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11月からの原田透〜ラブグラフのマーケター見習い、始めました〜

金木犀の香りがする季節、というべきか、魚に脂が乗り出す季節、というべきか、あるいは、地面に落ちた銀杏を踏まないよう、少し足元に注意を払い出す季節、というべきか。

ですます調で文章を書くのがどうしても苦手なので、普段は全く使わないのですが、やはりこの文章にまつわる方々への敬意を払わないわけにもいかず、一語一語、彼らを思い浮かべながら書いています。

実はというか、隠していたわけでもないのですが(まだ何もしてないからあんまり言えなかった)、そんな秋の黄金のあらわれを機に、とっとこと原田透も、新しいチャレンジへ踏み出すことにしました。
以前から、ラブグラフという会社でカメラマンをしていたのですが、ご縁がありまして、この度インターンとしてマーケティングの勉強を始めることになりました!
ラブグラフは、「幸せな瞬間を、もっと世界に。」をビジョンに掲げ、カップルやご家族のお出かけに同行し、写真に残すというサービスを主に行っている会社で、僕は1年ほど前から、ここでカメラマンをしていました。
11月からは、カメラマンという立場から、サービスを作る、届ける仕組みを作る、という立場へと大きく変わります。その中で、僕が気づいたことを書くためというか、再度深呼吸するために、こうしてnoteにしています。

今回僕が記すのは、ざっくり言うと過去のある体験、そして今後の僕の、雲を掴むような展望のお話です。
自分が何に未来を感じ、あるいは過去から、何を学んだのか。何を捨て、何を掴もうとしているのか。そんなことを、ざっくりと、それはたいそうざっくりとまとめました。今、何かでめちゃくちゃ悩んでいる方、何かに突っ走っている方、そしてLovegrapherや運営のみなさまへ、原田がどんなことを考えている人間なのかが伝われば幸いです。
それぞれを目次にしたので、ぜひお好きなところからご覧になってください。
本文の中核は直下の学びの部分ですが、パーソナルで少し暗めで長いので、ポジティブな文章だけ読みたい!という方は1,2章を飛ばしていただけると心地よいと思います。

・1分で読みたい人向けに:このnoteの要約
体調を崩して自分にも世界にも価値を見出せなくなった原田透は、しかし死に対する絶対的恐怖、そして、ニヒリズムと無常観という考え方を通して、またすでに愛されていた自覚を思い起こして、それを燃料にラブグラフでマーケティングの勉強を始めた。
彼はこの先の未知のインターンでの経験を通して、自分にとっての「幸せ」を再定義し、また過去の経験を生かして未だラブグラフを知らない人間、自分のような経験をしてきた人間にラブグラフを届けたいと思っている。

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1.或る2ヶ月

この2ヶ月で考えたことを話さずには、今の僕という何かを語ることは到底できません。
或る2ヶ月というのは、僕がラブグラフのインターンを始めることになる少し前の、8〜9月のことを指しています。
端的に言えば、僕はこの2ヶ月で大きく体調を崩し、まともに生活を送れなくなるほどまで消耗しました。今思い返せば、それは文字通り、異常でした。

こんな精神状態になることは初めてではなかったので、当時はあまり驚きませんでした、どうせすぐ治るだろう、と。
しかしながら、来る日も来る日も、僕は自分が何もしていないことを嘆くばかりでした。時が経つほど心の余裕も消えていく、そんな日々。
そのうち、何が原因なのかがなんとなくわかっていきました。
それは「事物への関心の喪失」であったのだと思います。

それを自覚した時、僕はこう考えるようになりました。
「今自分が何をしようが、この先どうなろうが、結局どれも意味のないことだ」と。正直、これを自覚した時はさすがに正気の自分が戻ってきたように感じます。
「おいおい、やばいこと考えてるぞ、お前」という警告に似た何かが、僕の頭をガンガンと叩いてくるような、そんな感覚。

これは別に世界的な新発見というわけではなく、哲学の立場でいうと、「ニヒリズム」というものであります。日本語に直すと「虚無主義」。なんとも薄気味悪い概念のように聞こえますが、2つの意味があります。
一つは、
現実に絶望し、全ての事柄に対し諦念したので、川に流されるようにただ生きる」という態度。
つまり、当時の僕のようなあり方です。
そしてもう一つは、
現実の世界も、自分も、全てが無価値であって偽りである、というのを認めた上で、それを肯定しながら生きる」という態度。
これは、当時の僕の正反対にいるようなあり方ですね。

生まれて初めてこんなことを感じたかもしれません。生きていても意味がないなんて、痛烈な、それでいて表現しづらい無力感と虚無感を。

要は「あ〜生きるのだるい、何やっても無駄だし、何も考えなくていいやぁ」なのか、「人はいずれ死ぬ、だから現世界に価値なんてないのかもしれない。でも、だからこそ僕は今この瞬間に熱狂するんだ!」なのか、みたいな感じです。
これを唱えたのはかの有名な哲学者ニーチェなのですが、この詳細な話をすると1週間あっても足りないので、ここでは紹介にとどめます。

