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山奥に暮らす私はそれでも都会に憧れる

noteはじめたばかりの「ふくよかなネコたち」です。見に来て頂き、ありがとうございます。
自己紹介らしきものがまだでしたので、ここで改めてわたしについて、少し、、、、といいつつ寄り道ばかりしてだいぶ長文になっておりますが、文章を残しておこうと思いました。時間がある時にでも、暇つぶしに、読んでいただければと思います。自己紹介になっているのか、単に自分の考えを吐き出してるだけなのか微妙ですが、、、、。

私の住む場所(町から山へ)

私は、とある雪国の小さな集落に暮らしています。一番近くのコンビニへは車で10分以上、ちょっとスーパーに行きたいとなっても、車で約30分ほどかかる、程よい?山暮らしです。もちろん近所に自動販売機はありません。他の交通手段はデマントバスが予約すれば指定の時間に数本来るのみ。しかもそのバス1本では山から下るのみで、ちょっとした町なんかへは、やはりバスの乗り継ぎをうまく使わないとたどり着けないという、車なしにはほぼ生活困難な暮らしです。

私たち家族は、私が小学中学年頃までもっと町の方にある地域の団地暮らしでした。子供が歩いていける場所にスーパーやコンビニもあり、そこそこの暮らしやすい場所ではありましたが、一番下の弟が生まれ5人家族になり、しばらくして、我が家は引っ越すことになります。当時住んでいた場所から車で30分ほど離れた里山の小さな集落に一軒家を借りれることになり、当時小学校で飼っていたウサギの赤ちゃんを1匹もらい引っ越しました。
その後、半年余りの間に犬1頭、猫1匹。うさぎも数匹、ニワトリ、そして猫猫猫、、、と着々とちいさなちいさな夢の動物王国が出来上がっていきました。

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場面緘黙な子供時代の後ろ向きな夢

当時の私は「場面緘黙(かんもく)」という、家では普通に話せるのに、学校など場所が替わると全く話せなくなってしまう性質を持っていました。小学生くらいの頃はクラスメートがたまにうちに遊びに来てくれたりして、そんな時も「家だけど学校の子がいる」という設定がダメで話せなくなっていました。逆に全く知らない人、学校での私を知らない人に対しては普通に話すことができました。自分でも「なんでかな~」と不思議でしたが、当時は「場面緘黙」自体専門家でなければ知られていない時代だったので、ただただ無口な子というキャラクターだったと思います。

ただ私はその事よりも、家に帰れば動物もいるし、何でも話せる家族がいる事が安心でき、学校でも家でも本を読んだりして自分の世界に入る事が好きでした。小学校の頃から通っていた街の方にある図書館に、引っ越してからも頻繁に家族で通ってもいました。そんな感じで、人と話もまともにできないなら、中卒で働くのも難しいし、少なくとも高校には入ろう、絶対に知っている人がいない高校へ行って「しゃべれない私」を知らない人達になら、もしかしたら「話せる」ようになるかもと淡い期待をこめて「誰も知らない高校へ行く」事が中学生だった頃の望みでした。

「望み」と言っている割には、なんだかマイナスなイメージですが、なにもすべてプラス思考、明るいものである必要はないと思います。ただ自分にとっては少なくともそれが「よいこと」であれば。

そんな望みはあっさり叶いました。本当に誰も行かない高校に入学して、奇跡的に?私の事を全く知らない子が入学してまもなく声をかけてくれたのです。それをきっかけに普通に話せるようになり、その年の夏ころにはアルバイトもするようになっていました。そして、話せるようになってから、何かの機会に中学校まで一緒だった子に会っても普通に話ができたのです。ただそうやって、普通に話せるようになっても、今までそうやって話の出来る友達がいなかった時期が長かった為か、いつも一緒にいる数人の友達とは話せるのですが、なかなかそうでない人とのコミュニケーションは苦手でした。

