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人類と円から始まる、建築と人々の文化のための「原始的懐かしさ」について

本エッセイは筆者が17-18歳の時に執筆し、創成入試にて提出したものである。ゆえに非常に純粋な建築学への個人的動機と思想が垣間見える。


プロローグ

私が建築に興味を持ち、建築に自分の人生を投じようと決意した原因は何であろうか。 これに対して回答するのは、以前は非常に難しかった。なぜなら私は、「誰々の建築に影響を 受けたから」「建築を身近に感じた出来事があったから」などの特定の理由だけで建築を志し たとはいい難いからだ。しかし、最近になってようやく、自分が建築と向き合い始めた理由 が分かり、自分自身の建築に対する根本的な認識をはっきりと理解するきっかけにもなった。 
第一に、私が建築と向き合い始めたのは、建築という学問分野は単独の学問分野ではなく、 様々な学問分野の複合体であり、また学問を形として具現化する唯一の分野であるからなの だと思う。 

「政治、経済、社会、技術、思想、世相、流行、などなどの諸条件、諸領域の中から 建築は生まれてくるわけだが、そうした諸条件、諸領域のどれに対しても建築家は専 門的ではない。なのになぜ建築家が存在するのかというと、それらをまとめて一つの 形を与える人だからだ。形を与えるのが、建築家のただ1つの能なのである。」

(藤森 照信 2011.『建築とは何か』 221 貢) 

「建築活動とかなりの隔たりがあるかに思われる他の文化的な活動を、ひとつの共 通基盤に呼び寄せることができるのが「空間」という概念である。」

(原広司 1987. 『空間<機能から様相へ>』25 貢) 

つまり建築とは、単独の学問ではなく幅広い学問を統合し空間や形に変えて表現するもので ある、と両者はおっしゃっているのだ。 
またこれは、建築を学ぶには他分野を跨り興味を持ち、幅広い知識を知らなければならない ということも示しているだろう。 
そう考えると、私が建築に興味を持ち人生を投じる決意をした理由が明らかになった。 私は幼いころから将来の夢が複数あり、多分野に渡り好奇心を抱きながら成長してきた。そして、幅広く好奇心を持ちながら、自然と様々な分野が重なりあって成り立っている建築へ と意識が向いていったのだと思う。このようにして、自分がなぜ建築を志したのかを自分な りに解釈することができ、自分自身の建築観を見つけることができた。 
本稿は、自分が建築に興味を持ち始めてから、本や展覧会、日常の思考などから生まれた、 自分なりの現代建築や、未来の建築に対する意見や提案を文字に起こしたものである。この 文章を書き、さらに自分の建築観を確立することができた。 

1 .人と丸についての考察  

私が球体や円に対して構造的に、そして人間的な部分に深く興味を持ったのは『人類と建築 の歴史』(藤森照信 2005.ちくまプリマー新書)のある一節を読んでからだ。

「どうして人類の本格的住いは丸から始まるのか。技術的には四角でも可能なのに。(中略)」

(前掲書 34.35.36 頁) 

藤森照信は、この疑問の答えとして、以下の 2 つの理由を述べている。

 「1 つめの理由としては、まず実用上のことがあった。小さな空間や領域を画す時、 画しやすいのは円形で小鳥の巣も、小動物の巣も例外なく丸くなっている。四角い巣 なんてものはない。アフリカの原住民の仮小屋を見ると、拾ってきた枝を、円形に差 し掛けて、中にもぐり込んでいる。小さな空間は、作るにも使うにも円形が 1 番簡単 なのである。」 

(前掲書 34 頁)

「子どもの頃、地面に棒で線を引いて陣地を画す時のことを思い出すと、丸く画し た。人類の無意識な形は丸なのかもしれず、それが住いの平面にも現れた、とも考え られる。(中略)本当かどうかは読者の皆さんも考えてみてください。」

(前掲書 35 頁) 

私がこの文章を読んで考えたのは、円、または球体が地球上で最も合理的で効率の良い形態 であるゆえに、人類の本格的住いが丸から始まっているのならば、人類の無意識のうちにあ る本性は、機能的でストレスの無い空間を好む、非常に合理的な性格なのではないか。 さらに言えば、現代に氾濫する機能性や実用性を重視する「住む機械」としての建築は、人 間の本性に限りなく合致しているがゆえに現代で受け入れられているのではないか、という ことだ。 

しかしながら、人類が創りだした建築物の数々は、歴史的に見ても決して全てが合理的な円 や球体の形はしておらず、むしろ建築には合理精神に反するような芸術や装飾、または宗教 等の文化が深く関わっていることも多い。 
私はこの 2 つの矛盾に人類の面白さを感じ、掘り下げて考えてみることにした。


