(過去記事)コロナ禍、サステナブル⇒「察する」ちから
(この文章は過去に書いたブログの移植です。今後最新のものを投稿できればと思います)
2020/10/23
コロナが続いていくなかで、内省的に自身の作品を眺める作家は少なくないと思います。
私はコロナだからというわけではありませんでしたが、この1年半ほどはそのように省みながら、いくつもの実験や小さな作品の制作を行ってきて全く展示をしませんでした。
その理由は単純に、新しい職場でしっかりと動けるようになることを優先した生活を送ってきたからですが、今後の生活がWithコロナであると世間が認識し始める頃でも、特に大きな違和感もなくただ滔々と実験や小作品の制作を繰り返していたように思えます。
振り返りながら感じたことは、自分の制作の変遷とコロナ禍の経過にはいくつかの相似点や逆に相違点を導くことができ、更に自分なりの提案を見いだすことができるのでは、という考えでした。
まず自身の制作の変遷といえば、絵画や彫刻、インスタレーションというように、より大きく空間的に拡大していく方向へ進んでいきました。
そしてその先は、プロジェクターを使った映像投影を主体とした作品へと移り変わっていきました。
この理由も始めは単純に、大学院を休学して大きな作品の制作や保管の場所が持てなくなったからでした。
それまで空間的に広がりのある作品を制作したくて、大きな平面や立体物などの組み合わせでインスタレーションの表現をしていました。
《鉄塔Ⅰ》(2015)
しかしそれまでの手法を続けることができなくなり、試行錯誤した結果「実体のあるものを作って空間を表現するのではなく、既にそこにあるものへイメージを投影することでも、自分のやりたいインスタレーションはできる”という考えに至りました。
《鉄塔Ⅲ》(2015)
それは自分の作った構造物が空間を作り出すのではなく、既にそこにある空間自体へイメージをレイヤーのように薄く重ねることで表現する方法とも言えます。
それはこれまでのような、ヴィジュアルや構造物を制作し配置することによるインスタレーションとは別の体験として感じられました。
そのため最初は、これまでやってきたインスタレーションの代替案としての手法と思い始めたのですが、そうした別の体験としての認識があったのである意味での満足感を得られたのかもしれません。この手法はプロジェクション・インスタレーションと呼称し、いくつかのパターンで制作しました。
《how to make colors constructing you and your worlds,
and may be these beyond》(2016)
一方でコロナ禍の経過で言えば、まず緊急事態宣言を期に人々はステイホームを掛け声に外出を自粛し、好きな場所へ出掛けることも様々な人と対面することも自由にはできなくなりました。
つまり実体験における空間的な制約が課されたのです。
ここで自身の制作の変遷との相似点として、この空間的な制約が挙げられます。
そうした環境の中で進んだのがあらゆる活動や経験のリモート化です。
職場にいくことなく自宅で同様の作業を行ったり、zoomを用いた遠隔会議、または会場にいくことなく様々な展示やライブコンサートなどを、インターネットと動画メディアを通して可能なことが人々の間で共通理解されていきました。
はじめの頃は真新しさもあってか、次世代のスマートな環境としてのそのスタイルは、素早く拡大し許容されていきました。
しかしネットを介した会議やリモートでの飲み会などは、いわゆる「リモート疲れ」として一つの障壁を感じる段階を迎えていると昨今では囁かれています。もちろんそんなことを感じず、常に快適な環境として捉えている人もいるでしょうが。
これはリモートワークの効率の問題ではなく、あくまで感覚の問題です。
もっと顕著なのは、やはりヴァーチャル空間での展覧会ではないかと思います。
仮想空間上をヴューポイントで移動しながら作品を鑑賞する体験は、ある一定の意味においてはリアルの空間での鑑賞とは別の体験と言えるでしょう。(つまりそもそもVR空間でしか体験できない作品において)
しかしそれらのどのリモート化の内容も、現時点においてモニターを通したリアルの代替でしかない以上、その経験はリアルでのそれを軸とした比較によってのみ評価されます。
様々な技術開発による目覚ましいテクノロジーの発展をもってしても、やはり未だリアルの体験との差は違和感と不自由性として感じざるを得ないのが実情かと思います。リモート疲れという現象も一つはそういったことが原因でもあるでしょう。
つまり現時点でのリモート、もしくはVR空間の体験価値はリアル空間でのそれの代替として、未だ不十分であると言えます。
断っておきますが、私はリモートやVRの反対論を言いたいわけではありません。
これは更なるテクノロジーの進化による解像度の向上が成されれば、いずれは超克され得る問題だと思うからです。
むしろ完全なる人間の電脳化と言いましょうか、要するに映画「マトリックス」のような世界が現実となった場合、それは私の制作理論である支持体論でいう別次元への移動を意味するので、そのような出来事への期待を感じもするのです。
ただおそらくそういったことが現実となる日は、はたして私たちが生きている間である可能性は今のところ低いように思われるのです。
