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週間レビュー(2022-7-3)_いまの学生が勝負するのは20歳上の人ではなくて、20歳下の人ですから。

今週も設計の1週間。

ここまで時間を使ってしまうのは単純にスキルセットがないからだと思う反面、真剣に取り組むと学びのフィードバックも濃かった。昼夜がよくわからずリズムがないので今週はカレンダーを見返しても記憶が全然ない。

空間を先に想起させるか、空間に差し込むプログラムや成り立つ為のシステムから空間を想起させるのか。前者は心地よさのベクトルで後者は社会デザインのベクトルに。特に時代として社会システムの刷新が見え始めている時、前者のベクトルは機能しないのではないか?

今回の設計課題での一番の学びは「建築家の考え方」の言語化が進んだことだだと思う。つまりは何が「40代〜60代」の建築家に受けるもの、彼らの建築への眼差しのようなものがわかったことだ。
造形的で空間同士の関係性として確かに成り立っているものに高い評価を与えている。これはどういうことかというと、意匠とはそういうものなのかもしれないのだけれど、雰囲気のための空間を与えること、つまり主観的にでも客観的にでも居心地の良いと言われる場所を生み出すこと、そこから空間を立ち上げることが目的になっている。それは個人的で地縁的で、場所性が明らかに強いものだ。全てのデザインが想起される起点は「自分にとって居心地が良いか?」という主観的な感覚に紐づいている…故にプログラムや社会的なコンテキスト、建築の部分的なバリューチェーンにフォーカスをしたスキルのようなもので、統合的なデザインとしては明らかに欠けているものが多い。これは建築の解体以降の世代の多くが引き継いでいる私的建築論のようなものなのだろう。それもそれで良いと思う。

「空間とプログラム、どちらが先に立ち上がると思うか?」という問いに「空間である」と答えた教員や「プログラムや機能設定は正直どうでも良い」と言っていた教員などは極めて前者のスタンスで設計課題を提示しているのだと理解した。

個人的にそのような意匠論を否定するわけではないが、そのような建築設計のスタンスが現状の社会からの建築への期待値の低さを促し、イノベーションから最も立ち遅れた存在になっているのではないだろうか?と強く思っている。今デザインし直さなければいけない対象は一歩外にでれば山のように転がっている。

正直建築一つ一つにいい感じの雰囲気を構築することなど後手に回るほどの世界は課題だらけであるし、トランジションデザインを早急にでも行わなければならない対象がたくさんある。デザインや建築の力は雰囲気を作るためだけの知性ではないはずだ。クライアント、与件、敷地、過去の社会システムという少ない因数から空間を想起させる思考ゲームはどう考えてももう優先度が低いだろうと思う。

一種「建築とはそういうものであり、建築の実行できるポテンシャルの発露はこの程度のものなのだ…」というどこから生まれたのかは知らない規定のようなものが建築の存在を縛っているように思う。そして一つの建築が街を変える、世界を変えるなどという虚言も建築家の自分の仕事に対して肯定的になるためのコピーでしかない。(と自分は思う)

経済に対して、政治に対して、社会的倫理に対して、ユーザーに対して常に後追いの存在なのだ。それを肯定してしまい時代に足してポテンシャルの低さ認めてしまっている。それでは産業として業界として固く閉じることはできても、溶け出すことはできないだろう。建築家は物理的空間のデザインからこの時代においては飛躍して早々に変出すべきなのだ。というのはこの辺りに焦りと自分としての気持ちがある。

自分の新たな図書館のスタイルに対して「今存在しないからできないんじゃないの?」という回答には正直驚いた…存在しないものを訴求してイメージを提示するために作っているのだから当たり前だろう…そのような回答しかさせない提案に仕上げたのは、課題に直接的に答えることができていないかもしれないが、自分にとってはかなり自信になった。

あとは自分の考えやプランはなぜか同世代やもうちょっと下の世代に響くらしい。ようやく豊田さんが言っていたことをちょっとずつ体現できているのかなと思っている。多分坂茂も同じ感性を持ってるはず。
よくわからない、なんかイラつく、必要ないのでは?みたいなことを言わせたらこちらの勝ちだと思うことにした。逆に共感されてしまったら負けだと思うことにしよう。

豊田 最近は戦略的で打算的な学生が多いので、いつも「上の世代に媚びないでくれ」と言ってます(笑)。本当は先生からよくわからないと評価されるものをつくるべきなのに、コンペに勝つために先生から認められるものをつくろうとしてしまう。すると昔の感性が再生産されてしまうんですよね。もちろん、ぼくらがそういう教育をしてしまっている側面もあるんですけど。
──アカデミックな場で評価されるものが建築の本質ではないというか。
豊田 時代ごとに新しくなった感性やニーズを感じとって変化しなければいけないですよ。いまの学生が勝負するのは20歳上の人ではなくて、20歳下の人ですから。建築界は前の世代の評価を気にしがちなので、そういうムードをひっくり返したいなと思っています。

ttps://hillslife.jp/innovation/2019/12/05/what-architects-will-make/

ヘザウィックとマルセルワンダース、どちらも示唆深いことを書いているので忘れないように置いておこうと思う。

>ヘデクィック
当時RCAでデザインを学んでいたんだけど、どういうわけか建築のほうに興味があったのね。ただ、建築科の学生が紙で小さな模型をつくることにすごく違和感があって。だってデザインの授業なら、手づくりで実際に座れる椅子とかヤカンをつくったりして、わからないなりに手を動かしながら学ぶわけじゃない。建築の学生は建設現場での作業はおろか、コンクリートすら自分で混ぜたことないの?って驚いたよ。しかも、課題を見ると「片足が不自由な女性が月面の崖の隣に住むための無重力な家を設計せよ」みたいな感じで。これは相当ヤバいなって(笑)。
デザインで解決すべき間題ってそういうことじゃないだろと!窓の外を見れば、そこらじゅうに解決すべき問題が転がってるだろ!って。しまいには建築教育の問題点についての論文まで書いちゃった(笑)。それでも建築を学びたいから、とにかく一度、建築を実際に建ててみたいって講師に言ったら、「おとなしく模型をつくりなさい」と。

ネンドノオンド_ヘザウィック

マルセル
あったりめえだろ。学校なんて何ひとつマトモなこと教えてくれねぇからな。学生はよ、先生を喜ばせることばっか考えてデザインしてやがるからな。そんなことが上手くなっても何の役にも立たねえよ。先生とソリが合わない生徒は落ち込んで、それをほかの生徒が内心小バカにして。成績のいいガキは他人を見下して天狗になって。ヒデェ話だよな。特定の誰かを喜ばすデザインなんて誰にでもできるし、そんなものに価値なんてねぇんだよ。

生徒に刺激を与えること。あとはひたすら生徒の考えを理解しようとするだけかな。そして、生徒 にはリサーチをキッチリやることと、努力を惜しまないことだけを求めた。それで十分。

ネンドノオンド_マルセルワンダース

ただ、空間構成という基礎的な力はとても重要なので選り好みせずにまなばなけれなばならない。(そうでないと適切に言語化ができない人になってしまう)UXデザインともインタラクションのデザインとも違う論理化されていないもののように思うので手を動かして学ばないといけないなと思っている。

7月に突入しついに上半期も終わったのでどこかのタイミングでゆっくりと上半期の振り返りと下半期の目標整理を行えたらと思う。

終わり。来週も頑張ります!

アトリエ
早朝の朝日で赤く光ってた。レアな色彩。

うーん頑張ろう。

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