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続々・分身主義宣言!(完結編)

(表紙絵:森川寛 分身 / 文章:徳永真亜基 分身)
この作品は、2002年制作の『人類の育てた果実』を基にして、2003年2月11日から2008年2月25日の約5年間にわたり計106回発行したメールマガジン『世界を平和にする「自己愛的生活」』の中のNO.48~NO.106をまとめて『続々・分身主義宣言!(完結編)』というタイトルに改題したものです。
【183.275文字】



NO.48 私は○○分身です。 2004.08.10

 ≫≫ 今日の一言 ≪≪
【きっといつか、お互いを○○分身さんと呼び合い、そう呼ばれたあなたも不快に感じるどころか喜びに感じる日がきます。その日が早く来るように、あなたから始めてみませんか?「私は○○分身です!」と】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
こんにちは12星座さ~ん。聞こえてますか~。

12星座

みずがめ座の徳永真亜基分身で~す。勝手に名前を借りてすみませ~ん。

長いことメルマガを発行しませんでしたが、3つ目の新しいホームページ作成に時間を割かれていたからです。
やっと完成しましたので、後でご報告させていただきます。

(このメルマガは『人類の育てた果実』を齧ってくださった方にお送りする、世界を平和にするための実践編として発行します。まだそちらを見てくださっていない方には少しわかりづらいかもしれません)


さて、早速ですが質問です。
現在、世界の総人口が65億として、イスラム教の信者の方は何人いるでしょうか?

まず、即答できる人はいないと思います。
では質問を変えてみます。分身主義者の人は何人いるでしょうか? 
これなら、誰もが簡単に答えられるはずです。
「ゼロです」
と答えればいいのです。

世界が平和になり、僕たちが本当の意味で幸せに生きるためには、この数字が逆転しなければなりません。
つまり、0が65億に。

実は、僕やあなたが完全無欠の分身主義者になるということは、65億全ての人間が分身主義者になれた状態のことを指しているのです。

分身主義者とは、All or Nothing でしかないんです。
この世界に分身主義者たちとそうでない人たちがいるのではなく、そうでない人が一人でもいたら、分身主義者という人は一人もいないという意味です。実に明快でわかりやすいでしょう!?

バラ色の素粒子』の最後の方にも書きましたが、僕たち一人一人の分身がジクソーパズルの一つ一つのピースだとすると、最後の一つをはめ込んだその時、つまり全員が分身に気づいたその時、一人一人だった僕たち分身は、自分の真の姿(=全身)を目にすることになるんです。

ジグソーパズル


つまり、人類が「自分の真の姿はこの宇宙そのものだった」と知った時です。人類が「科学的覚醒」を果たした時です。

その時が来て初めて、僕やあなたが胸を張って「分身主義者」を宣言できるんです。分身主義者とは世界中の人が自分の「全身(=宇宙)」を目にした時、初めて世界にたった一人の分身主義者が生まれるのです。

そして皮肉なことに、その時同時に「分身主義者」はこの世界から消滅するのです。不要となったからです。

つまり、分身主義者などは後にも先にも、ここにもどこにも、存在しないということになります。
何だか禅問答みたいと思われるかもしれませんが、元々「分身主義」とは主義でも主張でもなく、科学を通してこの自然界様に‥‥

❶ 人間とは何ですか? 
❷ 僕たちはどのように生きたらいいのですか?
❸ ‥‥
❹ ‥‥
❺ ‥‥

というような様々なお伺いを立て、教えを乞うただけのものです。


そしてその回答が、

❶ 人間は「錯覚の自我」を持ってしまった時から宇宙の万物とはぐれてしまったが、本当は宇宙そのものなのです。
❷ 現在は、宇宙万物とはぐれて迷子になっていますが、故郷に帰り、きょうだいみんなとしっかりと手を取り合い、正しい道を生きるべきです。
❸ ‥‥
❹ ‥‥
❺ ‥‥


という単純明快なものでした。

なぜ人間だけがそのような問いかけをしなければならなかったかと言うと、「錯覚の自我」を持ってしまったことで、人間だけが、自分を産み育ててくれた自然界から迷い出てしまい、やがて自然界の望まぬ方向に歩き始めてしまったからです。

人間と違って自我を持たない(本能としての自我しか持たない)他の動物たちは、「自然界と地続きである」と表現しましたよね。彼らは自然界そのものなのです。

つまり、「分身主義」とは、自然界からはぐれて迷子になってしまい、まるで大海に放り込まれて溺れぬように手足をばたつかせてもがいているかのような人類を、本来の場所に帰してくれるだけの道しるべに過ぎなかったわけです。


だから、人類がその場所に帰ることができたら、もう「分身主義」は不要になるというような意味です。


僕は65憶が一つになって「全身」を目にする日が来ることは、少しも不可能なことと考えません。
僕たちには、その下地がちゃんとできているからです。

分身主義は、科学を通して自然界様にお伺いを立て、教えを乞うことによって生まれたものですが、今を生きる僕たちは、科学に目をそむけて生きていくことは困難な時代に入っています。

僕たちは現在、科学が産み落とした製品や道具に囲まれて生活しています。
携帯電話もテレビも電気炊飯器も、飛行機も電車も車もなければ、僕たちは生きていけないくらいです。
科学が解明した事実を誰も疑う余地のない場所で生活しています。
これこそ、僕たちが分身主義者になるための下地です。

もし、あなたが、携帯電話やテレビや電気炊飯器を使うことを拒否したり、月に人類が立ったことや飛行機が空を飛ぶ事実を信じなかったり、素粒子の存在や脳の神経細胞の存在を疑ったりしない限りは、分身主義に歩むべき道を指し示してもらうことはとても簡単です。


ところで、僕たちはどんな人間も、社会の作り上げた、あるいは環境の作り上げた固定観念を持たされて生きています。

僕たち日本人が、もし学校の先輩や会社の上司や自分のお父さんを、敬称をつけずに名前で呼び捨てにしたらどうなるでしょうか?
次の日から学校や会社や家にはいられなくなるかもしれません。😢

あなただって、自分の後輩に名前で呼び捨てにされたら腹を立てるでしょう!?
日本人は、目上の人は敬わなければいけないという、封建的とも言えるとても強い固定観念を植え付けられて生きています。

フランクな社会と言われるアメリカなんかは、逆に、ちょっとでも親しくなったらすぐに敬称をやめて名前で呼んで欲しがります。
後輩から名前を呼び捨てにされたら、むしろ喜んで返事をするでしょう。
自分の父親のことも名前で呼ぶこともあるそうです。
それがアメリカという社会が国民に植え付けている固定観念です。
日本語のような敬語すらありません。


ところで、上下関係を厳しく位置づけようとする日本人にも、名前で呼び合うフランクなアメリカ人にも、どちらにも馴染まない言葉があります。

例えば、僕があなたのことを「○○分身さん!」と呼びかけたらどう思いますか?
あなたが日本人でもアメリカ人でも、そんな言葉で呼ばれたら、きっとムッとすると思います。

「どうして私があんたの分身なの? 何様のつもりよ!」
と言われかねません。
とくに、自分の存在感をアピールしたがる個人主義のアメリカ人や日本人には、自分が何物かの分身である存在なんて許しがたいかもしれません。

「私は私、誰の分身でもないわ!」
って感じです。


ちなみに、分身主義の「分身」の本来の意味は、誰かが誰かの分身という意味ではなく、誰もが、この宇宙がビッグバンによって始まった時に存在していた素粒子の演じている一時的な姿である、という科学的真実を「分身」というイメージで呼んでいるのです。

だから、僕が冒頭でいつも使っていた「僕はあなたの分身です」という言葉も、「僕はあなたのしもべです」などという卑屈な意味ではなく、本当は心の底で、あなたにも分身である自分の存在に早く気づいて欲しい、という願いを込めて使っていたんです。

その背景には「僕もあなたもこの宇宙の分身同士です」という気持ちが常にありました。

分身主義というのは、この宇宙に存在する物は、部分でもあると同時に全体でもあると知ったものです。部分も全体も同価であると知ったものです。
あなたも僕も、この宇宙の中では部分であり全体でもあります。

だから、「僕はあなたの分身です」も、「あなたは僕の分身です」も、「僕は僕の分身です」も、みんな同価で言っているんです。

これらは分身主義者同士の交わす単なる挨拶と思ってください。
どれを言われてもムッとなる必要なんてなく、普通に親しみを込めて呼び交わせるはずの「挨拶」なんです。

今までの感覚(個人主義的な感覚)の人たちにこのような挨拶をすると、思い上がっているように感じられたり、卑屈になっているように感じられたりしてしまうわけです。

他にも、馴染みにくい、分身主義特有の言葉があります。

例えば、あなたに対して、「あなたは、みんなの代わりにあなたの環境で生きてくださっている分身さんです」という言葉です。
この言葉を受けたあなたの脳は、「私は私だって言ってるでしょう! 誰の代わりでもないわよ!」と反応するかもしれません。

また例えば、僕が自分のことを「みんなの代わりに僕という分身の環境を生きてあげています」などと使う言葉です。
この言葉を聞いたあなたの脳は、「生きてあげてるって、あんたって何様のつもり!?」って反応するかもしれません。


もう一つ、最も馴染みにくい言葉は、「あなたは自然界や環境に操られている」という言葉です。(*操られていると言っても、自然界や環境が何らかの意図を持って操っているという意味ではありませんよ)

分身主義がよく使うこの言葉も、あなたにはむしろ傲慢な響きに感じられるかもしれません。
でも、本当はこの上なく謙虚な、おそらく地球上に存在するどんな謙虚よりも謙虚な言葉なんです。

自然界に対して無力である自分を知り、溺れまいと必死に手足をばたつかせ、肩ひじ張って生きていた自分からフッと力が抜ける言葉なんです。

むしろ、生きていく上での様々な束縛から解放された、この上ない自由と喜びを感じるはずの言葉なんです。


これらの言葉が反感や嫌悪感を持って受け取られる理由は、日本人が目上の人や上司に対して敬称や敬語を使わなかった人に対する反感や、その逆にアメリカ人がいつまでも敬称をつけて話し掛ける人に対して抱く嫌な感じ、などと同じで、僕たちの生きている社会や環境が僕たちに植え付けている固定観念のせいなんです。

その固定観念を植え付けられた現在の僕たちの脳は、自分の意志で何かを成し遂げたと感じた時に、喜びの神経伝達物質が分泌されるようになっています。
だけど、それこそが傲慢さを取り除けない一番の理由なんです。


確かに、日本的な固定観念で縛られた僕たち日本人が、今日から目上の人や上司に敬称をつけたり敬語で話し掛けるのはやめよう、と思ってもかなりの勇気がいります。

でも、国会でそのように決議され、学校でも会社でも国民全員がその気になれば、ちっとも困難なことではありませんよね。
きっと、ほんの数日あれば、変化させることができます。

問題は、世界中の人全員がその気になることだけです。
でも、僕は少しも0人が65億人に逆転することは夢ではないと感じています。

イスラム教を全世界に普及させることは無理ですが、分身主義は、誰もがお世話になっている「科学」を根拠にしているため、65億人に普及させる可能性を秘めています。

どんな宗教の人もどんな主義の人もどんな理想や偏見に凝り固まった人でも、電気が供給されているところでは、人差し指でポンとスイッチを入れさえすれば、電気炊飯器で必ずおいしいご飯が炊けるんです。
ヒンズー教の人がスイッチを入れれば中からパンが飛び出してきたり、菜食主義の人がスイッチを入れればホカホカの焼き芋が出てくるなんてことは、万に一つも起こり得ません。

これが科学の力です。


他人を変えるのはとても難しいことです。テクニックが必要です。
政治や、抗議活動の目的は、自分(たち)のために他人を変えようとすることです。

目的達成のために、何十年もかかってしまうこともあります。

でも、分身主義はそれとは全く違います。

変えようとするのは他人ではありません。自分です。
科学を頼りに、自己の内部に深く深く降りていって、今までの社会の固定観念にとらわれない「本当の自分」を発見することです。
本当の自分を発見したら、その時点で自分が変わっています。

しかも自分を変える目的は、自分の幸福のためです。そして、自分の周りも幸福にするためです。

幸福になることを拒否する人は一人もいません。
幸福になる手段を知らないだけです。



もし、あなたが「わたしは十分幸福です。あなたの話は余計なお世話にしか感じません」と言うのでしたら、あなたに質問します。

世界には不幸な人、可哀相な人、不満を抱いて生きている人がたくさんいます。あなたの周囲にだってそういう人たちがたくさんいるはずです。
そういう人たちの中であなたも生きているはずなのに、どうしてあなたは幸せでいられるのですか?

僕たちが死ぬほど努力して目指してきた富も力も健康も、真の幸福とはなり得ませんでした。
それに引き換え、特別な能力がなくても誰でも幸せになれる分身主義は、決して困難な道を進もうとするものではありません。

それに、分身主義は金儲けでもこじつけでもなく、自然界に対して謙虚な気持ちを持って、正々堂々と歩くものです。
小枝を指揮棒にして歌でも歌いながらお花畑を歩くように、希望を持って行きましょう!

僕たちはきっといつか、お互いを○○分身さんと呼び合い、そう呼ばれたあなたも不快に感じるどころか喜びに感じる日がきます。
世界中の人の脳に分身主義が上書きされ、僕たちの脳が分身主義の固定観念で染められた素晴らしい時代は、必ずやってきます。

だから僕は、自分を徳永真亜基分身と呼ぶことから始めています。


分身主義は、誰かに強制するものではありません。
自分自身で、本当の自分の姿に気づくことです。
本当の自分の姿に気づく目的は、世界を平和にして自分も一時しのぎでない本物の幸福をつかむためです。

そう思ったら、自分を○○分身と呼ぶことから始めましょう!!

分身主義者の人は何人いるでしょうか? と聞かれれば「ゼロ」でしたが、では分身主義者を目指している人は何人いますか? と聞かれたら?

「少なくとも一人はいますよ。はい、ここに‥‥。私は完全無欠の分身主義者を目指しています。いつか自分の"全身"に出会える日が来ることを願っています」
胸を張ってそう答えられるようになりましょう。


そう、世界の平和と真の幸福のために‥‥ 😉✰ネッ!



◆◇◆編集後記

世界が平和になるためには、たとえ犯罪者であっても、自分たちの分身さんだと思って、許してあげることができる社会にならなければいけません。
そんなことをしたら犯罪者を甘やかして、犯罪をますます増やすだけだって?
ホラホラ、それがあなたがまだ「本当の自分」を知らない証拠なんです。

もし世界が、犯罪者を「自分の代わりにその環境で犯罪を犯してしまった分身」だと知って許してあげることができる分身主義者ばかりになったら、むしろ犯罪とは無縁の世界がやってきます。

自分の真の姿である「全身」を知った人なら、決して犯罪を犯したり他人を傷つけるようなことはしないんですから。もはや彼は犯罪者でも他人でもないのですから。

そのために、みんなが分身主義者になる日が急がれます。
でもそれは、自分が自分のことを「○○分身です」と呼ぶことから始めるしかありません。


あなたは、誰かを責めるのではなく、彼らも自分の「愛すべき分身さん」であることを理解しなければいけません。
そのことによって、彼らを自分の方に引きつけ、彼らにもあなたの分身であったことに気づいてもらう努力をしなければいけません。
そうすれば世界は自然と平和になっていきます。

世界が平和になるには、そのような方法しかないんです。そういう形でしか実現しません。

決して犯罪者を責めたり、突き放したり、法によって隔離したり、罰則を強化したり、そんなことでは永遠に平和にはなりません。

そんなことでは、今まで通り僕たちは、争いや対立や犯罪を育てる温床の中にいて、そこからすくすくと育ってきた争いや対立や犯罪を摘み取ろうとしているだけだからです。永遠に堂々巡りです。

僕たちがその温床の中にいる限りは、過ちは永遠に繰り返されます。
僕たちは、自分自身がその温床の中にいることに気づくことから始めなければいけません。
と言うより、僕たちが温床そのものだったんです。その環境を作っていたという意味で‥‥。

そのような意味を込めて、ホームページを作りました。
タイトルは『世界平和への扉(分身主義へのいざない)』です。
http://www.bunshinism.net
(*現在は閉鎖しました。このnoteに少しずつ移動中です)



NO.49 命は本当に大切なものなの?(1) 2004.08.24

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【僕たちの "生" とは、その半分を "死" が占めている状態のことです】
【僕たちが願っている平和とは、単に、戦争の起こらない状態のことではありません】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
こんにちは徳永真亜基分身です。

新しいホームページ『世界平和への扉(分身主義へのいざない)』見ていただけましたか?


構想から6ヶ月くらい、毎日コツコツと作り続けたので、かなりの分量になってしまいましたが、なんとか全部読み通してくださいね。
えっ? 一日で全部読んじゃったって!?
す、すごいです。💦
僕だってそんなことできません。

分身主義は順序を追って勉強していけば決して難しいものではありませんが、途中の理解をうやむやにしたままに進むと、とたんに難解なものに変わります。
いくら即席の時代だからといっても、一日で分身主義は理解できません。

自分の人生観・価値観で勝手な解釈をされて、一日で「理解済」として終わりにされても困ります。

理解したと思っているあなたは、例えばあなたの心や身体の苦しみは、みんなを代表して苦しんでいると誇りに思えていますか? 
一人がすべての環境で生きることは無理なので、あなたがみんなの代わりにその環境に身を置いて、苦しんであげている、と思えますか?

誰かの成功を、自分の代わりにその環境に身を置いて、やってくださっていると感謝に思えていますか?

あなたの心から不満や不公平感や、それに、怒りや恨みや妬みなどが消失していますか?
そうでなければ、少しも理解しているなんて言えません!

それに分身主義はあなたが理解したら終わりではなく、そこからやっと長い付き合いが始まるものなんです。
人類が本当の平和と幸福を手にするまで、ずっと続くものです。
まだ僕たちは扉のこちら側にいて、扉を開こうともしていないんです。
人類の平和と幸福のために、分身主義を知る努力をしましょう。

質問はどしどし受け付けますので、メールしてください。

ところで、あのホームページは8月9日に完成しましたが、完成して気分転換にテレビをつけたら、偶然、長崎の平和祈念式典の中継をやっていました。
長崎は、今年で59回目の原爆忌(げんばくき)を迎えたそうです。
テレビをつけた時、ちょうど被爆者代表の方のスピーチが始まりました。
猛暑の中ですが、持っている扇子で扇ぐのも忘れて、真剣に聞いている人の姿なども映し出されました。

最後に彼は「命の大切さと平和の尊さを語り継いでいきたい」というような言葉で締めくくりました。

この言葉は、考えに考え、練りに練って決定した言葉だという気持ちが伝わってきましたが、完全無欠の分身主義者を目指している僕にとっては、何だか気が重くなる言葉でした。

人間は、空気や太陽や植物や他の動物や微生物などによって生かされている存在です。
でも、生かされていることばかり強調するけど、実は、死なされている存在でもあるという考えにまでは、なかなか思い及びません。

太陽の光線や酸素も人体に害にもなっていることもあるし、植物や他の動物や微生物だって人体に害のある物だってたくさんあります。
別にこの自然界は、人間を生かすための最大の努力をしているわけではありません。

まして、僕たち生物にとって、「生」だけがこの自然界に適応している状態ではありません。
僕たちの「生」とは、その半分を「死」が占めている状態のことです。


恐竜の絶滅は、恐竜が自然界に適応できなかったからではありません。
恐竜は自然界に適応したから地球に出現し、そして自然界に適応したからこそ絶滅したんです。
この意味をよく考えてください。

自然界を師と仰ぐ自然界中心の本当の科学者には、この意味はすぐわかるはずです。
でも、著名な科学者と言えども、自然界中心ではなく人間中心の似非科学者が多いのも事実です。その人たちは人間の欲や願望に科学を利用しているだけなのです。


被爆者代表の方のスピーチの中の「命の大切さ」という言葉の中には、やはり生だけを重視する気持ちが前面に出ています。
戦争を経験してきた方だから、「生」を大切にするのは仕方のないことです。死に対して、残虐で凄惨で非人道的なイメージが拭い去れないのは仕方のないことです。

だけど、僕は心の底から、まさに命をかけて、世界を平和にしたいと思うからこそ、あえて本音を言わせていただきます。

実は、「命の尊厳」とか「命の大切さ」などという発言こそ、戦争を育てる土壌の中から育まれてきた発言なんです。

戦争を育てる土壌とは、人間の脳を、生だけを重視する傲慢さを持つ脳に育てている土壌のことでもあります。

生だけを重視して死を忌避する感覚は、人間中心のとても傲慢なものだということに気づいてください。
この人間中心の傲慢さを持った脳が育ってしまう土壌と、戦争を育んでしまう土壌とが同一の土壌であるということを想像することは、それほど難しいことではありませんよね。

いいですか?
あれほどの犠牲を負った広島の被爆者の方や長崎の被爆者の方が、どんなに「命の大切さと平和の尊さ」を訴えても、どうして世界から、人が人を殺すような行為がなくならないのか、よ~く考えてみてください。

彼らの訴える力がまだ弱いのでしょうか?

まさか、世界中に平和の願いを伝えるためには、まだ犠牲者の数が圧倒的に少なかったなどと言う人はいないと思いますが‥‥。

それとも、人類は彼らの犠牲から学ぶ知恵を持っていないからでしょうか?

どれもみんな違います。


実は、「命の尊厳」とか「命の大切さ」などという発言こそ、戦争を育てる土壌の中から自然発生的に生まれてきた言葉だったからなんです。

もし戦争が育ってしまうような土壌でなかったなら、「命の尊厳」とか「命の大切さ」などと口にする人は決して現われなかったでしょう。
幸福という言葉が幸福な社会には決して存在しないことと同じです。



僕たちは、戦争を育むのに適した土壌の中にいて、毎日のように、対立や争いの元である「怒り」や「恨み」や「妬み」といった種を蒔き、丹念に水や肥料をやり、やがてそれが芽を出し、すくすくと対立や争いに成長し始めると、今度は必死になって刈り取ろうとしているだけのことです。
それを飽きもせず繰り返しているだけです。

よ~く考えてください。

戦争が起こらないことだけが平和なんでしょうか!?
平和とは戦争が起こらないように何とか国家間の均衡を保つことでしょうか?

僕たちは自分たちが育ててしまった戦争の芽を、その都度、大きくならないうちに刈り取っていれば満足なのでしょうか!?

僕たちは、取り敢えず、自分たちが育ててしまった核を廃絶させることができればそれでいいのでしょうか!?

被爆者といわれる方たちは、その恨みの矛先を核保有国に向け、自分の被害を訴え続けることで、はたして本当に癒されるんでしょうか?

生きている限り、あるいは核がなくなり自分の受けた損害が何かの形で埋め合わされない限り、決して癒されることはないのでしょうか?

今この瞬間に、癒されることがあってはならないのでしょうか?



平和とは、世界中の人が不満や不公平感を乗り越えて、心の中から恨みや妬みや怒りを消して、仲良く生きてそして笑って死んでいける社会のことです。

平和とは決して戦争が起こらないことだけではありません。

僕はこのメルマガの創刊号に「生や、健康や、若さが、自然界がくれる贈り物であるように、死も、病気も、老いも、自然界がくれる贈り物です」と書きました。
NO.01(創刊号)『自然界からの贈り物』

死や、病気や、老いに感謝の気持ちを持てない人の心は、良い状態にあるとは言えません。
人間はどんなに医学が発達しても、どんな人でも100パーセントの確率で死にます。人間は生かされているのと同じに、時々刻々、死なされている存在でもあります。

"死" は ”生" の一部です。

僕たちの「生」とは、その半分を「死」が占めている状態のことです。
その「死」を悪いイメージで塗り固めてしまって、どうしてより良い「生」を生きることができるでしょうか!?


