社会と人間の空洞化①

コロナ前の一昨年あたりから、友人たちの中で、地方移住が増え始め、世の中の意識変化を感じていた。
私もここ5年ほど、神戸と東京の二重の生活をしていて、東京にしか住んだことのなかった私は、改めて外から見て、良くも悪くも東京の特異さを感じる機会が増えた。

神戸という大きめの都市ですらそうだから、さらなる地方に行けばその感覚はもっとだろう。

それまでも、ふとした時に異質さを感じることはあった。
旅行先の自然溢れる場所から、東京に向かって帰るとき、車から見る景色が徐々に緑豊かな山々からそびえ立つビル群に変わっていく。
いつも見慣れてる景色のはずなのに、それを見るたび、こんなところに住んでて人間大丈夫なんだっけ?と違和感をふと感じる、そんなことがよくあった。
ハワイ島のオフグリッドのジャングル生活の旅から帰ってきた時も、ちょうど東京は夕方の帰宅ラッシュのタイミングで、電車にギュウギュウ詰め込まれてる様子を見て、くらりとした。

でも、しばらくそこにいると、またそのグレーの景色に馴染んでしまう。

神戸の街は、海と山に挟まれ、街が細長く帯状に広がってるから、家から山も海も見える所が気に入っている。一番の繁華街も賑わっているとはいえ、人は東京に比べればかなり少ない。
常に自然が見える環境というのは、時間の流れも変わるし、感性に働きかけるものも変わってくる。中々それは言葉にしづらいが、言葉のさらに奥の世界への影響だと思う。
きっと自然の中に住んだらまたその感覚も一層違うのだろう。

東京はたしかに便利で速い。
5年前神戸に頻繁に来るようになった頃は、タクシーでクレジットカードが使える車がとっても少ないことに驚いた。今はほとんど使えるようになったが。
ここ数年の間も、東京とのタイムラグを感じることが何度かあったと思う。ただ、大して問題はない。

個人的に、東京は良くも悪くも人に埋もれることができる安心感があると思っている。

自然、オーガニック、ナチュラル、、こんな言葉たちは、ずーっと言われて今更感があるし、真偽の程は分からないナチュラル感でパッケージされた商品というのも市場にはたくさん出回っていて、辟易するところもあるし、それぞれの考え方の違いもあるとも思う。

でも、このコロナでの一件を見ると、そもそも人間の中の自然性を取り戻すことが必要なんじゃないかといつも思ってしまう。

経済拡大や科学革新によって社会が進化することが、社会全体の効用拡大みたいになっている。
その裏で、そもそもの日々の生活とか、本質的な人間の大切な部分がおざなりにされて、切り捨てられている部分が多くある。

私も企業に携わり働いている身だが、海外に比べだいぶ遅いとはいえ、最近役員の女性登用が日本でも増えてきている。
いつもそれを見るたびに疑問だったのが、女性の社会に出るってナニ??(私もふと使ってしまうけど、、自分への警鐘も込めて)
つまりそれは、家庭の中にいた女性が企業やフリーランスでもな働いてお金を稼ぐと言うことだが、家庭は社会ではないのか??
むしろ、社会の根幹を担う社会ではないのだろうか。

もちろん、女性が稼ぐことへ疑問を呈しているわけではないし、外で働くことも含め、そこにまったくのマイナスの意識はない。

ただ、自分も含め、
社会という位置付けの中で、生命活動の基盤となる家という場所での活動が、どうしてもおざなりにする意識となっているのではないかと思う。

本当は家の中を整えるというのは、めちゃくちゃ大切な仕事で、食べ物や掃除とか、何を選ぶか使うかとか、使い捨てはしないとかまでちゃんと考えてやれば、結構な仕事だ。
でも、そこの意識がどんどん薄れて、みんな外の経済活動に関与する社会に出ていこうとしてて、その活動のために、大切な部分が逆に効率性を求められてファスト化してて、日々の生活の中で基盤は培われるのに、人間も社会も完全に空洞化してる感じがする。

教育もそうだと思う。
どこの学校に入れるかみたいな話をよく聞くけど、きっと本当は、生物学的な意味で生きる力をつけるってことだけで学べることは多いし、そこを基盤にするべきなのではないか、と思う。

ただ、そうすると、やはり家の中を整えるためには、お金が必要で稼がなければ、、という話になるのだと思う。

それは、次回で考えてみる!おそらく出だしの地方移住の話にもつながってくるはず。

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