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【読書録20】教養とは、我々が知らずに受け取っているモノに気づくこと~近内悠太「世界は贈与でできている」を読んで~

 この本のことは知っていた。正確に言うと、NewsPicksパブリッシングの出版であり、タイトルは知っていて、装丁は本屋で見たことがあった。
 しかし全く手に取る気がしていなかった。タイトルから、「金銭的に余裕がある人は、寄付をすべし」というような内容と勝手に判断していた。

 ある方から読むことを薦められ、図書館で借りることにした。人気のある本であり、予約から約半年、ようやく借りられる時がきた。
 読み始めると、一気に読了。読書を通じて、自分の認識が拡がったという感覚を持った。言語化できていなかったものが、言語化できたという感覚であろうか。
 先月、出口治明さんの「宗教と哲学全史」を読んだところというのも、哲学書である本書を読んで、面白いと思わせてくれた一因かもしれない。そう考えると、本の縁というのも面白い。

「贈与」 お金で買うことのできないもの

 著者は、哲学を、「人類の幸福な生存のための概念つくり」とし、「お金で買うことのできないものおよびその移動」「贈与」と定義づけ、本書でその概念化に挑む。

 本を読んだ後、そのポイントを要約するというのは大切なことであるが、本書は、要約せずに一文一文じっくり味わいたい本である。
 サピエンス全史、ウィトゲンシュタインから星新一のSF小説、テルマエロマエ、サンタクロースまで本書では、「贈与」の概念化に向け、様々なことを取り上げる。そのひとつひとつによって「贈与」の性質を明らかにしていく。
 表紙にそれら本書で取り上げられているものが書き記されているのは、本書の特徴を端的に表すものだからであろうか?

資本主義の「すきま」を埋めるもの

 贈与は、市場経済の「すきま」にあるとする。
市場経済を「ギブ&テイク」、「交換」で成り立つ社会であるとし、それがあるからこそ、贈与は、説明がつかないもの(アノマニー)として現れるという。

  ちょっと、わかりにくいところであるが、美しい景色を見たり、おいしいものを食べたりすると、それをシェアしたくなる気持ちも「贈与」の一例と言われるとしっくりくる。

 また著者は、クルムドコーヒーを立ち上げた影山知明さんの著書から以下のようなことを引用している。

交換を「等価」にしてしまってはダメなのだ。「不等価」な交換だからこそ、より多くを受け取ったと感じる側がその負債感を解消すべく次なる「贈る」行為への動機を抱く。こうしたお客さんへの側への「健全な負担感」の集積こそが財務諸表にのることのない「看板」の価値になる。

 「等価」な交換でないもの。市場経済という眼鏡をかけてみると、アノマニーであることに「贈与」としての価値がある。
そして、その「贈与」に気が付くには、想像力が必要であるという。

 このくだりで思い浮かんだことがある。
円覚寺の横田南嶺老師が説教の際に必ず一番最初に言う言葉である。

「今日ここまで生きてこられたことの不思議に感謝して手を合わせましょう。両親、家族、先生、友人。生まれた時は何もできなかった自分に今日ここまで関わってきてくれた方すべての方とのご縁に感謝しましょう。」

 本書を読んだ後でこのお言葉を思い起こすと、「贈与」に囲まれていたことに気が付きましょうと言われているような気がする。

「贈与」に受取人が気づくことで「贈与」が成り立つ。そしてその「贈与」を受け取った人は、今度は、メッセンジャーとして他者に何かを手渡す使命感を帯びて贈与を渡す側となる。
 その気づきによって私たちの行動や生活が変わり、大切な人との関係性が変わっていくという。

 僕は差出人から始まる贈与ではなく、受取人の想像力から始める贈与を基礎に置きました。
そしてそこからしか贈与は始まらない。
そのような贈与によって、僕らはこの世界の「すきま」を埋めていく。この地道な作業を通して、僕らは健全な資本主義、手触りの温かい資本主義を生きることができるのです。

 何も受け取っていないのに行う贈与を「自己犠牲」、(受取から始まっていないがゆえに)見返りを求める贈与を「偽善」、「自己欺瞞」とする。

巨人の肩に乗って

 そして、贈与に気づく想像力を持つことこそ、「教養」であるという。

 勉強する目的を以下のように言う。

贈与は、受け取っていた過去の贈与に気づくこと、届いていた手紙の封を開けることから始まり、それは「求心的思考/逸脱的思考」という想像力から始まる。それを実行するきわめてシンプルな方法が勉強である。

「逸脱的思考」とは、常識の枠組みを疑うことであり、「求心的思考」とは、常識の枠組みを疑うのではなく、それを地としたときに発生するアノマニーを説明する思考のこととの事である。

さらに著者は、トマス・クーン「科学革命の構造」を引用し、以下のように説明する。

アノマニー(変則性、変則事例)とは、科学的常識に照らし合わせたとき、うまく説明のつかないもの
発見は、変則性(アノマニー)に気付くこと、つまり自然が通常科学に共通したパラダイムから生ずる予測を破ることから始まる。

 まずは、何はともあれ、過去の人たちが作り上げてきた、「世界」と出会う。その出会いなくしては、「求心的思考」も「逸脱的思考」もできないということである。
 言い換えると、我々は、『巨人の肩に乗る』からこそ、さらに遠くに行けるということであろう。過去からの知識・知見の積み上げこそ、「贈与」なのだと気づく必要があるのである。

どれだけ多くを知っていたとしても、それだけでは教養とは言えない。手に入れた知識や知見そのものが贈与であることに気づき、そしてその知見から世界を眺めたとき、如何に世界が贈与に満ちているかを悟ったものを教養ある人と呼ぶ。そしてその人はメッセンジャーとなり、他者へと何かを手渡す使命を帯びるのです。使命感という幸福を手にすることができるのです。

 そして歴史を学ぶことの重要性を説く。歴史を学び、その世界に生まれ落ちていたらということを想像し、その世界から戻った時に、この現実の世界を見渡すと、あまりに多くのものが与えられていることに気づくはずという。このくだりが一番印象的であったので引用したい。

今、僕らは近代民主主義、近代国家、市場経済市システムという言語ゲームを生きています。そしてそれを当然のものとして受け取っています。ですが、これらの制度も先人たちの努力の結果として、偶然現代の僕らのもとに届いたものです。ある歴史的な出来事にはさまざまな偶然的なファクターが関与している。歴史を学ぶということは、そこに何ら必然性がなかったことを悟るプロセスでもある。
この世界の壊れやすさ。
この文明の偶然性。
これに気づくために僕らは歴史を学ぶのです。

 見えていなかったものを見えるようになることで「贈与」の受け取り手であることに気づくこと、そして、気づいたからこそ、使命感をもって「贈与」のメッセンジャーになること。大切である。
 「贈与」の概念化で見えないものが見えるようになり、行動と生活が変わり、大切な人たちとの関係が変わる。確かにその通りであった。




 
 


 


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