戦争を体験した人の心は深く傷ついています。
当然のことですが、彼らの傷ついた心は、死や病気や老いに感謝の気持ちなど持てるような良い状態ではありません。

心に大きな不公平感や不満を持ってしまっているからです。

彼らの心の傷が癒されない限り、つまり、死にまつわる残虐で凄惨で非人道的なイメージが抜けて、死や、病気や、老いに感謝の気持ちを持てる状態にならない限り、彼らは幸福な生を生きることは決してできません。


戦争を体験して深く傷ついた心を抱えている人を根本から癒す方法は、一つしかありません。
戦争の原因を、自分の感情を抜きにして正しく理解することだけです。
事実だけに即して、科学的に原因を究明することだけです。
それは分身主義の方法論でもあります。

脳や行動のメカニズムを知り、戦争の本当の原因を知れば、戦争は誰もが被害者であり誰もが加害者であると知ります。

ヒットラーは加害者でもあり被害者です。
ユダヤ人は被害者でもあり、同時に加害者でもあるんです。

全ては人間たちが、その時代のその取り巻く環境にやらされているんです。
現代の僕たちは、それを「科学的に」理解しなければいけません。
この「科学的に」という意味はとても重要で、それが分身主義の方法論です。

戦争は、誰が悪いのでも、どの国が悪いのでもなく、みんながやらされてしまったものです。

死んでいくことと殺されることとは違うと考えている人がいます。
確かにその通りですが、死んでいくことも、殺されることも、殺すことも、みんなその人がやらされてしまっていることである、という意味においては同じことです。

やっぱり、みんなが被害者でみんなが加害者なんです。
みんな自然界の犠牲者なんです。

その理解から許しが生まれます。慈悲が生まれます。連帯が生まれます。
誰かに責任を追及したり、誰かに怒りの矛先を向けたりしなくなります。

二度と戦争を起こさないためには過去の戦争体験を風化させてはいけない、と誰もが考えます。
でも、その時僕たちが継承してしまうものは、人間の恨み、怒り、悲しみ‥‥といった「感情」ではないでしょうか。

それは、相変らず戦争をすくすくと育てやすい土壌の中で、一生懸命その種を撒いているのと同じことなんです。

僕たちが本当に平和を手にするためには、過去の戦争の傷跡を語り継ぐのではなく、忘却しない限り不可能です。
僕たちの心が、死や、病気や、老いに感謝の気持ちを持てる状態にならなければいけないからです。

傷跡を他の何かで埋め合わせ、例えば経済的に清算してもらうことで忘れようとしてもいけません。
傷跡をこの瞬間にすっからかんに忘れ去るのです。

それは決して不可能なことではありません!!

僕たちは誰もが被害者であり加害者であり、自然界にやらされているだけの犠牲者でしかなかったことを真に理解できれば可能なことです。


もう一度、あなたに問いかけます。

僕たちが願っている平和とは、単に、戦争の起こらない状態のことを意味するのでしょうか!?

そうじゃないはずです!!

僕たちが望むものは、世界中の人が不満や不公平感を乗り越えて、仲良く生きてそして笑顔で死んでいける社会です!!

被爆者の方たちだって、本当に望むことは二度と戦争を起こさないことだけではなく、深く傷ついた自分の心を癒すことであるはずです。
あの戦争によって傷ついた世界中の心を癒すことであるはずです。
そのために世界を平和にしたいのではないのですか!?



彼らは、自分の傷ついた心を訴え、誰かに聞いてもらうことで自分の心を癒そうとしていますが、彼らのやっていることは一時的な癒しでしかなく、むしろいつまでも傷口を開きっ放しにして、いつまでも本当の自分の心の平和と本当の幸福を遠ざけてしまっているんです。

風化させないことは大切ですが、彼らは自分たちの傷も風化させない必要があるのでしょうか!?

僕たちが伝えていくことは、感情ではなく、戦争の事実だけでなければいけません。

世界中の人の脳に分身主義が上書きされたなら、もう、僕たちは戦争の惨状を感情的に子供たちに伝えることなどしなくても、戦争は二度と起こらなくなります。

これは本当のことです!!

信じてください!!

安心してください!!

それよりも、いつまでも戦争の傷跡を引きずることで、僕たちはいつまでも戦争を起こしてしまう土壌の中から抜け出せないでいます。

そのことの「不利益」の方を考えて欲しいのです。


「命の大切さ」には二通りあります。

戦争に関わった人が、「命の大切さ」と口にした時、そこには戦争に対する怒りや、その加害者に対する憎しみ、人が人を殺す行為に対しての憤りの気持ちが含まれています。

戦争を知らない世代の人が、「命の大切さ」と口にした時、そこには病気や死を忌避し、生だけを讃美する気持ちが含まれています。

二通りの命の大切さですが、共通する部分もあります。
どちらの命の大切さという言葉も、生だけを重視する、人間中心の傲慢さから発していて、そこには対立や争いの芽が隠れています。


命は大切なのではなく、自然界にやらされているだけのものです。
そのことに感謝し、命は、楽しみ合い、喜び合えばそれでいいのです。
そして、僕たちは、自然界にやらされているだけの死も、楽しみ喜び合えなければ片手落ちです。

そのことに気づいた人から、命の大切さなどという片手落ちの言葉を使うことをやめましょう!!

僕たちの生とは、その半分を死が占めている状態のことです。

細胞さえも死んでくれなければ、僕たちは生き続けることさえできません。
自分の人生の半分を嫌悪して、気を張って生きるのはもうやめましょう!


被爆60年の来年こそ、分身主義的スピーチをしてくださる被爆者の方が出てきてくださることを願います。

私たちは、過去の戦争を忘却します! 今日で、恨み、怒り、悲しみ‥‥、それらの全てを水に流します! 私たちは解放されます
と宣言してくださる被爆者代表の方が出てきてくださることを願います。
そして‥‥

今日、60回目の原爆忌を前にして、私たちは、私たちを育ててくださっているこの畑を捨て去る決意をしました。私たちはこの畑を後にして、平和の花を育てる土地に旅立つ決意をしました。あなた方一人一人が手にしている種を、もうこの畑に蒔いてはいけません。一緒に新しい土地に旅立つ決意をしてください!

新しい土地とは、脳に分身主義が上書きされた場所のことです。
それが本当の平和であることを理解する人が一人でも二人でも三人でも、早く出てきて欲しいと思います。

だって、そうしなければ本当に、世界平和は実現しないんですから。

あなたにはまだその意味がわかりませんか!?
それとも、もうわかっていただけましたか!?

継承させるものは、過去に起こった戦争の事実だけでいいんです。人間の恨み、怒り、悲しみ‥‥などの感情をいつまでも継承させてはいけません。
それこそ、戦争の種なんですから。


僕たちはいい加減、「命の尊厳」とか、「命の大切さ」とかいう呪いのような言葉から解放されなければいけません。そうしないと、いつまでたっても幸せになれないんです。

だからと言って、命なんて大したものではないから、簡単に踏みにじっていいなどと言っているわけではありません。
今日のメルマガを読んだあなたの脳が、そんな誤解をする脳でないことを願っています。

僕たちの脳に早く分身主義が上書きされればいいと思います。
大統領の脳にも、総理大臣の脳にも、官僚の脳にも、テロリストたちの脳にも、国連に参加している人たちの脳にも、学者の脳にも、先生の脳にも、近所のおじちゃんやおばちゃんの脳にも、子どもたちの脳にも‥‥、早く分身主義が上書きされればいいと思います。

早く「科学的覚醒」を果たしてほしいと思います。

難しいことではありません。

今では近所のおじいちゃんもおばあちゃんも、みんなが科学がもたらしてくれた携帯を使いこなしています。
それと同じように、いつかはおじいちゃんやおばあちゃんも科学が見つけてくれた「本当の自我」を使いこなす日が必ず来ます。

それが僕たちの脳を取り巻く新しい環境を作ります。
その土壌から自ずと平和が育ちます。
それが戦争を起こしてしまう環境からの、唯一の脱出方法です。
僕たち人類の手で、早くジクソーパズルを完成させましょう!!

そんな願いを込めて作った新しいホームページ、『世界平和への扉(分身主義へのいざない)』を、もう一度丹念に読んでみてください。

世界の平和と真の幸福のために‥‥ 😉✰ネッ!



◆◇◆編集後記

僕たちは戦争の傷跡をいつまでも引きずることで、幸福に生きることや、世界を平和にすることを遠ざけてしまっているんです。

過去の戦争の惨状を感情的に継承することは、子孫たちに「怒り」や「憎しみ」を伝え継ぐことに成功しているだけです。
死に対する「怒り」や「恐怖」や「偏見」を植え付け、いつまでも僕たちの心を傷つけ続けることに成功しているだけです。

自分たちのことに置き換えてみればよくわかります。
例えば、過去の戦争の傷跡を引きずった中国や朝鮮の方たちが、それを知らない世代にも反日感情を伝え継いでしまって、戦争を知らない世代の日本人であるあなたが、身に覚えのない反感をもたれるのは残念に思うでしょう!?

戦争を体験していない世代の僕には、もう何の責任もないからいい加減にしてくれ、などと言うつもりはありません。

完全無欠の分身主義者を目指している僕は、他の人たち以上に、自分の責任を感じています。
全てはつながっているのを知っているからです。

だけど責任を追及している人間は正しい側なのでしょうか?
戦争は誰もが被害者であり誰もが加害者であるんです。
僕たちは誰もが自然界の犠牲者だったんです!!
その時代の環境の犠牲者だったんです!!
そしてまさに僕たちがその時代の環境を作っていたのです!!

日本がいつまでも過去の責任追及をされていて、どうして世界が平和になるでしょうか!?
あるいは、そんなことを理由にして経済的に優位に立とうとする脳であふれていて、世界が平和になるでしょうか!?

中国や朝鮮の方に過去の日本の過ちを忘却しろなどと言っておいて、忘却させたら、今度は優位に立とうなどと考えているわけではありません。

僕は今、僕たちの脳に分身主義が上書きされるという前提のもとでの発言をしているんです。
分身主義が上書きされれば、どちらかが優位に立とうなどという感覚そのものが消失するんです。

日本が、中国が、朝鮮が‥‥などという単位すらも消失します。

だから、もし世界中の人の脳に分身主義が上書きされなければ、僕の発言は全て無意味で愚かな発言です。
でも、分身主義が上書きされなければ人類はもっと愚かです。
人類は、いつまでも愚かな道を突き進まされてしまうのでしょうか!?

僕はその逆であることを信じています。



NO.50 命は本当に大切なものなの?(2) 2004.09.07

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【脳(心)に分身主義を上書きさせれば、どんなに深く傷ついた心でもピカピカに修復されます】
【科学は、信仰のようなものを否定し、それに対立するものと思われていますが、実はその真逆だということを知ってください】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
こんにちは徳永真亜基分身です。


前回のメルマガ「命は本当に大切なものなの?(1)」を読んでいただいて、大学三年の男性(21歳)の方から、次のようなメールをいただきました。

私は、将来、保育士になろうと思っています。
そんな自分が、もし子どもに「命は本当に大切なものなの?」と聞かれたら、現実問題として、何とかして「命の大切さ」を説明しようとしてしまうと思います。
子どもが自殺してしまったり、平気で人を殺してしまうような事件が頻発している今日この頃です。その防止ためにも、命は(自分の命も他人の命も)大切であることを力説することは必要であると思います。
(後略)


それに対して僕は次のように答えさせていただきました。

僕は前回、「命は大切なのではなく、自然界にやらされているだけのものです」と書きましたが、それは、命は大切ではないという意味ではありません。
大切とか大切ではないとか評価をくだすのは人間の傲慢だと思うだけです。
命は自然界から与えられているだけです。
そのことに感謝し、命は、楽しみ合い、喜び合えばそれでいいのです。


僕は「命は大切だ」などという嘘を子どもに言い聞かせるより、感謝の気持ちを持たせた方がいいと考えます。
「命は大切」という言葉は、それを言う側に、ある意図があって、巧妙に言いくるめるための嘘でしかありません。

つまり、メールをくださった方のおっしゃる「自殺や他殺を防止する」意図のもとにつかれる嘘です。
大人の嘘は、子どもに対して強い説得力を持ちません。

「命が大切なら、どうして大人は命ある動物や植物を殺して食べるの?」と聞かれた時、
「うるさい! つべこべ言わずに残さず食べろ!」
とごまかすしかなくなります。

あるいは、
「🎶魚は僕ら(に食べられるの)を待ってーいーるー‥‥イェイ!🎶」
などと、自分たち人間に都合のいい屁理屈を並べたてて、魚を殺して食べる罪悪感を明るく歌ってごまかそうとする脳天気な大人たちもいます。😃

でも、感謝の気持ちには嘘はありません。
それは、人間が普遍的に持ち得る喜びの「感情」だからです。
だから、子どもにも説得力があります。

「命は大切」という嘘がいけないもう一つの理由は、それを口にした瞬間、外に敵を作ってしまっているからです。
この場合の敵とは「命」に相対するもの、つまり、人間に「死」をもたらすもの全てのことです。

もちろん死そのものも、命から見た敵になります。(現在の医療も死を敵視した上に成り立っているので、闘病(病気と闘う)などという言葉が使われます)


敵を作る意識が世界を平和にするわけはありません。

敵を作ってしまうということは、僕たちは、命は大切と口にすることで、むしろ命を脅かすものを、自分たちの心の中に作り上げてしまってもいるんです。

それを口にすることで、無意識で死を向こうへ押しやり、真の平和までも手の届かない所へ押しやってしまっています。

「命は大切」などという体(てい)のいい言葉は、実は、他人を大切にする気持ちよりも、敵から身を守るような気持ちを強く抱かせます。
それは、ますます対立や争いの土壌を耕すことになります。

前回、被爆者の方の「命の大切さと平和の尊さ」という言葉をご紹介しましたが、それは悲惨な戦争を体験された多くの方の気持ちだと思います。
彼らが、暴力から身を守るような気持ちを強く抱くのは仕方のないことです。

でも、そのような言葉を発する脳がどれだけ多く集まっても、と言うより、そのような発想をしてしまう脳が集まれば集まるほど、僕たちの心は平和とはかけ離れてしまうんです。
そのような脳が作る世界平和は、戦争を抑止しているだけの世界でしかありません。

それは、いつ戦争が起きても不思議でない所で、何とか均衡を保ち、ビクビクして生きていくようなものではないでしょうか!?


もし真の平和を願うのなら、僕たちの脳に、「命の大切さと平和の尊さ」という言葉が浮かび上がってしまう環境(あるいは習慣)を断ち切ってしまうしかありません。
それは、今まで説明してきたように、真の平和を遠ざける言葉ですから。


だからこそ、前回「命は、楽しみ合い、喜び合えばそれでいいのです」と書いた後に、次のように続けました。

そして、僕たちは、自然界にやらされているだけの「死」も、楽しみ喜び合えなければ片手落ちです。
そのことに気づいた人から、「命の大切さ」などという片手落ちの言葉を使うことをやめましょう!! 自分の人生の半分を嫌悪して、気を張って生きるのはもうやめましょう!
なぜなら、僕たちの生とは、その半分を死が占めている状態のことですから。


「命の尊厳」「命の大切さ」を口にしなければならない僕たちは、心が傷ついているからです。

僕たちは戦争を経験しました。
今も世界のどこかで戦争が行なわれています。
子どもが人を殺したり自殺したりするニュースを見聞きします。
テレビでは毎日のように暴力の報道が流れます。
そのことで、僕たちの心は、誰もが無意識で深く深く傷ついているんです。

僕たちの周りは、敵であふれてしまっています。
だから、自分を守る気持ちが強くなってしまうんです。
自分たちを暴力から守るために、「命の尊厳」「命の大切さ」などという嘘が必要になってくるわけです。

傷ついた心を引きずった僕たちは今、海の中で溺れまいと手足を激しくバタつかせ、余計に水を飲んで溺れそうになっている状態です。
自分だけを大切にし過ぎて、人間中心で、生だけを重視する傲慢さに満ちています。

ところが、自然界中心に変えてみたらどうでしょう。

水の中に仰向けにゆっくりと手足を伸ばしたら、プカプカと気持ちよく浮かんだ経験は誰でもあるでしょう。
少々の波がきても、その波に乗って穏やかに呼吸ができます。

人間界で溺れまいと必死でバタバタもがいていた状態から、自然界中心の気持ちに変えて、生だけでなく死も受け入れる気持ちになることで、このように気持ちよく生きることができるのです。


あなたは死の何が恐いのですか!?
病死? 自殺? 事故死? 殺される死‥‥?
どれも突然襲い掛かってくるものだし、死はどのような形のものであれ決して避けられません。

僕たちの傷ついた心の中では、死と恐怖のイメージとが固く結びついてしまっています。

でも、脳(心)に分身主義を上書きさせれば、どんなに深く傷ついた心でもピカピカに修復されます。

死と恐怖のイメージを切り離して、いつか訪れる死を笑って受け入れる心の準備ができます。
たとえどんな形の死であろうともね。

世界中の人の脳に分身主義が上書きされたその時、戦争も暴力も、自殺も他殺も、気づかないうちに僕たちからずっと遠くに行っています!!
これは本当のことです。


だから、子どもに「命は本当に大切なものなの?」と聞かれたら、

「いいかい、生きることも死ぬことも、この自然界からの贈り物なんだ。僕たちは、その贈り物を感謝の気持ちで受け取らなければいけないんだよ。
感謝の気持ちで生を受け入れ、感謝の気持ちで死を受け入れる‥‥それが人間なんだ。
だから、命は大切か大切じゃないかなんて、人間には決める権利はないんだ」

と、真実の言葉を伝えてあげることのできる大人になりたいものです。

そして、次のように語ることができる未来が、きっと来ると信じています。

「いいかい、僕たちが大切にしなければならないのは、「命」や「生」なんかじゃなくて、喜びを共感し合う感情なんだよ。「命」も「生」も、決してそのことの上位に置いてはいけない。それが遠い遠い昔に、人類が戦争と暴力を繰り返してしまったことから得た一番の教訓なんだ」


いつか、戦争も暴力もない未来がきっと来ることを信じましょう‥‥ 😉✰ネッ!




◆◇◆編集後記

「命は大切」という言葉は嘘です、と書きました。
「自殺や他殺を防止する」ための嘘です、と。

どうして嘘をつかなければ、自殺や他殺を防止できないと諦めているのでしょうか?

科学技術や情報技術が地球を覆い尽くしている現代でさえ、この宇宙の成り立ちや、僕たちの脳のメカニズムを正確に知らない人であふれています。
まだ科学で証明もされていないのに、空中のどこかに霊や魂のようなものが漂っていると思い込んでいたり、前世やたたりを信じていたり、そのような不正確な知識を捨て切れずにいる人がたくさんいます。

その人たちは、そういうことを信じることでより良い生き方ができると信じているから、それを信じることを捨てたくない気持ちもあるようです。

それを捨ててしまった瞬間、科学が猛威を振るいだし、人間がコンピューターに操られてしまう時代が来ると恐れているかのようにも見えます。

あるいは、科学を信奉している人の心は難しい化学方程式か何かでできているかのように冷たく感じるようです。

そのようなイメージを抱く人たちの脳は、一昔前の、まだ科学が発展途上段階だった頃の傲慢さを覚えていて、その嫌な記憶に捕らわれ続けています。

今までの科学は、確かに科学を扱う人間を傲慢にさせる部分もありました。
でも、科学が自分の限界を知ってしまった今、それは人間を傲慢にさせるどころか、人間をこれ以上ないくらいに謙虚にさせてくれるものに変わりました。 (NO.21「現代科学の限界」

不安とは、「正しい知識」の欠如によって起こるものです。
正確な科学の知識は、僕たちから不安を取り除き、殺伐とした現代を生きる僕たちの傷づいた心に、むしろ古代人のような確固とした厚い信仰心を取り戻させてくれます。

もう僕たちは嘘をつかなくてもいいんです!!

包み隠さず本当の話だけをしましょう!!

嘘をつかなくても、自殺や他殺を防止できます!!

戦争だって暴力だってなくせます!!



科学は、信仰のようなものを否定し、それに対立するものと思われていますが、実はその正反対だということを知ってください。
現代科学が解明している正確な知識を取り入れることは、人間に必要な信仰のようなものを否定するどころか、かつてない程の世界的規模で、最も確固とした信仰を与えてくれます。

分身主義を知った僕は今、生かされ、そして死んでいく喜びに満ちています。



NO.51 世界一大きな共感(1) 2004.09.22

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【どんなに振り払おうとしても、「不便」と「死」がその半分を占めているのが人生である】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
こんにちは徳永真亜基分身です。

今日から僕は、皆さんより一足先に、自分のことを徳永分身と呼ぼうと思います。
この一言で、宇宙と一体である本当の自分の姿を、じんわりとイメージできるという魔法の言葉です。
幸福になるために、いずれ誰もがやらなければならないイメージ・トレーニングです。

あなたも誰よりも早く行なってみませんか!?
まだ抵抗があると思いますから、僕へのメールか、僕が時々顔を出させていただいている掲示板なんかで、ご自分のことを○○分身と書いてみてください。あるいは日記などで。

もしあなたが、分身の意味を本当にわかって使うのなら、もうあなたの周りに敵は何一つ存在しなくなります。
世界のぜ~んぶ、あなたの味方に変身します。
だって、僕たちは一つだったんですもの 😉✰ネッ!


分身という意味がまだよくわからないって!?
今はまだわからなくても心配はいりません。

今、新しい作品を書いていますが、徳永分身は同じことを何度でも言い方を変えて書きます。
少しずつ、わかりやすい言葉を使えるようになってきたと思っています。


ところで、徳永分身がインターネットで知り合った方の中に、森川のおじちゃんという方がいます。
すごい写真を撮ったり、ポスターやイラストを描いたり、『分身主義宣言!』の表紙絵を飾ってくださった方でもあります。

本職はデザイナーさんなのですが、地元ではむしろ「水切り名人」としての方が有名です。

水きりというのは、石ころを川に向かって投げ、何段もジャンプさせるアレです。おじちゃんの水きりのテクニックは驚異的で、テレビにも何度も出演させられているので、荒川で水きり遊びをしていると知らない人から声をかけられたりもするそうです。

水切り

その森川のおじちゃんが、ご自分のホームページ『自然大好き』の9月1日の掲示板に、次のような記述をされていました。

熊谷市におもいやり橋という橋がありました。
車一台やっと通れる橋、車は対岸を見ながらあうんの呼吸で譲り合い、見事に渡りました。
ついた名前が思いやり橋。
いくつもの人生の、いくつもの物語が確かに地元の企業や住民から500万円以上の寄附が集まり、おもいやり橋の記念碑と記念誌ができました。思いやりの心を残そうという思いの結集です。
今度の土曜日、除幕式と記念式典があります。
おじちゃんも係わり、招待されています。生きている者はいろいろな事をしてしまいます。


思いやり橋‥‥、なんと素敵な名前なんだろうと思い、徳永分身は調べてみました。
昔は「久下(くげ)の渡し」と呼ばれる荒川を渡してくれる舟があったそうですが、それに代わる橋が、1955年(昭和30年)に作られ、「久下橋」と名づけられたそうです。どうやらそれが、森川のおじちゃんのおっしゃる「思いやり橋」のことのようです。

ちなみに久下(くげ)とは、その辺りの地名です。

全長約280メートル、幅約3メートルの木造の橋。
車が一台やっと通れる幅しかなく、お互いに譲り合って渡ったところから、誰からともなく「思いやり橋」と呼ばれるようになったそうです。

台風や大雨で荒川が増水すると水没してしまう冠水橋で、流木やゴミが橋げたに絡まったり、橋が傷んだりで何度も修理を重ねてきました。

それで、2003年6月に、約600メートル下流に総工費約125億円をかけて新しい久下橋が作られました。
この「思いやり橋」は、橋の存続を希望する 3,427名の署名もむなしく、撤去されてしまいました。

それで、せめて思いやり橋の記念碑を建てようということになり、その完成を披露する除幕式に森川のおじちゃんは招待されたということです。

徳永分身は、旧久下橋を車で渡る自分を想像してみることにしました。

配達の仕事を始めたばかりの徳永分身でした。
地図を見ながら配達をする不慣れな徳永分身は、大幅に時間が遅れ、焦っていました。
次の配達先は荒川を渡らなければなりません。
近道は、久下橋を渡るしかありません。
ちょうど渡ろうとすると、向こうから一台、二台とつながって来ます。
280メートルもあれば、渡り終えるまでにかなり時間がかかります。
車を運転している時は、結構せっかちな徳永分身です。
「もっと、速く渡れよ! こちとら急いでるのによー!」
心の中では、イライラしています。

一台が渡り終えて、片手をあげて徳永分身に挨拶をしていきました。
徳永分身は心の中とは裏腹に、笑顔で片手をあげます。
もう一台も片手をあげて、軽く会釈をして通り過ぎました。
徳永分身も片手をあげて会釈を返します。
嬉しくなって、なんだか待った甲斐がありました。

その次の日です。
また一台、二台と続いてきて、その二台が橋の4分の3ほど渡り終えた時、対岸にもう一台の車が見えました。
でもその車は、渡ろうともせず、じっと待ってくれているのです。
二台の車が渡り終えた後、徳永分身が迷っていると、対岸にいる車がライトで合図をしてくれました。
徳永分身は橋を渡りながらも、早く渡ってあげなければと気持ちが急かされますが、農家の人や通学する学生も歩いているので、スピードは出せません。

ところが渡り終えたら、向こうで待ってくれていたおじさんはイライラした様子もなく、日に焼けた顔をほころばせて手をあげてくれました。
徳永分身は普段したこともないようなていねいな笑顔を作って、会釈をしました。
一度も会ったことがない人が、こんなにも心を通わせることができるんです。徳永分身は、だんだんとこの橋が好きになりました。

そのまた次の日です。
雨が降っていましたが、心の中は少しも憂うつではありません。
「今日は誰と挨拶できるかな?」そんな期待をしながら配達の荷物を積んで
思いやり橋に向かう、徳永分身でした。

‥‥でも、その日は、対岸に車が一台も見えませんでした。
なんだか淋しい気持ちで渡り終えてしまった徳永分身でした。

挨拶ができる人が現われるまで、どしゃ降りの雨の中を、一時間も対岸で待っている変な自分を想像してクスッと笑ってしまった徳永分身でした。


森川のおじちゃんの掲示板には、9月6日に次のような記述がありました。

便利と不便では、便利が良いに決まってますけど。
人のつながりは、不便な方が良くなるようですね。
豊かで便利な時代は、助け合う必要が少なくなるのかも知れません。
新しく作られた大きな橋は思いやり橋と呼ばれることはないでしょう。
橋の記念碑を創った地域の人達は昔、堤防の中に住んでいた人達が多いのです。その村は洪水になると助け合ってそれを乗切ったそうです。
その伝統があるせいか、地域で何かをするときは結束が強く、難しい事でも実現してしまいます。


「便利と不便では、便利が良いに決まってますけど。人のつながりは、不便な方が良くなるようですね。豊かで便利な時代は、助け合う必要が少なくなるのかも知れません」

森川のおじちゃんの名言です。
本当にその通りだと思います。
便利になって助け合う必要が少なくなった分だけ、人とのつながりが希薄になって、つまんなくなってしまったような気がします。

徳永分身が、前回と前々回のメルマガで扱ったテーマである「生」と「死」も、この「便利」と「不便」の関係にそれぞれ対応しているような気がします。

人はどこまでも便利や生に執着します。
医療も、企業も、国家も、個人も、みんなみんな死を忌避し、ひたすら便利さ、快適さ、効率さを追求し、お金を神様のように崇めて邁進します。

それこそが幸福の最短距離だと信じて、突き進んできたはずの僕たちが今、リストラに喘ぎ、自分の子どもにはウザイと言われ、太りすぎて病気になって苦しんだり、寝たきりの親を抱えていたりしています。

今となっては、ちっとも幸福でないような気がしないでしょうか?
なんだか、得たものよりも失ってしまったものの方がたくさんあるような気がしないでしょうか?

