれを主張する権利は尊重しよう! 命をかけても」みたいな発想だ。これだけは、右・左・保守・リベラル・中道、どんな立場の人であっても(立場を自認しない人であっても)保持したい。

Twitterとかでたまに「その程度の知識でモノ言ってんのかよ! 発言の資格ねえよ!」みたいな呟きを見かける。内容の是非を問うのは良い。でも、発言権云々を言うのは、やはり良くない。その人は、「100%完璧な知識に基づいた発言でないと許さん」というところまで通じそうな理路でガンガン批判を繰り出している。それは、民主主義の足場を壊す行為だ。「あなたみたいに知名度があって影響力のある人は、そういうことを発信すべきではない」みたいな意見も、よくよく考えた方がいいと思う。

「100%完璧」でない、不明も含まれるであろう意見も「尊重しよう」という態度は、とてもとても大事である。もちろん「うぇーい。表現の自由だぜー」といって「ヘイト」を垂れ流すのは愚だ。節度が求められるのも当然である(が、節度の議論はここではしない)。

とはいえ、可能な限り気軽に、構えずに、井戸端会議的に政治について語れる環境を作りたい。そういう共同体を模索したい。政治にコミットしすぎて「いつのまにか政治に忖度しないとやっていけない状態になってしまった」依存的共同体ではなく、自主的な共同体を作る。しかも「共同体」といっても、カッチリした組織から、カフェでやんややんや語らう学生の集まりみたいなものまで、色々なものを含む。

気軽に自由に語れる場を作れないか。カフェとか

「熟議民主主義といえばこの人」とも言われる哲学者ユルゲン・ハーバーマスが、まさにこれを目指した(ちなみにハーバーマスはアンシャン・レジーム論でも有名で、それは『アンシャン・レジームと革命』を書いたトクヴィルにも通じる)。ハーバーマスは、例えば「カフェ」に着目する。「私人ひとり一人が持続的に討論できて、それが『つながり化』する場所」の例としてハーバーマスは「カフェ」などに着目し、まさに居酒屋談義? のごとく政治について喋る場の必要性を説いた。その「場」に必要な要素は、「地位などに関係なく自由に気軽に平等に喋れて」「それまで『普通でしょ』とされていたことも問題化できて(ヴォルテールテーゼに関連する)」「開放性が高くて、誰もがそこにアクセスできる」の3点だ(私の勝手なまとめ。参考:ハーバーマス『公共性の構造転換』細谷貞雄ほか訳、未来社)。

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そういった場がそこかしこにできることで、民主主義は機能を豊かにすると考えられる。カフェであっても、スーパーの駐車場であっても、喫煙所であっても、Twitter上であってもいい。「平等に」「自由に」「気軽に(でも礼節をもって)」「ラディカルな問いを立てる権利も保障される」のであるなら。この意味で室井さんのかの本は、「あたしはさ~」といった敷居の低さを感じさせながら、色々文句を言われながらも「まず言う」という態度で、しかもリアルな場でも討議を促している点で良い試みだと思う。

作家は嘘つき? 否、嘘の奥ゆきを知っている。それゆえに嘘に敏感

室井さんはズケズケ言う。かなり大胆に想像を膨らませて意見も言う(ちょっと暴走してる感を抱いてしまう時が、わたし的にはあるけれど)。でも彼女は、その元になる情報の事実性を高いものにしようとしている。嘘を忌避している(失敗はするが。人間だもの)。その意思は強烈だ。もしこの意思もなく手放しで「まず言う」を万人に許すと、それはそれで問題が起こるので、考えなければならない。

小説家・村上春樹さんが言うように、作家は「嘘(フィクション)」を創成することを生業にしている。大抵の嘘は「許されざるもの」とされるが、「小説家の嘘はなぜ許されるのか?」の問いに対し、村上さんは「真実を新しい場所に運び出して、それを新しい光で輝かせるのです」「隠れているところから真実をおびきよせたり、真実をフィクションの場に移したり、真実をフィクションの形と置き換えることによって、真実のしっぽを捕まえ」ようとするから受容される向きがあるのだ、と語った(あの「壁と卵」のスピーチで)。どういうことかというと、作家が感じ取った真実を、世間的な既成とは別の角度から照射するのがフィクション小説の役割で、むしろファクトの「ファクトさ」を補強するものとしてもフィクションは機能し得る――だから是とされる、という意見だ。それが小説の持つ「力」なのだ、と。

私が注視したいのは、この「作家が持つある種の『嘘』への特異的意識」である。特別、「嘘に敏感」とも言える。村上的な作家は、フィクションを可能な限り真実に根ざしたものにしようとするだろう。でなければ、フィクションは「嘘」化する。完全な創作であっても、それが真実の換喩で、真実を言いあてようという意思は持つべきだというのが村上さんの思想なのだ。それに同意する作家なら当然、ファクトに対しても厳正になる。

カフェみたいなところで自由に語らう世界。健全な民主主義が実現される世界。それは、間接民主制においては「政治家は国民の代弁者で、われわれの思いを実現してくれる」という強い信託とともに、「政治家といえどもさすがにこんな嘘はつかないよね」という信にも基づく(たぶん後者に近いテンションの人が割かし多い)。政治家が「自ら(自分たち)の利のためだけに国民を欺く」という仕方で嘘をつくようであれば、民主制の機能は壊れる。「国」発表の情報に嘘がまざれば、国民は議論のまともな素材も得られない。そうなれば、民主主義は壊れる。

もし室井さんがそういった事態の芽を看取しているのだとしたら、「嘘」に対して「作家・室井」なら「やむにやまれぬ情動」を伴わせながら声をあげるだろう。国民としても、健全だ。私は、彼女の言説に注目している(Twitterもフォローしていて、めちゃ読んでる)。われわれは彼女の声に真摯に耳を傾け、そこをフックにしつつ(当然、別のものをフックにしても良い)互いを尊重しながら話し合いを持ち、そんな場を増やして、そろそろ「戦後民主主義」という茫漠とした幻想から脱出すべきだと私は思う。

そういう理想を、私は持ちたい。もし、節度なきヘイトみたいな発信をする時があれば、諫めればいいし。

室井さんは、そんな私の情動を再起動させてくれた。ありがとうございます。


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