それは過渡期である現在に生きている私たちの宿命であり、むしろその過渡期をより正確な形で捉え、実社会へ落とし込むことの方が重要であると私は考えています。
《how to make colors constructing you and your worlds,
and may be these beyond》(2016)
ここで私が何を言いたいかというと、つまり限りなく現実に近い五感を伴うヴァーチャル世界による体験ができない以上、リモートワークや遠隔サービスなどは、現実空間の代わりではなくそれとは別の体験として認識されなければ十分とは感じられないのだということです。
そしてそれはもしかすると、先述の自身の制作によるプロジェクション・インスタレーションのように、何か現実にすでにある空間に対し、レイヤーのようにかぶせることによってエフェクトを加えるような技術であるのかもしれません。
これに該当するであろう現在の手段とは、AR(拡張現実)技術がすぐに思い起こされます。
具体的にどのようなことが考えられるかは分かりませんが、「身近な現実空間を意図的に利用した上で、あらゆる活動がリモート化される」状況が、現在最も適した手段ではないかと感じています。
はたしてAR以外にもその手段はあるのかもしれません。
さてそうしたコロナによる問題がこれだけ大きく拡大した原因の一つとして、いきすぎた資本主義や自由主義による環境破壊やグローバルな人の流れが指摘されています。
国連によるSDGs(持続可能な開発目標)やサステナビリティという言葉も広まった現在、上記の問題はより切迫した事実として地球レベルで認識されなければならないことでもあります。
正しくそのSDGsの大きな目標と小さな目標の内容をもって、それらの問題に対処しようと国連が各国に働きかけていたわけです。
しかしこの目標をもって全ての問題をカバーできるとは言い難いのではと感じているのは私だけではないと思います。
それはこの取り組みが無意味だとかそういう批判めいたことを言いたいのではなく、別の視点から同じ問題を捉えた際にどういったことが見出されるかの違いを述べるに過ぎません。
政治家や専門家などの視点から捉えた問題の対処がSDGsであり、料理研究家から捉えたそれはまた違うでしょう。
そういった意味で美術作家である私が考えていることは、一言にすると「察する」ちからの必要性ではないかということです。
私の考えていることに最も適当な言葉ではありませんが、これが近いのではと思い使用しています。
「察する」とは辞典で調べると、大凡「情緒、直感、不確定なことを基にして信じる」、「物事の事情などをおしはかってそれとしる」などの意味が出てきます。
ここでは前者の「不確定なことを基にして信じる」の意を頼りに「不確定性のものを受容し、認識できる形へ据え置く」というように定義したいです。
私の制作やその理論である支持体論には、別次元や知覚認識不可能なことへの眼差しが基盤にあり、そういったことを疑心暗鬼の目で捉えるのではなく、ただそれらを受容しそこから考えうる様々なことを思い巡らせて言葉にしたり形にするという態度をとっています。
これはコンセプチュアルアートのように概念として認識できることを最重要にしたり、逆に考えることではなく感じることの中にのみ本当の美を求めるアジア思想であったりとは違う態度を目指しています。
この態度を要するに「察する」状態と考えています。
では私の提言する「察する」ちからは、そうした苦難にどのような効果を期待できるのでしょうか。
効果やメリットがなければ人の社会は動くことがありません。
それはまるでワクチンのように、「不確定性のある事態に対する免疫力」として働くのではないかと感じるのです。
今後も私たちには想像もできないような未曾有の大災害や破壊が待ち受けているでしょう。
それは人間によるものであろうが自然によるものであろうが、過去も現在も未来も等しく繰り返されるであろう事実です。
しかし私たちの価値観の中に、起こり得るかもしれないが確証のない事柄に対して「察する」ことの意義があれば、もしなにかしら想像もつかないような最悪の事態になったとしてもそれを真っ先に受容することができ、適切な行動へつなげることが可能となるかもしれません。
また「察する」には「思いやる」というニュアンスも含まれます。
それは人間以外に対するものでもあり、知らず知らずのうちにまだ見ぬ脅威への事前の対処方法となって、大災害などを未然に避けたり被害を減らすことができるかもしれません。
行き過ぎた資本主義・自由主義・グローバリズムによる末路は、欲望が倫理となっていく世界であり、その果てに何が待っているのかは想像に難くありません。
その過渡期にあたる現在、コロナによる脅威は私たちの社会に対し、ある意味必然性を持って大きな苦難となったのでしょう。
決して、だから良かったなどというつもりは毛頭ありません。
痛みを受けたからこそ、ただでは起き上がらないという意味で、この苦難からそれなりの糧を生み出すことが建設的に前に進むための一助となるのではないかと思うのです。
私の場合はそれを「察する」ちからとして考えました。
今後も制作や理論を進めると共に、実社会との関わりを交えて考察する機会も増やしていこうと思います。
《第4次仮設法によるSpread #9》(2020)
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