一体何が間違っていたんでしょう!?
ちょっと考えてみましょう。

自動車ができたおかげで、移動が便利になったと同時に、保険や車庫証明などの手続きやメンテナンスやワックスがけなどの煩わしさ、不便さが生まれました。

そして、経費や維持費にかかる出費に、食費を切り詰めなければならなかったり、他人を事故に巻き込んでしまう心配事も新たに生まれてきました。

パソコンのメールのおかげで、手紙に関する手間が全て省略できて便利になった代わりに、毎日のように届くスパムメール(読み手の都合を考えずに勝手に送られる電子メール)の削除に追われたり、ウィルスに悩まされたりと、新たな煩わしさ、不便さが着いてきました。

そのように考えると、僕たちは、永遠に不便さから解放されることはあり得ないと言えます。
不便さの内容が変化しているだけです。

生や死はどうでしょうか!?
不治の病と言われていた病気に対する薬ができたら、今度はその副作用で違う症状に悩まされたり、その治療によって新たな死の原因が生まれたりします。

このように考えると、僕たちは、永遠に死からも解放されることはあり得ないと言えます。
死の内容が変化しているだけです。

どんなに便利になっても、それと同じ量の不便は必ず存在します。
どんなに死を嫌って向こうに遠ざけたつもりでいても、生と同じ量の死が必ず存在します。
便利や生だけを幸福の目標に掲げて邁進してきた人間ですが、僕たちの人生には、どんなに振り払おうとしても「不便」と「死」が、形を変えて半分だけ含まれています。

それなのに、便利や生だけが幸福の条件だと信じ切っていたことが間違いだったとわかります。
決してつかめないものを追いかけていたから、それが実現されなかった今、ちっとも幸福ではないし、徒労の分だけ虚しさを感じてしまうんですね。

だけど、ここで徳永分身の言葉を誤解しないでくださいね。
便利や生だけが幸福の条件だと信じ切っていたことが間違いだったと言っても、不便の方がいい、生よりも死を肯定すべきだ、などと言っているんではありませんよ。

便利や生は、幸福の条件ではなかったと言っているだけです。

では、幸福の条件とは何だったんでしょうか!?
それは次回に書くことにします。

便利にも不便にも、生にも死にも、決して奪うことのできないものがあります。
便利だろうが不便だろうが、生だろうが死だろうが、まったく関係なしに僕たちは幸福になることができます。
それを次回まで、あなたも考えてみてください。

あなたのぶっ飛ぶような幸福体験のために‥‥ 😉✰ネッ!



◆◇◆編集後記

森川のおじちゃんたちが500万円も募ることができたのは、寄付をした人たちの心の中に「かつてここに思いやり橋が存在した」という単なる歴史的事実を残したいという気持ちがあったからだけではなくて、記念碑を作ることによって得られる「共感」を求める気持ちがみんなの中にあったからではないでしょうか?

お金を出した人たちの心の奥には、何かを大事にしたい気持ちが確かにあったでしょうが、それは「歴史的事実」ではなく、「共感」のような気がします。

死というものは悲しみを伴います。
詩的な表現を使うことを許していただけるならば、悲しみは、それを分かち合う共感という喜びのために、あるのかもしれません。

思いやり橋の死を悼むことを通しての「共感」の中に、僕たちの幸福があります。

ここに今回の宿題のヒントがあります。

そして、共感にもいろいろなものがあります。
分身主義の目指している「世界一大きな共感」をあなたにも知っていただきたいと思います。
それこそ、あなたも、もちろんこの徳永分身も、まだ経験したことのないぶっ飛ぶような、まさに世界が逆立ちするような幸福です!



NO.52 世界一大きな共感(2) 2004.10.05

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【当然のことだが、世界中の人類を一つに結びつけてくれる共感は、世界にたった一つしかない】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
こんにちは徳永真亜基分身です。


前回、便利や生は幸福の条件ではなかったと書きました。
どんなに便利や生を追い求めても、その対極にある不便や死は、僕たちの人生から決してなくなることはなく、便利や生を幸福の条件として追い求めてきた今、僕たちは幸福になるどころか挫折感や虚しさを感じています。

だけど、「便利・不便」や「生・死」とはまったく関係なしに、僕たちは幸福になることができます。

では、本当の幸福の条件とは何だったんでしょうか?

それを考えることが今回の課題でしたが、その答えはもう書いてしまっていましたね。
「共感」です。

共感にはどのようなものがあるか、ちょっと考えてみてください。

例えば、日常で腹が立つようなことがあったとします。
マナー違反とか、年金の問題とか、政治家の汚職とか‥‥。
そんな時、誰かのエッセイか評論を読んでいたら、その人も自分と同じことに、同じような視点で腹を立てていて、なんだかスッキリしたという経験をしたことはあると思います。

これが共感の力です。

例えば、テストを返されたら、なんと0点だったとします。
でも、隣の人がそれを覗き込んで、「あっ同じだ!」と叫んで自分の点数を見せてくれたら、本当に彼も0点でした。
その時、何だかホッとした経験はあると思います。

これも共感の力です。

ごめんなさい、0点を取ったことがないあなたには、共感できない話でしたね。


他にもたくさんたくさんあります。
誰かと一緒に、テレビのバラエティ番組を見ていて、自分が爆笑した時に、隣に座っている人も爆笑したとします。
気持ちが通じ合えたようで、ちょっと幸せな気分になります。

これも、小さな共感が作り出す大きな大きな効果です。

もし、隣の人が「私はこういう下品なのは楽しくないんです」と感じる人で、少しも笑わない人だったら、とたんにあなたの心は固まります。

また、例えば、あなたが自分の生まれ故郷にまつわる歴史や、そこに住む人たち全てのことを誇りに思っているとします。
ある居酒屋で、偶然、同郷の人と出会い、その人も同じように自分の故郷を誇りに思っている人だったら、故郷の話を肴(さかな)にして仲良く酒を飲んだりできます。

これも共感の作り出してくれる感動的なシーンです。

よく考えてみると、不便さや不自由さがあっても、その不便さや不自由さを共感し合うことで、笑い飛ばしたりすることもできます。
死の悲しみを共感によって和らげることもできます。
便利にも不便にも、生にも死にも、人間の共感は決して奪うことはできません。
共感さえあれば、「便利・不便」や「生・死」とはまったく関係なしに、僕たちは幸福になることができるわけです。

それと、何かの趣味のサークルや、目的を持って集まった何かの団体なんかも、口には出さなくても心の深い部分ではお互いに共感し合っている部分を感じていたりします。
宗教なんかも、深い部分で共感が働いているいい例です。
ジャズのジャム・セッションなんか、互いの音を聞いて共感しながら楽しんで演奏しているのが伝わってきます。


ところで、今まで見てきたこと全てに共通する点があります。
共感とは、別々だったものを部分的につながらせる作用があるということです。
この地球に1000人の人が住んでいて、バラバラに立っているとします。
共感とは、その1000人のうちの、何人かずつが手をつなぐことです。

共感(つながること)こそ人間にとって最大の幸福である、と分身主義は言い続けてきました。

分身主義は、「およそ、宇宙を漂っている僕たち“分身”が、仲良く生きることを犠牲にしてまでも決定しなければならない重大事項なんて、ただの一つだってありはしない」と考えます。

人間の最大の幸福は、仲良く生きること(=世界平和)です。
世界平和とは戦争のない状態のことを指すのではなく、世界中の人が仲良く生きる状態です。
そのことを否定する人は誰もいないはずです。
そして仲良く生きることとは、共感という喜びを感じながら生きることです。

でも、「共感」はいいことばかりとは言えません。

部分的につながった状態とは、その外に置かれた人とのつながりを、不本意にも切断してしまう状態を作ってしまったりします。

1000人のうちの5人が手をつなげば、他の995人は仲間はずれです。
1000人のうち、300人と420人と130人と150人の4つに分かれて手をつなげば、4つは互いに喧嘩をするかもしれません。

例えば、日本人が強い愛国心を植え付けられた国民だったとします。
愛国心という見えない共感は、僕たちの心をしっかりと団結させ、日本をもっともっと綺麗で犯罪のない住みよい国に変えてくれるでしょう。
でも、その気持ちが強すぎると、他の国との敵対関係を作ってしまいます。
戦争というのは、だいたいが強い愛国心(つまり自己愛の変化形)から生まれるものです。

そして実際に戦争が起こって日本が勝利しようものなら、日本国民としての共感は絶頂に達します。

共感は幸福の条件には違いないけれども、共感が戦争を起こし、戦争がまた共感を呼ぶとしたら、共感は世界を平和にはしません。
だとしたら、共感こそ世界を平和にすると言い続けている分身主義は、とんでもなく矛盾したことを言っているんでしょうか?

世界が平和になって初めて、僕たちは本当に幸福になれます。
世界が少しも平和でないのに、自分は今幸福だなどと思っているおめでたい人は、いつか痛い目にあいます。
それは一時的な幸福、いつ壊れるかわからない幸福、いつも誰かに妬まれている幸福です。そして、たぶん優越感の上に成り立っている幸福です。
1000人の人が仲良く手をつなげなければ、本当の幸福とは言えません。


前回の編集後記の最後に、次のように書いたのを覚えていますか?

共感にもいろいろなものがあります。
分身主義の目指している「世界一大きな共感」をあなたにも知っていただきたいと思います。
それこそ、あなたも、もちろんこの徳永分身も、まだ経験したことのないぶっ飛ぶような、まさに世界が逆立ちするような幸福です!

共感にもいろいろありました。
でも‥‥、よく聞いてください。

人類を一つに結びつける共感はたった一つです。

当然の話ですよね。共感するものがグループごとに違っていては、永久に人類は一つになれません。1000人の人が手をつなげません。

では、人類を一つに結びつけてくれる共感なんてあるんでしょうか!?


次回はいよいよ、「世界一大きな共感」の最終回です。
配信予定日は、10月19日です。
僕たちはいつか必ず、人類を一つに結びつけてくれる共感でつながれます。


だって、僕たちは本当に一つだったんですもの‥‥ 😉✰ネッ!



◆◇◆編集後記

共感するものがグループごとに違っていては、永久に人類は一つになれないというのは間違いありませんが、人類を一つに結びつけてくれる共感は一つではなく、いくつか考えられると言う人がいるかもしれません。

本当にいくつか考えられるでしょうか!?

例えば世界中の人が共通の関心ごとで一つになれるものって、何が考えられますか?

オリンピック?

確かに盛り上がるけれども、年中お祭り騒ぎをしているわけにもいきませんし、国ごとの共感が高まることで、かえって世界中の人が一つになれません。
今の未熟な僕たち人類の脳では、オリンピックは世界平和を目的とした祭典というよりも武器を用いない戦争のように感じてしまうこともあります。

宇宙開発?

関心ごとをこの地球の外に持っていけば、みんなが一つになれると考えるわけですね。多国籍民族が集まったアメリカが団結するために、外に敵を作る作戦と同じですね。

確かに一案ですが、みんなの関心が高まれば高まるほど、企業はそのプロジェクトに食いついてきます。
今の未熟な僕たち人類の脳では、自分たちの利益を巡って争いが起きそうです。


世界中の人類を一つに結びつけてくれる共感には、ある種の強制力が必要だと思われるかもしれません。誰もがそっぽを向いて、自分だけの興味や快楽を貪っているから、僕たちが一つになれないからです。

でも、世界中の人類を一つに結びつけてくれる共感は、その人の興味や快楽を奪ったり、上から強制するものであってもいけません。
上からの強制力ではなく、自分の内部から感謝の気持ちを伴って湧き上がってくるような強制力です。

分身主義はその力を「科学」に求めたんです。



NO.53 世界一大きな共感(3) 2004.10.19

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【自然界に対して無力を知った人類は全てを失い、それと引き換えにして宇宙を手に入れる】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
こんにちは徳永真亜基分身です。


今回は、「世界一大きな共感」の最終回です。

さて、人類を一つに結びつけてくれる共感なんてあるんでしょうか!?
そして、それは本当に必要なんでしょうか!?
一緒に考えてみてください。

それを考えるためには、グループというものを考えてみるといいと思います。

まず、家族という最小のグループがあります。
家族という特殊な絆を持った集団間には、バロック音楽における通奏低音のように、その成員たちの深い深い潜在意識の底を無意識で常に流れている「共感」があります。

そのような無意識の共感というものは、一国家というグループにおける国民たちや、宗教というグループにおける信者たちといった各成員間でも働いています。

その無意識の共感は、成員間の誰かが何らかの危機に陥った場合に、他の成員にとっても同じ危機であるかのように感じさせる働きがあり、助け合って乗り切ることを可能にします。

今までは、そのようなグループごとの共感でも、なんとか幸せでいられました。


でも情報化時代で急激に世界が狭くなった今、僕たちは世界というグループの中で生きる人間です!!
たとえ自分が戦争のない国で生きていても、他の国で行なわれている戦争や、飢餓の子どもたちの映像を見せつけられて、幸福でいられる人はいません。

これからは、世界中の人類を一つに結びつけてくれる共感がなければ、あなたも絶対に幸せになれません!!
今この時代を生きている僕たちの幸福のためには、人類を一つに結びつけてくれる共感が必要になってきました。

それだけは確かなことです。


人類を一つに結びつけてくれる共感には、科学の力が必要です。
その理由は、次の2点です。


❶ 実証しながら歩む科学には、万人を納得させる力がある。

お月見という風流なことを考え出した日本人は、月の中に、餅を突いている兎を見ました。
中国人は大きなカニ、西洋人は女性の横顔を見たようです。
他にも国によっていろいろです。
ロバ、ワニ、ガマ、本を読む老人、怪人、怪物‥‥などなど。
人間の想像力が、多様性を生みます。

ところが、高倍率の天体望遠鏡の発明や、ロケットの月着陸などにより、月はクレーターだらけの岩の塊であることがわかりました。
たとえ国によって違う主張をして何かを言い争っていても、たった一つの事実を見せつけられれば、お互いに納得せざるを得ません。
これが科学の力です。

昔は不治の病と言われていたものも、その原因菌の発見により今では治る病気もたくさんあります。
薬がその病に効くということは、その原因が、神のたたりでも前世の悪業でもなく、その病原菌であったという証明であり、世界中の人が納得します。
これが科学の力です。

それでも、納得できないと言う人がいたら、現代科学の産み落とした様々な道具や機器、例えば電子顕微鏡や自動車やテレビや携帯などを「こんなもの信じない!」と言ってゴミ箱に放り捨てる覚悟が必要です。
現代科学が解明した事実が正しいからこそ、科学にはこの自然界で機能するモノを作ることができるんです。

電子顕微鏡も自動車もテレビも携帯も、それが自然界で正しく働いているということは、現代科学が解明している事実が正しいということを、一つ一つ証明しているとも言えます。

有無をも言わさず万人を納得させる力があるということは、科学は、万人の心を一つにする秘めた力を持っているということです。


❷ 科学の限界を知った人類は、謙虚な生き方を選択させられる。

科学とは物事の原因を探る学問です。
原因を究明し、それを利用したモノを作ったり、それを未来に役立てることもできる学問です。
現代の科学では、ビッグバン以前の宇宙の状態は解明されていません。
まだ仮説の段階です。
でも、いずれ科学は決定的な証拠を見つけ出し、それらの仮説を証明するでしょう。
科学は、いずれ、あらゆる超常現象と言われる現象を解明するでしょう。
科学は、いずれ、人間の心までも解明するでしょう。

でも、科学にはどうしてもできないものがあります。

科学は、物事の原因(どうしてそれが起こったか)を、どこまでも解明していくはずですが、物事の理由(何の目的でそれが起こったか)は、決して突き止めることはできません。

例えば、宇宙ができた原因や、人間が生きている原因も解明できますが、宇宙が生まれた目的とか、人間が生まれてきた意味のようなものは、科学には突き止めることはできません。

宗教ならいとも簡単に説明してしまうこれらのことが、科学には不可能なんです。

何故なら、この宇宙に存在するあらゆるものは、意味があって生まれてきたわけではない、ということを証明する方向で歩んできたのが科学だったからです。

これが科学の限界です。

科学が限界を知ったということは、同時に人類が自分の無力を知ったということになります。

人間の行動は、最初に何らかの目的や意味があって行われているのではないという事実を知らしめたからです。
人間は、今まで信じていたような「自由意志」を持って行動していたのではなかったのです。

僕たちの脳の中の「意志」は、最終的には、その脳を取り巻く環境から入ってきた情報(周囲の人々の言動、メディア、自然現象など)によって、浮かび上がらせ・られていただけのもので、その刺激に対する反応が、その人に行動を取らせているだけだったわけです。

ちなみに、脳を取り巻く環境とは、自分の身体内部からの情報や遺伝も含めます。

あなたも、そしてこの徳永分身も、何かをしゃべったり行動したりしますが、それはある意味、僕たちを取り巻く環境が、あなたや徳永分身を媒体としてしゃべったり行動したりしているだけなんです。

僕たちを取り巻いている環境とは、それはビッグバンというビリヤードの最初の球が突かれてから、延々と続く「刺激 ⇒ 反応 ⇒ 刺激 ⇒ 反応‥‥」の連鎖が作り上げているものだったわけです。

それを知ったということは、自然界に主体的に働きかけていると信じていた人類が、敗北した瞬間です。

例えば、人類が宇宙探査ロケットを作って宇宙の果て(ビッグバンの瞬間)に向けて飛ばすとしたら、それは自分たちが主体的意思でもってやっていると考えるでしょうが、実はそれは錯覚であって、ビッグバンから続く「刺激 ⇒ 反応 ⇒ 刺激 ⇒ 反応‥‥」の連鎖の一幕を、人類という役者が与えられた配役を演じさせられているだけだったわけです。

この敗北を受け入れた人類は、今まで自分の力を信じて生きていた傲慢さが取り除かれます。
人間中心(自分中心)だった人類が、肩の力を抜いて、大いなる自然界の懐にその身を委ねます。
科学の限界を知った人類は、謙虚な生き方を選択させられる、と言うのはこのことです。


以上、科学が必要な理由を2点挙げました。
しかし、ここからが大事なところですが、人類はこの敗北によって、新たな境地に至ることができます。

自由意志なんかではない、宇宙のあらゆるものとの関係性の中で動かされていた「自分」の発見は、今まで「自分、自分、自分‥‥」という観念で凝り固まっていた僕たちを、宇宙という大舞台に解放します。
そのことにより、自然界においては無力である自分たちを、同情、いたわり、慰めのような気持ちで一つに結びつけてくれます。

それによって、嫉妬や羨望、怒りや恨みとも無縁の世界に至ります。
そこにあるのは互いにいたわりあう慈悲の愛だけです。

たとえ犯罪を犯した人間に対しても、決して責めることもせず、本当の慈悲と許しがあります。
そして、どんな悲惨な境遇に置かれようとも、心の底から湧きあがってくる本当の感謝があります。

自然界に対して無力を知った人類は全てを失い、それと引き換えにして宇宙を手にしたからです。


分身主義の目指している「世界一大きな共感」とは、このことです。
特定の人たちだけをつながらせる共感なんかではなく、全ての人類の深い深い潜在意識の中に埋め込まれた共感です。

バロック音楽の通奏低音のように、演奏中(生きている間中)、片時も休まずに無意識の底を流れ、そして手をつなぎ支え合っている共感です。

それがこのメルマガの冒頭でうるさいように繰り返している、「自分を愛することと他人を愛することが同じ一本の線でつながった」状態です。

分身観

現代科学が導いてくれた分身主義は、僕たちを「世界一大きな共感」で結びつけてくれて、死の恐怖にも動じない本当の幸福を与えてくれます。
あらゆる不安や悩みから必ず僕たちを救い出してくれますが、今は、ただ待っていて叶う段階ではありません。

もちろん、分身主義が世界中に行き渡ったならば、全ての大人から子どもに伝え継いでいくだけなので、その意味でやがて受身的な時代は来るでしょうけれど、今の僕たちは開拓者です。残念ながらそんな楽はさせてもらえません。

僕たちは今、開拓者です!!

今まで人類がどんなに努力しても得られなかった世界平和、真の幸福に向けて、希望を持って舟を漕ぎ出した開拓者です。

だから、後世の人たちのためにも、今の僕たちは努力が必要なんです。
それは、科学が解明している「正しい知識」を知る努力であり、そこから導かれた分身主義を理解する努力です。
分身主義的に言えば、「自然界様に努力をさせられ」てしまうわけです。


目を閉じて、自然界に対して全く無力でしかなかった自分を、深い息とともに飲み込んでください。
諦めよりももっと深く、絶望よりももっと深く、飲み込んでみてください。
そうすると、腹の底の方から力が湧いてきます。

それが今、舟を漕ぎ出そうとしている力であることを、確めてください。

徳永分身は、その力に背中を押されるようにして、このメルマガを書かされているわけです。

次回のメルマガでは、『精神病は病気ではない』(萩原玄明・ハート出版)を参考資料にさせていただいて、「どうして僕たちには現代科学の解明している “正しい知識” を知る努力が必要なのか」ということに迫っていきたいと思います。

精神病は病気ではない


どんなに歩みは遅くても、あなたも、もちろんこの徳永分身もまだ経験したことのないその感動の瞬間は、ある日突然にやって来ます。

桜が一気に開花するように。

それを信じて舟を漕ぎ出しましょう!!

だって、僕たちは宇宙を手に入れたんですもの‥‥ 😉✰ネッ!




◆◇◆編集後記

11月2日に行なわれる米大統領選に立候補しているブッシュ分身さんとケリー分身さんが、10月30日にマイアミ大学で第1回候補者討論会を行いました。
対イラク政策を中心に外交・米本土防衛についてそれぞれの考えを主張している場面を、徳永分身は世界中の誰とも違った視点で眺めていました。

ブッシュ分身さんの口をついて出てくる言葉は、彼の脳が記憶している英語で、日本語でもバジュゴリ語でもありません。
脳は記憶していない言葉は話せないからです。
ケリー分身さんにしても同じです。

彼らの話す言葉は、彼らの脳を取り巻く環境が彼らの脳に作った記憶という調理台の上で、次々に入力されてくる刺激に対して調理されて出てくるものです。

彼らはこの宇宙の媒体として存在しているに過ぎません。

彼らが、そして、僕たちが、何かをしゃべったり行動したりしているのは、僕たちを取り巻く環境が、僕たちを媒体としてしゃべったり行動したりしているだけなんです。
僕たちは、この宇宙の媒体として存在しているに過ぎません。
これが分身主義的視点です。


イチロー分身さんが、シスラー分身さんを抜いて、年間最多安打記録の偉業を達成した時も、徳永分身は世界中の誰とも違った視点で彼を眺めていました。

彼を取り巻く環境が、彼(イチロー分身さん)を媒体として安打を打っているという見方で彼を眺めていたのです。

それは、彼を取り巻くあなたや僕も、彼の記録の一部に貢献しているということです。


世界中の人が、このような視点でブッシュ分身さんやケリー分身さんや、それにイチロー分身さんの言動を見つめることができるようになったらどうでしょう!?

もし、ブッシュ分身さんもケリー分身さんも、それにイチロー分身さんも、自分の言動を客観的に眺めるそのような視点が持てたらどうでしょう!?