高校時代は友達と遊んだり、バイトしたり、子供の頃から好きだった本に没頭する時間も少なくなりましだが、今度は「映画」をよく見るようになっていました。レンタルビデオを借りて、海外の映画をよく見ていていました。そのせいか日本ではない「非現実的」な外国の暮らしに強く憧れていました。行く予定も何もないのにニューヨークの観光ガイドブックなどを食い入るように見たり、聞くだけで覚えられるという通販の英語学習のキットを買ってひたすら聞いたり、、、。現実になるかどうかは全く分かりませんが「どうせ英語も覚えられないし」「アメリカなんて行ける訳ないし」と思うより、そうやって「いつか行けるかもしれない」と空想しながら映画を観たりガイドブックを読んだり、英語の勉強をしている時間はすごく楽しかったのを覚えています。
高校では卒業までに「この仕事がしたい!」「将来〇〇になる」という強い意志はなく、少なくとも興味を引いた高校に来た求人にあった数少ない「県外」「東京」の仕事を選び、卒業後、約10年間暮らした小さな里山の集落を離れました。

早すぎるUターン(出戻り)

東京では、職場の上の階が地方から上京した社員たちの寮になっていて、寮と言っても普通のアパートの2DKを2人でルームシェアするシステムになっていました。一緒の部屋の子はとっても話しやすい優しい子でしたが、それでもやはり気を遣いましたし、何より働く場所が下にあるだけで、休みの日も休んだ気がせず出かけてばかりいました。とにかく半年間の間に私は映画館にばかり行っていた気がします。映画が好きなのでそれで結構助けられていましたが、初めての家族と離れての一人暮らし、初めての社会人生活、そして何より物心ついたころからの動物との暮らしが初めて途絶えた寂しさもあり、心身ともにヘトヘトに疲れてたった半年くらいで出戻ってしまいました。

「卒業したら都会に出て、バリバリ働いて、都会にはきっといろんな人たちがいて、大変な事もあるだろうけど、乗り越えて楽しい事がいっぱいある」と高校の頃、ふわふわと考えていた妄想は、あっけなく終わり、何もかも失敗したなあ、、、、と思ってましたが、実家に帰ってきて本当にほっとしたのを覚えています。
高校の頃、卒業して上京したら戻るつもりもなかったので、みんなが高校の頃すでに車の免許を取っていたのを横目に「わたしには必要ないし」と呑気に過ごした日々を呪いながら、出戻った後あわてて住み込みで短期間で取れる県外の教習所を申し込み、次の年の春には新しい職場へ通う事になります。

地元へ舞い戻り再就職

高校の頃レンタルビデオで映画の面白さにはまり、上京してから映画館に現実逃避した私の、地元での最初の職場はなんと映画館でした。たまたま春に募集していたのです。まるで夢が叶ったかのようですが、本当に偶然たまたまでした。

新作映画のチラシやポスターに囲まれて、劇場内から聞こえてくる映画の音響を肌で感じながら働く事ができて、東京時代に(いう程いませんでしたが)散々映画館に通ってた私がビックリするだろうなと思いながら、楽しいばかりの日々でした、、、、と言いたいところですが、現実にはあくまで仕事なので、いろいろ、ありますよね。
人気の映画上映があると、小さな映画館ながら受付に長蛇の列ができて、あげく席が無いとお断りすると「ここまできたのに!」と激高されたり、駐車場が空いてなくて停められない!前に停めた車が出ないと帰れない!なんでこの映画を上映しないんだ!、、、等々、中には映画の内容について「こんな内容で金を取るな!」と理不尽に怒られたり。

夜中に帰ってきてコンビニ弁当(チャーシュー入りチャーハン:なぜか覚えている)を毎日食べても、間違いなく、あの頃が人生で一番痩せていました。
そして、短い期間でしたがその映画館に勤めている間に、私は懲りずにお金をためて、もう一度上京しようと考えていました。ところが、おもわぬご縁がありイギリスに半年ホームステイする機会ができたのです。高校の頃憧れていたアメリカ熱はすっかり冷めていましたが、海外の生活がまさか自分にできる機会なんてこれを逃したら一生無い!と、映画館を思い切って辞め、貯金をかき集め、イギリスへのホームステイをする事になったのです。

まさかの日本脱出、しかし私は私

「イギリスに半年いる間に英語もペラペラになって、なんなら仕事も探して、、、、」なんて妄想を東京時代同様、懲りずにしていたか、覚えていませんが(たぶんしてた)少なくとも「日常会話」程度というレベルの高い英語力がある訳でもなく「何とかなるだろう」とイギリスに突撃したのはいいものの、ホストファミリーと英語はしゃべれなくてもジェスチャーなどで積極的にコミュニケーションがとれる器量もなく、日本で場面緘黙をなんとか乗り越えたように見えた私などが、当たり前ですが英国人にグイグイ行けるすべもなく結局イギリスでも私は私でした。当たり前ですが(繰り返し)

