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母を看取った。

令和4年 11月25日 午後5:58
母の呼吸が永遠に止まった日。

私は朝から病室にいて、鎮静剤が入っていても、
眠気と戦い起きていようとする母に、いつものように他愛ない話をし、身体をさすり、顔を撫で、手を握り
休んでいいよ、少しねむっていいよ、と話しかけていた。

眠りたくない、起きていたい、と、うわ言を繰り返しながらも、母が目を閉じ眠ると、突然 溢れ出した。
涙を拭うことなく「お母さん、今まで私たちの為に頑張ってくれてありがとう。もう、私たちは大丈夫やけん、心配せず、お父さんの所にいってよかよ。お母さん、だいすき。お母さんの子に生まれて幸せやったよ。また必ずお母さんの子になるけん。また必ずお母さん探して子にならせてね。」

直感というのか、何かわからない感覚で、
目の前の母の命が尽きると悟っていた。でも、不思議と悲しみだけではなくて、暖かい安堵もあった。

母は、長く病気と離れられなかった。
人一倍、辛抱強く、芯のある母だから生き抜いて来れた人生だったと思う。
ALSという筋萎縮性側索硬化症のさらにまた特殊な症例だった。
それに加え、慢性心不全。心肥大。
度重なる転倒、骨折によって曲がった背中のため、胃がせりあがり、心臓の前に位置していた。

私だったならば、早くに気が弱るか、自ら命を疎かにしたはずだと思う。
それだけ、長くジワジワと体が弱り苦しんでいた。

父が昨年逝き、一周忌を終えたばかりだった。

あとから考えると、母は一周忌までは…と精一杯、生きてくれていたように思う。
父亡き後、母は発作が増えた。
昼夜問わず、発作で苦しみ、私たち家族も心配が増えた。
母が不安になるからと、私は常に母のそばにいて、自営の配達以外は1歩たりとも外に出ないような生活に加え、夜の発作で飛び起きて車を救急病院まで走らせることも多かった。

そのため、私の心身も荒んだ。
助けてくれる福祉の力を借りてもなお、辛かった。

母への愛ゆえ、そばにいてなんでもしてあげたい気持ちと、生活の為にそうも出来ないことへの苛立ちも募って、辛く当たる日も増えた。

11月、急に「入院する」といいだして、トントン拍子で入院が決まり心底、安堵した。

病院にいるから、発作が起きても安心だし、
母が居ないからと、久々友達と食事にでたり、買い物に出たりと、当たり前のことが出来なかったことを取り戻すように満喫していた。

毎日、面会に行き、楽しく話し、母の身の回りの世話をし、「また明日ね!」と笑顔で帰り、また仕事と自由を楽しんだ。

11月20日頃から急に食欲が落ち、発作が頻回した。
23日に下血し、医師から説明があり、「お母さんの心臓はとても頑張っているが、いつ何があってもおかしくない」と告げられた。
捻れてせり上った胃からの出血だった。
24日、酸素濃度が下がり、足に紫の斑点のチアノーゼがみられた。もちろん苦しいので酸素マスクと鎮静剤が処置された。

25日の朝、鮮血の下血があり、おしっこは3日程でておらず、管に見える僅かに出た尿の色は、茶黒く、父の最後の時と同じ色だった。

冒頭にもどる。
混濁した意識の中で母は何度も体を起こそうとしていた。
髪を、顔を撫で、柔らかい手を握り話しかけた。

コロナ禍で面会制限がある中、看護師が「特別にお孫さんに会わせていい」と申し出てくれた。
母にとって孫がどれだけ大事なのか母との会話から理解してくれた。

時間は16:00ごろだった。
妹が仕事終わりに駆けつけ、私と交代し、この夜から泊まり込む予定だった。

17:00ごろ、子供たちと連絡がつき、妹が到着した。
妹は医療従事者でもあるので、母の様子を見るなり全て悟り、私を見ると泣きそうにくしゃくしゃな顔をして、互いに頷き分かちあった。
私は急いで病室を出て、子供たちを迎えに車をだした。