3歳児の目覚ましい発達の中で、大きい丸小さい丸、たてや横の線に託して子どもの思いを表現していきます。
キリギス族「ホゾイ」

1-1.自然界・人類と円・球体の関係性

この人類の矛盾を解き明かすのにまず確認が必要なのは、円や球体が本当に合理的で効率の 良い形であるのかどうか、そして、人間の無意識の中に存在する形は丸なのかどうか、の 2 点 である。 
まず球体の合理性について考えてみたい。 
球体は数理的に見ても非常に合理的で柔軟な形で、 実際、自然界にも数多く存在している。 例えば、太陽や地球などの惑星はほぼ球体である し、真空状態における液体も球体になる。また、炭 素の同素体であるフラーレン、珪藻植物、海洋微生 物なども限りなく球体に近い形をしており、自然界 には物質の最大・最少単位の形態の多くが球体をし ていることがわかる。 デカルトらが提唱した、「生命を含む自然は機械的 に運動する」と捉える機械論的自然観の立場からこ の事実を考えると、やはり自然界で球体が数多く使 
われているのは、球体は最小限にして最大限のエネ ルギーを生み出せる、最も合理的で効率のいい形だ からではないかと思う。 

自然界の微生物たち。限りなく 丸に近い形をしている

自然界の微生物たち。限りなく 丸に近い形をしている。 
次に、人間の無意識の中にも円や球体が確実に存在しているのかどうかについて考えてみる。 前掲書『人類と建築の歴史』の中で藤森照信は 

「幼い子供にクレヨンを持たせて絵を描いてもらうと、人も花も家も、丸く描くと いう事実。人間の図画認識は丸からはじまる。子どもの頃地面に棒で線を引いて陣地 を画す時のことを思い出すと、丸く画した。」

(前掲書 35 頁) 

と述べている。 

確かに、子どもには丸い物をよく好む傾向があるだろう。もしかしたら、子どもには「本= 長方形」「人間=縦長」などの偏見が少ないために、物体の最も本質的な部分が真っ先に目に 映りこむのかもしれず、私達が目から読み取る物体の形態は、生きながら培われてきた偏見 により構成されているのかもしれない。 
そして、子どもが丸を好み、丸は人の無意識のうちに存在する図形であることは、既に脳科 学の分野でも証明されており、形を認識する脳内ニューロンは、丸から発達していくからであるという。 
これら 2 つの事実を合わして考えると、人類の本来の性格が浮かび上がってくる。 人類の無意識のうちにある本性は、円形などの機能的でストレスの無い空間を好み、非常に 合理的な性格であるということだ。それゆえに、人類最初の本格的住居は機能的な円形を成 し、それらは現代の機能的建築の増加と認可につながっていると私は考える。 
しかし、円形のような機能的で合理的な性格の人類がつくる建築は、いつまでも円形のまま ではなく、年月を重ねるにつれて、段々と合理的とは程遠い芸術や装飾、宗教や社会背景を 混ぜ込んだ建築へと変化していったのは一体なぜであろうか。 

1-2.2つの建築の価値観

私は、建築に対する人類の価値観は、主に 2 つに大別できると考える。 
1 つめは、建築物は住むための道具であり、機能性、合理性、そして実用性を最大限追求し、 そのことを通じて社会発展に尽力するべきだとする考え方だ。 アメリカ出身のバックミンスター・フラーはこの 1 つめの建築に対する価値観を代表する人 物だろう。

 「これはアメリカのヒッピーたちが森の中でやったフラーの思想「あらゆる建造物 は球体になった方がいい、それは地球の資源を最章限に使って最大のヴォリューム を得られる」と言う原理と同じです。」

(石山修武 2010. 『生きのびるための建築』 NTT 出版.55 頁) 

バックミンスター・フラーは、建築によって人々の健康の向上と幸福な生活に貢献するには、 「自然はどのような構造」を持つのかを研究し、地球や自然の原理に建築を極限まで寄せな ければ、地球全体を見据えた人類の発展はなしえないと考えた。また彼は、人類の文明の発 展は「より軽く、より速く、より良く」、つまり合理的に、機能的に、効率的に、という欲求 に応えようとしてきたと分析し、これを著書『月への 9 つの鎖』の中で「短命化」と呼んだ。 彼は時代を踏襲する封建的な建築ではなく、科学技術に基づき、自然の原理を取り入れた建 築こそが次世代の社会発展に必要であり、有限な地球を有効活用できると考えたのだ。 
そして彼は 1928 年に、未来に対してこのような予言をしている。 

「いつかこのような時が来るだろう。個人が尊重され、調和に満ちた私たちの国家において、すべての努力は、音声によって機械あるいは体系化された四次元的デザイン を作動させるための考察と結晶化に向けられる。(中略)株式市場はますます巨大化 して、ますます機械化が進み、政治に関する選挙よりも実質的な投票所になるだろ う。…このルールを守っている限り人々は自分の時間の大半を、芸術、哲学、科学な どの調和に満ちた創作活動にあてることができる。(中略)科学は芸術の一部になっ ているだろう。(後略)」

(バックミンスター・フラー手稿.1928.『ライトフル・ハウス』27 頁) 


フラーは一度、人類から進んで自然の原理に帰り、過去の歴史主義的な建築を科学によって 清算する。そして、科学がもたらすであろう時間の余裕や物質的な豊かさから、人々には余 暇が生まれ、創作活動はより活発になる。そして、建築表現や芸術は新たな芸術段階に達す るはずであると考えたのだ。 