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2.僕はすでに

そんな風に苦しんでいた時、ふいに僕の頭に、ある随筆の一節が浮かんできました。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。

これは、鎌倉時代に鴨長明という人によって記されたエッセイのようなものなのですが、その冒頭の一節です。
簡潔に要約すると、「流れゆく川の流れや浮かんでいる泡沫のように、人間やその作ったものも、必ずなくなってしまうんだよ」という感じです。

この中心概念は「無常」と呼んだりします。世の中に永久にその場に残るものなんてなくて、絶対朽ち果てるものなんだよ、みたいな意味です。
僕はこの時、強く、強くこれの意味を感じました。

人の価値は絶対じゃないし、それでいていつ死ぬかもわからない。目の前のものも人も、いつか必ず消えて無くなる。

死ぬのはこわい。

何もかも無意味だと諦めても、みんな死ぬとしても、それでもただ死ぬことだけがこわかったのです。
考えるだけでおそろしくなるような、そこにあるはずのないものなのに、知らないものなのに。それはまるで、見たこともない空想上の化け物のように。
目の前に見えている景色や、自分の肉体が、実は小説の中にあって、本当に存在しているものではないと思ってしまうような。
果てしなくて、答えが出なくて、考えている間の、自分の方向感覚を全て失ってしまった時のような。

僕らはみんな、いつ死ぬかわからない。でも、死ぬことは決まっている。
いつかは落っこちてしまう、流しそうめんのように、割った竹やぶの頭から産み落とされて、ただ流されているだけなのだ、と。

ところで、ある晩のことです、僕はすがるようにして彼女に電話をかけました。
何かしてほしかったわけではないけれど、少なくとも彼女に何かを求めました。
彼女は何かしてくれたわけじゃないけれど、僕の話を聞いてくれました。

そうして突然、人生ではじめて経験したのではと思うくらい、大きな声を上げて、みっともなく泣きました。
死ぬのが恐ろしかったのか。きっとそれもあります。
でも、それ以上に、僕が死なずに済んでいたのは、彼女や家族、友人、僕を取り巻くあらゆる環境があったからに違いないのです。
竹から途中で落っこちずにいれたのは、きっと一緒に抗ってくれたからだと、そう思うのです。

そんな僕にとっての意味そのものである彼らに、僕は何もできていないじゃないか。このまま、本当に死んでもいいのか。そんな、強い問いが胸を貫きました。

--そうか、そうだったのか。
僕はすでに、こんなにも助けられている。
僕にはすでに、こんなにも愛している人がいる。
僕はすでに、生きていることくらい知っていた。
僕はすでに、助けてくれた人に、救いになった言葉に、愛している人に、何かをしたいと思ってしまっていることくらい気づいている。

それらの、なんら目新しくもなく真っ当な、しかし強烈な死という不安に対する、真っ向からの逃避。逃走。
それがわかったから、それに気づいてしまったのが、きっとあの時の涙の理由だと、今は思います。
ゆく川の流れのように、全ての事物は無意味で無価値で虚構のものかもしれません。
でも、そこに抗おうとしている自分は、少なくとも流されるのをじっと待つ自分よりも、明らかにしっくりくるから。

そう思えるようになってようやく、僕の体は動くようになりました。
前説に何文字使うんだというレベルですが、こうして僕は自分の中にある傲慢や死への恐怖という弱さを、改めて受容しました。克服できたわけではありません。でも、否定すればまた自分を見失うことになる。
だから僕は、「あいつらはしゃあない、あいつらも僕だ」と、彼らを招き入れたにすぎません。

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3.なぜラブグラフなのか?

そうして地獄のような2ヶ月をどうにか生き切ったおかげで、今の僕が存在しているのですが、とはいえ僕にとって「生死」というテーマは永遠の課題になりそうです。
仮に死が悲しい、あるいは喪失の象徴であったとして、ではその反対はなんだろうと考えた時に、真っ先に出てくる概念として「幸せ」が浮かび上がってきます。

人により幸せはよりけりかと思いますが、一般論的に--つまり、僕にとっての幸せがそのフレームワークで認識できるかというとそうではありません--幸せを別の言葉に置き換えるとするとまさに反対で、失うというベクトルに対して、満たされていくというエネルギーの移動だと思っています。
それがどんな物質や概念であれ、器の中に何かが入っていく感覚なのだと思っています。
じゃあ、自分の器に、何かが入っていく感覚を、お前は認識したことがあるのか?と言われると、実は全くそうではなくて。
当事者意識が低いだけかもしれませんが、僕は今まで人の思っている「幸せそうな」感覚や現象をなんとなく自分にあてがっていただけで、骨と肉にそれらが染み渡ってはいなかったと思っています。
例えば、「美味しいご飯を食べると幸せ」になるとします。それに対して僕は、その食事を、美味しいや楽しいといった言葉にしか還元できないのです。ずいぶんとひねくれて、そして卑屈の塊ですね、本当に。

