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小説 :『チョコレート』

最後にキャッチャーフライを打ち上げると、シートノックは終わりだ。
俺は監督が集まった選手に話をしているのを少し離れて聞いている。
冬の間はほとんどボールを持つことがない。
走り込みや筋力トレーニングで体を作る。
ボールを持つとしてもせいぜいキャッチボール程度だ。
2月に入ってから少しずつボールを使うようになってきた。
シートノックやバッティング練習。
投手の本格的な投げ込みも始まっている。
選抜出場こそ逃したものの、選手の目はみんな輝き始めている。

監督の少し長い話が終わると、全員が声を揃えて挨拶をして練習は終わる。
選手たちが道具を片付けているのを横目に、俺は更衣室に引き上げる。
専用グランドの横の建物は、1階が監督とコーチ、マネージャー、それぞれの更衣室と倉庫、2階が選手の更衣室になっている。
着替えながら外を眺めると、グランドの入り口には数台の車が止まっている。
最近は高校生でも、親が迎えに来ることがある。
その中に赤いワゴンRも止まっている。
そのまま少し待って、健志がワゴンRの助手席に乗るのを確認すると、俺は着替えを詰め込んだ大きめのトートバッグを持って部屋を出た。
ワゴンRの後部座席のドアを開けて体を滑り込ませる。
健志が助手席の背もたれを少し立てた。
「お疲れ様」
幸子がこちらを見ずにいつもと同じ声をかける。
「ああ、悪いな」
幸子はルームミラーで確認しながら車をバックさせ、列から抜け出すと勢いよく発進させた。

俺は高校を卒業すると大学に進学した。
もちろん野球をやるためだ。
高校の時には、サードを守り、2年生の新チームからは4番を打っていた。
俺が中3になる春に選抜に出場したのを見て、この高校に決めた。
しかし、結局俺がいた3年間は春も夏も出場は叶わなかった。
幸子はその時のマネージャーだった。
一年先輩のエースと付き合っていて、卒業するとすぐにそいつと結婚した。
俺は、大学に入ってすぐに試合で使ってもらった。
2年になればレギュラーに定着するだろうと思っていた。
しかし、冬の練習中に右肩の腱板を断裂してしまった。
手術するような金はない。
何とかリハビリで乗り越えようとしたが、もう早い送球は難しい。
深夜に痛みをこらえて何度も素振りを繰り返した。
よくないのはわかっていたが、そうすることで痛みを乗り越えられそうな気がした。
涙を流してバットを振り続けても、それが報われるようなことはなかった。
野球を辞めれば、もう大学にいる必要もない。
俺は、そのまま大学のある都会で職を転々として、この街に戻ってきた。
当時の監督が俺のことをどこかで聞いて声をかけてくれた。
昼間は高校の事務員として働き、放課後に野球部のコーチをする。
給料としてはよくはないが、実家で暮らしていくには十分だった。

健志は野球部の1年生だった。
内野手希望だったが、なかなかいい肩をしている。
ショートか、場合によっては投手でもと監督と話している。
その母親が幸子だとはすぐにわかった。
幸子は、結婚するとすぐに健志を産んだ。
元エースの夫は建築会社で働いていたが、
「朝、突然警察の人が来て連れて行かれたの」
在学中から、それほど素行は良くなかった。
覚醒剤の売買に絡んでいたらしい。
「わたしもいろいろ聞かれて、家の中もめちゃくちゃに調べられたわ。健志はまだ何もわからずにギャンギャン泣くし、大変だったのよ」
結局、執行猶予がついたが、夫とは別れた。
「何度も連絡が来たけど、絶対に会わなかった。会ったら、人間だから、わからないでしょ」
しばらくすると連絡は途絶えた。
「今度はクスリの使用で捕まったんだって」

練習の帰りに、家の近くまで送ってもらうようになった。
昼間は、スーパーで働いているらしい。
「パートだったんだけどね、正社員になったのよ」
「頑張ったんだ」
「そうよ、この子に野球をさせようと思ったら大変なの」
俺たちが話している間、健志はずっと助手席でスマホを触っている。
「あの頃は、一緒に帰ったことなかったでしょ」
「家がこんなに近いとは知らなかったしね」
最初の頃はそんな会話もあったが、毎日となると少しずつ話すこともなくなってくる。
健志のスマホから漏れる機械音だけがときおり聞こえてくるようになった。
何度か、俺は胸の中にある挫折感を話しそうになったが、思いとどまった。
健志に聞かせる話ではない。

いつもの交差点の手前で車は止まる。
「ありがとう」
自宅はここから歩いて2、3分のところだ。
トートバッグを肩にかけて降りる。
歩き出すと、後ろでドアの開く音がして呼び止められた。
幸子の声。
振り向くと、
「これ」
差し出されたものは、リボンのかかった赤い箱。
今日はバレンタインデーだったと思い出す。
「ありがとう」
受け取って、手にしたまま歩き出す。
すぐにトートバッグに入れるのが、悪いような気がした。
「ねえ」
また幸子が声をかけた。
「ねえ、そのチョコ、こんな歳で本気って言ったら危険かしら」
健志は車の中でスマホを触ったままだ。

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