2 つめは、建築で重要なのはハードではなくソフトの面であり、大地や気候が育んできた人間 の歴史の積み重ねが存在する、響きある建築空間の中でしか人間の発展はなしえないとする 考えだ。 
この点について、石山修武は著書『生きのびるための建築』の中で以下のように述べている。 

「ではこの先、バックミンスター・フラー的な考え方、臨界に達してしまった考え方、 それを要するにビル・ゲイツの方向に行かないでモノにこだわって生きていきたい ときに、我々はどのようなビジョンが残されているのか。…人間は美という形而上学 的な価値の中に住みこめる人間なんだ、株式市場で取引されるようなものではない んです。やはり人間はそういう尊厳を持っているんですね。」

(石山修武 2010.『生き のびるための建築』NTT 出版、64 頁) 

人間は原理に沿って生きられるような高尚な生物ではなく、美的な物、神秘的な物、一見無 駄に思える物なしには人間の尊厳は保てない。建築は科学とは違って、発明品ではなく、無 意識的な感覚や伝統のしがらみの中で成長、発展していくものなのだ。 そして、村野藤吾が「様式の上にあれ。様式に関する一切の因襲から超絶たれ。」とおっしゃるように、近代的か伝統的かと分類するのではなく、すべてを連続する一直線上で考えなけ ればならないのだ。 
  
つまり、法則性の無い人間独特なもの、例えば、多くの建築家が感じたであろうサントリーニの造形の美しさ、パルテノン神殿の荘厳な美しさ、叙情的感情や故郷を懐かしいと思う気 持ちのようなものなしには、人間の文化的発展はできないという考えと捉えることができる。

1-3.振り出しに戻る現代  

私は以上の建築に対する2つの価値観は、初めに述べた、球体と人間の関係から導き出した 人類の矛盾点と大いに関係していると思う。 
自然の原理主義に立ち返り、有限な地球を有効活用する為、機能的で合理的な空間を創出し ようとしたバックミンスター・フラーは、1 つめの建築価値観に基づきながら自然原理を探求 した結果、「フラードーム」または「ジオッテク・ドーム」という球体の空間を創りだし、そ の科学的で実用的な建築は当時の建築業界に激震を走らせた。 
ここで、球体や丸は最も合理的で、最 小限にして最大限のエネルギーを生 
み出せる形であり、自然界における普 遍的な形状で、人類の無意識の内に存 在することを思い出したい。 私はフラーの考えをより理解したい と思い、実際に「フラードーム」を制 作し、制作を通してフラーが何を考え て球体の空間を生み出したのか実践 に基づき理解しようとした。


■「フラードーム」または「ジオッテク・ドーム」 

その結果、フラーが建築をより自然の原理に近づけたことは、地球全体の有効活用のためで あり、それにより新たな人間らしい発展や芸術、文化の促進につながるはずだと考えていた のだと捉えることができた。 
しかし私は、多くの物が機械化され、合理化された現代は、フラーが考えた通りにはうまく 行っていないように思う。実際には機械化や合理化は、人間から思考力、芸術力、想像力な どの人間の文化的側面を剥ぎ取り、自然の中で機械的に生活し、合理的であることに最も価 値があるとする「動物的」な方向へ人類を近づけ てしまったのではないだろうか。そして現代で は無国籍の高層ビル群や、「動物的建築」が都市 を支配するようになった。 
つまり、人類の無意識のうちの本性である、機能 的でストレスの無い空間を好み、非常に合理的 な性格に忠実な建築空間を創りだした結果、人 間は人間らしい文化的な創造をできなくなってしまった。 自然の原理を探求し生活に応用した結果、人間 も動物の段階に逆戻りしてしまったのだ。

合理的建築である高層ビル群

藤森照信は「人類と建築の歴史」の中の<振り出しに戻った人類の建築>の章で、このこと をこう論評している。 

「改めて第一歩から振り返ると、人類の建築の歴史は面白い姿をしていることに気 づく。細長いアメ玉紙で包んで両端をねじったような形なのである。人類が建築を作 った最初の一歩は、世界どこでも共通で、円形の家に住み、柱を立てて祈っていた。 世界は 1 つだった。2 歩目で青銅器時代の四大文明で世界はいくつかに分かれて、巾 を持つようになる。3 歩目に四台宗教の時代でその巾は最大となり、世界各地で多様 な建築文化が花開いた。しかし、四歩目の大航海時代に入るとアフリカとアメリカの 個有な建築文化は亡び、世界の多様性は減退に傾き、5 歩目の産業革命の時代に入る とこの傾向はさらに進み、アフリカ、アメリカに続いてアジアのほとんどの国で個有 性が衰退する。そして 6 歩目の 20 世紀モダニズムによってヨーロッパも個有性を喪 い、世界は 1 つになった。(中略)人類の建物の歴史は約 1 万年して振り出しに戻ったのである。”

(藤森照信 2005.『人類と建築の歴史』ちくまプリマ―新書 166 頁) 

人間の合理精神は生物が無意識のうちに共通して持つ丸という形から始まった。 その後、人類は自然の原理に抗うように人類独自の文化を築き始めたが、自然の中に機械性 を見出し、真似することに気が付いたことで、人類の多様な文化は減退し始め、動物の段階 へと逆戻りしようとしているのである。 はたして、そのような状態で、人類の発展は望めるのだろうか。 

