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現代のグレートゲームなのか

カノッサの屈辱、アウステルリッツの三帝会戦、神聖ローマ帝国。
世界史には中二病あふれるこういった単語が多々あるが、
「グレートゲーム」もその一つだ。
 
19世紀から20世紀にかけての大英帝国と
帝政ロシアの間での駆け引きであり、
中央アジア、主にアフガニスタンの覇権をめぐっての攻防をチェス盤に見立てた言葉である。
 
ただこれは狭い意味でのグレートゲームであり、
もっと広い意味では、凍らない港を求めて南下するロシアとそれを阻止するイギリスの間で、
極東を含めた各地で対立が起こっている。日本も日露戦争を通してある意味アクターとしての立場であった。
 
グレートゲームは、1907年の英露協商の締結をもって一応の終結をみたが、
その後も二つの世界大戦、冷戦と、プレイヤーを変えて、ソ連とアメリカの2つの超大国、
そして今は中国を加えて行われているとの見方もできる。
激しさを増すウクライナでの戦闘も新たなシルクロードをつくりたい習近平の野望も、
それを止めたいアメリカの世界戦略も、世界史的視点でみれば、
「新グレートゲーム」と言っても過言ではない。
 
冷戦が終わったとき、
世界は平和になったと誰もが喜んだが、ふたを開けてみれば秩序が無くなり、
国家の野望が明け透けになっただけだった。
 
ウィーン体制、ヴェルサイユ体制など、何度も秩序の枠組みはつくられたがやがて壊れ、
そこに勝者も敗者もいない状況が現れる。
現代のグレートゲームの落としどころがどこになるかは分からないが、
また新たな枠組みがつくられ、そこへ新たな挑戦者が台頭して壊していく。
その繰り返しが人類の歴史なのだろう。
 
キリスト教には、「人間はどこから来たのか」、「どこへ行こうとするのか」、「人間はどうやって進歩していくのか」といった教義があるそうだが、ニュースを見ていて、そんな言葉を思いだし、胸がつまされる気持ちになった。


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