彼らはもはや対立する候補者でも、たった一人の力で成し遂げた英雄でもありません。

もはや彼らは、僕たちが宇宙と一体になって一緒に作り上げている僕たち自身の姿に過ぎません。

僕たちはみんな、ビッグバンの時に存在していた素粒子が作る分身たちです。

このビッグバン宇宙は、素粒子という役者が、自然界の法則というシナリオに則って演じさせられている劇場です。
それを忘れないでください。


NO.54 ~ NO.86 精神病は病気ではない

NO.54
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NO.86

この部分のメルマガは、 『精神病は病気ではない』(萩原玄明・ハート出版)を参考資料にして、同タイトル『精神病は病気ではない』として一年間に渡ってお送りさせていただきましたが、分身主義の森を抜けて‥‥ というタイトルの作品となって結実しました。そちらを、ご覧ください。



NO.87 世界平和のためのブログ作成 2006.01.01

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【誰もがこの科学時代に、まだ錯覚の自我を信じて生きている】
【犯罪が生まれる本当の原因は、犯罪を犯した人の中にあるのではない】
【物に当たる光を強くすればする程、影はますます濃くなる】
【自分たちを善良な市民などとかばい合うのは、もうやめよう!】


宇宙に散らばっている分身さーん、地球の分身仲間さーん、
いかがお過ごしですか!? 徳永真亜基分身です。

早いもので、また地球分身さんは太陽分身さんの周りを一周したんですね。
明けましておめでとうございます。
どうぞ、僕からの年賀状をお受け取りください。
http://www.bunshinism.net/nenga2006.htm
(*現在、ホームページは閉鎖しました)

実は、正月早々あんまり元気がありません。
昨年も嫌な事件がたくさん起こったので、あんまり、ノー天気に「おめでとう」などと言い合う気分になれないんです。

親が幼い子供を殺してしまったり、騙して欠陥商品を売って私腹を肥やしたり、みんなの退職金のための積み立てを使い込んでしまったり、税金を平気で利用価値のないものに使ったり、また、官僚やファミリー企業のとんでもない天下りの実態なども明るみに出たりとかで、欲得に突き動かされた事件や犯罪が、昨年もたくさん報道されました。

このような、欲得に突き動かされた事件や犯罪は根絶させることができるのに、まだ誰もその方法に気づいていないので悔しくて仕方ありません。

テレビをつけると、二度とこのような事件が起きないようにと、いろいろな人が真剣に話し合っています。

しかし、同じような事件は、また繰り返されます。
何度も、何度も‥‥、何度でも、何度でも‥‥。

どうしてなんでしょうか?


昨年見ていたニュース番組で、某女性キャスターが、最後に一言「来年こそはいい年でありますように」と言っていました。
カメラに向かって “正しいアクセントの練習” でもしているかのような、こちら側にはまるで届かない言葉でした。

彼女が本気で、犯罪の起こらない年などをイメージしてそのように語っているわけじゃないのはわかり切っています。

「お前らは、そのニュースのおかげで食ってるんじゃないか! 本心では、来年もそそられるようなスクープに出合えますように、などと思っているんじゃないのかい?」
などと皮肉の一つも言いたくなりました。

あなただって、心の片隅では、どんなに話し合ったって無駄だと思っているに違いありません。
でも、その悲観的な人たちの方が、むしろ、事実から目をそむけて明るく前向きに生きようとごまかす人たちよりも、世界を好転させる可能性を秘めていると言えます。

事実から目をそむけているのではなく関心がないだけだと言うなら、自分に関係ないことには無関心な自己中心的な人に違いありません。
自己中心的とは、自分に関わりのあるものや、自分にとって被害や利益などの形で「実感」できるものだけしか、「理解」しようとしない人のことですから。

でも、そういう人は想像力が欠如しているために、理解できないだけなんです。何故なら、この宇宙において関係ないものなんて一つとしてないからです。

だから、どんなに話し合ったって無駄だとわかってはいるんだけれども、何らかの対策を講じないわけにはいかない‥‥、といったところがあなたの本音ではないでしょうか?


幼い子供を守るため、学校はセキュリティーを強化して、常に不審者に目を光らせていなければならないのが現状のようです。
最近では、登下校の時や外部からの侵入者に気をつけるばかりでなく、内部にも目を光らせている必要があるそうです。

そのように疑心暗鬼で常にビクビク脅えているような学校では、子供をのびのびと育てられないのはわかっていますが、命にはかえられないということで仕方ないからやるわけです。

また、知らない大人に腕をつかまれそうになったら大声を出す訓練を授業でやったり、人を疑う気持ちを植えつけるような、信じられない教育が行われています。
そのような環境で育った子供が、将来どのような大人になってしまうかは容易に想像がつくのですが、それも致し方ない、ということです。

だけどそれらは、あくまでも他に良い案が見つからないためにする悪しき対症療法に過ぎないことを忘れないでください。

教師としての良心が痛まずにこんな教育ができる教師は、間違いなく教師失格です。
本当の教育は、人を信じる所から始まるからです。
人を信じることができない所には教育もありません。
人を信じる土台も作れない大人が、どうして偉そうに「子供を教育する」などと言えるのでしょうか?

大人たちの方こそ、教育され直すべきではないんでしょうか?

これは決して僕の冗談や愚痴ではなく、今回のメルマガは、その実践的な方法をお伝えしようと考えているんです。

教育とは決して子供を教え育むためだけでなく、将来の良き社会を作るために必要なものです。
ちゃんとした教師ならそのことはわかっているけど、良き社会のビジョンなど見えてこない今の世の中では、子供に人を疑う気持ちを植えつけるようなことをやるしかないというわけです。


子供に関する問題だけではありません。
他のいろいろな犯罪も、個人のモラルや一企業のモラルの問題として終わらせてしまったり、検査機関や罰則を強化するという解決策で終わらせてしまったりしますが、それらも悪しき対症療法に過ぎません。

でも、犯罪が発生してしまう以上、何らかの対処をするしかないし、それくらいしか思いつかないというのが実情でしょう。

何らかの手を打つしかないのはわかりますよ。
だけど、僕たちのやっていることが、この環境をますます犯罪の発生しやすい環境にしてしまっているとしたらどうでしょうか?
ますます悪い方向へ、自らを押しやってしまっているとしたら‥‥?
あなたは、それがわかっていても「やるしかない」などと言ってられますか?

病気を退治するために強い薬を飲んで、その副作用で違う病気になり、今度はその病気を治すためにまた薬を飲んで、その繰り返しで病気にかかりやすいひ弱な体質を作ってしまうようなものです。


確かに現状を見れば、何らかの対策を講じなければならないのはわかりますから、その対策をやめさせるわけにもいきませんが、僕たちは一方では、犯罪を未然に防ぐよりも、犯罪を犯すような人間が生まれ得ない、全く新しい環境作りをする必要があります。

そのためには、犯罪が生まれる本当の原因を知らなければなりません。


一昔前には、最も恐ろしい病気と言われていた天然痘(てんねんとう)ですが、その原因は前世の悪業の報いでも悪霊の祟(たた)りでもなく、ウイルスであることを科学は突き止め、ついに人類は1980年にそれを根絶させたように、原因さえはっきりさせることができれば、僕たちには犯罪を根絶させることは可能です。

ちゃんと原因が解明できていないから、僕たちは同じ過ちを何度も、何度も‥‥、何度でも、何度でも‥‥繰り返してしまうんです。

あなたが、よっぽど想像力の欠如した方でない限り、自分のためにも、その原因をきちんと究明しようとするべきではないでしょうか!?


僕が今ここで目を向けたいのは、実は、犯罪を犯してしまった人や不審者ではなく、それを裁く側の人たちです。
その人たちは、「世の中には自分たちとは違った出来の悪い人間がいて、そいつらが我々善良な市民の安全を乱している」と考えます。
もちろん今までの僕もそのように考えていました。

そして、「一体、学校は、教師は、警察は、そして国は何をしてるんだ。こっちは高い税金を払ってるんだ、ちゃんと取り締まって欲しい」と憤る人もいます。

彼らは、自分は正しい側の人間であり、被害者側の人間であり、善良な市民であるということに、爪の先ほども疑いを抱いていません。
だから裁く側の立場で発言をし、犯罪者や不審者の人間性とやらを見下しています。

では、その人たちが考えるように、検査機関や罰則を強化させるとしたら、それを取り締まる側の人間に誰を置くのでしょうか?

一度も不正などしたこともなく、国や国民のためにひたすら欲もかかずに働いてきた人なんて、分身主義的環境でない限りいるわけありません。

今まで見て見ぬふりをしてきたような人が、事件が公にされると一転して裁く側や取り締まる側に回り、好感度を上げるような発言をしたり、国民の信頼を一身に浴びたように働き出す姿を見て、ズルさを感じます。


いいですか!?
犯罪が生まれる本当の原因は、実は、犯罪を犯した人の中にあるのではありませんよ!!

僕たちは、彼らが環境の媒体であることを忘れてはいけません。
もう一度声を大にして言います。

僕たちは、彼らが、そして僕たちが、環境の媒体であるということを忘れてはいけません。


彼らを取り巻く環境が、彼らにそのような行動を取らせている‥‥と言ってもいいと思います。
つまり、本当の犯人は「環境」だったわけです。

一人の犯罪者は、彼を取り巻く環境に犯罪という行動を取らされたのですが、彼を取り巻く環境には僕たちも含まれています。
と言うことは、その被害を訴える僕たちが、実はその犯罪を起こさせていたんです。

彼らを取り巻く環境は、僕たち世界中の人間が作っています。
つまり、犯罪が生まれる本当の原因は、彼らを裁く立場の人たちの中に、そして、あなたの中に、そして、この僕の中にあったんですよ。

その僕たちが自分を棚に上げて、自分の真実の姿を見ようとすることもなく、善人面して偉そうな発言をしているので、いつまでたっても同じような過ちが何度も、何度も‥‥、何度でも、何度でも繰り返される‥‥これは当然のことだったのです。

現代の個人主義的な環境にどっぷりと浸かり、またその個人主義的な環境をますます厚く上塗りしている僕たちの心が、磁石のように犯罪を引き寄せておいて、そのせいで自分が犯罪の被害に遭っておきながら、自分は被害者だと訴えていたようなものなんです。


この世界から犯罪や戦争をなくし、そして世界中の人たちが仲良く生きて祝福の中で死んでいける世の中にするためには、個人や一企業の責任を追及することで終わらせたり、検査機関や罰則を強化すべきだなどと善人面して言ったりしている人たちが、真っ先に「私の責任でした」と言える世の中にならなければいけないんです。

この道理がわからない限り、僕たちは犯罪や戦争を何度でも繰り返します。
繰り返すどころか、ますます助長させてしまうでしょう。

ちょっと整理して考えてみましょう。

人間の心(=脳)には、他の動物にはない「自我」というものが巣くっています。
自我とは辞書によると、「知覚・思考・意志・行為などの自己同一的な主体として、他者や外界から区別して意識される自分」のことです。

脳内では、物理・化学的な反応によって常に記憶という活動が営まれているわけですが、その「記憶という活動」が、我々にもたらす錯覚こそが「自我」です。

しかし、いくら錯覚とは言っても、錯覚してしまった以上、その人の脳内には確実に存在します。
幽霊も、神様も、それを信じている人の脳内には確実に存在していて、そのことで彼ら(信じている人たち)は、その行動をも変化させられ、変化させられた彼らの行動によって我々の環境をも変化させられてしまいます。

だから、錯覚と言っても、「そんなの錯覚だよ。気にすんなよ」などとあなどれない大きな力を持ったものなんです。

いいですか!?
この科学時代に、僕たちは誰もがまだ「自我という幽霊」を信じて生きているようなものなんですよ。

現在に至っては、この錯覚は他の何よりも大きな存在感を持って、僕たち全ての人間の心の中にどっしりと居座っています。
誰一人、その幽霊のようなものの存在を疑うことはありません。
今ここで言う幽霊のようなものとは、「錯覚の自我」のことでしたね。

だから現在は自我全盛の時代である、と言えます。
自我が栄えて行き着く先は‥‥、個人主義です。
「自分、自分、自分‥‥」という感覚に包まれた環境で、今の僕たちは生きています。

その感覚は、ある意味、自分を大切にする(=愛する)気持ちにつながり、自分の身体や心や、そして自分の命を守る気持ちを育てます。

それらは、今の社会では別に悪いことだと思われていなくて、むしろ、推奨すべきことのように言われています。

だけどいいことばかりでもありません。
「錯覚の自我」意識が強くなると、利己主義的なものになり、金銭欲、物欲、性欲などの、常に犯罪の原因の上位に挙げられるものと結びつきやすい「欲」が増幅されます。

でもこれらも、自分を大切にする(=愛する)気持ちや、自分の身体や心や命を危害から守る気持ちと無関係ではありません。
つまり、自分を大切にし自分を守る気持ちは、自分の「欲」ととても相性がよいということです。

この、自分を大切にし守るような意識を磁石のS極とします。


では、それを妨害する側のものにはどんなものが考えられるでしょうか?

それは自分の心や身体や命を脅かすもののことですが、他者からの怒りや恨みや嫉妬、そして病気や事故や犯罪などが挙げられます。
また、自分の意見を否定されたり、自分の想いが伝わらない恋など、自分の願望が通らないものも自分の心や身体を脅かすものの一つであることは、忘れてはいけません。

S極を強く意識すればする程、また際立たせれば際立たせる程、まるで磁石のN極のように、「自分の心や身体や命を脅かすもの」は強く意識化されて自分に襲いかかってきます。

その結果、健康診断をしっかり受けて、たくさんの保険に入って、防犯用具や防災用具をそろえておかなければ不安で仕方なくなります。
猜疑心が強くなり、周囲を敵とみなす気持ちが強くなります。
だからこの時代は、医者も含めて健康関連の業種や、保険業界や、自衛関連の業種などがもてはやされます。

どうしてこんな逆説的なことが起こってしまうのでしょうか?

この宇宙の万物が、みんなつながっているからとしか言いようがありません。

抽象的でわかりづらいですか?
でもそれは本当のことなんです。
物に当たる光を強くすればする程、影はますます濃くなります。
光は光、影は影、と別個に存在するなら、そんなことは起こりませんが、光と影は無関係に存在することはできません。

同じように、この宇宙に存在する万物は、一つとして無関係に存在することはできません。
もちろん、遠く離れた冥王星の周りを回っているカロンと名付けられた衛星とあなたとも、無関係ではあり得ません。
それが自分にとって被害や利益などの形で「実感」できないだけなのです。

死があるから生があり、生があるから死があります。
憎しみがあるから愛があり、愛があるから憎しみがあります。
自我があるから非我(自我から区別された外界・環境・自然)があり、非我があるから自我があります。

一方の「生」や「愛」や「自分」を守る気持ちが強くなることで、実は、その対極にある「死」や「憎しみ」や「他者」がますます大きな脅威となって僕たちに襲ってくるんです。

大きな脅威となって襲ってくる「死」や「憎しみ」や「他者」から身を守るためにはどうしたらいいでしょうか?

そこで大人の人たちの口癖は、「もっと命や愛を大切にする心を育てましょう」などといったものです。
「戦争や犯罪の起こらない世界にするには、子供の頃から、愛を尊び命を大切にする心を育むことだ」などと‥‥。
より強い光を当てようと言うことです。

いいですか!?
だから、僕は、それがいけないって言ってるんですよ!

言っておきますが、それをすればする程、ますます犯罪の発生しやすい方向に、自らを押しやって行きますよ!

命や愛を大切にしてはいけないと言っているのではありません。
命や愛という子供だけを依怙贔屓(えこひいき)すると、その反対の死や憎しみという子供たちはひねくれてしまい、やがて、本当に僕たちに危害を与える不良になってしまうということを言っているんです。

死や憎しみという子供たちだって、元々はそんなに確かな個性を持った悪い子じゃないんです。
ちょっと淋しがりやですが、ちゃんと目をかけてやると愛嬌のある笑顔を見せてくれて結構かわいい子供たちです。
僕たちが「悪い子」というレッテルを貼って、無視したり追っ払おうとするので、そのように特化してしまったんです。

「命や愛を大切にする」という意識は、人間中心的な環境(個人主義的な環境)から生まれている感覚であって、自然界を中心とした理解の上で生まれたものではないので、そのような偏った意識は、自然物である僕たちに、いい結果をもたらさないということです。自然界との軋轢(あつれき)を生むのです。

何度も、何度も‥‥、何度でも、何度でも、人類が同じような過ちを繰り返してしまう理由は、過ちが起こる本当の原因を、いつまでたっても発見できなかったからです。

大事なことなんで、もう一度言いますよ。

原因は、この「自分」にあったんです。

現代の個人主義的な環境に浸かっている僕たちの心(脳)が、磁石のように犯罪を引き寄せていたんです。

でも、まだ誰もそのことに目を向けようとはせず、世の中で行われていることといったら全く正反対で、互いに自分こそが正しい側であり、被害者であり、自分たちをこんな被害に遭わせた他者の責任を追及するばかりです。


テレビで偉そうに発言している偉い方たちは、犯罪が生まれる本当の原因を知っているでしょうか?

知っているはずもありません。

彼らは、自分の外ばかりに原因を探しているからです。
自分は正しい側の人間、被害者側の人間、善良な市民の声を代弁する人間である‥‥という立場に立っての発言をします。
そのような言動を取るような環境に置かれている媒体だからです。

彼らもまた、環境の媒体であることを理解する必要があります。
もちろんあなたも、この僕もです。


いいですか!?

僕たちは決して善良な市民なんかじゃありません!

善良な市民なんて、どこを探しても存在しません!

自分たちを、善良な市民などとかばい合うのは、もうやめましょう!

それこそ、最も大きな犯罪と言ってもいいくらいです。
そんなことをしている僕たちが、どうして犯罪をなくせるでしょう。

この社会は、悪人が悪人を裁き合っているようなものです。

だから、同じような事件は何度も繰り返されるんです。
何度も、何度も‥‥、何度でも、何度でも‥‥。
考えてみれば、当然の成り行きなんです。


この世界が平和になり、そしてあなたが本当の幸福を手にするためには、人類はたった一つの選択肢しかありません。
(ちなみに、世界が平和になるということは、戦争を回避している状態のことではなく、世界中の人たちが不満や不公平感なく仲良く生きる状態を指しています)

この世界が平和になり、そしてあなたが本当の幸福を手にするための、たった一つの選択肢とは、テレビで偉そうに発言している人たちが「私の責任でした」と言える世界になることです。

不幸にも犯罪の被害に遭ってしまった方が、勇気を振り絞って「私がこの犯罪を引き寄せました」と言える世界になることです。
つまり、全人類が、「自分が原因でした」と反省した時、初めてこの世界が平和になり、あなたが本当の幸福を手にするんです。

この「錯覚の自我」が作っている個人主義的な環境にどっぷりと浸かっている自分の脳を知り、そしてまた、この個人主義的な環境をなおさら厚塗りしまっている自分自身が原因でした、と全人類が理解することです。

それは、個人主義的な視点(自分の立場に立った視点)から、分身主義的な視点(世界のつながりを意識した視点)に移行されるという意味です。
光だけでなく、光と影の関係性を理解した視点を持つことが必要なんです。

だけど、世界で一人だけがそのことに気づいて、「自分の責任でした」などと言ってみても、世界は平和にはなりません。
僕は人間界に失望して、とっととおさらばしたいところでした。
ところが、このインターネット時代になったおかげで、たった一つだけ良い方法が見つかったんです。


そのたった一つの最良の方法は、「精神病は病気ではない」シリーズの終わりに書きましたね。
覚えていますか?

 僕たちが世界を平和にするために必要なものは、組織力でも政治力でも経済力でも権力でも、評論家やコメンテーターや有識者と言われる方の自分を棚に上げた社会批判でもありません。

それらは古き時代の、泥でできた舟のようなものに過ぎません。
この世界を変えるのは、あなたの「自分を見つめる力」です!!
そこからあなたの脳に浮かび上がらせ・られた「意思」の力です!!
あなたや僕が、真の科学によってこの宇宙の成り立ちをしっかりと理解し、そして、この宇宙の中で生きるあなたや僕が、どのように動かされている媒体であるかを理解したら、次にやらなければいけないことは、そのことをブログで公言することです。

現実社会では、まだ武器や鎧が必要ですが、仮想現実(インターネット)の中では、本物の武器も鎧も不要です。
だけど、仮想現実は、いずれ僕たちが生きている現実社会をも、武器や鎧が不要な環境に変化させることができます。

科学的な意味で、人間の幻想(脳内の化学作用によって起こる現象のこと)が環境を変化させるということは、僕たちはすでに経験済みですから。

次回、もしあなたとまたお会いできるとしたら、世界中の人たちが力を合わせてこの「分身主義の森」から飛び出す唯一の方法、つまりブログの作り方のお話をしようと思います。


さて、あなたが今回のメルマガを読んでくださったということは、どうやら、またお会いできたようです。
それでは約束のお話をしたいと思います。

「世界平和のためのブログ」は、分身主義的な視点で作るブログのことを指していますが、それらのブログを 「分身Blog」 と名づけることにします。


「分身Blog作成講座」は、僕の新しいホームページ上にアップしました。左に並んでいるボタンの一番下に追加された「action」のボタンをクリックしてみてください。
(*現在、ホームページは閉鎖しています)




◆◇◆編集後記

自我を捨てろと言うのではありません。
愛や命を大切にするなと言うのでもありません。
僕の言葉を曲解しないでくださいね。

人間中心・自分中心の視点ではなく、自然界中心の視点で、自分の本当の姿を見てくださいと言っているだけなんです。

自然界中心とは科学の視点(=分身主義の視点)です。
そうすれば自我はもっともっと広がり、今まで嫌悪していた死や憎しみや病気も、可愛らしい子供たちに見えてきます。

その時、僕たちは本当の自分の姿を見ます。

あなたの全身は、宇宙だったということを、あなたは知るでしょう。

僕たちがこの人間社会から戦争や犯罪を根絶させるには、全世界の人の心が一つになるしかないんです。
でも、僕たちは元々、一つだったんです。
だから、その事実に気づくだけでいいんです。

「もう二度と悲劇は繰り返したくない!」

そのように願うあなたの気持ちに嘘はないのなら、ブログを作りましょう!

まだ分身主義がよくわからない人も、まだ自分の全身が見えていない人も、心配はいりません。
ブログ作りは、そんな自分の  “自我を育てる”  ためにするんです。
(*自我を育てる:分身主義用語で、自我を滅却させるのではなく自我を宇宙にまで拡大させること)


光が弱まれば、影も弱まります。
そしてやがて、光も影も、この宇宙のありとあらゆるものが一つに統一されます。お腹と背中が一つの身体であったようにね‥‥。

それはこの宇宙が一つになって光り輝くということです。
分身主義の目指している世界は、犯罪や戦争を防ぐことのできる成熟した?社会ではなく、犯罪や戦争の起こり得る可能性がゼロの社会です。



NO.88 真の科学捜査が割り出す真犯人は? 2006.03.28

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【何もかも環境のせいにする分身主義は、自分以外のものに責任を転嫁するものではなく、むしろ全ての責任を引き受けるものである】
【犯罪とはそもそも、人類の脳の錯覚が作る物語であり、その物語がたまたまそこに居合わせた彼を犯罪者に仕立てていた】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
地球の分身仲間さーん、ご無沙汰でした。
徳永真亜基分身です。


真の科学は「人間は環境に操られている媒体である」という真実を、自然界様から聞き取ることに成功しました。

ということは、もし誰かが殺人を犯したとしたら、その真犯人は “環境” ということになります。

そんな理屈を許したら、この社会から永遠に犯罪はなくせはしない、とあなたはお考えになるかもしれません。

では、あなたのお考えになる犯罪をなくす方法をお聞かせください。
人々の心に愛を植えつけることですか?
命の大切さを教えることですか?
法律による罰則を強化することですか?

今までも僕たちは、そのように言い続けてきたのではなかったでしょうか?
でも、それでは駄目だったですよね。
それとも、それはまだ足りなかったからでしょうか!?

実は、足りなかったのではなく、「愛を植え付け」たり、「命を大切に」したり、「罰則を強化」したりすればする程、犯罪を増やしてしまっていたんです。

何故かと言えば、それらのことを強調すればする程、その対極のものが同じ大きさだけムックリと起き上がってくるからです。

愛をやたらと強調することで、誰の心の中にもある差別の感覚が助長されてしまいますし、命の大切さをやたらと強調することで、その対極にある死が同じ大きさだけ恐怖となって襲ってきます。


また、例えば酒酔い運転の罰則を強化したことで、死亡に至らしめるひき逃げ事故の件数が増えてしまいました。すぐに病院に連れて行けば助かったものも、罰則が脅威となって逃げてしまうらしいのです。

ちなみに、自分が酒酔い運転でたまたま捕まってしまったりすると、自分は罰則を強化した後に捕まってしまった運の悪い被害者だと感じるようです。

「愛を植え付け」たり、「命を大切に」したり、「罰則を強化」したりすることは、敵を作り、恐怖心を強め、人々の被害者意識を煽ってしまいます。
どうしてそんなものが犯罪のない世界にできるでしょうか!?