なんとか子供たちを拾って病院につくと、母の部屋には姉も到着していて、泣きながら動かない母の肩をさすり感謝をつげていた。
子供たちは「ばぁばー!!」と泣いてすがった。
姉と妹が私のためにスペースを空けてくれて、悲しみも驚きも何も感情が無いまま、涙だけあふれ、笑顔で
「お母さん…ほんとに、お疲れ様でした。私たちの為に頑張ってくれてありがとう。お母さんのおかげで幸せやった。…やっと解放されたね…悲しくないよ、あっちにはお父さんがおるけん、安心よ。ゆっくり休んでね。。走り回っても良かよ。。あっちでお父さんと会えるけんよかったね」

そんなことを話しかけた。

医師が入ってきて、母の脈や目を見て、一礼すると
死亡宣告をした。

ここから慌ただしかった。
父の時に経験済みだが、父は家で看取ったので、
母はもっと慌ただしかった。

涙も乾かぬうちに、次から次へとやらなければ行けないことがある。
親戚への連絡。
葬儀屋への連絡。
病院から家への移動手配。
自宅に母を迎える為の支度。
親戚などが押しかけるので片付け。
お茶などの用意。
母の入院荷物の持ち帰り。

姉と妹は泣いて泣いて、大変だった。
私は不思議としっかりとやるべき事をこなせていた。

9年。
母と暮らしてきた。
その年月の間にたくさん心配して泣いた。
いつも亡くなることが近くて怖くて、不安で泣いた。
また元気になって嬉しくて泣いた。
母のためにこの先何年、
この生活をするのか不安で泣いた。
母が動けなくなっても生きてさえいてくれればと思い直して泣いた。
そのくせ自分の人生と天秤にかけて不満に思う自分がいやで泣いた。

何だかんだ、お母さんが大好きすぎて泣いた。


母のために生きてきた9年だと思う。
母と笑い、喧嘩し、愛おしみ、守り、助け合って過ごしてきたから、母が今、居なくなったことよりも
母が痛みや苦しみから解放されたことが嬉しく思った。

仮通夜、通夜、葬儀と慌ただしくすごした。

母の旅立ちの服は、母の成人式の着物にした。
マゼンタの地にゆりの花が描かれた母らしい着物で、
丈が合うなら譲り受けたかったもの。
お化粧は、顔色とツヤが良かったからあまり塗らずに済むほどだった。
父と再会するから素敵にしてあげたかった。

棺の中には母の好きなカサブランカだけを入れた。
カサブランカに囲まれた母はとても美しかった。

蓋が閉まる時、姉は慟哭し泣き崩れた。
妹は母から離れ、閉ざされた棺を見ないようにして泣いていた。
私だけ、泣かずにそばにいて
「お母さん、行ってらっしゃい。ありがとう」と口からこぼれた。

滞りなく葬儀が終わり、出棺の挨拶をした。
母の入った棺が霊柩車に乗せられ、扉が閉まると急に胸が締め付けられ、足が震えた。

絞り出すように挨拶をした。
すすり泣く声が聞こえた。
母の代わりに感謝を述べると、クラクションが鳴り響き、車が発車した。

気が遠くなった。
急にもう、母が居ないと思い知らされて途方に暮れた。

その場にへたり混んで、放心した私を従兄弟の兄達が泣きながら支えてくれ、「大丈夫か?」「ようがんばたぞ。もうちょっとぞ。がんばれ」と励ましてくれた。

「最後までちゃんせんと、お母さん心配しなはる。」
がんばれ、自分。

そんなふうに思ってまた立ち上がると従兄弟にお礼を言って、火葬場へ向かった。

火葬場は呆気に取られるほどの近未来のようなシステムだった。
ステンレスの大きな扉には母の名前が表示され、
手を合わせ見送ると扉の中に自動で入っていく。

1時間半ほどして骨になった母と再会した。
そこにあるのは母ではなくて、華奢な骨だった。
長い箸で骨を拾い、壷に収めた。

今、まだ母の遺骨は座敷にあり、毎日お経をあげている。

母の遺影を眺めた後に鏡を見る。
母に会いたくなれば鏡を見れば会える。

父のDNAを完全に無視した造形の私の顔。

ほんとは寂しいし悲しい。
でも
やっぱり安堵している。

これからが私の人生。

何があっても私を信じ、支え、愛してくれた両親に恥じない人生をまたこれから作っていく。









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