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【感想】劇場映画『ウエスト・サイド・ストーリー』

本作におけるスピルバーグのクレジットはDirector、すなわち監督。
なぜこんな一見当たり前のことをわざわざ述べたかというと、実はこの「クレジットが監督のみ」というのはスティーヴン・スピルバーグという作家を語る上で非常に重要だから。

スピルバーグは最新作『ウエスト・サイド・ストーリー』まで約40作品の監督キャリアを積み重ねてきたが、実はその中で脚本を書いた作品は2本しかない。
(『未知との遭遇』と『A.I.』のみ)
基本的には誰か他の脚本家が書いている。
つまり、スピルバーグという人はストーリーを生み出す側ではなく語る側の人なのだ。
彼は誰か他の人が書いたストーリーを映画という形で語ることに心血を注いできた。
よってスピルバーグ作品を語る際のスタンスとして

  • ストーリーやそこから読み解けるテーマを掘り下げる

  • ストーリーに作家性を求める

といった態度はいささかピントがずれて本質を見失いかねないと僕は思う。
本作のようにクラシック金字塔のような原作のある作品なら尚更。
敢えて乱暴な言い方をしてしまえば、

ストーリーなんかどうでもいい!

…さすがに言いすぎかもしれませんw

そもそもストーリーとは何か?
日本語だと「物語」が対応する訳語となりそうだが、実は物語学・物語論という学問においては物語は「ストーリー」ではなく「ナラティブ」と呼ばれる。
ナラティブを構成する要素は大きく2つ。

  • 物語内容(Story、ストーリー)

  • 物語言説(Discourse、ディスコース)

ストーリーは所謂あらすじ。何が起きたか?
ざっくり言うと脚本家が書いたお話。
ディスコースとはそれをどう語ったか?
強いて言うなら「演出」が近い日本語か。

映画は言わずもがなナラティブ。
そしてスピルバーグがその手腕を発揮してきたのは専らディスコースの範囲においてなのである。
その視点で本作を見るとオープニングカットから全編キレキレ。

ディストピアのような荒廃した地面を真上から映したカットで始まり上になめる→横スクロール→下に急降下というカメラワークからマンハッタンの色鮮やかな街に飛び出しての身体的アクションシーンの連続。
一気に観客を惹きつける。
ここで白人とプエルトリコ移民の分断のモチーフとしてフェンスを画面に登場させておくのも見事。
単にド派手な幕開けでツカミはOKというだけでなく作品テーマもしっかり、しかしさりげなく映像的に提示している。
分断のモチーフはフェンス(も繰り返し登場するが)だけでなくドアやカーテンなど「相手との間に何か1枚隔たりがある」という構図で度々登場してくる。

そして映画といえばやはり映像。
本作も撮影監督はもちろんヤヌス・カミンスキー。
光と影を強調した圧巻の映像美。
特に夜のシーンは惚れ惚れ。
そこにスピルバーグの視点誘導演出が加わる。
(厳密にどこまでがカミンスキーの手柄でどこからがスピルバーグの手柄なのかを区別するのは趣旨から外れるので一旦置いておきます)
マンハッタンのアパートをトニー(アンセル・エルゴート)が見上げるシーンの下から上になめるカメラワーク。
体育館でのダンスパーティーやアニータ(アリアナ・デボーズ)たちが街に飛び出して道路を走りながら歌うシーンでは横スクロールのカメラワーク。
大きなスクリーンの縦横に観客の目線を走らせる実に映画的な演出。
当たり前だがスピルバーグは本当に映画が大好きなんだなと思わずにはいられない。
僕も映画館でニコニコでしたw

さらにスピルバーグ演出が冴え渡るのはストーリー的には何てことない平場のシーン。
例えばマリア(レイチェル・ゼグラー)がダンスパーティーの翌朝に前日風呂にも入らずドレスのまま寝てしまったのを誤魔化すシーン。
ストーリー的な情報としては慌てて部屋着を羽織って髪をほどく程度で十分だが、たっぷり隠蔽工作を見せるw
マリアの性格やアニータやベルナルド(デヴィッド・アルヴァレス)ら家族との関係性が自然に伝わってくる。

マリアとトニーが別れ際に翌日会う時間と場所を確認するシーンも。
何回ラリーすれば確認完了するんだというくらい繰り返されることで「こいつら大丈夫か?本当に再会できるのか?」という恋愛のサスペンスが生まれる。
もし職場で仕事についてああいう聞き方をしたら「ごめん、質問はもう少しまとめて一度に聞いてくれない?」と言われそうである。
映画では情報処理は効率的にやればいいというものではないのだ。 

他にもニューヨークを舞台にした映画では欠かせない地下鉄シーンでの「ドアが閉まりかけて乗る?乗らない?」のやり取り(結局問題なく2人とも乗れる)や、銃を買うシーンの緊迫したサスペンス(ストーリー的にはすんなり買っても「銃を手に入れた」という情報量は変わらない)など挙げればキリがない。
神は細部に宿ると昔から言われるが、それを体現したような演出のオンパレード。
終盤の「あり得ない方角から人が出てきた!」と驚いたら「煙突から入ったんだ。サンタみたいにね」というオチは「ここまでハラハラドキドキさせなくても…」と思わないでもなかったがw

もう一つ本作を語る上で言及しておきたいのが、コロナ禍を経てミュージカル映画が盛り上がっているという時代の流れ。
2021年に僕が見た範囲だけでも

直近では『シラノ』も2/25(金)公開ですね。

大半にリン=マニュエル・ミランダが絡んでいるというのも凄い。
コロナ禍で映画館が一時閉鎖して動画配信サービスも普及したことで「わざわざ映画館で見たい作品か?」というのがライト層(月に何本も映画を見る人ではなく月1ぐらいの層)に足を運んでもらう上では大切だ。
その点、ミュージカルは自宅のテレビ画面ましてやスマホ画面ではなく巨大スクリーンと良い音響で体験・体感したいという意欲を駆り立ててくれるってことなのだろうか?
まぁ本作はアメリカでは興行的には苦戦してるみたいだが…
(原因はイベント価値でさらに上を行く『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』に完全に食われたから)

そんなミュージカル映画全盛時代に本作はどんな回答を提示したのか?
上で挙げた作品はどれも良かったが、本作を見た後だと「映画の形をしたミュージカル」だったのではないかと思えてきた。
もちろん、そうであっても現代ミュージカルの第一人者であるリン=マニュエル・ミランダが監修するからには一定以上のクオリティは超えてくるわけで決して駄作ではない(念のため)
ただ、映画という意味ではスピルバーグがちょっと格の違いを見せたかなという感じがする。
本作は間違いなく「映画の形をしたミュージカル」ではなくミュージカルを取り込んだ映画であった。

じゃあ映画ってそもそも何なの?という話はコロナ禍における動画配信サービスの隆盛や『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』の“出現”を経てますます混迷を極める問いになってきているのでまたの機会に…

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