被害者意識や愛国心が戦争の引き金になることはわかり切っています。


今のあなたは、この「犯人は環境です」という言葉は責任転嫁のように聞こえてしまいますか?

だとしたら、あなたの脳がまだ、「個人主義的な環境」にドップリと浸かっているからなんです。
もしあなたの脳が、分身主義的な環境の中に置かれたなら、「犯人は環境です」という言葉は、責任転嫁どころか65億(=世界の総人口)倍もの責任を、一手に引き受けなければならない重い言葉であることを知るでしょう。


   * * * * * * *


ある日、一人暮らしの女性(67歳・A子)が、自宅で何者かに刺されて死亡しました。三日後、警察は容疑者の似顔絵を作成し、殺人・窃盗容疑で全国に指名手配しました。 

当日、300万円の現金がA子さんの銀行口座から引き落とされていて、その時の銀行の監視カメラに容疑者と見られる男の顔が写っていました。

カメラは、男の右目の下にあるほくろも鮮明に捉えていました。
また、事件当日、犯行推定時刻頃にA子さん宅から走り去る男が目撃されていて、目撃者の証言によると、その男の顔と体型が監視カメラの男とよく似ているとのことでした。

腹部に刺さっていた包丁には、犯人と思われるものの指紋も発見されました。

神のみぞ知る真相は、リストラされて半分やけになっていた男(42歳・B男)が、お金を盗もうと留守宅に押し入ったところ、偶然帰宅したA子さんに見つかり、台所にあった包丁で彼女を脅して現金数万円と銀行のカードを奪い、暗証番号を聞き出し、その後、通報を恐れて刺してしまったのでした。

綿密に計画を練った上での犯行ではなく、指紋やほくろという証拠まで発見されているので、B男は捕まれば間違いなく自白させられ、それなりの刑罰を受けることになるでしょう‥‥。

ところが分身主義は真犯人は他にいると考えます!

今から、真の科学捜査で、科学的裏づけをしっかり取りながら真犯人を割り出してみようと思います。

僕たちの身体を構成している細胞は、常に細胞分裂を繰り返し、細胞は日々入れ替わっています。
一説によると、1分間に2億個の細胞が死に、新たに1分間に2億個の細胞が作られている、と言われています。

部位によってどのくらいの日数で総入れ替えが行われるか調べてみました。

皮膚        4-28日
赤血球     60-120日
白血球       7-15日
目の角膜        1週間
肺      400~500日
肝臓           同上
すい臓          同上
脾臓           同上     
食道の粘膜        3日
筋肉細胞       1-7年
骨          2-5年
体全体        3-7年


資料によってずいぶんと開きがあるので、上のような結果になってしまいましたが、いずれにしろ、7年も経てば足の爪の先から髪の毛一本に至るまで同じ細胞は(心臓と脳細胞を除けば)一つも存在していないということは言えそうです。

この事件が今から100年後に起こったと想像してみてください。
その頃、医療技術革新により、僕たちの身体の部位が簡単に取り替えが可能になっているとします。

逃げ回っているB男が、もしA子さんを刺殺した右腕を他の人の右腕と差し替えたなら、彼は無実になるでしょうか?
指紋という証拠は消滅しましたが、移植手術を受けた事実が残っているので、そんなことでは、彼は無実になりません。

それでは首から下を総取り替えしたらどうでしょう。
もちろん、細胞分裂をしない心臓もです。
それでも、誰一人として、「彼の身体のほとんどが、犯罪に関わった身体とは別人になってしまったため、彼は無罪です」などとは言わないでしょう。

では、顔を整形してめちゃくちゃに作り替えたらどうでしょう。
本人の皮膚や筋肉が残っていないくらいに全く別人の顔に作り替えてしまったら、もう彼は無罪でしょうか?
もちろん、もう、ほくろもありません。
それでも無罪にはなりそうもありません。

今、思考実験によって彼の身体を別人のものに作り替えたわけですが、実は、彼の身体は、脳以外は、日々、別人のものに作り替えられていたわけですから、自然界は同じことをしていたわけです。
そして、7年も経てば全くの別人になるということでしたね。

指紋やほくろは、赤ちゃんの時から死ぬまで変わらないと言っても、厳密に言えば、その指紋やほくろを作っている細胞は、犯行を犯した時の細胞とは全く別の細胞です。

彼や僕たちの脳に記憶という活動があり、脳が記憶によって錯覚をし続ける限り、彼はどのように自分の身体を切り捨てても、犯人であることから逃れることはできません。

ちなみに、指紋やほくろの作られ方は、同じ型から作られる “たい焼き” を思い浮かべてくれればいいと思います。
一つ一つはどれも違う小麦粉やあんこで作られたものですが、僕たちには、どれ一つとっても見分けがつきません。

だから、妹がおやつに食べようと思って戸棚にしまっておいた “たい焼き” を、お姉ちゃんが食べてしまっても、後で買って戻しておけば何事も起こりません。
妹の脳は、ちゃんと同一のたい焼きであると錯覚をしてくれるからです。


では最後に、最も大掛かりな思考実験をしてみます。
首から下を全取り替えしても、また顔も別人に作り替えても、それでもまだ罪は消えないと知ったB男は、今度は自分の脳を別の人の脳と交換する手術を受けることにしました。
100年後にはそれも可能になっていると想定して、考えてみてください。

その時は、B男の脳内に鮮明に残っていた犯行時の記憶や後悔の念も消失します。
そして、新たに移植された脳に作られていく記憶(=反応の道)によって、行動を取らされることになります。

記憶というのはDVDなどの記憶媒体に記録をするようなものとは違うので、移植された脳に残されていた記憶(=反応の道)は、それ自体ではB男にとって何らかの意味を成すものではありません。

さて、その時、僕たちはそれでもまだ彼をA子さんを殺した犯人であると考えるでしょうか?
それとも、脳まで取り替えられてしまった彼は、もはや犯人ではないと考えるでしょうか?

全く別人となったB男を、今はC男と呼ぶことにします。
僕たちは脳まで入れ替えたC男はB男とは別人であると認識しますが、しかし僕たちは、そのC男の前身はB男であったことを知っています。
そのことにこだわる人たちなら、つまり自分の記憶に固執する人たちなら、彼(C男)に対して罰を与えるべきだと主張するかもしれません。

この世に新しく生まれてみたら「お前を死刑にする」などと言われては、別人の脳を移植したC男にとっては、寝耳に水、青天の霹靂(へきれき)といった話です。

だけど、離れて都会で暮らしていたA子さんの一人息子にとってみれば、犯人を憎む記憶や、母親を失った悲しみの記憶は、たとえ25年の時効が成立しようと、B男がC男になろうと、消えはしません。

中学に上がる時に父親を亡くした彼ですが、そんな自分を、女手一人で育てて大学まで行かせてくれた大切な母親です。

だから、B男が本当の意味で罪から逃れるためには、自分の記憶だけでなく、僕たちの脳からも錯覚に関与してしまう「記憶」を奪わなければならなかったということです。

何故なら、今見てきたように、彼を犯罪者にしていたものは、彼の身体の側にあったのではなく、僕たちの脳の側にあったからです。
それは、記憶が作り上げる錯覚だったからです。

もう一度言います。

彼(B男やC男)を犯罪者にしていたものは、僕たちの錯覚だったんです。

そして、犯罪とは、そもそも人間の錯覚が作り上げていた“物語”だったんです。

動物が、他の動物の食べ物を横取りしても、他の動物を殺して食べてしまっても、彼らはそれらの行為を犯罪とは考えません。
人間だけがそのような行為を犯罪と呼ぶだけです。
犯罪とは、人間だけが見ることのできる “幻想” だったんです。

現在の警察の捜査は、科学捜査と言われています。
DNA鑑定、指紋、ポリグラフ(嘘発見器)などが精度を増したと共に、法医学の水準も上がりました。

だけど本当にそれらが科学捜査と言えるのでしょうか?

確かに科学の手法は取り入れてはいますが、根本に流れているものは人間の感情であり、それは人間中心で、真の科学とは程遠いものです。
つまり、罪を犯すような人を恐怖する感情や、家族を殺された人たちの恨みを晴らそうとする善意や、忌まわしい再犯を防ぐという社会的な目的などのために取り入れられている科学的手法なんです。

錯覚を旨とする人間を中心にすえて、人間のために取り入れられた科学的手法だったんです。

真の科学とは、人間中心・自分中心に考えるものではなく、自然界を中心に考えるものだということは再三言ってきました。

真の科学(=自然界を中心とした科学)には、人間の感情を介入させてはいけません。
科学的事実が歪められてしまうからです。

つまり真の科学捜査とは、犯罪とは無縁のものだったんです。
何故なら、犯罪とは、感情などに左右される人間の錯覚が作り上げていた物語だったからです。



あなたは、“犯罪”という言葉にどのような含みを感じますか?
その言葉が表現しているものが、科学的事実ではなく、むしろ人間の感情であることは明らかです。

真の科学捜査によって、A子さんが死亡した原因をたどると、B男が包丁で刺したからで、では何故B男の脳が彼女を包丁で刺すような反応をしてしまったのかとか、何故B男の脳は空き巣に入る行動を選んだのかとか、彼にそのような行動を取らせる性格はどのようにして作られたのかとか、何故B男はリストラにあったのかとか、そもそも何故B男はその会社に就職したのかとか、どのようにB男は生まれてきたのか‥‥とどこまでも遡って原因を究明していくと、彼は決して自分の意志で生まれてきたわけでも、自分の意志で就職やリストラや犯行を行っていたわけでもないことがわかります。

それらをする原因を作っていたのは、彼を取り巻く環境であり、彼はその環境が作る原因に踊らされていた媒体に過ぎなかったことがわかります。

だから、真の科学捜査が割り出す「真犯人」は、いつだって「環境」です!

何故なら、真の科学捜査をしていけば、犯行を行なった人間はその環境にやらされた媒体に過ぎなかったという結論に行き着くしかないからです。


しかし、現在の科学捜査では、人間中心の(=人間の感情などに基づいた)科学捜査のため、犯行の原因が媒体(=人間)で止まってしまって、その先には踏み込めません。

「罪を憎んで人を憎まず」ではなく、「人を憎む」ことでしか、やり場のない憎しみや怒りや悲しみを晴らせないと信じているのでしょう。

だけど、その考えは間違っています。
そんなことで僕たちの憎しみや怒りや悲しみは晴らせやしません。
僕たちが、本当の意味で、憎しみや怒りや悲しみから救い出してもらうためには、他の方法しかありません。

あなたは、それが何か、もう、気づいてくださっていますか!?
ヒントはブログです。


重要なので、先程の言葉をもう一度繰り返します。

真の科学捜査によって割り出された真犯人は、いつの場合も「環境」です!


もちろんこの環境は、僕たち一人ひとりが作り上げているものですよね。
だからこの言葉は、次のように言うのと同じことを意味します。

僕たちはB男の被害者であると共に、彼に犯行を犯させた加害者でもある。
そして、B男は僕たちの加害者であると共に、この環境に犯行をやらされた被害者でもある。


いいですか!?
今まで僕たちがやっていたことは、単なる媒体一人に罪の全てを押し付け、日々、別人に作り上げられていく彼の身体を、いつまでも記憶が作る錯覚によって責め続けていたんです。

それは、環境の一部を作っている自分の責任から目をそらし、自分の責任を他に振り向けようとしていたことと同じです。

犯罪が行なわれた本当の原因を究明せずして、犯罪をこの世からなくせるはずはありませんでした。

犯罪が行なわれた本当の原因を究明した真の科学捜査が僕たちに願っていることは、彼を裁くのではなく、彼を救うことです。

いいえ、「彼を救う」のではなく、「彼を救える人間に、僕たちがなる」ことです。
彼を救うために敏腕弁護士を探してきて、冤罪(えんざい)や心神耗弱(しんしんこうじゃく)を主張してもらったり、町角に立って署名活動などをしろと言うのではありません。

そのようなことを今の環境(=個人主義的環境)の中でやっては、かえって争いを増やすだけです。

「彼を救う」のではなく、「彼を救える人間になる」ということは、そのように外に目を向けて外に働きかけるのではなく、自分の内側に目を向けて自分に働きかけることを意味します。

あなたが、「自分は今まで、一人の媒体に罪を押し付け、もはやその抜け殻となっている彼の身体を、いつまでも記憶が作る錯覚によって責め続けていたんだ」ということに気づける人間になることです。

そして、あなたは、もし彼と同じ環境に置かれていたら、同じことをしていたと気づける人間になることです。

その時あなたは、彼を救える人間になっています。

何故なら、彼を救うことでしか、自分が、本当の意味で憎しみや怒りや悲しみから救われる道はない‥‥と知ったからです。

自分の内側に目を向けたあなたが、次に自分に働きかける方法とは、「分身主義的ブログ」を作ることです。
それを「分身Blog」と呼ぶことにします。

「分身Blog」を作る目的は自分のためです。
自己顕示欲や、他人を自分の考え方に引き入れるような気持ちで作ってはいけません。
あくまでも自分のためで、ある意味、幸福になるための修行のような気持ちです。

「分身Blog」を作るために、分身主義的視点を維持する努力をしたり、足を使って歩き回ったり、材料を集め、考えをまとめ、文章を練りに練って、書き込むことを繰り返したりしているうちに、今のあなたの自我が、少しずつ拡大して、やがて宇宙にまで広がります。
「分身Blog」を作るということは、そのための実践です。

ちょうど僕が、このメルマガを通して自分の「自我」を宇宙に拡大するための実践をしているのと同じです。

あなたがひたすら自分に目を向けて精進していれば、いつしかインターネットが奇跡を起こしてくれるでしょう。

あなたが気づいたことを、65億人全ての人が気づいたと考えてみてください。
その時、防がなければならない犯罪自体が存在しない世界になっています。
どうしてだと思いますか?

犯罪は環境が作っていたからです!
今の環境(=個人主義的環境)が、分身主義的な環境に変わった時、犯罪を育てる土壌自体が変容しているからです。

世界中の人の心の中から不公平感や不満が取り除かれ、この世界から犯罪や戦争がなくなり、みんなが仲良く助け合って暮らせる環境は、たった一つのあなたの「分身Blog」から始まります!!

まだ誰もやっていないからといって、あなたがためらっている必要はありません。まだ誰も気づいていないだけの話で、やがては世界中の人が気づくのも時間の問題だからです。

もし相変わらず誰も気づかず、そして気づいているあなたも誰もやっていないからとためらい続けるのであれば、人類は地球と共に絶滅する運命を選択することになります。

科学兵器や化学兵器や生物兵器などをたくさん作り出した僕たち人類が、今、戦争を始めればどのような事態を招くか容易に想像できます。
でも、相変わらず誰も気づかず、あなたもためらい続けているなら、恐らく僕たちを巻き込んで戦争は始まるでしょう。

人類が今の環境(個人主義的な環境)にいる限り、人々の不安や恐怖はどこまでも増大するのは必至で、それは人々をどこまでも戦争の方向へ向かわせます。

どんな国も、無駄とわかっている部分に大事な予算を注ぎ込んだりしませんから、各国が軍事費に多額の予算を注ぎ込む理由は、それがとても必要なことだからです。

そして、他の国が多額の予算を注ぎ込むのを知ると、自分の国ものほほーんとしているわけにはいきません。
そのようにして、お互いに軍事費は増加の一途をたどります。

軍事費に予算を注ぎ込む理由は、人々の不安や恐怖が膨らんでいる証拠です。
不安や恐怖が自分を守る気持ちを強めるのです。
いつかその不安や恐怖に耐えられなくなり爆発するのは、時間の問題です。


科学は地球温暖化の原因を突き止めていて、このままの状態が続けば、今世紀末には2億6千万人もの人々が環境難民になる可能性があることを予想していて、また、環境難民の人たちの移住と先住民との争いが起こり、地球が崩壊する可能性もあると見ています。

でも、それがわかっていて、しかもそれを回避する方法もわかっていても、今の環境(個人主義的な環境)にいる僕たちには、それを避ける行動がなかなか取れません。
僕たちは環境の媒体だから、環境が変わらなければ行動は変わらないんです。

でも、そのことに相変わらず誰も気づかず、あなたも「分身Blog」作りをためらい続けているなら、たとえ地球温暖化の原因とそれによる影響の深刻さをわかっていても、恐らくこのままの状態が続き、地球は壊滅するでしょう。

あなたは、「自分が生きているうちに戦争が起こりさえしなければ、それでいいや」とか、「自分が生きている間、何かを制限させられるのはまっぴらだ」などと考えますか?

あなたは、「自分一人くらいが注意しても変わりゃしないさ」と言って、クーラーをガンガンつけたり、停車中の車のエンジンをいつまでもつけっぱなしにしたり、煙草をポイ捨てしたりしていませんか?

そういうことには無神経なくせに、自分の健康チェックにはぬかりなく、定期健診はこまめに受けて、老後や万一の病気の備えや蓄えには細やかな神経を使っていませんか?

その「自分、自分、自分‥‥」という感覚こそ、この環境(=個人主義的な環境)があなたの脳に浮かび上がらせているものです。

でも、脳にそのような考え方を浮かび上がらせる環境(=個人主義的な環境)が、僕たちを幸せにしてくれた時代は、もう終わりました。
アメリカンドリームなどという言葉に象徴された、贅沢や優越感が幸せにしてくれた時代はもう終わったと思わなければいけません。

今の僕たちは、たとえ生きているうちに戦争が起こらなくても、何かを制限させられたりしなくても、そのような考え方を浮かび上がらせられている環境にいる限り、本当の幸せとは無縁な中で生きていくしかない時代を生きているんです。

何故なら、全てのものがつながっているこの宇宙の中で、自分だけが幸せに生きていけることなんてあり得ないからです。
科学・情報化時代の現代は、僕たちのつながりを一層際立たせましたから。

この時代で、よっぽど感受性が鈍いかバカになろうとしない限り、自分だけ幸せに生きていけるはずなんてないんです。

犯罪も地球環境も戦争も、どこか遠いところの問題ではありません。
あなたの日常の、小さな一つ一つの言動が招いていることなんです。
そして、あなたは、日常の一つ一つの小さな言動に、犯罪や地球環境や戦争などが影響させられています。
それらはお互いに密接に関係し合っています。
思い当たることはたくさんあるはずです。

だったら、あなたは今すぐ、「分身Blog」を作る準備を始めてください。
最後にもう一度言います。

新しい環境への一歩は、たった一つのあなたの「分身Blog」から始まります!



◆◇◆編集後記

もしあなたの脳が、分身主義的な環境の中に置かれたなら、「犯人は環境です」という言葉は、責任転嫁どころか65億(=世界の総人口)倍もの責任を、一手に引き受けなければならない重い言葉であることを知るでしょう。

それは僕やあなた一人で引き受けるには、あまりにも過酷な責任です。
だからこそ、65億に分配して背負わなければならない責任なんです。
分身主義は世界中に行き渡り、世界中の人が分配して背負ってくれなければ、何の効力も発揮できません。

だけど世界中に分身主義が行き渡るのはそれ程難しいとは思いません。
今はインターネットという、すごいものがあるからです。
そのために、僕たち一人ひとりが簡単にできることから始めましょう。

『分身主義の森を抜けて‥‥』

ついに完成しました。

実際のタイトルは、『分身主義の森を抜けて、世界に奇跡を起こすために、今僕たちにできること、今僕たちがやらなければいけないこと』という、とても長いタイトルです。

これは、2004年11月から一年間お送りしたメルマガ「精神病は病気ではない」を新たに書き起こしたものです。
わかりやすくするために大幅に書き直し、興味を持っていただけるために表現も工夫しました。
そのために、完成までに随分日数がかかってしまいました。
是非、読んでみてください。
ダウンロードのページは以下です。

http://www.bunshinism.net/mori.htm
(*現在は閉鎖しました。noteに移行中です。間もなく移行終了予定)

今、「僕たち一人ひとりが簡単にできること」と書きましたが、世界を平和にして僕たちが幸福になるには、何らかの組織を作って抗議活動をしたり、法律を改正したり、政治を改革‥‥することなんかでは絶対に無理なんです。
それをやればやる程、争いは増え、平和や幸福と逆行します。

地球環境のために世界各国の首脳陣が集まって決めた京都議定書の意義は認めますが、やっぱり僕たち一人ひとりの脳が今の環境に置かれている限り、僕たちには地球環境を守る行動が取れません。
今までのように、外に目を向けていたのでは絶対に無理なんです。

僕たち一人ひとりが簡単にできることではあるけれど、この方法しかないということに、もう、あなたには気づいていただきたいんです。
まだ、世界各国の首脳陣すら気づいていないんですけどね。



NO.89 超ハードな夢のお話 2006.04.11

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【たとえ誰であっても、他人の考えや行動を思い通りに支配することなどできはしない。もとより、我々に自由などないのだから】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
地球の分身仲間さーん、こんにちは、徳永真亜基分身です。


脳の仕事は、まるでコンビニのように24時間営業でひたすら「夢」を見続けることです。
まさに寝ても覚めても‥‥です。

五感からほとんど解放されている寝ている時に見る夢(=ドリーム)に対して、起きている時に見る夢を、徳永分身は「リモラドリーム」と命名しましたよね。
リモラとはコバンザメのことで、つまり五感を使って行動をしている身体に、コバンザメのようにくっついて見ている夢のことです。

つまり、僕たちが「現実」と呼び習わしているもののことです。


今回は、寝ている時に見る夢(=ドリーム)の方の夢の話をします。
僕の脳が、昨年の暮れに見た夢の話です。

夢とは、環境によって僕の脳内に作られた数々の記憶が、何らかの触発を受けて、僕の脳内で意味づけを持たされて創作された劇のようなものだと思っています。

もちろん、現実という夢(=リモラドリーム)も、そのようにして形成されています。
違うのは、脳が五感から解放されて見る夢か、五感という制約の中で見る夢かの違いだけです。


どうして昨年の暮れの夢をいつまでも覚えていたのかというと、それはとても教訓的な夢だったので、いつかこのメルマガで取り上げたいと思っていたからです。

その「夢」が今回やっと叶いました。
ちなみにこちらの夢は、英語では、hope とか wish などと言います。

以前にも話しましたが僕は「夢のエキスパート」で、夢を見ている時に(これは夢の中だな)と感じているようなところがあって、ストーリーを自分なりに面白く変更しようとしたりできます。

しかし、実際には変更しようと試みるだけで、ひらめきの悪い作家がストーリーの展開に窮して同じ場面で試行錯誤するかのように、なかなか先に進まず疲れきって目が覚めてしまうことが多いのですが‥‥。(笑)

また面白かった夢を覚えておくことも得意で、翌日、その夢の続きを見ることもできます。子供の時は一週間の連続ドラマを見たこともあります。

今日、お話させていただく夢も、どこかで夢だと気づいているようなところがありました。


記憶している場面は、外で昼飯を食べ終えた僕が仕事場に戻ろうとしているところからです。
僕は夢の中で次のように自分に言い聞かせています。
(そうか、どうやらこの夢の中では、自分の仕事場は今見えてきたビルの4階にあるらしいぞ。それで、その階に行くには螺旋階段を昇るようだな)

そして、(そうか、この夢の中の僕の職場というのは、どうやら設計事務所のような会社で、男ばかりが数人いるようなところだな)と薄っすらと感じています。

螺旋階段を昇ろうとすると、その下の脇の方に、赤い看板のようなものを身体の前後に挟んだ若い女の子が二人、こちらも見ずに話に夢中になっていました。
看板には何が書かれているのかは読み取れませんでしたが、板状のものに何やら赤いビニールを巻きつけたもののようでした。

(キャバクラかなんかの呼び込みの女の子だな、きっと)

そう思った時、(そう言えば、この辺にSMクラブができたと、以前誰かが言ってたなあ。どこなんだろう?)などと、ふと思い出しました。

螺旋階段はビルの室内を貫通している不思議な作りで、中の様子が見えました。
二階から三階に移動するあたりで、階段の隙間から、女性の裸の胸がチラリと見えたような気がしました。

足を止めて目を凝らしてよく見ると、全裸の若い女性が、暗闇の中にぼんやりと光を放つように立っていました。
胸は小さく身体は痩せて透き通るように白く、不健康そうです。
こちらに気づき、薄く微笑んだと思ったら奥に消えてしまいました。

それからまた昇り始めると、三階の室内を通過するあたりで、裸にされて縛られた痩せて小さい男が、四角いトレーに窮屈に座らされいるのが見えました。

それは、フジテレビ「はねるのトびら」のレギュラー、キングコングの梶原さんにそっくりでしたが、僕は、(この人は、四階で一緒に働いている同僚だ)と感じました。

「なんだよ、お前、そんな格好して!」

僕は笑い出しました。
彼は僕に気づき、つられて少し笑い、恥ずかしそうにうつむきました。

その時、僕はその場の状況を察しました。
(そうか、SMクラブができたというのは、このビルの三階だったんだ!)

