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週間レビュー(2022-9-4)_デザインという力の矛先は、22世紀に向けてどこに向けるべきなのか。

今週は論考と雑記だけ。デザイン対して考えていることがかなり言語化されてきて、取り組みたいことやりたいことが見えてきた。

デザインという力の矛先をどこに振るうか?

デザインが何らかの「課題解決の方法論」や「社会姿勢」なのだとしたら、22世紀に対して、デザインが解決するべきものは何だろうか?どのように社会を捉えてデザインという力を行使するべきなんだろうか?

ここ半年はこれからは誰のためにデザインをするべきなのか、「デザイン」という個人的には資本よりもある意味暴力性のある能力をどの領域に対して行使していくのか?ということにずっと悩んでいる。
社会環境や地球環境、国際秩序、生命価値、近代倫理が揺れ動こうとしている現在地で、若者という役を強制的に与えられており、そして何らかのデザイナーとして振る舞おうとするとこの問いを持っている人は多いのではないだろうか?ましてや社会性や公共性、場所への効力のようなベクトルを強く持っている建築出身のデザイナーだと尚更ではないだろうかと思っている。

関連して、パキスタンの現状は本当に苦しい。
日本ではあまり報道されていないが、日本と同じAPに属する国家が、戦争でも内乱でもなく「気候変動という人類の欲望が生み出した悲劇」によって国家が衰退に追い込まれている。国家自体が気候変動によって消えざるを得ない、解体されざるを得ないということが発生するのも間近なんだろうと思う。人間の欲望のベクトルは内発的には変わらない。特に先進国のような国家の富裕層ほど難しいだろう。
(支援先を貼っておきます。パキスタン国立銀行

事実、国連防災機関(UNDRR)の「自然災害の世界評価報告書」では「自己破壊の連鎖」という表現を用いている。(この表現はなかなか考えさせられるものがある)
そして気候変動による災害の激甚化に皺寄せはインフラの整っていない途上国から侵攻する。特にアジア太平洋地域の損害額はGDPの1.6%と最大である。これらの被害は途上国から始まり、先進国であっても貧困層がどんどん増えることは間違いがない。また気候難民の問題もどんどんと露呈していく…このような気候や環境変化から人間を守り、そしてその中で文化を育もうとすることがおそらく建築の始まりであったはずだ。初めから人類は社会や地球、生命とより良い関係を築くためにデザインを心がけてきていたのだと思う。

結局のところ、22世紀までのこれからの社会で生きるというのは現在が最も安寧で、そして未来はどうしようもなく人間にとって過酷にならざるを得ないんだろうと思う。気候変動か国家間の戦争、感染症などの個人の理由や選択ではない要因で死ぬ可能性の方が明らかに高い。そのような、これからを見据えて、何に対して人類として命を使うべきなのかを考えるのは苦しいが、その苦しさに向き合わねば人間である意味はないのかもしれないとすら思う。

ともすると、デザインの力を発揮する方向性は3つ程度あるのではないかと考えている。

①個人的作家性の拡張、技術革新、体験拡張のためのデザインの行使

これは現状の建築的な理論、意匠的理論の範疇にあるものなのかもしれないけれど、大きく「人にとっての新たな体験や感動を作る」という行為のためのデザインだ。住宅の設計/美術館の設計/図書館の設計などのオールドなビルディングタイプのフォームを弄り、新たな技術を導入したり使用したり、文化的価値を考えて、空間体験自体を最適化させていく行為である。これらを意匠設計、またはビジネス界隈のいうクリエイティブというのかもしれない。新たなテクノロジーを用いた新たな表現や体験価値の創造なども大きくこの領域に組み込まれていく。
しかし、本質的な課題解決に対し愚直に向き合っているというよりも文化的な更新の側面が強く、ひいては娯楽的でエンタメティックな意味合いも強い。加速する条件がない場合は愚直に③を整えた方が良いと個人的に今は思っている。

②経済的価値の維持向上のためのデザインの行使

空間構築は総じて、何かしらの価値を育むための前提条件を作ることができる。ゆえに、あらゆるデベロッパーやスーゼネなどは経済価値に加えて、人類社会を円滑にまたは生活向上させるためのデザインの力の行使である。これらは総じて事実上は虚構のデザインである。あらゆるイノベーションセンターなどは何のために存在するのか?イノベーションに基準などないが、新たな未来を作りそうな虚構のデザインやプロダクトを見つけようとしなければ起業家や投資家などは資本の使い道がわからず、寂しさを紛らわすことができないからとも考えられる。経済社会とはつまり人間が円滑に社会を構築するための虚構であり、虚構を形作るためにハードデザインを与えるのが建築の役割性となっている。
②はある意味で重要かもしれないが、虚構が壊れた時、紙切れほどにも価値はなくなる。磯崎新が大都市東京は廃墟であると謳った理由と同じである。なので、新たなストラクチャをデザインするという行為に発展する必要がある。

