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『クリスマス・イブ』

街は賑わっていた。
それもそのはずだ。
この2年間というもの、外食はおろか人と会うこともままならない状態が続いていたのだから。
2年前に発生した病は、それまで誰もその名を聞いたことのないような山村の、たったひとりの感染から始まり、瞬く間に世界を駆け巡った。
歴史上、そんなに短期間で世界を征服した偉人はいない。
かのアウグストゥスも、こいつを味方につけていればと、さぞかし悔やんでいることだろう。

しかし、盛者必衰もまた歴史の真実である。
世界の製薬会社連合軍は、これでもかと最新の兵器を、われわれ人類の体内に送り込み、見事に、その病を北極の氷に閉じ込めることに成功したのだ。
そして、われわれはまた、かつてのように、出会いと別れ、喜びと悲しみ、歓喜と恐怖を、時に手を取り合い、時にひとりで、心ゆくまで享受できるようになった。

そして、今夜はクリスマスイブ。
2年分の楽しみを取り戻そうなどというのは、最も遠慮がちな人のすることだ。
何があるかわからない。
この2年間にそう学んだ人々は、さらに来年、再来年の楽しみまで先取りしておこうと、街に、夜に繰り出した。
友人と肩を組み、恋人と手をつなぎ、いつのまにかその相手が入れ替わっていても誰も気にしない。
それくらい、浮かれていた。

と、ある街角が騒然としている。
パトカーが数台、交差点の角のビルを囲むように停車している。
降り立った警官は、ビルの屋上を見上げ、そのうちのひとりはメガホンで叫んでいる。
それを取り囲むように集まった野次馬も、ビルの屋上を見上げている。
心配そうな顔のかげには、この恐らく今夜最高の出し物を楽しもうとする下心がみえみえだった。
中には、あからさまに笑顔で拍手している者もいる。
それに、陽気な音楽を背景にしたパトカーの赤色灯も、おつなものではあったのだが。

さて、このイベントの主役でもある男、ビルの屋上で下を見下ろして、どうやら「飛び降りて死んでやる」と叫んでいるらしい。
まあ、想像するに「俺はいつもひとりぼっちだから」という理由からだろう。
クリスマスにこんな騒動を起こすのは、大体こんな理由に決まっている。
そもそも、ひとりぼっちだから死にたくなるのか、クリスマスイブにビルの屋上から飛び降りたくなるようなやつだから、ひとりぼっちなのか。
真相はわからない。

とにかく、この男がどんな人間であれ、人の命は大切なものだ。
メガホンの警官は必死に説得するが、なかなか男にその気持ちは伝わりそうにない。
男が身を乗り出そうとするたびに、群衆はどよめき、警官はさっと両手を広げて身構えた。

その頃、ひとつ向こうの通りを、頭にトナカイの角をつけた男が、両腕を空に伸ばして楽しそうに歩いていた。
男の後ろには、老若男女、善男善女、美男美女が、これも思い思いの扮装をして、ぞろぞろと長い集団を作っていた。
誰かが建物の2階から、「チャンピオン」と声をかけると、そちらに投げキッスをおくり、通りすがりの男が「チャンプ」と叫ぶと、軽くハグをした。
子供が手を差し出すと、両手でその小さな手を包み込んだ。
そう、彼こそは誰あろう、あの、この世界で知らぬ者のない、自分の名前を忘れた酔漢もその名を聞けばたちまち素面に戻ってしまうという、あの、世界ヘビー級チャンピオンだった。

彼が行列を引き連れて角を曲がると、何やらパトカーが何台も集まり、人だかりがしている。
みんな上を見上げて、自分には目もくれようともしない。
これだけ勝ち上がっても、まだ、この俺様よりも人気のある奴がいるのか。
チャンピオンの顔から笑顔が消えた。
その顔はむしろみんながよく知っているあの、リングの上の、獲物を前にした時の表情に近いかもしれない。
トナカイの角は、野獣の角に変わった。
チャンピオンとその御一行は、件のビルの真下までやってきた。
彼を見かけた警官たちが集まってくる。
話をふむふむと聞いた後、彼は少し後ずさるとビルを見上げた。
そして、拳を振り上げた。
「おい、そこのお前、名前は後で聞いてやるさ、今はお前で我慢してくれ、何だか知らないが、そこで、この俺よりも注目を浴びるのはやめてくれないか。それと、こんな夜に俺を悲しませるんじゃないぞ」
そう言うと、彼とその御一行はまた行脚を開始した。
前にも増して、楽しそうな歌声を響かせながら。
血に飢えた角はまたトナカイの角に戻り、右に左に揺れ始めた。
その行列は、男がビルの屋上から階段をゆっくり降りて、その最後尾に加わるのにちょうど良い長さにまで伸びていた。

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