社会と人間の空洞化②

前回、現代はあまりにも、経済の拡大発展や科学革新というような物理的な充満や進展を求め続けて、生命活動の基盤となる「家」を整える行為があまりに疎かになりすぎてるのではないかと言う話を書いた。

家を整えるというのは、住む家を居心地よくするとか掃除するとかそんな話だけではなく、私たちの命によくよく向き合うこと。
それは、生命活動を支える食や睡眠や生活スタイルなど当たり前に繰り返している生活基盤を整えて、身体と心を良い状態にするということでもある。

生きていれば物理的にも精神的にも当たり前にストレスがかかるし、心や身体が摩耗したりする。
それをちゃんと見つめて対処するには、そもそもそれをするだけの時間と心のゆとりが必要だ。
そして、その原因や対処法に辿り着くだけの、知識と知性と思考も。

私自身、状況や心が不安定な時ほどそれが難しくなる。
そして、対処の仕方が分からなかったり、問題が多岐に絡みあってたりすると途方に暮れる。
そうして、日々のサイクルに飲み込まれ、何となく時間が過ぎ去り、目の前から問題がいなくなると解決したかのように思うけど、やはりふとした瞬間にそれは顔をのぞかせる。

生活基盤と書いたが、人間が社会性の生物である以上、生活があって社会があるという単純な話ではないのは確かだ。
それらは互いに影響して、切り離せるものではないし、どちらかが必ずしも先立つものでもない。

でも、現代は、至る所で社会に重きが置かれ過ぎていると思う。個体より全体に基盤が置かれている気がしてならない。


話がズレるようだが、よく世間でいう言葉に、
「人に迷惑をかけるな」という言葉がある。
色んな人のコメントでも、「人に迷惑をかけない範囲で」とか「迷惑をかけるようなことはするべきではない」とか、よく聞く。

それを聞くたびに、それこそなんと身勝手な言葉なんだろうと思うことがよくある。そして非常に無理のあることだとも思う。
悪意のある心や体を傷付ける行為を否定するのは分かる。
ただ、これらはよく、そういったものではない、他者の悪意のない行為を牽制するためや、批判するためにもよく使われる。

だから、社会全体が、周りの目を気にしながら批判されないよう、個体を少しずつ抑圧している気がする。


人間は生きていれば何かしら周囲に影響を与える。人によっては迷惑だと受け止める人もいれば、そうでもない人もいるだろう。
そんな中、人に迷惑をかけないように生きるという技は、自分の感性を保ちながらでは中々難しく、人は知らず知らずのうちに自分のどこかを抑圧している。

迷惑云々の話だけでなくても、人は社会に貢献すべく一生懸命生きている。
社会の中における誰かの評価で、一喜一憂しながら生きている。
もちろん例外もあると思うが。というか例外になりたいが。

そんな中で、社会全体の物理的な進化発展を目指し続け、私たちの意識にはそれがデフォルトでインストールされている。
その全体の目標に一矢報いるため、多くの人がが社会活動に精を出している。

別にそのこと自体を否定したいわけじゃない。
人間が社会性の生物である以上、時には多少の個体の負担よりも全体を優先することもあると思う。

でも、やはりどうしても、社会性と個体性の間で、歪みが生まれているのではないかと思わずにはいられない。

社会において意義や刺激を求めてしまう、それはどこから生まれてきているのか?


確かに現代において、先進国に生きている私たちは、食べ物の確保も住環境の確保も、基本的には生命活動を維持することは難しくない。
であれば、外の社会へ目を向けて、発展拡大を目指すべきなのか。

その食の質や、生まれる背景、住環境にしても都会における不自然な密度や環境。また、そもそもの経済格差。
それらの起源を疑う必要があるのではないか。

そしてそもそもの私たちの身体や心。
その本来の自然な姿を模索する必要があるのではないか。

少し話は脱線して、以前読んだサピエンス全史に書いてあった話だったと思うが、
ホモ・サピエンスがその昔、狩猟民族から農耕民族に移り変わった時の話で、非常に興味深いことが書いてあった。

狩猟民族時代は、狩猟の場を求めて移動するために、その負担に耐えられない老人や子供を犠牲にすることもあったらしいが、農耕民族になってその場で安定したコミュニティを築き、それなりに安定した食物を手に入れることができるようになり、コミュニティとしては多くの人数を養えるようになった。
しかし実は、狩猟民族時代には、肉や魚、木の実や植物など、雑食であったのが、農耕により草食になったことにより、その栄養素的には偏りが生まれるようになったというのだ。

つまり、全体の効用は、農耕民族の方が大きいものだったが、個体で見ると、一人当たりの効用は下がったという話だった。


古代に回帰すべきというわけではない。
現代は必然的に人間の歴史が辿ってきた結果だと思う。

でもきっと、空洞化している社会と人間をどうにかせにゃならん時が来るんじゃないかと思うのだ。
それが今だと思う。

次回から、一個一個テーマごとに考えたい。

今日は堅苦しくなって息苦しい文章だった。ポップに行きたいんだけど、つい。

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