「お前、そんな趣味があったのかよ!?」
そう言って、また笑ってしまいました。

どうやら彼は、マゾの人がやられる “放置プレイ” というものをやられていたようです。

室内を見回すと(夢の中なので、その時は、もう彼の存在は消えている)、そこはまるで工場の内部のようで、複雑に入り組んだ大きな配管が壁いっぱいに張り巡らされていました。

壁と壁の間の狭い通路を、向こうから3人の人間が縦一列になってやって来るのが見えました。
先頭を歩いているのは、黒いビニール製のボディスーツで身をまとい、両目を黒いビニール製のドミノマスクで覆った女性でした。
手にはムチのようなものを持っています。いわゆる女王様と呼ばれる人なのでしょう。

画像6


一番後ろを歩いている女性も先頭の人と同じ格好をした人で、彼女らに前後を挟まれてうなだれて全裸の男性が歩いていました。

男は手錠で拘束されていて、その手錠からつながったチェーンは、後ろの女性に握られていました。

その男の、まるで表情を抜き取られてしまったかのような顔を見た瞬間、僕は電撃的に気づきました。
(あっ、これはSMクラブなんかじゃない。SMクラブの名を借りたカルト教団だったんだ)

彼はマインドコントロール(=その集団の中で、個人の自由な意志による思考や行動が不可能にされてしまうシステム)を受けている最中だったんです。

(こんなところで捕まったが最後、僕も奴らの言いなりにされてしまう!)

恐怖を感じて逃げ出そうとした時、僕の身体は螺旋階段に磔(はりつけ)になったかのように動かなくなりました。

すると、向こうから、大きな男が二人並んでこちらにやってきました。
二人ともレイザー・ラモンHGさんのような格好をしています。

レイザーラモンHG

向かって左の人は手に注射器を持っていて、右の人は透明な液体の入った細長いビーカーのようなものを持って、ニヤニヤしながら近づいてきます。

僕は、(筋弛緩剤かなんかを注射するつもりだ!)と感じました。

やめろ! やめろ!

必死で叫んでも身体は動きません。
ああ、絶体絶命だ。もうこの辺で夢から覚めよう!
そう思いながらジタバタしていたら目が覚めて、なんとか「現実という夢(=リモラドリーム)」の中に無事に帰還しました。

「現実という夢」の中に帰還してしばらくしてからも、ボーっとした頭の中でいろいろなことを考えていました(つまり、今度はリモラドリームを見ていたわけです)。

正確に言えば、僕の脳内に記憶されている日本語が、僕の脳の中の反応のベルトコンベアーに乗って、様々な思考という経験をさせられていました‥‥と言うべきでしょう。
思考というのも、実は、僕たちが見ている夢の一部なのです。

(人間には、自分以外の人間の考えや行動を、自分の思い通りに支配したいという欲望があって、それが他人をマインドコントロールしようとしたり、超能力を身に付けたいという行動になって現れるんだな)

僕の脳内には、このような文章が組み立てられていました。
そう言えば、世間を騒がせたあのカルト教団も、超能力が売り物だったですよね。

だけど、その時、ふと次のような考えが浮かび上がりました。
(そうだ。たとえ誰であっても他人の考えや行動を支配することなどできないはずだ。あの時、僕が二人の男に取り押さえられて注射をされて、マインドコントロールを受けたとしても、彼らは決して僕を思い通りに支配したわけではない‥‥)

よく考えればわかることです。
もとより、僕たちに自由意志などなかったんです。
それは再三このメルマガでも言ってきました。
たとえ五人の人が、一人の人を押さえつけて暴行を加えたとしたって、それは、五人の人がその人たちの脳を取り巻く環境にやらされただけのことです。

そのことが理解できれば、もう誰も威張ったり、もう誰も他の人を支配しようとしたりしなくなります。

自分が今、威張ったり、誰かを支配しようとしたりしたとしても、それは今、自分を取り巻く環境にやらされているんだな、と思えば、何だか萎えてしまうはずです。

何故って、威張ったり支配したりしようとするのは、確実な自分があり、自分中心に物事を取り仕切りたいからだけど、その自分が単なる媒体であったと知れば、そんなことをする意味がなくなるからです。

僕たちに自由意志などなかったというのは、僕の個人的な想像をちょっと口にしてみただけではなく、科学的事実です。
ただ、人類が、まだその事実を知らないか、知ったとしても受け入れたくないだけなんです。

何故、受け入れたくないのかって?
今まで僕たちは、「他の誰でもない自分」というものが確実に存在すると信じて生きてきました。
しかし、自由意志などなかったという事実を受け入れた瞬間、自分の存在自体が揺るがされるからです。

確実に存在すると信じてきたものが崩れ去ってしまうからです。

今まで信じていた「自分」とは、環境が作っていた幻想でしかなかったということですから‥‥。

だけど本当は、その事実を受け入れた瞬間、僕たちはもっと大きなものを手に入れることができるんです。

何故なら、この宇宙の万物と手をつなげるからです。

どんなに威張ってみたところで、僕たちは環境の媒体でしかありません。
今、その人が威張ったのは、環境に威張らせ・られたのです。

どこかの大統領であろうと、どこかの暴力団の組長であろうと、ある会社のワンマン社長であろうと、世界的に有名な芸術家であろうと、オリンピックのメダリストであろうと、ノーベル賞の授賞者であろうと、それは彼らが、彼らを取り巻く環境にそのような人間にしたてられ、そのような人生を歩まされ、そしてその時の環境に、その時の言動(言葉や行動)をとらされているだけのことなんです。

もしそのことが理解できたなら、たとえあなたが五人の人に押さえつけられて暴行を受けたとしても、その五人を恨むのではなく、その五人を取り巻く環境に目が行くはずです。

この世の中からあらゆる犯罪や戦争や争いをなくすには、その人個人を責めるような僕たちの目線が、その人間を操っている背後(=環境)に目を向けることができるようになる必要があるんです。

同じように、世界的に有名な芸術家やオリンピックのメダリストたち、いわゆる英雄たちに対しても、その人個人を称えるのではなく、その人間にそのような行動を取らせている背後の力(=環境)を称えることができる視点を持てるようになることが必要です。

犯罪者の背後(=環境)には、あなたも僕も含まれています。
英雄の背後(=環境)には、あなたも僕も含まれています。
世界中の人が含まれています。
宇宙の万物が含まれています。
どれも同じ大きさで、同じ重さで、同じ価値で‥‥。

本当は、世界のみんなで英雄も犯罪者も作っていたのです!

この、「科学が自然界様から聞き出すことに成功した事実」を知ったあなたは、自分の存在自体が脅かされ不安ですか?

それよりもむしろ、今まで味わったことのないような大きな安心感に包まれませんか?

僕たちは、今、目にしているこの自分の身体の境界線から解き放たれて、そして、人間が作り上げた生や死という狭苦しい概念からも解き放たれて、無限の広がりと永遠の時間を手に入れます。

その時、僕たちはこの宇宙の中で一つにつながり、あなたはこの宇宙そのものであったことを、知るからです。

ああ、もしも願いが叶うなら、人類史上最悪のナチスのユダヤ人迫害が行われたあの悲惨な時代に、この「科学的覚醒」が人類の脳に行き渡っていれば、あんなことは絶対に起こり得るはずはなかったのにと悔やまれます。😢😢😢



◆◇◆編集後記

そう言えば、あるカルト教団も、超能力が売り物だったなあ。

僕の脳内に、夢(=ドリーム)から覚めてしばらくしてから浮かび上がった、感懐でした。

人間は自分以外の誰かや物を、あるいは自分の身体を、自分の思い通りに支配する力を持ちたがるものです。
それが超能力を持ちたいという、若者の願望にも現れています。

だけどその「願望」すらも、その時のその人の脳と環境との相互作用が、その人の脳に浮かび上がらせたものでしかなかったということを、僕たちはいい加減に気づくべきです。

僕たちはどんなことをしても、環境から自由になることはできなかったんです!

まるで大海に漂う小さな木の葉のような自分を感じた時、僕たちは同時に、大海と一体になっている自分を感じます。

僕たちが環境から決して自由になれなかった理由は、環境から自由になれなかった自分こそが、環境そのものだったからだと気づきます。

もう僕たちは、「確実な自分」というものを信じて作ってきた数々の神話から、解き放たれなければいけません!

小さな「自分」という殻から脱皮して、宇宙に羽ばたく時代に向かわなければいけないのです!

僕たちはもう、決して誰も支配しようとしてはいけません。
そのようなことができると考えてしまう今までの脳を、新しいバージョンのものに書き替えなくてはいけません!



NO.90 愛すべきモンスターとは?(前編) 2006.06.06

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【象徴化をしてしまう動物である僕たち人類が、神様や政治家‥‥などのモンスターたちを作った】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
地球の分身仲間さーん、こんにちは、徳永真亜基分身です。

「愛すべきモンスター」という言葉、覚えていますか?
えっ? 忘れちゃったって?
無理もありません。
この言葉を一番最近使ったのが、今から3年も前の2003年4月29日に発行した、このメルマガの『NO.12 愛すべきモンスター(1)』‥ですから。

(* すごいプレーをするスポーツ選手なんかを「怪物」などと形容することがありますよね。このモンスターとはそのような意味で使っています)


今日はその話をしようと思うのですが、その前に1つ質問をして見たいと思います。

この世界を動かしている人は誰? 

例えばの話ですが、政治家や神様を挙げるとします。(神様はもちろん人ではないですが‥‥)

だけど、そのように見えているだけで、実はこの社会を動かしているのは政治家でも神様でもありません。

僕たち一人一人の脳が、この社会に方向性をもった環境を作っていて、その方向性に乗っかって動かされているのが、世界を動かしているかのように見えている政治家や神様たちだったのです。(神様は実在しないけど、一旦僕たちの脳内に作られてしまったら確かに存在し、その人の脳の中で行動したり思考したり始めます)

だから僕たちは、この環境の中における媒体(一方から他方へ伝えるためのなかだち)のような存在であると共に、環境を作っている一部でもあるということです。

「僕たちは環境の媒体であると共に環境の一部でもある」という言葉、何度も何度も使ってきたので、今日こそは確実に覚えてしまってくださいね。

他の生物がそうであるように、人間も例外ではなく環境に動かされているだけなのですが、その環境を作ってもいたということで、実は政治家や神様は僕たちの環境の中から生まれ、そして僕たちが作る環境に彼らは動かされていたわけです。

僕たちの作る環境というのは「言葉」が作り出す環境です。



環境とは何でしょうか?
辞書によると「周りを取り巻く周囲の状態や世界。相互に関係し合って直接・間接に影響を与える外界」とあります。

あなたを取り巻く環境は、あなたの家族、あなたの学校あるいは職場、あなたの住む家、あなたの住む町、あなたの国‥‥。
それに地球環境などという言葉もある通り、オゾン層破壊・地球温暖化・酸性雨・砂漠化・熱帯雨林の破壊・有害廃棄物の越境移動なども、あなたを取り巻き、あなたに影響を与えている深刻な環境です。

個人主義的な環境で過ごしている僕たちは、自分に関わりのあるものや、自分にとって被害や利益などの形で直接実感できる日常的な視野(日常的な時間や空間)でしか、自分の環境を捉えられませんが、もっと大きな視野で捉えられるようになることも必要です。

目を大きく見開いてみると、僕たちを取り巻く環境とは、ビッグバンという最初の一撃の力から始まって、その方向性を持った力が、ずーっと140億年間もあっちこっちに影響を撒き散らしながらドミノ倒しを続けているこの宇宙のことだとわかります。

家族も、学校や職場も、家も、町も、国も、みんな僕たちを取り巻く環境には違いないけれど、それら以前に広がる宇宙の歴史140億年間の出来事があって、それらの出来事にドミノ倒しのように後押しされながら、家族や、学校や職場や家や町や国が、今ここに生まれているという感覚を忘れてはいけません。

しかも、宇宙は今もビッグバンに始まったドミノ倒しを続けている最中で、想像を絶する勢いで膨張しています。

そういったものが、僕たちを取り巻いている環境である‥‥ということをイメージできる感性を持ってくださいね。

分身主義では、ビッグバンの瞬間に生まれた方向性を持った力のことを「ビッグバンの風」という言葉で言い表します。


この「ビッグバンの風」という言葉を覚えるとイメージしやすいので本当に便利です。

「その事件や事故の原因は何か?」と考える時に、まずは「ビッグバンの風が原因である」というところから始めれば、全てを平等に含んでいるので見誤ることはないし、諦めもつくし、今後の対策も立てられるというものです。

今までどんなに改善策を考えても同じ事故や事件は必ず繰り返されてきましたが、それは本当の原因がわかっていなかったからです。

本当の原因がわからないにもかかわらず、そのままでは気がすまないので、取り敢えずはその事件や事故の一番近くにいる人に原因を張り付けていたんです。

それによって、自分は取り敢えずは原因から免れて、ホッとするわけです。
でも、本当は、どんな事件もどんな事故も、あなたや僕も原因の一つだったんです。すべてが平等に同価でね‥‥。人間の想像力や感情が重み付けランキングをしてしまっているだけだったんですよ。

事件や事故がなくなるためには、事件や事故が起こるビッグバンの風の吹く方向性(環境)が変わらなければいけなかったんです。
事件や事故の起こる環境とは、「錯覚の自我」にがんじがらめに縛られている僕たちの脳が作っている「個人主義的な環境」です。

では、「個人主義的な環境」が「分身主義的な環境」に変われば、事件も事故もなくなるのか、と言うと、ある意味において Yes です。

僕たちが事件や事故という言葉を使う時には、悲惨、痛ましい、残酷、非道などといった感情を内包しています。

しかし、事件や事故の悲惨さなどは、事件や事故の中にあるのではなく、その事象を事件や事故と名づけてしまう人間の側にあります。

科学の視点に忠実な(=自然界中心の視点の)分身主義から見れば、同じその事象も、「事件」や「事故」というような悲惨なイメージを持った言葉で表現することは不適切です。
だから、今まで事件や事故と呼ばれていたような意味での、事件や事故はなくなるのです。

これは、詭弁を弄しているわけではありません。

視点を、人間中心に見る視点から自然界中心(=科学の視点)に変化させた時に見えてくる真実を述べているのです。

詭弁と言えばむしろ、今までの人間中心の視点の方がはるかに詭弁だったのです。
だから、「事件」や「事故」というものは、それを扱う人の立場やその人の感情によって、評価がころころ変わってしまっていたのです。

科学の視点とは、人間の感情や偏見を排して事実だけを見る視点です。
それによると、たった一つの事件も、たった一つの事故も、その原因は、この宇宙140億年間の全てであり、その全てが平等に同じ価値で横たわっていることが見えてきます。



冒頭で、この世界を動かしている人は誰か? と考えた時に、例えば、政治家や神様を挙げました。

だけど政治家というものは、この自然界には元々存在していたわけではなく、宇宙の長い歴史から見たら、ここ数日の間に生まれてきた新参者である我々人間が作り出したモンスター(人間の想像が生んだ怪物)に過ぎません。

神様だって人間が存在する前に自然界に存在していたわけではなく、人間が自分に似せて作ったモンスターです。

敬虔な信者の方たちは、このような表現には反発を感じるかもしれませんが、科学的に(=人間中心ではなく自然界中心の視点に立って)考えればそういうことなんです。

人間を取り巻く環境の中に、神様や政治家を産み出そうという方向性を持った「ビッグバンの風」が吹いていて、その追い風に乗って、媒体である僕たち人間がそれを実行させられたわけです。
神様や政治家‥‥などは、僕たちの幻想が作り上げた「モンスター」というわけです。

その証拠に、自然界と地続きで生きている動物の世界には「神様」も「政治家」もいません。言葉を持つことで自然界と対峙してしまった人間の脳だけが作り出したものです。


何かを意識したり、何かを認識したり、想像したり、連想したり、思考したりするような人間の脳の特徴的な作用を、分身主義は「幻想」と呼びますが、どうして他の動物と違って、人間の脳だけがそのような幻想を持ってしまうのかと言うと、それは人間だけが「言葉」を持ったことが原因です。(言葉については、いずれ詳述します)

例えば、背後から忍び寄るライオンに気づいて逃げ回るシマウマは、それは、シマウマがライオンを意識し、ライオンを認識し、恐怖などの感情や、何らかの思考をして逃げているわけではありません。

つまり人間のように「あっ、ライオンが来た。食べられちゃう。恐い! 早く逃げないと食べられちゃう。蛇行して逃げよう!」というような言葉を持たない彼らにとっては、彼らの行動は自然そのもので、彼らは漠然と刺激に対して反応をしているだけなんです。

その時の反応は、人間のように言葉を持たない彼らに取っては、「恐怖」などという概念であるはずがありません。もちろん人間が恐怖の時に脳内に分泌されるノルアドレナリンやドーパミンなどの神経伝達物質は、彼らの脳内でも過剰に分泌されるでしょうが、行動は漠然とした反応です。

つまり、そのような反応をする種が天敵からの捕食を逃れて、そのDNAが引き継がれ、本能的に漠然とそのような反応をしているわけです。

そこに、言葉を持つ人間の反応の仕方を、その自分たちの感覚を、彼らの中に投影して、「シマウマがライオンという敵に食べられないように逃げている」と擬人化してしまっているだけです。

言葉を持たない(=象徴化をしない)他の動物には、人間と同じような形で何かを意識したり、何かを認識したり、いろいろ思考したりすることは決してできない、ということを覚えておいてください。
彼らは自然そのものであり、シマウマにとってライオンは敵ではなく、地続きなんです。


ところで、僕たちの「幻想」が作り上げるモンスターは、幻想の数だけ存在します。
「自分」という幻想も、実はモンスターの一つです。

僕たちには「自我」というものがありますが、これは人間の脳の錯覚が作り上げる幻想の一つで、自我とは「これが自分であると信じているところのもの」に過ぎません。
つまり、あなたが「自分」と思っているものは、あなたを取り巻く環境があなたの脳に浮かび上がらせている幻想なんです。

幻想とは錯覚と言い換えてもいいものですが、錯覚とは、「そんなの錯覚だよ。気にすんなよ」などと言って済ますことができるようなものではなく、錯覚を持ってしまった以上、存在してしまい、それによって周囲の環境も変化させる力を持っています。

僕たちが「幻想」によってモンスター(神様や政治家‥‥)を作り上げたということは、僕たちが彼らを生み、そして彼らに方向性を与えているわけです。

媒体であった僕たちが、今度は環境の一部となって神様や政治家という媒体に方向性を与えることによって、方向性を与えられた神様や政治家という媒体は、今度は環境の一部となって、僕たち媒体に方向性を与える‥‥。


難しいですが、一言で言えば、この宇宙は、万物がビッグバンの風に背中を押されて、常に媒体と環境の関係を入れ替えながら膨張し続けている、ということになります。

最初は、人間が神様に作られたのではなく、言葉を持ってしまった(=象徴化をするようになってしまった)僕たち人間が、神様を作った(作らされた)のです。

誰に作らされたのかって?
もちろん、この宇宙140億年間の全てにです。つまり「ビッグバンの風」にです。

神様や政治家というものを作った(作らされた)ことにより、彼らを自分の価値観に合わせて演じさせた僕たち人間ですが、今度は、神様や政治家が環境の一部となって、僕たち媒体に方向性を与えて、それによって僕たちは動かされているのです。
こういった前後関係をしっかりと見定めてください。

日常の僕たちの感覚には、「自分は媒体」であるという感覚が決定的に抜け落ちています。
自律的に自らの意志に従って、何物かに影響を与える自分しか認めたがりません。

そんなことでは、いつまでたっても世界は平和にならないし、世界が平和にならない限り、僕たちが本当の幸福を手にすることもできないわけです。

「自分は、自分を取り巻く環境、つまり、宇宙や天体や遺伝子や他人の脳や、社会やテレビや本や、パンやご飯やありとあらゆる環境によって作られ、そしてそれらの環境に動かされて環境に影響を与えている媒体に過ぎなかった」
この自覚、あるいは気づき、あるいは視点がどうしても必要です。

今、僕が書いているこの文章も、実は、僕を取り巻いている周囲の環境が、僕という媒体に書かせているのであって、僕に書かせているその環境には、あなたも含まれています。
この視点が必要です。


スマップの「世界に一つだけの花」という歌があります。

これは、「NO.1にならなくてもいいんだよ。あなたの存在自体が世界にたった一つだけの綺麗な花なんだよ。あなたは元々、特別なオンリー・ワンなんだ」という励ましの歌ですが、その言葉を聞いて僕たちの脳が癒される気持ちになるのは、僕たちが長いこと「個人主義的な環境」に生きてきたからなんです。

僕たちの生きている環境が「個人主義的な環境」である理由は、僕たち人間に「錯覚の自我(これが自分であると自分が信じているところのもの)」があるからですが、それは僕たちを取り巻く環境が僕たちの脳に浮かび上がらせている幻想に過ぎなかったわけです。

今、我々の感じている「自我」もまた、環境に作られている幻想でしかなく、環境によって作られた自我を持った媒体である僕たちが、この環境を個人主義的なものにしていて、そして、その個人主義的な環境の中に置かれている僕たちの脳は、「世界に一つだけの花」というパスワードを入力させられると意欲が喚起され、気分が高揚し、幸福感に満たされるようにできてしまったんです。

だけど、ちょっと考えればわかりますが、オンリー・ワンというのは、形を変えたNO.1です。
「オンリー・ワン」と言われて感じる幸福感は、優越感に根差した幸福感です。

優越感が世界を平和にしないことは、説明するまでもありません。
優越感は、その根っ子には劣等感や差別意識があり、また劣ったものに対する侮蔑もあります。
また優越感は他人の妬みや恨みを買い、一時的な幸福感でしかありません。

最近、「勝ち組」、「負け組」などという言葉があるようですが、それらも個人主義的な環境の中に置かれた僕たちの脳が、作り出してしまう幻想です。

誰もが「僕が僕である証」、「自分が生きた証」を欲しがっています。

若者の間で流行っている「自分探し」とは、「自分らしさ探し」でしかありません。これらは個人主義的な自分探しです。どれもみんな、個人主義的な環境から生まれてくる、世界を平和にしない幻想です。

ちなみに、本当の「自分探し」をしたなら、誰もがビッグバンに行きつくしかないのです。

最近、ちょっとしたことで人が殺されたり、見ず知らずの人が事件に巻き込まれたりするケースが増えています。
それで、「自分の身は自分で守るという意識を持つべきだ」とか、「日本人にはまだ危機意識が十分に育っていない。アメリカを見習うべきだ」などという有識者の声が聞こえます。

だけど、その人たちは確かに知識は豊富かもしれませんが、事件が起きる根本の理由が見えていません。

彼らの見解は、彼らが、今の環境から浮かび上がるものを口にしているだけですから‥‥。

個人主義的な環境が事件を生んでいるというのに、ますますアメリカ的個人主義を徹底して行くとどうなるでしょうか。
目の前に、わかりやすい見本があるというのに‥‥。

他人(ひと)と見れば、常に自分の金を狙っている敵と警戒し、バリアを張り、自分を守る武器を常に隠し持ち、自分の利益のことばかりを考え、自分の権利をどこまでも主張して力ずくで生きることは、心と心のつながりを断ち切り、一人ひとりをますます孤立させます。

ちょっとした想像力さえあれば、そんな社会は、どこまでも犯罪を増やす方向に突き進んでしまうことはすぐにわかります。
妄想がどんどん巨大化させてしまった見えない敵に対して、誰もが武器を盲滅法(めくらめっぽう)振り回して生きています。
そのことにこそ危機感を感じます。

僕たちがこんな感覚から抜け出せない限り、いつまでたっても世界は平和にならないし、世界が平和にならない限り僕たちが本当の幸福を手にすることもできないわけです。


そこでどうしたらいいかと言うと、「愛すべきモンスター」というパスワードです。
(後編につづく)


◆◇◆編集後記

言葉とは象徴化であって、決して“モノそのもの”ではありません。
僕たちが「太陽」と言っても、それは太陽そのものではなく、一人一人の複数のイメージを象徴的にその音に託しているだけです。
もし太陽そのものを扱ったら、瞬時に、その灼熱に溶けているでしょう。

シマウマが言葉を持たない(象徴化をしない)限り、人間のように何かを意識したり、認識したり、思考したりすることは絶対に不可能です。
と言うより、人間の「意識・認識・思考‥‥」などが、言葉(象徴化)の結果だったのです。

分身主義では、我々動物の脳内の神経細胞が作る現象のうち人間の脳の現象だけを、「幻想」と呼んで他の動物たちの脳内現象と区別しますが、それは言葉が関与している点で、他の動物の脳内現象とは全く違う次元のものだからです。
この「幻想」とは、錯覚と言い換えてもいいものです。

逆に言えば、僕たちが意識したり、認識したり、思考したりするものは全て、幻想(=錯覚)でしかないということです。
幻想(=錯覚)でしか、僕たちにはモノを捉えられないということです。

ちなみに、動物の場合は錯覚ではありません。

彼らは言語的活動によって、何かを把握しようとか理解しようとはしないから、錯覚という表現は不適切だからです。

彼らは自然そのもので、彼らの脳内現象は、自分以外の物と地続きです。
つまり、彼らには人間と同じ意味での自我というものすらありません。
それは、人間が彼らに自分の錯覚を投影して、擬人化してしまっていたのです。

モノは捉えようとしたり理解しようとしてしまったら、その時点ですぐ、モノそのものではなく、幻想(=錯覚)となってしまう性質のものだという意味を理解していただけましたか?