人類の建築のアメ玉

2 .合理的建築が及ぼす影響  

2-1.合理的建築と文化

日々暮らす建築空間は個々人の価値観形成に大きな影響を与えると私は思う。 科学技術に基づきグローバルスタンダードを目指した合理的建築はその機能的・効率的価値 から、現代社会では至る所で、ものすごい速さで拡大している。先進国の証は、厚みのある 歴史的な建築の存在によってではなく、やはり東京のような高層ビル群があるかどうかで示 されるのだ。 
これほどにも合理的建築が世界で台頭している背景には、やはり利潤の追求を積極的に肯定 した現代の資本主義経済体制や、科学技術の進歩による交通・通信網の発達により国と国の 距離が限りなく近くなっていることがあると思う。 
「利潤を得たいのに無駄に飾り立てられているとコストの無駄だ。建築はただの覆いでいい。 パッケージであればそれでいい。」 
建築に対してそんな感想を持つ人が現代に多いのも、現代資本主義の帰結なのだろうか。 20 世紀は人類が科学の側面で大躍進を遂げた時代であり、その時代背景の中、合理的建築や 機能主義理論が発展し、支持されていった。動物や植物などの機械的な構造に人間からより 近づいていこうとしていった。そして、その中に美を求めてきた。 

「もしわれわれが家に関するすべての死んだ考え方を、その心からも除き、その問題 を批判的または客観的な立場から眺めたなら、われわれは『住宅=機械』の考え方、 すなわち、われわれの生活に必要な作業道具や器具が美しいのと同じように美しく、 健康的な(道徳的でもある)大量生産される家という考えに、到達するであろう。」

エドワード・R・デ・ザーコ.2011 年.『機能主義理論の系譜』鹿島出版 25 頁) 

これは、20 世紀を彩ったモダニズム建築の先駆けであるル・コルビュジェの言葉である。 この言葉は、前章で述べた 1 つめの建築の価値観に類似している。そして、当時の社会が 1 つめの価値観に基づいた建築空間を求めていたことが分かる。 
この 1 つめの価値観に基づいた建築の流れは現代に引き継がれている。 しかし、現代社会ではフラーやコルビュジェが望んだような、機能的の上に芸術性を作り出 すことは実現されていないことが見て取れる。 
作っては壊す仮設建築が都市に氾濫し、階段の方が空いているのに、エスカレーターには長 蛇の列ができている。 
冷暖房が完備されたビルから決して人間は出ようとせず、土を踏んで歩く機会も大幅に減った。 機能の上に芸術は成り立たず、また文化は育めない。人間は植物や動物のように器用ではないのだ。 
私は、このままの状態の建築空間に人間が生活し続けると、人間は人間らしく生きられなく なってしまうのではないかと思う。機能や機械が便利であるゆえに、人間に惰性が生じ、物 事に対して関心を持たなくなる。そして、人間の特権であり、人間が人間でありえた要素で ある創造力は衰退し、思考力は限りなくゼロに近づいていく。 
経済的発展のために、一生を尽くし、現代は物で溢れかえっているので豊かであると誤認し たまま生活していく。人間は自立的に生きることができなくなり、他律的になっていく。 こうなってしまうと、もはや人間の尊厳は失われ、文化や芸術は世界から消え去る。そして 人類は機械や機能に生かされているだけの生命体になってしまうと思う。   

2-2.合理的建築は価値観を画一化させる

合理的建築は人間の個性さえも蝕み、人間の価値観を画一化させていると思う。 文明の生まれ方について、中谷礼仁先生の次の言及が興味深く、文明と人間の価値観を考えるきっかけとなった。 

「大地の素材を水平、そして垂直に移動し、人の住む空間を作り上げたのが集落であるとすれば、それはいまだに大地の性質からの制限を強く被っていた。文明の誕生とはそのような段階から離れることである。人間社会を中心として動く、抽象の梯子を上がり、それを≪現実≫として再構築することである。」

(中谷礼仁 2017.『動く大 地、住まいのかたち』岩波出版 72 頁) 

地域で独自の慣習や宗教、または文明が生まれたのは、土地固有の大地や環境に合わせて人 類が生活してきたからだ。 
そしてそこから芸術を育み、より文化を発展させてきたのである。 
そのため、世界では多様な文化や慣習、伝統が生まれた。そして地域により異なる価値観が 生まれた。確かに、世界は細かく分断されていたが、常に相互に作用し、多様性は調和しあっていた。 
しかし、大地の特性を無視し、地球の建築空間に一般式を適用した合理的建築は資本主義と グローバル化の風を受けて、世界中に氾濫した。どこへ行っても存在する合理的建築は、人 間の生活空間に溶け込み、世界共通の価値観を生み出してしまう。以前までは、価値観の対立はその分母が小さく、また他の価値観も存在していたため、一方が完全に排除されること は少なかった。しかし、合理的建築は世界各国に存在するために、地域性を無視して、人間 に画一的な価値観を植え付けてしまう。 
世界規模である為、その分母は非常に大きく、同じ価値観を持たないひとを圧倒的な力で排 除してしまう。調和した多様性がないためにそれを止めるブレーキもない。 合理的建築は万能ゆえに世界的に広がり、人間の価値観を画一化させ、その強大な力をもっ て他の価値観の排除を促してしまい、世界を排他的で分断された社会へと導いているのだ。 