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語学留学ではないので、毎日学校に通うわけではなく、そのお家にいた猫と遊んだり、犬の散歩で時間を潰したり、私の面倒はほぼその犬猫が見てくれていた気がします。見かねてホストマザーが途中から週に1日通う外国人に英語を教えてるクラスを探してきてくださって、途中からそこに通いましたが、英語を習っているといってもイギリスで仕事をしている異国の方々の英会話レベルはネイティブの方からしたらたどたどしいのかもしれませんが、私からしたら全くのペラペラ状態で、多分文法や英語の書き方的な事を詳しく教えてもらいに通っている感じでした。そんな中にコミュ障の日本人の私、、、、ええ。

夢の異国でのホームスティを、ただただ時間が過ぎるのを待っている。今思い出しても、せっかく憧れの海外暮らし(?)なのに何してたんだかと思いますし、知り合いの知り合いの知り合い?くらいの関係で、見ず知らずの謎の日本人を受け入れて下さったホストファミリーの方々にも、ただただすいませんと言う思いでした。しかしながら、そんな日々でも楽しい思い出ももちろんありました。

それでも好きな事は見つけられる

海外の暮らしを間近に見られたことはもちろん、ちょうどその頃ホストファミリー宅はセルフリノベーション中で、私が借りていた個室も私が帰国した後に大幅に改装する予定みたいでした。ホストマザーもホストファーザーも仕事を持っているので、忙しい合間の休みの日には、まだ小さい子供たちとまともにコミュニケーションも取れない日本人(私)を引き連れホームセンターやオープンガーデン、アンティークマーケット、等を一緒に見て回りました。英語が喋れなくても、文字が読めなくても、その場の雰囲気、見た事もない世界にとてもワクワクした事を覚えています。そして、さんざん吟味して買ったペンキで居間の壁を塗るのを手伝った事がとても新鮮でした。今では自分でDIYして壁を塗る事は全然珍しくありませんが、当時はまだまだ室内の壁を塗るのは日本ではそれほどメジャーではなかったのです。そのお家はいたるところをそうやって壁をペイントした形跡があって、特に子供部屋はいつか映画で見たように本当にカラフルなピンクやイエローやブルーなどでペイントされていて「THE外国の子供部屋」に密かに感動しました。

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帰国してから、早速影響を受けまくった私がした事は、英会話の勉強、、、ではなく部屋の壁を塗り替える事でした。現在に至るまで英語は話せませんが、その頃刺激を受けたDIYはずっと続いており、昨年から住んでいる古民家の自宅も4年かけてほぼ自分たちで解体から始まり、近所の大工さんに手伝ってもらいながら、ほぼセルフビルドで作っていきました。そのうちにこの古民家の事も書いていきたいです。

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再びのUターン

そして、地元でその後も新たに職を転々とし、20代の後半になってまた、もう一度東京へ行きました。今度は自分で住む場所と仕事を見つけて。転職の繰り返しと地元ではない東京での1からの職探しは、高校の頃の新卒時と比べると格段に難しく、それこそ10ケ所以上の面接を受けましたがなかなか決まりませんでした。最終的に正社員はあきらめバイトで何とか見つけた場所は未経験者歓迎の人手が常に足りていないオフィス街の飲食店でした。フルタイムで、休みも月に6日あるかないか。1日10時間以上の勤務で 朝から出勤して終電近くまで勤務する日が続き(バイトなので出るだけお金にはなりますが)さすがにホームシックになる余裕もなく、もっと時間に余裕のある生活ができる新しい仕事を探す気力体力もなく、少ない休みの日は気分転換にやはり出かけてばかりいて、 自炊など一切せずに外食ばかり、金銭的にも日常生活を送るのもままならず、結果2度目の帰郷となりました。