でも、だからこそというべきか、そんな「幸せ」のわからない人がラブグラフにいることでできることは、少しはあるんじゃないかと思うようになりました。もちろん、それは傲慢と呼ぶにふさわしいものです。
一見すると、「幸せ」をカタチにする会社にいる人間が、幸せのことをわからなくてどうするんだ、と思うかもしれません。僕も以前はそう思っていました。
しかしながら、仮に「幸せをカタチにする」会社だとしても、その「幸せ」は誰かにとっての幸せでしかなく、そしてそれが他の誰かにとっての幸せではないのなら、あくまでマジョリティ的幸福だったとしたら、僕のように幸せに気づけない、あるいは幸福観が大きく異なる人間の幸せは、一体どこへ向かっていくのでしょうか。

そう考えた時、次第に僕は「僕を含めて、彼らだってその世界にいてもいいんだ」と思うようになりました。
人の世に生きている限り、流行り廃りもあるし、多数か少数かという分布は必ず生まれます。それはきっと、仕方のないことです。
でも僕は、あくまで「みんなで生き残る」方法を考えたいなと思っています。上にさんざんと書きましたが、まさに僕がそうだったから。誰かに救われていたから、僕が死に向かう間、川の流れをせき止めてくれていた誰かがいたから。
本当に、本当に、ありがたいことです。

だからこそ、僕はそんな今生きづらい人、意味を感じなくなってしまっている人、あるいはそれとは全く違うところで、知られていない幸福観を持っている人たちに、このラブグラフというサービスを、彼らにとって適切な使われ方で、自由に使ってもらえるようにしていきたいと考えています。

実際のところ、今の会社のフェーズ的に、そういったチャレンジをビジネスのビの字も知らない人間にやらせるとは思っていません。
でも、同時にそういった視点こそが僕自身のユニークさであるとも思っています。きっとすぐには役に立ちません。なにもかもがまだ無力です。でも必ず、武器を蓄え、装備を強化して、向き合えるようになると信じています。
きっと勇者には勇者のつるぎが必要で、魔法使いには、魔法の杖が必要だと、そういうことだと思っています。
知の探究とは、すなわちそんな自分にフィットする感覚を探すことなのかもしれません。

マーケティングという全く未知の領域に踏み込んだのも、まさしく僕が何者でもなくて、かつ無価値であることへの肯定であり、反抗に他なりません。

ちょうど奇跡的ともいうべきか、ラブグラフのマーケティングの責任者の方が新しくメルカリからジョインしてきました。まだ彼を含め彼らと同じ視座で向き合えないことに歯がゆさを感じてはいるのですが、いずれ何かをラブグラフ、そして会社に関わるすべてのみなさまに還元できるようになれれば--否、必ずなるのです。

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4.最後に

こんなでこぼこ道を通りながらも、なんとか原田は生きております。いつもお世話になっている方々、いつもいつもご迷惑をおかけしております。
そしてこれから、今までのカメラマンとしてとは違う形でお世話になるラブグラフのみなさま、文字どおり本当にお世話になります、よろしくお願いいたします。

それに伴って生活環境は大きく変わり、休学は2年目に突入しました。
4年間、鴨川の声を聞きながら、酸いも甘いもを感じてきた京のまちに一時の別れを告げて、久しぶりにホームタウンの関東へ戻ってきました。おそらく1年程度こちらにいると思います。僕に興味を持った方がもしいましたら、ぜひお誘いください。お話しましょう。

本当に、今までの持てる力全てを駆使してこの数ヶ月を生き延びて、少しは成長したのかなと思いましたが、結局何も変わらないのが、大いなる皮肉であり、自分が考えていたことを裏切りきれなかった自分のかわいさですね。

やっぱり僕は、お金持ちになりたいわけでも、スーパースターになりたいわけでも、アーティストとして生きていたいわけでもなかったみたいです。きっと僕は、ただ自分を死から救済しようという、醜くも正直な心に動かされていて、そして、それだけに飽き足らず、みんなで生き残ろう、みんなが大事なんだという、チョコレートケーキのように甘い考えを持った人間なんだと思います。

でも、確信として言えることがあります。
それでいいんです。
僕が6000字を通して伝えたいことは、たったそれだけでした。

それでいいんです。

それがわかると人生は、まだまだ捨てるわけにはいかないな、と思ってしまいます。

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P.S.これから関東でお世話になる全てのみなさま、よろしくお願いいたします!超がつくほどの臆病者ですが、仲良くしてください!!




サポートしてくださる方、圧倒的感謝です、、、、!!!!!