この影響は世界で既に現れているように思う。 例えば、ポピュリズム政治の世界的な台頭がその顕著な例であり、移民排斥運動や、宗教・ 民族・国籍による差別など、他の価値観を理解しようとせず、善悪の二面性でしか物事を捉 えない現代人の傾向は、合理的建築の氾濫と無縁ではない、と私は考えている。 20 世紀の先人が夢見ていた、合理的建築が機能を芸術に発展させるだろうという見込みが失 敗に終わり、むしろ社会の分断と排他的な人類を生み出し、人間の尊厳を喪失させてしまったのである。
この事実を踏まえ、もう一度、法則性にとらわれない文化を生み出し、人間の尊厳と多様な 価値観の尊重に基づいた社会発展を促すにはどうすればいいだろうか。 

*私の理想とする人間の尊厳に基づいた文化の形成の例をここに記載しておきたい。 
日本には木造建築であるがゆえに生まれた文化があるそれは「床下文化」だ。煉瓦造 りや石造りではもぐり込めるような縁の下や床下はない。(中略)人の入り込める空 間があればそこに必ず文化が芽生える。それが「床下文化」である。例えば「忍者文化」。もし、床下と天井裏が日本建築になかりせば、黒ずくめの忍者の出現はなかっ たかもしれないし、(中略)「忍びの者」も生まれなかっただろう。…となると日本が 世界に誇るマンガ・アニメ文化も生まれなかった。」

(藤森照信 2001.『天下無双の建 築学入門』ちくま新書 164 頁) 

3.原始的懐かしさの必要性 

3.1人間の尊厳と多様な価値観に基づいた社会発展を促すには

前述のとおり、私はバックミンスタ-・フラーやル・コルビュジェが構想していた科学や機 能を芸術に発展させる考えは、結果的に人間の尊厳を喪失させ始めている現代社会を作り出 してしまい、うまくいかなかったと思っているが、彼らが「人間には芸術や美的感覚がなけ ればならない」と考えていたことには深く共感している。ただ、科学的機能の上に芸術が成 り立たなかっただけであり、彼らの考えの方向性を変えることで、私は 21 世紀における、人 間の尊厳に基づいた社会発展は十分可能だと考える。 
ただ、現代において科学的な要素を人間から完全に断ち切ることはできない。人間が 100 年 前の生活に戻ればよいと考える人もいるが、それは人間の発展を否定することであり、意味 を見いだせない社会に人間は適応できないからだ。つまり、発展した科学の技術も取り入れ つつ、現代にあった形で芸術や文化を育める空間を生み出さなければならないのだ。 
では、具体的にどうすればいいのか。 

私は長い間悩んできたが、高校の先生の「人間の脳と言語の関係性」についての話を聞き、 「原始的懐かしさ」という概念の着想を得た。そして 21 世紀に人間の尊厳と多様な価値観の 尊重に基づいた社会発展を促すには「原始的懐かしさ」を取り入れた建築空間が必要なので はないかと考えるようになった
まず、高校の先生から聞いた「人間の脳と言語の関係性」についての話から、どのように「原 始的懐かしさ」の着想を得たのかを述べたいと思う。 
先生の話は要約するとこのようなものだった。 

「人間の体は地球上で同じであるのに、なぜ人間の言語は多様なのか。またなぜ言語 が生まれたのか。このことは長い間、議論されてきたらしく、そして今もなおその議 論は結論に至っていない。そしてついに 1866 年にパリ言語協会は言語の起源を探ることを禁止した。また不思議なことに、遠い昔、交わることのなかった 2 つの地域で は同じ言語が話されていることが確認されている。」 

1866年3月8日に承認された学会規程の第1条で,本学会は言語研究を目的とし,それ以外の研究対象は認めないと明言している.
そして,第2条で問題の言語起源論の禁止を宣言している.

ART. 2 --- La société n'admets aucune communication concernant, soit l'origine du language, soit la création d'une langue universelle.

 第2条 --- 本学会は言語の起源や普遍言語の創造に関する一切の報告を受け入れない.

