習慣という名の安らぎ

今年の春分の日から3年日記を始めた。
叔母がずっと付けていて、「去年の今日、こんなことしてたみたいよ」などと、たまに言ってくれるので、それは漫然と流れて行く時間の中で、薄れて行く記憶を浮かび上がらせる呼び水になるかも、と思ったからだ。

3年日記をいそいそと買い込み、なんなら主人の分まで買い込み、つけ始めて3ヶ月。中々これは脳トレになる。
めんどくさくて寝てしまう日もあるが、そんな時は翌日の夜に2日分つける。
そうすると、すでに昨日の朝のことは、濃ゆいモヤの中。それを少しでも思い出そうとする作業で、中々、脳の筋肉と胎の筋肉が鍛えられる気がする。

3年日記を続けるようになって、何かを習慣化する心地よさを実感するようになった。
心がアンバランスな時ほど、習慣というのは救いになる。

これとともに習慣になりつつあるのが、朝晩のストレッチ。
朝の散歩も一時期やっていたが、これは朝の散歩道がしっくりこないので、気が向いた時だけやることにしている。

身体が驚くほど硬い私は、朝はさらに身体が固まっている。
今までもストレッチを日課にしたりする日々もあったけれど、どうも柔らかくなる実感がそれほどなく、程なくして消滅することが多かった。

今回もまた数ヶ月後にはそうなる可能性も無きにしも非ずだが、今の段階では続く予感を感じている。
身体が硬い人間は、ストレッチにおける少しの負荷が普通の倍となる。だから妙に疲れてしまうのだが、身体を柔らかくすることを意識するのではなく、身体に、今まで使っていなかったその部分が有ること、そして動かせる可能性があることを認識させるのだと感じてからは、あまり負荷を感じなくなった。その動きを少しずつ慣れされる。そうすると昨日より少し楽になる。

また、毎日続けることで、体調や体の疲れ具合がよくわかる。朝はその日の体調が顕著だ。

習慣にするということは、筋力を付けることと同義だ。
やり続けられるだけの筋力。つまり気力なんだけれど、それはやはり鍛えていくものなのだと実感する。
そして、習慣を何個か作ることで、気持ちの切り替えの練習にもなる。
よく筋トレをするときは使っている筋肉を意識しないと効果がないと聞くが、まさに習慣トレーニングもそれ。
瞬間瞬間で、感じるものをしっかり感じる集中力を保ちながらやることが大切だと思う。

常には出来ないけれど、その波もまた感じる。

気力も体力も何もかも疲れ果てているときは、当然休息が大切だけれど、気の散漫や薄れや萎えみたいなものには、習慣というトレーニングは効果がある。

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