それが、モンスターという言葉につながっていきます。

今日の話は、ちょっと難しかったですか?

無理もありません。
僕だってこのことがわかるのに、140億年もかかったんですから。
言ったでしょう!?
僕たちはこの140億年の媒体だって。
だから、僕自身は、僕を取り巻く「この140億年が作る環境」が僕の脳内に浮かび上がらせる言葉たちを、あなたに伝える単なる伝道者に過ぎません。

何故なら、僕が今、重度のアルツハイマーになってもこのメルマガは残りますが、僕自身はこの内容を全く理解できなくなります。
今の僕というこの境界線を持った身体が、現時点の僕の脳とそれを取り巻く環境との相互作用によって浮かび上がる言葉の、単なる伝道者(=媒体)の役目を担っているだけということの証拠です。

たった今のあなたの思考、あなたの行動も、本当は140億年のドミノ倒しの最先端で起こっている思考と行動なんです。
この意味をわかっていただけるでしょうか?
あなたを取り巻く、140億年の環境を感じていただけるでしょうか!?

そう「ビッグバンの風」を‥‥。



NO.91 愛すべきモンスターとは?(後編) 2006.06.13

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【アイドルスター、犯罪者、トップアーティスト、身体障害者、スーパースター、独裁者、偉人‥‥みんなみんな僕たちの「愛すべきモンスター」です】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
地球の分身仲間さーん、こんにちは、徳永真亜基分身です。


僕たちが個人主義的な感覚から抜け出せない限り、いつまでたっても世界は平和にならないし、世界が平和にならない限り僕たちが本当の幸福を手にすることもできない‥‥というところまで、前編では書きました。

そこでどうしたらいいかと言うと、「愛すべきモンスター」というパスワードです。

このメルマガの『NO.11 世界に一つだけの花』(2003年4月22日発行)の中で、「みんなで力を合わせて、人類という綺麗な一つの花を咲かせる」ためのパスワードとして「愛すべきモンスター」というパスワードを使おう、と呼びかけたのでした。

「オンリー・ワン」というパスワードは、個人的には幸せな気分にしてくれるけれども、個人的な幸せは世界を平和にしないし、世界を平和にしなければ結局は個人的にも幸せにはなれないので、「愛すべきモンスター」というパスワードが必要になった‥‥ということです。


僕たち人類の脳が、象徴化をするような脳になった(=言葉を持った)ことにより、幻想(=錯覚)が始まりました。

僕たちの脳が「幻想(=錯覚)」を持ってしまう習性ができてしまった以上、僕たちの脳から「自我」を取り去ることは不可能です。

ちなみに、神経系とは、中枢神経(脳・脊髄)と、全身に張り巡らされた末梢神経(感覚神経・運動神経・自律神経)のことを指しています。

自我とは、神経系と言葉とで作る錯覚のことですが、どんなに苦行を積んだ坊さんにも、自我を捨て去ることはできません。
一時的にはできるかもしれませんが、生きている限り彼らにも自我は一生付いて回ります。
自我のあるところ、必ず煩悩(ぼんのう)も付いて回ります。

だけど、分身主義を知った僕たちは、今までの「自我」から簡単に解放されることができます。

分身主義とは、科学が自然界様にお伺いを立てて得られたその答えです。その答えを丁寧に整理することによって導かれたものです。
それさえすれば、僕たちはビッグバンから生まれてきた分身同士だということに、世界中のもが例外なく気づくはずです。

もし嘘だと思うなら、今日から科学の本をたくさん買い込んで、ご自分で勉強してみたらいかがでしょうか?
気づかなかったのは、現代科学が解明していたものの知識が足りなかっただけだということがわかるはずです。

僕たちを含むこの宇宙の万物はビッグバンから生まれたのですが、その初期の小さな火の玉状態をイメージしてみてください。(直径10cmくらいの球がイメージしやすい)

その中にギューギューに詰まっていた素粒子が、宇宙の膨張と共にくっついて形や性質を変えたりしながら、140億年経った今、たくさんの物に分かれたのであって、僕たちは始めは一つの小さな球だったんです。

この宇宙が一人の人間(例えばあなた)の身体だと考えてください。
ある日、あなたの身体の中の一つ一つのパーツが、脳を持ってしまったことによって「自我」という錯覚の虜(とりこ)になりました。

左の小指の爪は自分を主張し、右の耳も自分を主張します。
これが今の僕たち人間の状態です。
いわゆる「オンリー・ワン」というパスワードでうっとりする脳です。

小指の爪は小指の爪、右の耳は右の耳‥‥それが個人主義的感覚です。
「私は私、あなたはあなた、私に迷惑をかけなければ何をやろうとどうぞご勝手に」と自分に関係のないことには無関心なことを、他人を尊重するなどという巧妙な言葉で包み、そのくせ「自分、自分、自分‥‥」と自分の被害や利益にはとても用心深く、自分の老後の設計や健康には細心の注意を払います。

あなたの身体(この宇宙)の中で、右の耳と背骨が仲が悪くなったとします。
右の耳は「背骨の野郎はなんて口うるさいんだ! 耳にタコができる!」と癇癪を起こして背骨をへし折ってしまったら、「ああ、これでうるさいのがいなくなった」と安心できるでしょうか?

どこかが悪くなれば、必ず全体に影響があります。
それが一つの身体(宇宙)という意味です。

全体を見渡す目線を持っているあなたにとっては、左の小指の爪も、右の耳も、背骨も、ありとあらゆるパーツ全部をひっくるめて自分だという感覚があるはずです。
どのパーツも平等に重要だし、どこかとどこかが喧嘩されても困ります。
みんな同じように大切です。

分身主義の目線は、この全体を見渡す広い目線です。
そこから「愛すべき‥‥」という感覚が生まれてきます。

それがこのメルマガ『世界を平和にする「自己愛的生活」』の「自己愛」の本当の意味です。普通の「自己中心」の自己愛(=オンリー・ワンの自己愛)は、世界を平和にしません。

だけど、みんな僕たちの脳が作るモンスターであって、みんな僕たちの分身である、ということを知った分身主義の自己愛だけが、この世界を平和にする‥‥ということです。


このメルマガの『NO.12 愛すべきモンスター(1)』を読み返すと、最後に次のように書いていました。

『愛すべきモンスター』は、これが記念すべき第一回目となります。
ここから、『愛すべきモンスター』の連載は、不定期で続きます。
アイドルスター、犯罪者、トップアーティスト、身体障害者、スーパースター、独裁者、偉人‥‥いろいろな人が『愛すべきモンスター』として名を連ねることになります。
その意味はわかってくださいますね。
だって、僕たちは一つだったんですもの‥‥ 😉✰ネッ!


偉い人も、犯罪者も、みんな一緒くたにしてしまうなんて不謹慎だ、などと怒らないでくださいね。
身体障害者の気持ちも知らないで、などと不快に思わないでくださいね。

脳天気におちゃらけているように聞こえるかもしれませんが、それどころか、血の涙を流しながら、全人類の幸福を考え続けた僕の、真摯な声なんです。
わかってください。

もしここに、人を殺してしまった方がいるとしても、彼は、僕たちの環境ではできないことを彼の置かれた環境において実行させられてしまった分身さんだから、僕たちは彼を憎むのではなく、自分を救うように彼に救いの手を差し伸べなければいけません。

怒りや恨みは、僕たちの心を何一つ救ってくれないどころか、それは果てしなき報復の連鎖を招くだけです。

もしここに、食事も自分の力では摂れない身体障害者の方がいたとしても、彼は、僕たちの環境ではできないことを彼の置かれた環境において実行させられている分身さんだから、僕たちは、自分を救うように彼に救いの手を差し伸べなければいけません。

それは、もしここにスーパースターがいても、彼は僕たちの環境ではできないことを彼の置かれた環境において実行させられてしまった分身さんであるから、彼に嫉妬するのではなく、自分たちの分身さんである彼を誇らなければいけないし、彼もまた僕たちの救いを必要としているので、救いの手を差し伸べてあげなければいけないということと、全く同次元です。


あなたが、僕たちの環境ではできないことをあなたの置かれた環境において実行させられている分身さんであることと、人を殺した分身さんや、身体障害者の分身さんや、スーパースターになった分身さんなどとの違いは、ただ置かれた環境が違ったというだけです。

(もちろん、環境にはこの140億年間の全てが同じ重要さで含まれますよ。重要さにランク付けをするのは、自分中心に重み付けをしてしまう人間の脳の仕業でしたね。自然界にはランク付けは一切ありません)


そして、僕たちは、身体障害者と呼ばれる人たちが本当の意味で辛いのは、身体的な不具合や不調のせいよりも、それは周囲の無理解にあることを今こそ知らなければいけません。

科学の視点だけを頼みにする分身主義は、どんな状態も自然界に適応している状態であることを知っています。

たとえロケットが打ち上げに失敗しても、それは「そのロケット」が自然界に適応した状態です。
たとえ地球上からある種の生物が絶滅しても、それは自然界に適応できなかったから絶滅したのではなく、適応したからこそ絶滅したのです。
たとえ僕の目が見えなくなっても、それは僕の目が自然界の中で適応した状態でしたね。

人間中心に見るから、それは失敗であり、滅びであり、病気であるだけなんです。

自然界中心に見れば(=科学の視点で見れば)、この宇宙が見せる姿は、どんな姿であってもそれが自然界に適応した姿であるというのは、当たり前の道理ですよね。
と言うことは、彼らは身体障害者なんかではなかったんです。

自然界中心の視点で見れば、彼らもまた身体適応者なんです。

彼らが救われないのは、世界中の人たちの心の中に、人間中心の視点が作る誤解や無理解があったことと、そこから来る彼らに対する見下した気持ちや憐れみがあるからです。

それと、この社会には、少数派の彼らには適応しづらい道具であふれているからです。

僕たちは、ちゃんと自然界に適応している彼らを憐れむ必要はありません。
(もちろん、自然界には適応している彼らであっても、「この社会」には彼らの適応しづらい道具であふれていれば、僕たちは手助けしてあげる必要はありますが‥‥)

実は、僕たちには、彼らを憐れんでいる余裕なんてなかったんです!

僕たちはそれよりも、「共感を込めて自分たちを憐み合わなければいけません」そう、僕たちは「みんな障害者」だったんですから。


今僕たちに必要なのは、この連帯意識です。
だから、身体障害者と呼ばれる人たちだけが健常者と呼ばれる人たちに助けてもらうのではなく、健常者と呼ばれる人たちも身体障害者と呼ばれる人たちに、勇気や愛を分けてもらい、支えてもらわなければ生きていけません。

この世界の英雄も犯罪者も身体障害者も、アイドルスターもトップアーティストもスーパースターも、神様も政治家も、みんなみんな、僕たち人間の脳の一つ一つが環境の中で集団となって作り上げてしまっていたモンスター(想像が生んだ怪物)だったわけです。

僕たちが環境に操られている媒体に過ぎないのと同様、彼らもまた僕たちが作る環境に操られている存在にすぎません。

彼らが単に、人間中心の視点だけが見る怪物である証拠は、言葉を持たない動物から見れば、彼らは英雄でも犯罪者でも身体障害者でもアイドルスターでも政治家でもないことを考えればすぐわかります。

でもいつも言うように、一旦人間の脳内に生まれてしまった幻想は、その存在をどこまでも主張し、やがて実体を変化させる力を持ちます。

神様も政治家も、英雄も犯罪者も‥‥、みんな、僕たちの脳が集団となって作り出し、そして僕たちが集団となって彼らに息を吹き込み操っていたようなものだったんです。

僕たちが作っているモンスターたちを、どうして心から大切に思い、愛さずにいられるでしょうか!
それは僕たち自身なのに‥‥。


「モンスター」の意味をわかっていただけましたか?
そして、「愛すべきモンスター」の意味も‥‥。

そこで、『愛すべきモンスター』シリーズの記念すべき第二回目として、次回みなさんにご紹介させていただく僕たちの誇るべきモンスターさんは、生命誌研究館館長の中村桂子分身さんです。
(You Tube動画で見れます。彼女を探してみてください)

1999年の4月から3ヶ月間、NHK人間講座で『生命誌の世界』を講義してくださった方です。
科学者でありながら、女性的な細やかな感性と広い視野を持つ彼女の言葉は、僕たちの心に爽やかな風を運んでくれます。



◆◇◆編集後記

言葉を持たない(象徴化をしない)シマウマは、自然そのものであり、彼らにとってライオンは敵ではなく地続きである‥‥という意味、理解していただけましたか?

地続きとは、自・他を区切る「自我」という錯覚を持たない、ことを意味しています。

僕たちの今までの「自我」とは錯覚だったんです。

それが現代科学が到達した答えです。
あなたが、「これが自分であると自分で信じているところのもの」は、実は、錯覚だったんです。


人間の脳は言葉を持ってしまった(=象徴化をするようになってしまった)ので、人間は自然そのものではなく、自然を外側から眺めるしかできなくなりました。自然を外側から眺める僕たち人間は、幻想の中で生きるしかなくなってしまったのです。

幻想とは、「錯覚」とか、あるいは「思い込み」と言い換えてもいいものです。

人間が意識したり認識したり理解したりするどんなものも、それはその人の脳内の記憶に歪められた幻想(=錯覚)でしかありません。

この世に起こった事象を語る誰もが、自分の脳内の記憶に歪められた事象について語っています。
誰が語る言葉も、それはその人の錯覚に基づく言葉でしかありません。

「誰もがみんな、自分にとっての真実を語ることしかできない!」

僕たち人類は、今、その「大いなるあきらめ」から始めるべきです。


それは科学であっても同じです。


水素(H₂)を燃焼させると水(H₂O)ができるという化学式は、次のように書き表します。

2H₂+O₂ ⇒ 2H₂O

これは水素をH₂、酸素をO₂という記号に置き換えたもので、象徴化、あるいは記号化であり、言語的な処理と言えます。

H₂が水素そのものでも、O₂が酸素そのものでも、H₂Oが水そのものでもないことは誰の目にも明らかですが、でも実験上もその通りの結果(水素を燃焼させると水ができる)が得られるのは、それは一旦置き換えたものをまた元に戻しているからです。

一旦置き換えたものをまた元に(自然界に)戻した時に、ちゃんと働くことで、その幻想の正しさは証明されます。

鉄の塊の船が沈まずにちゃんと動くのも、あんなに重い飛行機が空を飛べるのも、携帯電話でどこにいても話せるのも、電気炊飯器が美味しいご飯を炊けるのも、それを作った人間の幻想の正しさを証明しています。

科学とは、このように人間の幻想の可否を、自然界に逐一戻してお伺いを立てながら進む学問ということです。


科学時代を生きることになってしまった僕たちは、自分の意識や認識や理解や思考などは「幻想」であるとはっきりと自覚し、そして科学にならってそれらを逐一自然界に戻しながら進むべきです。

試しに、分身主義という幻想を、自然界にそっと戻してみましょう。
分身主義の目線は、自分の全身を見る広い目線でしたね。
分身主義とは、自分の全身である世界や宇宙に目を向け、「世界平和こそ唯一の善である」と規定し、それ以外のものはどんなものでも(最重要だと思われてきたどんなものであっても)、その下に置くものです。

たとえ最重要だと思われていた「人の命」であっても、世界平和の下に置きます。

だからと言って、全体のためになら一人の命を犠牲にするのは止むを得ない、などと言っているわけではありません。
部分を生かすためにこそ世界平和があるからです。
分身主義の視点は、「部分と全体が等しい」、「死は終わりではない」と見えています。

この分身主義の「幻想」を、試しに自然界に浮かべてみてください。


その時、今まであなたの身心を煩わせ悩ませ苦しめていたあらゆるものが、嘘のように消失するのを経験するでしょう。

その経験をブログで紹介し続けるのです。
現代は、今までになかったこんなに素晴らしいメディアがあります。
そんな今だからこそ、分身主義が生まれてきたし、分身主義が花開く準備が少しずつ整っているのかもしれません。

僕たち一人ひとりの、自分の全身を見つめる目線と、その目線によるホームページ作りという地道な活動が、この深く根を張っている「個人主義的な環境」を、やがて「分身主義的な環境」へと変化させてくれます。


世界中の人が仲良く手をつなぎ、世界を本当の平和にし、僕たちが喜びの中で生き、喜びと共に死んでいくためには、僕たちの今いる環境が「分身主義的な環境」に変化するしかありません。

僕たちの心の中に嫉妬や恨みや憎しみが浮かび上がり、戦争や犯罪を引き起こしてしまう理由は、この環境が「個人主義的な環境」だったからです。
どこからともなく湧き上がり、やがて僕たちの心を覆い尽くしてしまう不安は、この環境が「個人主義的な環境」だったからです。

それらはまさに、言葉を持ってしまった人類の脳に「錯覚の自我」が作られ、それによってこの社会を「個人主義的」なものに作り上げてしまったからです。

環境が変わらない限り、そこには嫉妬や恨みや憎しみが浮かび上がり、戦争も犯罪も不安も生産され続けます。

その理由は‥‥、僕たちを含むこの宇宙の万物は、どうあがいても環境の媒体だったからです。



NO.92 愛すべきモンスター(2)(中村桂子分身さん‥大切な「私」とは何か) 2006.06.27

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【DNAに注目すると、長い時間、広い空間の中に自分を置くことができ、大らかになれます。(中村桂子分身さん)】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
地球の分身仲間さーん、こんにちは、徳永真亜基分身です。


今日、みなさんにご紹介する僕たちの誇るべき分身さんは、大阪府高槻市にある生命誌研究館の館長、中村桂子分身さんです。

画像18


生命誌研究館のホームページは こちら です。

1999年の4月から3ヶ月間、NHK人間講座で『生命誌の世界』を講義してくださった方です。

中村桂子

テキストには次のように紹介されていました。

1936年、東京に生まれる。
1959年、東京大学理学部化学科卒業。
1964年、同大学院生物化学終了(理学博士)、国立予防衛生研究所勤務。
1971年、三菱化成生命科学研究所社会生命科学研究室長。
1981年、同人間自然研究部長。
1989年、早稲田大学人間科学部教授。
1993年、生命誌研究館副館長。
1995年、東京大学先端科学技術研究センター客員教授。
1996年、大阪大学連携大学院教授。
主な著書として、『生命科学と人間』、『自己創出する生命』、『あなたのなかのDNA』、『ゲノムを読む』、『生命のストラテジー』、『科学技術時代の子どもたち』、『生命誌の窓から』、『細胞の分子生物学』、『二重らせん』『お母さんノーベル賞をもらう』など。

講義中は生命誌研究館の副館長さんだったのですが、2000年4月から館長さんになられたようです。
失礼ながら計算させていただきましたが、1999年の講義の時は63歳の方ということになるわけですが、とてもお若く見えました。
実際、50歳前後くらいの方かなと思っていました。

清楚な身だしなみと、キュートな笑顔、そして女性ならではの細やかな感性が、ご専門である科学にも反映されていて、理知的でありながらも優しい人柄のにじみ出た話し方‥‥そういったものが7年経っても忘れられず、ついに今回、「愛すべきモンスター」シリーズの第二回目で、みなさんにご紹介させていただくことにしました。

と言っても、彼女のことは生命誌研究館のホームページの中でたっぷり見ていただくことにして(動画で声も聞けます)、ここでは彼女の、心温まる言葉を一つだけご紹介させていただくことにします。

「日常私たちは自分にこだわりすぎて、広い視野に欠けることがよくあります。ところが、DNA(遺伝子)に注目すると、40億年近い昔から続いているものが今私の中にあり、地球上の他の生き物たちともそれを共有していることになるわけですから、長い時間、広い空間の中に自分を置き、大らかになれます。この見方は大いに意味があり、私は好きです」

ああ、なんと癒される言葉でしょう!
僕はこの言葉に触れた時、身体から無駄な”りきみ”がスーッと抜けていくのを感じました。
自分の本当の居場所に戻って来れたような、居心地の良さを感じました。

今まで僕は、彼女の発見したような素晴らしい世界を多くの方に知って欲しいと思い、手を替え品を替え熱弁してきたにもかかわらず、科学に関心を向ける方が少ないせいか、なかなか伝わらないもどかしさを感じていました。
そのせいか、どこかに無駄な力が入っていたのです。

でも、科学を通して、同じような視点を持ってくださっている方がいることを知って、またそれは「大らかになれ、‥‥私は好きです」と感じられるものであるという確信を得て、自分のやっていることは決して間違いではなく、また無駄ではなかったと思えたからです。

現代科学が解明しているもの、つまり揺るぎない「知」を通して、互いに共感できるというのは、なんという喜びでしょう。

科学の真実はたった一つです。

僕たちは科学を通せば、世界中の人と一つになれるし、世界中の人と共感し合えるのです。
科学によるたった一つの真実に基づいた共感(=分身主義による共感)、それこそが、決して裏切られることのない本当の幸福です。

ところが、この言葉に続く彼女(中村桂子分身さん)の言葉には、何日も考えさせられてしまいました。

「でもここで、個体は遺伝子の乗り物にすぎないとして、生物が遺伝子に操られているかの如くに考えてしまうと、自分にとって一番大切な『私』が消えてしまい、それはやはりおかしい。DNAのおかげで手にすることができた大らかな気持ちを持った上で、もう一度私という存在を考えるのが最も生き物らしいと思うのです」

「個体は遺伝子の乗り物」というのは、言うまでもなく、イギリスのあの有名な動物行動学者リチャード・ドーキンス分身さんの言葉です。

生物が親から子へと性質や形状が伝わるのは、それを伝えるための因子があるに違いないと仮定され、それが遺伝子と名づけられたわけですが、今では、それはDNAという化学物質であることがわかっています。

個体(我々の身体)は寿命が来ればあっけなくこの世を去りますが、遺伝子は子孫に受け継がれていくのだから不滅と言えます。
だから、個体はこの永遠不滅の遺伝子の乗り物に過ぎない‥‥と言う理屈です。

と言うことは、生き残ろうとしているのは個体ではなく遺伝子であり、遺伝子の目的は唯一、自分自身(=遺伝子)が永遠不滅に生き残ることだと考えることもできます。

ドーキンス分身さんたちによれば、我々生物の「行動」も、その生き残ろうとする遺伝子の支配下にある、ということです。


動物の行動を観察していると、自分を犠牲にして他を助けるという利他的な行動がよく見られるそうです。

例えば、ミツバチでは、女王バチが産んだ卵から成長した雌バチは、自分では卵を産むことなく、女王を助けて自分の妹たちの世話を焼いて一生を過ごします。

つまり、自分の繁殖を捨てて女王の繁殖を助けるのです。

また、例えば、シマウマの群れでは、ライオンの接近を鳴き声や身振りで群れに知らせる見張り役がいるそうです。
このような目立つ行動を取ることは敵の注意を引くので、自分自身が危険にさらされることになります。

今までのダーウィンの進化論などでは説明がつかなかったこのような不可解な行動も、それは遺伝子が、自分と同じ遺伝子を持っている可能性の高い血縁者を助けることによって、その遺伝子をたくさん残そうとしている‥‥と解釈すれば説明がつくということです。

つまり、自己犠牲的(=利他的)な行動は、遺伝子によって個体の行動が操られている姿である‥‥と言うのです。

僕たちのこの身体は、彼(ドーキンス分身さん)の言うように、永遠不滅に生き延びようとする遺伝子が利用する、束の間の乗り物に過ぎなかった‥‥のでしょうか?

実は、このような解釈は、遺伝子に注目し過ぎる狭い視野(学者が陥りやすい)から見えている景色を、自分の脳内に記憶されている素材を使って「つじつま合わせ」をしているに過ぎません。それは、「人間中心的な狭い感覚」が浮かび上がら・せてしまっている擬人法的な解釈に過ぎません。


自然界中心の真の科学による解釈(=分身主義的な解釈)によると、遺伝子は決して僕たちを操っているのではなく、その遺伝子もまた操られているのです。

誰に?