言語学会が言語起源論だけでなく普遍言語の創造も禁止していたのだと初めて知った.当時の言語を巡る言説や思想の迷走振りがうかがえる条文である.今考えると,言語学会が言語起源の研究自体を禁止してしまうというのは珍事どころか自殺行為とも思えるが,実際にはこの条文は効果覿面だった.その後,言語起源論は近年に至るまで科学の表舞台からほぼ姿を消したのである.
 もっとも,進化論の生みの親 Charles Darwin (1809--82) やデンマークの英語学者 Otto Jespersen (1860--1943) など,言語の起源と進化の研究に貢献をなした研究者も皆無ではなかったとする見方が最近現われてきているようである(池内, p. 72--73).

http://user.keio.ac.jp/~rhotta/hellog/2010-09-24-1.html

私はこの話を聞いて、言語には人類共通の何かがあるのではないか。と考え、建築でも同じことが言えそうだと思った。 
つまり、人類には建築や空間に対して何らかの一般的な感性がある。それは、自然の原理か ら生じた機械的な法則の一般性ではなくて、もっと感情的で感覚的な部分、また無意識の領 域にあるかもしれないと考えた。 

3-2.懐かしさと原始性

私は、その感情的な部分を言葉として表現するとなると、「懐かしさ」という単語が意味上、 一致すると思った。 藤森照信も「懐かしい」という言葉について、こう解釈している。 

「人間以外の動物は「懐かしい」という感情を持っていない。喜怒哀楽という感情は 直接、生存に関係する感情である。腹が減って怒るとか、勝って喜ばしいなんて生存 に関すること。「懐かしい」なんて何にも生産的でない。人間にしか持っていない感 情なので、逆にひどく人間的だと思ったのである。 
(中略)過去を見て懐かしいと感じる時がある。例えば田舎に帰ってふと私は畑とか 石垣に何かを感じる時がある。石垣にハッと思う時がある。その時に「懐かしい」と いう感覚と共に何か未知なものがある。 
文学者の杉本秀太郎が京都の町を歩いている時、路地を見て、昔の同級生の家をふっ と思い出したことがあると書いてあると書いている。同級生の家ではないのに同級 生がそこにいると思うと同時に、ヘンな未知が見える。…「懐かしさ」というのは不 思議な感覚だとますます興味を覚えた。」

(藤森照信 2011 年.『建築とは何か―藤森 照信の言葉―』エクスナレッジ出版.18 頁.24 頁) 

「懐かしさ」はひどく人間的な感情であり、人間以外には無い感情なので、建築においての 感情の面での一般性なのではないかと私は考えた。そして、この「懐かしい」感情は人間が動物である段階から原始人に進化する際に身に付き、現代人も持続的に保有している感情だ と思った。それらを総合して、建築空間が人間の内面に働きかける一般的作用を表す概念を 「原始的懐かしさ」と表現してみることにした。 
ここで、より「原始的懐かしさ」の意味を明確にするために、具体例を紹介しようと思う。 
私が最近、「原始的懐かしさ」の一つであると思ったのは「見上げる」という行為だ。 安藤忠雄展―挑戦―(国立新美術館 2017 年 9 月 27 日~2017 年 12 月 18 日)を鑑賞した際 に、展示してあった「頭大仏」を見て、「頭大仏」には見事に「原始的懐かしさ」が含まれて いることに気が付いた。 
「頭大仏」は大仏の身体を回廊で覆い、外から見ると丘のてっぺん 
から大仏の頭が少し出ているよ うに見え、内側から見ると天を仰 ぐように大仏を眺めることができる建築物である。不思議なのは 大仏以外にはお寺のような雰囲 気がないのに、なぜか厳かで大仏 様がとても尊いと感じることだ。 


これは「見上げる」という「原始的懐かしさ」が建築空間に含まれているためではないだろ うか。 
「見上げる」とこのような感情が生じるのは、人類の誕生からあるであろう太陽信仰にも通 じていると思う。 
また、「見上げる」だけでこのような感情が生まれるのは人間だけであるので、これは「原始 的懐かしさ」であるといえる。また「頭大仏」に似たように「見上げる」ことを促し、「原始 的懐かしさ」を取り入れている建築物がある。それは「大阪万博の太陽の塔」だ。丹下健三も 岡本太郎も「原始的懐かしさ」を建築に取り入れていることが分かる。 


他にも、建築家としての藤森照信が設計した建物には「原始的懐かしさ」が多く含まれてい ると思う。また、私はまた実際に取り入れている建築空間を発見できていないが、「木の下に入る」「土に囲まれる」なども「原始的懐かしさ」の一部ではないかと構想している。また、 このような季節の変化も「原始的懐かしさ」の一つであろう。 

「季節が始まる。いつもと変わらぬ反復なのに、それが人々の気持ちを高まらせるの は、季節の反復と生命とが深く結びついているに違いないからだった。」

(中谷礼仁 2017.『動く大地、住まいのかたち』岩波出版.92 頁) 

両方とも「見上げる」という「原始的懐かしさ」を取り入れていることが分かる
  

3-3.原始的懐かしさが引き出すもの  

現代の合理的建築がフラーやコルビュジェの思い描いていた用い方とはまったく違う用い方 をされていることは既に述べたとおりである。 
そして私はその影響で、人間の尊厳と多様な価値観の尊重に基づいた社会発展が阻害され、 人類は生きる機械となりつつあると述べ、もう一度人間らしい芸術的で文化的な社会発展を するには「原始的懐かしさ」を取り入れた建築空間が必要だと主張してきた。 ここでは、なぜ「原始的懐かしさ」を取り入れた建築が人間らしい社会発展を促すことがで きるのか、を説明していきたい。 
まず私は、人類の建築の歴史は現代で振り出しに戻ったと考えている。したがって、その点 はフラーやコルビュジェの 1 つめの建築価値観と同じである。また私は現代からでは、19 世 紀以前の歴史主義的な芸術を継承して、21 世紀に取り入れる事は不可能だと考えている。一 方、過去の芸術や工夫などから部分部分を取り出して再構築し、新たな芸術領域を生み出す のはおそらく可能であり、大変興味深いと思う。 