ある意味全く最初の上京と同じことを繰り返してるようですが、10代の終わりに上京した時と大きく違った事は、失敗してもいいし、どうなるか分からないけど、東京が嫌な思い出だけの場所にしないで、ダメだったらまた戻ればいい、くらいの軽い気持ちを持つことで、仕事はきつかったのですが、日々をあの頃よりは楽しんで過ごせた気がします。

もちろん最初の上京の時も両親は絶対に戻ってくるな、とは言いませんでしたが「学校を卒業したら自立しなきゃいけないんだから、東京でずっと頑張るんだ」と誰にも何も言われてないのに、勝手に理想を作って、がんじがらめになって、自分で自分を追い詰めていました。 仮にあのまま東京で何とか日々を無理やり過ごせたとしたら、果たして東京が楽しい場所、ワクワクする場所になったかと言われれば、生活に追われて、そんな事を考える余裕もなかったと思います。そして逆にずっと地元にいたとしても「ここではないどこかに行きたい」と思い続けて、自然豊かな里山暮らしの恩恵も感じれずに、グダグダ過ごしていたかもしれません。

私は結局2回とも「東京」とうまく付き合えず、山に戻ってきましたが、「東京」はいまでも「ワクワクする場所」であり、いつまでも「憧れの存在」です。東京が嫌な思い出で終わらずに、そういう場所にまた戻ったことが2回目の上京のよい収穫でした。

三つ子の魂、、、とはこの事?

そして分かった事は、実家を離れる事に戸惑いはなかったのですが、動物と離れる事を深く考えず始めた暮らしは、疲れていようが、楽しく過ごしていようが、常に心がピリピリしていて、やはり私には動物なしの生活は考えられないという事でした。

私は動物が好きで、実家にいる時は必ず絶えず動物に囲まれていました。そして子供の頃は場面緘黙であったため、家族以外の人たちとの交流がうまく持てずに、その分動物たちに依存して過ごしていました。
だけど、わたしは出たがりで、子供の頃から休みの日にはどこかに「お出かけ」することが大好きでした。この田舎町?では休日のジャスコやヨーカドーに連れて行ってもらえるだけでお祭り騒ぎでした。。。
それは大人になっても変わらず、いつも「ここではないどこか別の楽しい場所」に行きたがっていました。そうやって出たり入ったりしている間も「彼ら」動物たちは時にメンバーは変わっていきましたが、常に私を待っていてくれました(別に待ってない??)

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頭の中にある好奇心の飾り棚

夢や希望はなにも、みんなが憧れる場所、まだ見ぬ世界、ここ以外のどこかにある訳ではありません。ただそれをじっと待っているのではなく、遠回りして、無駄な動きをして、グチャグチャ考えて、、、そうすることでいつか気づく時が来るのだと思います。住んでいる場所は関係ありません。年齢も関係ありません。想像する事と好奇心を忘れないようにしていれば。身近なところにもゴロゴロ転がっていると気が付きました。でもそれを気が付くには私には「無駄」な動きが必要でした。そしてそれも人様からしたら「無駄」かもしれませんが決して無駄ではないのです。

長々と書き連ねましたが、結局私は動物たちと暮らせる山暮らしに今は落ち着いています。もちろん都会に居ようとどこにいようと、動物と暮らしている方はごまんといらっしゃいますが、私にとっての彼らとの暮らしはこの山にあり、この先どうなるか分かりませんが「今のところ」満足しています。それでも時々都会に憧れ、都会が舞台の本や映画、今はYouTubeで行った気になって楽しんでいます。。。でも、やっぱり時々は「遊び」に行きたい!!三つ子の魂百まで、、、ですから。

誰にでも頭の中に、好奇心の棚があって、その棚にはそれまでの経験と、想像した事と、興味のある事、楽しい事、時につらかったりする事、だけど大事な事が少しずつ飾られています。飾りは時に壊れたり、なくなったりするけれど、年をとって忘れても大切なものはずっと残っているのだと思います。頭の中の棚は日々入れ替わり、新しい飾りと、古くて大事な飾りが共存しあっています。

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「話すことが苦手」な私はここで「おしゃべり」していこうと思います。ほぼ独り言です。独り言なので近くを通れば聞こえます。その程度に聞いてもらえればなあ、と思います。

ながいながい、独り言。通りすがりに聞いて下さりありがとうございました。

では、また(=^・^=)


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