③新たな社会的弱者のためのデザインの行使

社会的弱者は経済理論から生まれる今まで「格差」だけではない。気候変動により土地を奪われたり、文化欠損が生まれたりすることにより生まれる新たな格差も発生するはずだ。また、国家システムや政治体制、国家間の軋轢など新たな力のリバランスによって弱者とならざるを得ない存在も必ず発生する。というか事実発生している。「22世紀は気候変動か国家間の戦争、感染症などの個人の理由や選択ではない要因で死ぬ可能性の方が明らかに高い」という事実に対して、どうにかできるかはわからないが、住居や都市という人類が生きる上で、誰もがこれからを生きようして、考えようと思えるような、その前提となる場所はデザイナーによって作れるはずである。(空間の人権とも言えるのだろうか?)今週、ハビタットさんと会話した時にもそのような話をしたが、さまざまな日本のビジネスプレイヤーが公共性に対して意識が向きつつあるのはこの辺りに嗅覚が効き始めているからだという。

しかし一方でこれは、草の根的なアナキズム的な社会抗力として力を発揮することはあれど、社会変革まで進むかというとなかなか難しいというのがNGOの経験上分かっている。

①②③全てのベクトルに対してデザインの力は発揮できるのだけど、大事なのは優先順位ではないかと思う。好奇心は活力として重要だがワークとするにはひどく欲望的になり、こだわりを持ち始めると加速を覚えると止まらず、視野狭窄を免れない。これはデザイナーが陥りがちな罠である。
もう少し建築を学びつつ考えたいが、これからは③のベクトルに進まないといけないことはかなり明らかな事実な気がする。

ドバイが構想している新たな都市計画を見ていると課題は課題を生んでいることを突きつけられる。あれは乱立する高層都市が解決できない問題を解決するための計画であるが、高層ビルも当初は人口過密による課題を解決するための発明だった。しかし高層ビルの課題はまた新たな課題をうみ、そして新たな課題を生み出す…課題は延々に生まれ続ける。では課題解決のためのデザインとは何の意味があるのか、何か生命を宿そうとデザインするという行為、そして投下している時間や体力は、儚く虚しいものであるようにも思ってしまう。結局作ることに対しての快楽を得るための行為なのか。この辺りを整理したいから建築史をやりたい。

その他雑記

・基本的に怠惰である効率的な頭がない。そしてあまり所有する好まないので、先月はとりあえず貯金を半分くらいにしてしまおうと思い立って、散財してみた。すると今月はかなりやばいと潜在的に思ったのか、自分で営業してみたり、あまり繋がらないであろう人とも繋がったり、結果的にチャレンジングな仕事や良い結果が増えたような気がする(笑)何かを手放すとマインドチェンジするらしく、何かしら価値を生み出そうという姿勢が勝手にセットされるようなので、お金はできるだけ溜めずにいたいと思った。

・本質的なことを何も勉強せず、スタンスの提示や忖度のために新たな倫理観や考え方を押し付けようとする人々が強烈に苦手だと思った。ある展示会で重要なステークホルダーは「紙を使うな、デジタルでできるようにしろ」としきりに言う。まず脱炭素はビジネス言語ではない、体現するものである。そして、デジタルを使えない高齢者も来るし、視認性の低いものが生まれてしまったらどうするのだろう。それを言ったら紙のコストではなく会場や移動のコストもあるのだけども…など疑問しか生まれない。
そういう人に限って環境負荷の高い豪遊していたりするし、対して自分の所得を寄付に回していなかったり、気が抜けると倫理面で問題が見えたりする。一貫性のない事を分かっていてやっているのか、知識がないのか分からないが、こういう歳上に対してどのように接すれば良いのか自分は分からない。とりあえず一緒に仕事をしたいとは到底思えない。がおそらくこのスタイルで罷り通ると言うことは同じような人々が沢山いるのであろうから、どうしたら彼らが変われるのかも考えなければいけないと思う。同じ社会に生きなければならないのだから。

・赤城乳業の会長さんに会わせてもらった。本当に一人一人のクリエイティビティを信じている方で、それでいて謙虚で、自分の考えや社会解釈を押し付けることのない意見を拾い上げることのできる、高齢にして素敵な方だった。「みんなで作る方が良いものができる」という考えの方は自分は好きだ。名前が親からの最初で最後のメッセージだから大事にしろよと言われてその通りだと思った。

・日々忙しく過ごす離散的な家族だが、弾丸で旅行に行くことができた。本当に5-6年ぶりくらいだったけれど、母が嬉しそうで良かった。

今週は色んな人に出会ったので結構豊かな日々だったように思う。体力的にも良好、大学の前期成績も良かった。来週も頑張りたい。

表紙はミケーレの建築イメージ写真を拝借。

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