「日本の普通を壊したのは、井上の指摘するようにコンドル、辰野以下の西洋建築だ けではない。正確に言うと、まず西洋建築が壊し、次にモダニズムが壊した。そして その破壊の深さはモダニズムの方が深く、建築と人間の関係の根本に及んだ。」

(藤森 照信 2011. 『建築とは何か―藤森照信の言葉―』エクスナレッジ出版 194 頁) 

しかし、科学技術の発達により完全に切られた歴史の流れをもう一度繋ぎ直すのは、非常に困難であろう。 人類は過去を捨て、「科学技術を持った原始人」として、もう 1 度やり直さなければならない のだ。 
おそらく有史以前の人類は「原始的懐かしさ」を感じる空間にいたことで、太陽信仰やアニ ミズム精神を育み、人間的な文化や芸術性を生み出したと私は考えている。そのアニミズム 精神について、石山修武は次のように述べている。 

「アニミズムはモノに対する底知れぬ親近感の源です。愛情とさえ呼べるかもしれ ません。それが高じてモノにモノを超える像を見たいと思う、そのような気持ちの動きそのものなのです。物体を介して、我々の脳内に運ばれる像、脳内世界像です。」

(石山修武 2010 年.『生きのびるための建築』NTT 出版.31 頁) 

つまり、人間的な文化芸術を原始に戻ったつもりで再スタートさせるには、当時の原始人と 同じように、「原始的懐かしさ」を感じる環境や空間がなければならない。それらを建築表現 として具体化し、人類の日常的な建築空間に「原始的懐かしさ」を取り入れる。私はこれ以 外に現代の人間が機械や機能に生かされ、想像力や芸術性、そして文化を喪失し始めている 状態を打破するすべはないように思うのだ。 

3-4.脳科学からみる原始的懐かしさ

また、これらは私の空想だが、前述のことは脳科学的側面からも立証でが可能なのではないかと考えている。 人類が「原始的懐かしさ」を感じる環境や空間に身を置くことで、アニミズム精神などが育まれ、芸術表現、や文化を生み出されたのは、人間の脳内の「爬虫類脳」部分が刺激を受け、 本能の部分が呼びさまされたからだと考える。 
アメリカ国立精神衛生研究所のポール・マクリーンは、人間の脳は大きく「爬虫類脳」「哺乳 類脳」「人間脳」の3つに分けることができと証明し、人間の能を「三位一体脳」と呼んだ。 具体的に3つの分類を説明すると、以下のように整理されるという。

ポール・マクリーンの脳の三層構造

脳の最も中枢の部分には「爬虫類脳」が存在し、爬虫類脳」は主に生存本能、生命維持を司っている。 そして「哺乳類脳」は「爬虫類脳」の上に存在しており、主に感情、快、不快などを意識させ ている。 更に「人間脳」は脳の最も外殻に存在していて、論理性、理性を司っている。 
私は、現代人は「人間脳」ばかりが発達しているために、すべての事柄に論理性を求める傾 向にあり、結果的に人間の人間らしい部分が失われてしまっているように思う。特に現代人 の生物的な危機意識の低下は著しく、それは機械や機能に身をゆだねている結果なのだと思 う。この「人間脳」が発達しすぎ、「爬虫類脳」が司る生存本能をおろそかにしている現状態 を打開するには、「原始的懐かしさ」を脳内の「爬虫類脳」に感じさせ、人間をもう少し本能 的に、そして感覚的にしていく必要があり、またその中で新たな芸術や文化が育まれていく と私は考える。 

それゆえ、私は、現代を見つめ直し、21 世紀を人類にとっての再スタートとし、人間の尊厳 と多様な価値観の尊重に基づいた社会発展を展望したい。「原始的懐かしさ」を取り入れた建 築空間を社会に提案し、科学技術に基づかず、過去の歴史と現在を結び直すのではなく、全 く新しい文化の歴史を 21 世紀から築いていけるような空間を創っていきたいと願うのである。

4.未来を考える 

4-1.未来は若者が考えるもの

私は 2017 年 10 月 10 日に「法政大学建築フォーラム―同世代が拓いた建築史のフロンティア ―」に参加し、陣内秀信教授と藤森照信先生の対談を聞くことができた。 ここでは、藤森照信先生の建築史観や物件派、空間派に二分されていたこと、路上観察学会 や建築探偵団でなにをしていたのかなどについて写真を交えた講義を拝聴することができ、 とても面白く受けることができた。また陣内秀信教授の「水都学」までの道のりや空間人類学などを詳しく拝聴できた。また、 講義の中でたくさんの本を紹介されていたので、好奇心の幅が広がった。 この講義で最も印象的だったのは、講義終了間際に大学生が「先生方は現代、そして未来の 建築についてどうお考えですか」と質問しており、 
藤森照信先生は「超高層がいくとこまでいく…とんでもないものだね。」 陣内秀信教授は「人の生活がある…飲み屋街とかは良いよね…。でも若い人が考えてほしいね。」 と答えられていた場面だった。 

