森のフクロウ

裏庭でひとり遊びをするように 気ままな日々の心模様

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最近の記事

心の集中観

心の集中観のなさをひしひしと感じるこの頃。 やりたいことややるべきことは沢山あるのに、その海に溺れて、心が落ち着かなくて身体がどこにも着地しない。 そして、やっていないことに打ちのめされてまた心が彷徨うという負の循環。 何かに強制的に縛られて、やることが絞れると、心は安心して目の前のことをやりだす。 自分で開拓して進んでいくのが苦手な自分につくづく向き合わされる。 目の前のことに集中することは、ある種機械的な動きだし、そこに向かうまでの取捨選択やどう改良を加えて、物事を進

    • 曇り空

      “今日の呟き“ モヤモヤするとき、苦しいとき、 それはどこから来てるんだろう? たとえば、そのきっかけとなる出来事。 ある人の言葉や反応を見聞きして落ち込むとき、 ふと自分の嫌な面を見て落ち込むとき、 その前後で、特に私と世界に何か大きな変化があったわけではないのに、 特に世界も私も昨日から大して変わってないのに、 なんでこんなにも心が曇ってしまうんだろう。 お腹がぐわぐわして心がざわざわするんだろう。 でもその逆もある。 誰かとの些細な会話に、さっきまでのざわつきが

      • Senseが生まれる場所

        "sense" 感覚(機能)、(漠然とした)感じ、気持ち、感じ、意識、(美・方向などに対する本能的な)センス、勘、判断能力、(知的・道徳的な)感覚、観念 最近、歌手や絵描き、小説家etc..そんな芸術家と言われる類の人たちの、その先鋭的な感性に殊更に感心してしまうことがよくある。 今まではどちらかというと、同じ生み出すとしても、科学者や起業家とかそんな立場の人への敬する気持ちはあったが、かたや、芸術に関しては、あくまで自分の生を彩り豊かにする一助であり、自分の全く別の分野

        • 三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実

          三島由紀夫の映画「三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実」の話題に、昨日仕事場でなった。見た方は、映画内の三島由紀夫と学生との対話が哲学的で全く意味がわからなかったという話をされていた。 私は、以前別の三島由紀夫の映画でこの事実があったことは知っていたが、この事実にも三島由紀夫自体にも詳しくはなく、勝手に政治思想についての議論だと思っていたので、見ていて意味がわからないとはどういうことなのかと俄然興味が湧いた。 そして今朝、全部ではないが少し見てみた。 なるほど。これ

          際立つ境目

          今週末、母の個展を見に鹿児島へ行った。 美大を出たわけでもない母が、突然40代後半になって始めた絵画。当時からポツポツと描き積み重ねていった歴史の総集編のように、今手元にある絵画100点以上が会場に並んでいた。 にわかに決まり、そんなに準備する時間もなかったと思うが、3日間の個展で600人の方が見にきてくださったとのことで、短期間にここまで用意できるエネルギーの大きさを我が母ながら感じた。 それとは別に個展に来てくださる方々を見ていて、今回感じたことがあった。 今のご

          社会と人間の空洞化②

          前回、現代はあまりにも、経済の拡大発展や科学革新というような物理的な充満や進展を求め続けて、生命活動の基盤となる「家」を整える行為があまりに疎かになりすぎてるのではないかと言う話を書いた。 家を整えるというのは、住む家を居心地よくするとか掃除するとかそんな話だけではなく、私たちの命によくよく向き合うこと。 それは、生命活動を支える食や睡眠や生活スタイルなど当たり前に繰り返している生活基盤を整えて、身体と心を良い状態にするということでもある。 生きていれば物理的にも精神的に

          社会と人間の空洞化②

          社会と人間の空洞化①

          コロナ前の一昨年あたりから、友人たちの中で、地方移住が増え始め、世の中の意識変化を感じていた。 私もここ5年ほど、神戸と東京の二重の生活をしていて、東京にしか住んだことのなかった私は、改めて外から見て、良くも悪くも東京の特異さを感じる機会が増えた。 神戸という大きめの都市ですらそうだから、さらなる地方に行けばその感覚はもっとだろう。 それまでも、ふとした時に異質さを感じることはあった。 旅行先の自然溢れる場所から、東京に向かって帰るとき、車から見る景色が徐々に緑豊かな山々

          社会と人間の空洞化①

          資本主義への疑問はまず足元を見直すことから

          これからの生き方を最近よく考える。 コロナ前から生活が変わり始めていて、より自然な生き方とはなんだろうと思いながら生きるようになったが、コロナによりそれにさらに拍車がかかったと思う。 社会全体もそういう流れだと思うが。 私はそもそも、社会における志みたいなものもなく、流れで会計士の資格を取り、大学卒業後、監査法人で大きな上場企業の監査をしていた。 ただ、入ってしばらくしても、仕事に対する情熱が持てなくて、どこかにそんな私が情熱を捧げられる仕事があるのじゃないかと模索し続け

          資本主義への疑問はまず足元を見直すことから

          習慣という名の安らぎ

          今年の春分の日から3年日記を始めた。 叔母がずっと付けていて、「去年の今日、こんなことしてたみたいよ」などと、たまに言ってくれるので、それは漫然と流れて行く時間の中で、薄れて行く記憶を浮かび上がらせる呼び水になるかも、と思ったからだ。 3年日記をいそいそと買い込み、なんなら主人の分まで買い込み、つけ始めて3ヶ月。中々これは脳トレになる。 めんどくさくて寝てしまう日もあるが、そんな時は翌日の夜に2日分つける。 そうすると、すでに昨日の朝のことは、濃ゆいモヤの中。それを少しでも

          習慣という名の安らぎ