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私と日記とバカボンパパと 〜あるいは無宗教者の自己肯定に関する考察〜

 お久しぶりです。来シーズンから、キュアメガネとしてプリキュアに加入する予定の手塚です。さて。近頃、就職活動の仕切り直しが必要だと感じ「日記」を読み返しています。ページを捲るたびに黒歴史が出てくるので、日に何度も発狂しそうになっています。来春、プリキュアになる予定がなければ、「うわぁあああ」と叫びながら(*1)インド行きの飛行機に飛び乗っていたことでしょう。(*1「キェーーー」かも。もしくは「ザケンナーーー」。)


 先ほど「日記」と書きましたが、その日のできごとに限らず、考えたことや感じたことを、何から何まで書き連ね、途中からは読書ノートを兼ねた代物です。これを日記と呼んでいいのでしょうか。閻魔帳とでも呼んだ方が適切かもしれません。僕が自分のことを何でもかんでも書いてしまうせいで、地獄における雇用を一つ奪っていやしないかと心配です。お互い頑張ろうな……。地獄の就活生……!


 noteをご覧になっている皆様はお気づきかと思いますが、私には駄文をこねくり回してダラダラと綴ってしまう悪癖があります。「日記」もそんな調子なので(推敲してないぶん余計に酷い)、爆弾のような自称「日記帳」が33冊(ヘッダー画像参照)。死んだ時にどう処理するべきかと思案しているのですが良い案が浮かびません。現時点での第一候補は、DEATH NOTEの月くんみたいに、引き出しにガソリンを仕込むという案です。ただし、30冊もあるとちゃんと燃えてくれないのではという懸念があります。いいアイディアがあれば教えてください。

 じゃあ、今、処分してしまえばいいだろうという声も聞こえてくるような気がしますが、それができれば苦労はしない。ノートに詰まっているのは文字だけではない。言霊なんていう言葉があるけれど、魂や怨念のようなものが込められているような気がしてしまう。霊魂が宿っていて、全部見られたら死んでしまう……何かに似ていると思ったら、これってハリー・ポッターに出てくる、名前を言ってはいけないあの人の分霊箱じゃないか……!とアホなことを想う。日記を読まれた恥ずかしさで死んじゃう系ヴォルデモートが居たらマヌケで面白いなぁ。コロコロコミックに、そういう設定のパロディギャグマンガ載ってそう。妄想は尽きない。

 こんなものを書いている時間を、もっと有意義な活動に使っていれば……と思わないこともない。そうしていたらきっと、大学受験にはサクッと成功し、キラキラ大学生として四年間を過ごし、とっくの大昔に社会の一員として、バリバリバリっと働き始めていたことだろう。でも後悔はしてない。大学楽しかったし。就活していて、できることより、できないことが自分の本質なんじゃないかと思うようになった。この言葉に深い含蓄があるワケではない。カッコつけて、それっぽいこと言ってみただけ。

 「日記」に書いてあることの大半はくだらないこと。堂々巡りも多い。だけど、時々、「自分おもろいやん!」って思いたくなる一節が見つかる。そういう発見(発掘?)で、ほんのちょっと自己肯定感が上がる。

 私は自己肯定感が低い方なのかもしれない。面接官にも、エントリーシートを見て自信ないのかなって印象を受けたと言われた。そうかな?言われてみるとそんな気もしてくる。浪人の後遺症。ということにしておこう。で、これも最近やっっと自分の言葉にできたことなんだけど……宗教を信じられない人間は、自分で自分を肯定してやるしかないんじゃないだろうか。高校生のころ「信じてないんじゃなくて、知らないだけ」なんて言葉を目にした。石原千秋先生だっけ。大学に入ってから、知ろうとはしたつもり。だけど、やっぱり自分の信条としては、受け入れ難い。不勉強もあるだろうが、最も欠けているのはどうやら「まず信じる」姿勢のようだ。そうは言っても、いつまでも導きを待っている訳にもいかない。気づいたら25歳になってるし。それも25歳(無職)だし。

 一部の宗教は、人間を総合的に肯定してくれる性格を持っている。全人的肯定。全面的受容。ありのままのその人を肯定する。神の愛?悪人正機も?一方で、宗教を信じきれない人間が肯定を得たいと思ったら、まず「結果の結果」としての肯定を追いかけるんじゃなかろうか。足が速い。勉強ができる。仕事ができる。話が面白い。お金を持っている。気のいいやつ。その結果としての肯定。大人になるにつれて、「結果の結果」以外の肯定を得る機会は減っていく。第一、結果を出すのだって簡単じゃない。もう立ち上がっただけじゃ誰も褒めてくれない。

 「結果の結果」以外の肯定が皆無とは言わない。家族が存在そのものを肯定してくれることもあるかもしれない。嫌なところが目に付くけど何故か憎めない友人というのもありそうだ。恋人ができて自分を丸ごと受容してもらうことで自己肯定感が回復して色々と上手くいくようになったなんて話も耳に挟む。だが、家族との関係を今更どうこうできるわけじゃない。何故か憎めない人には狙ってなれるもんでもないし、恋人を作った上で良好な関係を築き、それを維持し続けるなんて「結果」を出す以上に難しいミッションだろう。イーサン・ハントだって苦戦するに違いない。自己肯定感は自分が生きることの肯定とも密接に繋がっている。そんな重要なことを他者に依存していいのか?生殺与奪の権を他人に握らせているようなもんじゃないか?

 ダメな自分をダメなまま愛しんでやれて、尚且つ自分にコントロールができるのは自分自身だけ。無条件・無前提の自己肯定は自分にしか続け得ない。殊更、肯定する要素が見当たらなくても自分で自分は「これでいいのだ」って肯定する。間違いだらけでも総合点で花まるをつけてしまう。もちろん、僕自身いつもできているわけじゃない。願わくばこうありたいという願望。つまるところ、当面の僕の目標はバカボンのパパです。

By手塚、改めキュアメガネ、もしくは未来のバカボンパパ



注:既にお気づきの方も中にはいるかもしれませんが、ホントはプリキュアになる予定は無いです。出来心でウソをついてしまいました。申し訳ありません。

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