私の中でも未来に対する建築のビジョ ンは常に考えていた命題であり、今回の 講義で著名な建築史家であるお二人の 未来に対する考えを聞けるかもしれな いと期待していたが、やはり未来を考え るのは、未来を生きる私達がすべきこと であり、若い世代が考え、行動しなけれ ばいけないのだと強く実感した。 
■法政大学建築史フォーラム、講義の様子
 

4-2.未来における建築の不安

ここまで、「原始的懐かしさ」を建築に取り入れる事で、現実、そして未来に変化を起こせる はずだと主張してきたが、一抹の不安もある。 
それは、経済体制が現状のままでは、思想や問題意識を、建築表現に昇華させても、それは 一般解にはなれず特殊解にしかならないかもしれないことだ。 
現代において、多くの建築家がこの問題に直面しているように思う。 建築家の方々は様々な思想を持ち建築表現に示しているが、それによって大きな変化は起こ せないでいる。建築家は一人一人が孤立し、自らの芸術作品を作ることしかできていないの が現状とも言える。 

「村上隆さんのアート作品は今非常に高値がついています。(中略)これは何を意味 するかというと、アートというのは、もう完全に商品だということです。今は内発的 な表現意欲とかそういうものは芸術家にはありません。そのこと自体をあまり考え ている芸術家はいない。(後略)」

(石山修武 2010.『生きのびるための建築』NTT 出版 105 頁) 

建築家も、このような外面のデザインのみで価値が決まる芸術家ばかりになってしまうのだ ろうか。 
やはり建築を思想表現だと捉えてもらうには、幅広い人間の文化的な発展が必要であるし、 現在の価値を価格のみで決めてしまう経済体制は建築家、芸術家、様々な分野のアーティス トにとって生きづらい世相なのかもしれない。そして、そんな世の中は今後ずっと続くかも しれない。 
しかし、時代の変化を着実に感じることもある。 
多くの人が期待、もしくは心配するように、21 世紀は第二の産業革命の時代であると言われ ていることだ。 
18 世紀後半に起こった産業革命は様々な分野に大きな影響を与え、無論、建築業界も新たな 方向へとシフトチェンジしていった。私達が生きる 21 世紀に起きるであろう第 2 の産業革命 も具体的な予期は出来ないが大きな変化を起こすに違いない。そのことを石山修武は的確に 表現している。

 「いまは大きな激動期だということです、フランス革命やキューバ危機のような分 かりやすい形での”革命“というものではありませんが、考えようによってはより深 い日本的に緩くずるずるした革命期にいます。それを転形期と呼んでみたい。(後略)」

(石山修武 2010 年.『生きのびるための建築』NTT 出版 96 項)

 私はたとえ発展しすぎた科学技術により、何らかの形で建築が不要になっても、建築空間を 創り続けたい。 
芸術や文化をあまり必要としない社会になってしまったとしても、建築を通して社会に訴えかけたい。 また、もし未来都市がリアルなSF 都市のようになってしまっても、その中で、あえて「原始 的懐かしさ」を求めて土壁の家を建てたい。 誰一人として芸術や文化の必要性を感じなくなり、人間の尊厳が侵されていることにも気づかなくなった時が、人類の終わりだと私は思う。

もし未来がそうなってしまっても、私は最後まで表現者であり続けようと決意している。 

2017.10 Masaki Morihara

-参考文献- 
原広司,『空間<機能から様相へ>』1987,岩波書店 
石山修武,『生きのびるための建築』2010,NTT 出版 
藤森照信,『建築とは何か―藤森照信の言葉―』2011,(株)エクスナレッジ出版 ――――,『天下無双の建築学入門』2008,ちくま新書 
――――,『人類と建築の歴史』2015,ちくまプリマ-新書 
――――,『藤森照信読本』2010,A.D.A.EDITA Tokyo 
中谷礼仁,『動く大地、住まいのかたち―プレート境界を旅する―』岩波書店 エドワード・R・デ・ザーコ,『機能主義理論の系譜』鹿島出版会 
黒川紀章,『花数寄―伝統的建築美の再考―』1991,彰国社 
水島治郎,『ポピュリズムとは何か―民主主義の敵か、改革の希望か―』中公新書
菊竹清訓,『日本型建築の歴史と未来像』1992 学生社 
Joachim Krausse,『Your Private Sky R・バックミンスタ-・フラー アートサイエンス』 2002,イッシプレス出版 
安藤忠雄,『都市と自然』2011,A.D.A.EDITA Tokyo 
『-川口修二・ヨシノブ資料庫―』http://memori1954.exblog.jp/i28/4/ 
『キリギスの歴史・自然・生活』http://www.holyclover.com/kyrgyz.html 
『頭大仏』(産経フォト http://www.sankei.com/photo/story/news/151225/sty1512250001-n1.html) 『大阪万博の太陽の塔』fukafuka51.exblog.com

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