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誰かの攻撃に苦しんでいる人へ

批判や誹謗中傷は苦しい。
言っている側は独り言だと
思うようだが、受信者は違う。
わざわざ大勢を募って、押しかける。
壮絶な孤独感を感じる。

パワハラやモラハラは苦しい。
言っている側はこれも教育と
思うようだが、受信者は違う。
正論じみた言い方で攻めてくる。
されないとわからない絶望がある。

いじめやよそ者扱いは苦しい。
やっている側は自分が正義だと
思うようだが、被害者は違う。
煽り、馬鹿にし、皆に笑われる。
次第に自己嫌悪に陥る。

これは誰かを攻撃する人に、
わざわざ説教するような記事じゃない。
何を言ったって、君たちは治らない。
だから君たちを否定もしないし、
失望もする気も、毛頭ない。
それは、仕方のないことだ。
人類は未だ他者との優劣を
無視できるまでに進化していないのだ。

本来、誰が何を言おうと、
どんな個人が、何をしていようと、
そんなものは誰にとっても、
「知ったこっちゃない」ただの現象だ。
しかしながら、不特定多数の
鎖に縛られたいじめっ子たちは、

時に価値観を押し付けてきたり、
時に立場を濫用してきたり、
時に快楽を求めてきたりする。
これらはマズローの欲求段階で
既に解明されていることだ。

人は、欲深い生き物だ。
劣等感、不幸、不満足を嫌う。
他者を攻撃することによって、
それらの不快を満たそうとする。
同士と権力と称賛を求めて、
自身の「承認欲求」を満たす。

また、少なくとも日本という
慎重かつ単一意識の高い国で育った我々は、
「物事の善悪を断定する癖」と、
「他者に褒められようとする性格」、
また「優劣の差別」と、
「常識という名の偏見のコレクション」、
これらを「学校」という思春期を過ごす場で、
トラウマのごとく教育されてきた。

攻撃を受けて苦しむ人たちへ。
まずはここまでを理解して頂きたい。

あなたは何も悪くない。
苦しむ必要性など皆無だ。

上記のような人類の未発達ともいえる心理と、
野暮ったいこの国の教育のおかげで、
攻撃する人はどこにでも現れ、
残念ながら消えることはない。
どれだけ理不尽な理由でも現れる。
それはこの世の性なのだ。
我々がどれだけ嫌がったところで、
必ず、現れる。撲滅は難しい。

また、もしあなたがそのカラクリを
知らずに無意識に過ごしていたならば、
同じ心理と教育が理由で、
あなたはどうしても苦しんでしまうのだ。

だからもう、その必要はない。
要するに我々のほとんどは、
「承認欲求」という生まれつき持つ
性質のわがままと、
過去に正解であろうとされた
時代遅れの固定概念を
どうしても「常識」と認識して生き、
勝手に作った自らのフィルターを通して、
つまり「狭い価値観」の中でしか、
世の中の現象を見てはこなかった。

よくよく考えて頂きたい。
人類の生き方に正解はないのだ。
正解がないということは、
あなたが今回行った現象も、
相手があなたに今言っていることも、
正解という保証はどこにもないのだ。
「ただただ、その現象が起こった。」
その事実があるだけに過ぎず、
これに何かと理由をつけて
不正解だと言っている人たちは、
つまり「勝手に」言っているだけ、
本当に身勝手な存在に過ぎない。

生きる上での行動の正解は、
恐らく神のみぞ知るというものだ。
大勢の神である代表の数人は、
それぞれ後世に心理を残した。
聖書であり、仏典の文字である。
それらを理解することが「悟り」。
悟りは人に優劣をつけず、
他者の違いを認め合うものだ。

現代にも、ダイバーシティ=
「多様性」を認めるという言葉がある。
人々は多様な形で存在し、
誰かの価値観と合うこともあれば、
全く合わないことも多々ある。
それを批判し合うのではなくて、
違いを認め合える社会。
ダイバーシティの実現が、
人々の生活をより幸福にし、
人類は文化を進める気がする。
だから、1歩でも前を向いて欲しい。
こじつけでいいから、ポジティブに考えよう。物事なんて考え方一つで、
その善悪は表裏一体だ。
あなたが法を反する以外に、
あなたを罰せられる者はいない。