もちろん彼(=遺伝子)を取り巻く環境にです。

僕たち人間という媒体がそうであるように、遺伝子もまた、その取り巻く環境の媒体に過ぎません。

もし彼ら(=遺伝子)が、「永遠に生き残ろう」としているかのように僕たちの目に映るとしても、それは彼らに目的や意志のようなものがあるわけではなく、環境にそのように操られていたわけで、それは別に彼らが「永遠に生き残ろう」としていたわけではありません。

強いて言えば、環境に「永遠に生き残ろう」とさせ・られていただけです。
でも、それさえも、たまたま人間の目にそのように映るだけなんです。
人間中心の擬人法的な解釈なんです。


さて、中村桂子分身さんは、「個体は遺伝子の乗り物にすぎない」というような解釈をしてしまったら「自分にとって一番大切な 『私』 が消えてしまい、それはやはりおかしい」と言っていましたね。

僕が分身主義を説明する時に、いつも話題にあげる「個人主義的」というのが、実はこの「自分にとって一番大切な 『私』 」を最大限に大切に扱おうとする感覚のことです。

だけど今までずーっと言い続けてきましたが、『私』の本当の姿は、この宇宙だったんです。
今、目の前に境界線を持って存在している個体としての身体を 『私』 と信じているのは、それは神経系の作る錯覚でしたよね。

目の前に(と言うより、この目と連続して)境界線を持って存在しているこの個体を「自分にとって一番大切な 『私』 」と信じて固執し、しがみついているからこそ、いつまでたっても僕たちはその自分の理解できる範囲の、日常的な時間、日常的な空間から解放されないし、それだからこそ、いつまでたっても世界が平和にならないのです。

だから、生意気なようですが、敬愛すべき僕たちのモンスター、中村桂子分身さんに次のように言いたいと思うのです。


「自分にとって一番大切な 『私』 」を乗り越えた時、もっと素晴らしい景色が見えますよー!
もっと長い時間、もっと広い空間の中に自分を置き、もっと大らかになれますよー!

‥‥と。


「生物が遺伝子に操られている」という事実は、信じたくなくても嫌いであっても、もしそれが科学的事実であるなら受け入れるべきだと思うのです。

だけど、実は、僕たちは、たかだか40億年の遺伝子などというちっぽけなものに操られてなんかいません。
それよりももっと大きな、この宇宙という140億年の環境に操られているんです。

「操る」という言葉は不適切かもしれません。

何故なら、目的も意志もない「実体」としての宇宙には、別に僕たちを操る意識など一つもないからです。

そして、この宇宙という環境こそ、僕たち自身の真の姿なんです!

「僕たちは環境の媒体であると共に環境の一部でもある」でしたね。

もちろん、「部分と全体が同じ=同価である」と考える分身主義が言う「環境の一部」とは、「環境の全て」と同じ意味です。

だから‥‥「自分にとって一番大切な 『私』 」の本当の姿は、取りも直さず、この宇宙だったんです!


この「環境」という言葉を、分身主義では簡明な一つの言葉で表現していましたよね。
そうです、「ビッグバンの風」です。

僕たちは「ビッグバンの風」という140億年にも渡って吹き続けている、不可逆的な、ドミノ倒し的な、ガチガチの因果に縛られた的な「環境」に操られていたわけです。
そしてそのビッグバンの風が、ある日、ある種の動物に、象徴化という働きをする脳を作り、言葉というものを生み出した時、そこに自我という錯覚を持った「人間」が出現したわけでしたね。


今、科学は、この「自我」が錯覚であったことを突き止めています。
そして今、科学は、僕たちの真の姿を明らかにしています。
目の前のカーテンを開きさえすれば、その向こうに素晴らしい景色が広がっています。

残念ながら、その素晴らしい景色にカーテンを引いてしまっているのは、ここまで僕たちを導いて来てくださった、当の科学者たちです。
彼らの中の、最後の最後に来てどうしてもそぎ落とせない「自我」が作る自分中心・人間中心的な感覚が、それを阻んでいるんです。

無名の徳永分身は全く持ち合わせていないプライドや権威ですが、それらを生きる支えとしている学者である彼らが、真の科学(自然界中心の視点を持ったもの)を、土壇場で裏切っているんです。


科学者は、暗い土の中を、自らの勘を頼りに手探りでどこまでも掘り進んでくださいました。
ビッグバンの風にけしかけられるかのように、その脳にひたすら湧き上がってくる強い探究心に突き動かされ、強い精神力と強い集中力に支えられて、健康を犠牲にして掘り進んでくださいました。

今は、科学者にできなかったことを僕たちが引き継ぎましょう。
それは、自我の壁を乗り越えることです。
自我の壁を乗り越えるなどということは、苦行を積んだお坊さんにもついぞできなかったことですが、科学が示してくれた真実が、僕たちにそれを可能にしてくれています。

科学は、今、僕たちの自我は神経系の作る錯覚であったことを突き止めました。僕たちの真の姿は、この宇宙であったことを突き止めました。

それは、自我の滅却ではなく、自我の拡大です。

自我の滅却は、お坊さんがどんなに苦行を積んでもできなかったものですが、自我が拡大されることによって、簡単に「自我」を(=今までの自我を)滅却することが可能です。

我々は、神経系の作っていた狭い自我から、ついに解放される時が来たんです。


この理解によって、僕たちは世界中の人と、いいえ、宇宙中の物質とつながり合えます。
そして自分を愛するように宇宙を愛し、自分にとって良かれと思って取るあらゆる行動が、宇宙中の物質にとって良かれと思う行動と一致したものとなります。

それを証明し、そして実践するために、このメルマガ、『世界を平和にする「自己愛的生活」』を始めたのです。



◆◇◆編集後記

次回の「愛すべきモンスター(3)」には、和田義彦分身さんを考えています。
芸術とは何か?
多くの人が芸術と装飾とを混同しています。
それを、和田分身さんの絵画盗作?事件をきっかけとして、考えてみたいと思います。

でもその前に、今回、僕が書いた‥‥、

実は、このような解釈は、遺伝子に注目し過ぎる狭い視野(学者が陥りやすい)から見えている景色を、自分の脳内に記憶されている素材を使って「つじつま合わせ」しているに過ぎませんし、それは、「人間中心的な狭い感覚」が浮かび上がらせてしまっている擬人法的な解釈に過ぎません。

という部分を、ちゃんと説明しておこうと思います。

科学者と言えども人の子です。
やはりどこかに自分中心・人間中心の解釈を施してしまっていて、自然界中心の「真の科学」を完遂できているとは、とても言えません。

真の科学者になるということは、本当は、神経系が我々に作る「自我」という錯覚の壁をはっきりと意識し、それを乗り越えなければできないことなんです。

と言うわけで、次回は「真の科学による生物進化論」と題したメルマガをお送りします。



NO.93 真の科学による生物進化論(1) 2006.07.11

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【どのような思想も教義も理論も信条も理念も、その人の脳に浮かび上がる「違和感」や「疑問」や「不安」や「怒り」などを埋め合わせるために必要とされた「つじつま合わせ」に過ぎない】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
地球の分身仲間さーん、こんにちは、徳永真亜基分身です。


今回は、「真の科学による生物進化論」なるタイトルを付けてしまいましたが、「科学者でもないお前が偉そうなこと言うな!」などと言わないでくださいね。

元より、科学者と言われる人たちが、「真の科学」とは何かを考え抜いて、真の科学から少しでも脱線していないかと常に自問を繰り返しつつ、精進を怠らないでいるかと言えば、そうとばかりも言えません。

「真の科学」を完遂することは、本当はとても難しいことなんです。

真の科学を完遂するためには、「自然界中心の視点」を持ち続けなければいけません。
ところが科学者も人の子です。
ちょっとでも心にスキがあれば、自分中心・人間中心の視点で、自然界を解釈してしまいます。

自我という壁の内側の世界が、その人の世界の全てだからです。

「真の科学者」になるということは、本当は、神経系が我々に作る「自我」という錯覚の壁をはっきりと意識し、それを乗り越えなければできないことなんです。

敢えて厳しいことを言いますが、「今の我々の自我」を錯覚と知らない科学者は、現代ではもはや科学者とも呼べません!

日々、修行をして、何とか自我を滅却しようとしているお坊さんはいますが、日々修行をして自我の壁を乗り越えようとしている科学者の話は、あまり聞いたことがありませんよね。

真の科学を遂行するには、実験器具の取り扱いがうまくなったり、難しい理論を理解したり、直観力や想像力が優れていたりするだけでは駄目で、実は科学者であっても精神修養?が大事なんです。


まず最初に、頭の隅に留めておいていただきたい言葉があります。

あらゆる哲学における思想や、あらゆる宗教における教義、そして、あらゆる学問における理論、そしてまた政治家たちの信条や理念‥‥あるいはもっと身近なところで、僕たちのモットーなど、言葉で表されるものは、その人の脳に浮かび上がる「違和感」や「疑問」や「不安」や「怒り」などを埋め合わせるために必要とされた「つじつま合わせ」に過ぎない、という言葉です。

「違和感」というのは、「それって、なんかイヤ~な感じがするなあ」といった、個人的な感情レベルのものだと考えてもらってもいいと思います。
理屈ではなく生理的な嫌悪感みたいなものです。
もちろん、ここで言う「疑問」や「不安」や「怒り」にしても、生理的・感情的な次元のもののことです。
それらは理屈ではないので、人によって様々です。

哲学などと聞くと「難解だ」などと敬遠する人もいますが、敬遠するような人たちの脳内にも、日々「違和感」や「疑問」や「不安」や「怒り」などは生じています。
そして、その人たちはその人たちなりに、それを埋め合わせるために「つじつま合わせ」をしながら生きているわけですから、哲学者の行為と全く同じことをやっていたのです。

ただ、それぞれの脳と、その脳が置かれた環境(注意:遺伝も環境に含む)が違うので、「つじつま合わせ」の過程や表現が違ってくるだけなんです。
ひどく自己中心的で単刀直入であったり、自虐的であったり、この徳永分身のように寄り道ばかりしてなかなか辿り着かなかったり‥‥と。


そして、もう一つ注意していただきたいのは、この「つじつま合わせ」には、自分なりの漠然とした答えが最初に既に出ているということです。
それは、行動という形で既に現れています。

実は、僕たちの思想や信条や理論というのは、自分が取ってしまうその行動を正当化するための「つじつま合わせ」に過ぎないんです。

フェミニストの論客の一人である山下悦子分身さんが言っているように、まさに、「人は思想や主義で行動するのではなく、自分の行為を正当化するために思想や主義で意味づけをする欺瞞(ぎまん)的な存在でしかない」のです。


分身主義だって同じです。

「分身主義」が生まれたのは2003年5月13日のことですが、それは僕が46歳の時です。
だけど、46歳の時に突然パッと思いついたものではなく、僕という人間の脳内に子供の時から生じていた「違和感」や「疑問」や「不安」や「怒り」などを、埋め合わせるために必要とされた「つじつま合わせ」に過ぎないのです。

僕の脳の特徴を一言で言えば、エイリアンの脳とでも申しますか、生まれてみた場所がどうにも場違いで、うまく溶け込めないでいる異国者の脳のようなものでした。

例えば、言葉の通じない外国を一人で何日も旅していたりすると、頭の中は、吐き出されないままになっている母国語が渦巻いているような状態になっていて、自分を含む風景を、まるで母国語の字幕スーパーの解説つきで見ているようなことがありますよね。

そのような習慣を持ってしまうと、他の人が気づかない角度から世界を眺めているせいか、この社会で尊敬されているような人たちのずるさが見えたり、この社会で勝者と言われている人たちの悪行が見えたり、この社会の慣習や常識とされているものの悪い部分が見えたりします。
それゆえに、よけいに理想主義的であったりしてしまいます。

僕の脳がこの社会の中で感じる「違和感」や「疑問」や「不安」や「怒り」とは、多くの場合、今言ったようなこの社会で勝者と言われる人々に向けられた非難の目でした。
あるいは、そのようなずるい生き方をする人たちを勝者ともてはやす、この社会の常識や慣習に対する非難の目です。

だから、意識的にも無意識的にも、僕が、社会が勝者と呼ぶ人たちの行動とは正反対の行動を取り、彼らとは正反対の道を歩む行動を取ってしまう理由は、身をもってこの社会に抗議したかったからなんだと思います。

しかしどんなに抗議をしているつもりの自分の行為でも、それがきちんと理論づけされて誰かに理解してもらえないことには、他人には自分の将来を考えない短絡的な人間にしか映りません。

人類の愚かさをわかってもらうために自分からこの社会で言われる敗者になることを選んだ人間であるのに、勝者になりたかった結果、落ちこぼれて敗者になったと誤解されているようでは、身をもって敗者になった意味もありません。

だから自分の行為にちゃんと意味づけして、それを人々にわかってもらわなければ、僕は苦しくて仕方ないので、46年間をひたすらそのことに費やしてきたのです。


言い訳じみたことをクドクドと書いてきましたが、要するに「分身主義」とは、僕の脳内に浮かび上がる「違和感」や「疑問」や「不安」や「怒り」などによって取ってしまう自分の行動に対して、必要とされた「言い訳」に過ぎないということです。

どうして今、そんな個人的な話に耳を貸さなきゃいけないのか? ですって?

ちょっと待ってください。
僕の脳は僕の持ち物ではありませんよ。
もちろんあなたの脳も、あなたの持ち物ではありません。
僕たちのこの脳は環境が作っているものなので、「個人的」なものなんかじゃ決してありません。

だから、正確に言えば「分身主義」は僕が辿り着いた場所ではなく、僕の脳を取り巻く環境が僕を導いてくれた場所です。
僕の脳を取り巻く環境には、その環境を作っている「あなた」も含まれます。

つまり、あなたも知らず知らずのうちに関与していたのです。


分身主義は、真の科学の視点だといつも言っています。

真の科学の視点とは、自分中心・人間中心ではなくて自然界を中心にして、この自然界の諸々の事象を解釈するというものです。
自分の感情や価値観や傲慢な部分などを、解釈に差し挟んではいけないということです。

これがなかなか僕たち人間にはできないのです。
その理由は、僕たちが自我という錯覚にがんじがらめに縛られているからでしたね。

大事なことなので、もう一度言っておきます。

自然界の事象を解釈する時に、自分の感情や価値観や傲慢さなどを差し挟んではいけない!

だけど何かを解釈しようとしたら、そこには必ず言葉というものが介入するので、その時点で、もう自然界中心ではなく自分中心・人間中心です。
何故なら、言葉によって解釈されたモノは、もう自然界のモノとは似ても似つかぬ、その人の脳内の記憶によって歪められたモノです。

それは科学も同じでしたね。
科学でも言葉や記号を用いますが、それはモノそのものではなく、文字やしるしに置き換えて(=象徴化して)表されたものです。

でも、科学が単なる幻想とは違うところは、それを自然界に戻した時にちゃんと機能するかどうかを試しながら進む学問という点です。

分身主義も科学の視点なので、いくらそれが、僕の脳内に浮かび上がった「違和感」や「疑問」や「不安」や「怒り」などを埋め合わせるために必要とされた「つじつま合わせ」に過ぎなかったと言っても、科学にならって、自然界に戻してちゃんと機能するかどうか確かめてみる必要があります。

分身主義という幻想を戻してみる場所はどこでしょうか?

欲望の住処である自分自身の心なんかではありません。

自分自身が快く感じるかどうかに基準を置くような思想は、結果としては、自然界でちゃんと機能できません。
でも、思想とは、自分が心地好くなるために必要とされた「つじつま合わせ」のことですから、自我に縛られている人たちが考える思想は、誰もが自分自身の心に戻して確認してしまいます。


自己啓発の元祖のようなマーフィー博士分身さんの有名な黄金率、「あなたの人生はあなたの心に思い描いた通りになる」という言葉を聞いたことありますか?

成功した自分を心に描き続ければ、それが潜在意識に働き、やがて成功を手にするし、その逆に否定的なイメージばかりを描いていると、その通りになるというものです。

誰もがそれを、自分に戻してちゃんと機能するかどうか確認します。
しかし、もしなかなか成功しなくても、その時は「まだイメージの描き方に否定的なものが混ざっていたからだ」と言い訳をして、「前向きにやり直せばいい」と考えると思います。

だけどマーフィー博士分身さんの言う成功とは、たいてい、仕事に成功して金持ちになるとか、営業成績を伸ばすとか、片思いだった人と結ばれるといった程度のことです。

もし、マーフィー博士分身さんの理論が本当なら、それを正しく実践した世界中の全ての人が成功を収めることになります。
そんなことって、あり得るでしょうか?

ある階層の人たちが大金持ちでいられるのは、多くの貧しい階層の人たちがいるからです。
ある店が業績を伸ばし繁盛したなら、その犠牲となって倒産したお店が何件かあるはずです。
ある一人の人と結ばれるというのは、他の全ての人の犠牲の上に成り立っているはずです。

だから、いくら「成功した自分を心に描き続け」ても、失敗で終わる人たちがいてくれなければ、誰一人として成功に漕ぎ着けないわけです。
つまり、彼(マーフィー博士分身さん)の理論はどこかに嘘があるわけです。

彼の理論は、欲望の住処である自分自身の心に戻した時だけしかちゃんと機能しない(と言うか希望を与えてくれるに過ぎなかった)もので、むしろ、世界に不公平感を撒き散らします。
いかにも、個人主義のアメリカという環境が生んだ理論です。


分身主義という幻想を戻してみる場所は、自分の家庭や自分の国であってもいけません。

もし、ある思想によって自分の家庭が平和になったり裕福になったりしても、あるいは自分の国が儲かっても、そんなもの、この自然界でちゃんと機能している思想とは言えません。

むしろ、一部の家庭や一部の国が平和や裕福になるような思想は、自然界ではうまく機能していないと見るべきです。
だから、喧嘩や戦争が起こるのです。

一部の家庭や一部の国が平和や裕福になった背景には、たくさんの恵まれない状況に置かれた家庭や国があり、常にそれらの嫉妬や恨みにさらされていることを知らなければいけません。

では、分身主義という幻想を戻してみる場所が自分自身の心でも、家庭でも、国でもないとしたら、どこに戻したらいいのでしょうか?

世界に戻してみるんです。


この世界に戻した時、ちゃんと機能するかどうか、それだけが確かめてみる価値がある場所です。

世界に戻すとは具体的にどういうことかというと、「世界平和に通じるか?」と確認することです。

世界平和とは、戦争を回避している状態ではなく、武器が不要になり、世界中のみんなが仲良く不満や不公平感もなく幸せに生き、世界中の人の祝福の中で死んでいける状態のことです。


ちなみに、分身主義以外の、思想や、宗教の教義や、科学理論や、政治の信条や理念を「世界中のみんなが仲良く不満や不公平感もなく幸せに生きれる‥‥」に通じているかどうか確認してみてください。

先ほどのマーフィー博士の黄金率が、「世界中のみんなが仲良く不満や不公平感もなく幸せに生きれる‥‥」に通じていないのと同様、それらも世界平和には通じていないことがわかります。

それらは自分だけに快いものであったり、自分たちだけに快いものであったり、自分の国だけの利益であったりすることがわかると思います。
「個人主義」が生み出すものは、いかに、自然界ではちゃんと機能しないものであったかがおわかりいただけると思います。

実は、科学であっても、自然界に戻した時にちゃんと機能するかどうか確認すると共に、最終的には、世界平和(つまり世界中のみんなが仲良く不満や不公平感もなく幸せに生きれる‥‥)に通じているかどうかを確認する必要があったのです。

1945年に、アメリカが広島と長崎において証明したのは、アインシュタイン分身さんの「E=mc²」の方程式は自然界に戻した時にちゃんと機能する(質量を持つ物体には膨大なエネルギーが内在している)ということだけであって、その方程式が元になって作られたものが世界平和に通じることを示したわけではありませんでした。

それは確かに戦争を終わらせたかもしれません。

だけど先ほども言いましたが、平和とは、戦争を回避している状態ではなく、世界中の人々が不満や不公平感もなく、仲良く生きて祝福の中で死んでいく社会です。
広島や長崎の人たちが、世界中のみんなの祝福の中で死んでいきましたか?
そこに不満や不公平感や恨みや怒りは残りませんでしたか?

他にも、科学が個人的な(あるいは一企業や一国の)利益のために利用されている例は、いくらでもあります。


もし自然界に戻した時に世界平和に通じていなければ、その科学物質はちゃんと機能しているとは言えません。
殺人のための兵器などというものは全て、自然界ではちゃんと機能しない「がらくた」なんです。
それは科学の生まれた由来を考えればわかってきます。

この宇宙に、言葉を用いて象徴化をする脳が生まれたのは、宇宙140億年の歴史から見れば、ごく最近のことです。
ここ数万年に来て初めて、象徴化をする人間の脳を宇宙は生み出し、それによって「自我」という錯覚が生まれました。

自我という錯覚(=幻想)が生まれた時に、同時にもう一つの幻想が生まれました。
それは、「幸福を希求する」という幻想です。
自我には、「幸福を希求する」という幻想がセットになっていると考えてください。

自我という幻想を持つ人間なら、誰にでも付いてくる幻想です。

言葉を持たない(=象徴化をしない)動物には、「自我」という幻想はないので、「幸福を希求する」という幻想も、ありません。
それらはまさに、言葉(象徴化)が作り出す幻想だからです。

そして、科学とはまさに、この「幸福を希求する」という幻想が必要としたものだったんです。
科学者とは、子供の頃から自分の中に生じる「違和感」や「疑問」や「不安」や「怒り」などを埋め合わせるための「つじつま合わせ」を見つけないことには、幸福に生きれないから、それらを解決させようとする人たちなんです。

僕は、科学の視点は自然界中心の視点であって、自分の感情や価値観や傲慢さなどを、解釈に差し挟んではいけないと言いました。

しかし、その「科学」を求めたのは、人間的な感情だったのです。
だから「幸福」と切り離してしまったら、もはや科学の存在理由もありません。

僕たち人類には、自分たちの幸福とは無縁の科学を存在させる理由はないわけです。幸福と切り離してしまった科学は、人の乗らない電車や、人の着ない洋服を作るようなものです。

そして‥‥、ここが大事な点ですが、本当の幸福とは個人的な平和や利益ではなく、世界中の人々が不満や不公平感もなく、仲良く共感し合って生きることです。
(幸福が個人的な平和や利益であると考えられた時代は、もう終わらなければなりません)

ここに、真の科学を完遂することの難しさが潜んでいます。

だからこそ、科学者は自分の自我という錯覚の壁をはっきりと意識し、それを乗り越えなければいけないわけです。

★自分が導き出した理論は、自我の壁を乗り越えているだろうか?
(つまり、自分中心・人間中心ではなく、自然界中心の視点を持っているだろうか?)

★そしてまた、自然界に戻した時にちゃんと機能する(=世界平和に通じている)だろうか?

この二つを常に自問しながら、精進を続ける必要があるわけです。


僕たちの真の幸福とは、決してマーフィー博士分身さんが説くような個人的な幸福ではなく、世界中の人の心の中から不満や不公平感や、そして恨みや怒りや妬み‥‥がなくなることです。

何故なら僕たちの自我は錯覚であって、あなたや僕の真の姿は、この「宇宙」だったからです。


さて、前置きが長くなりましたが、これらのことを踏まえて、「進化論」についてです。
と言っても、前置きが長くなりすぎて反感を買ってしまうかもしれないので、ここから先は次回の予告です。


進化論で有名なのはチャールズ・ダーウィン分身さんの「進化論」で、これは、俗に「ダーウィニズム」などとも呼ばれています。

もちろんこれが、ダーウィン分身さんの脳内に生じた「違和感」や「疑問」などに対する「つじつま合わせ」であることは言うまでもありません。

しかしそれは、残念ながら、自分の自我という錯覚の壁をはっきり意識してそれを乗り越えているかというと、そうではないのです。
つまり「真の科学」とは言えないのです。

それを次回お話します。

そして今まで誰も考えたことのない、真の科学による生物進化論‥‥をお話します。



◆◇◆編集後記

昨夜(7月10日)のNHKスペシャル「危機と闘う・テクノクライシス」の第2回目「軍事転用の戦慄(せんりつ)ロボット」、見た方いらっしゃいますか?

世界で軍事ロボットの開発が加速しているそうです。
自分たち人間は安全な場所にいて、無人のロボット飛行機やロボット戦車などが敵地を偵察し、場合によっては標的にミサイル攻撃を仕掛けます。

アメリカでは、アフガンやイラクでの経験を元にロボット兵器を大幅に導入した「未来戦闘システム」を目指して走り出しました。

番組の中でブッシュ大統領が演説していました。
「今や入手できる限り多く(のロボット兵器を)必要としている!」

「未来社会の夢」だったロボットが、人間の命を標的にした兵器となる時代が到来したのです。

日本ではロボットスーツというものが開発されつつあります。
それを着用することで、思い通りに人間の力を増幅させるスーツです。
人間が運動しようとする際に生じる生体電位信号を利用したものです。

世界の先端を行くこの日本のロボット技術に対して、アメリカの軍関係者から技術提供の要請も始まりました。
アメリカと技術提携すれば、もっといいものが作れることはわかっています。

しかし、ロボットスーツ開発者は、その要請を断ったそうです。

ロボットは平和のために利用されるべきだという信念から、筋肉の衰えた老人や、身体障害者の方や、災害時のレスキューに利用することを考えているからです。

僕は要請を断ったことを聞いて、「日本も捨てたもんじゃない」とホッとしました。


同じロボットスーツでも、その目的が個人的なあるいは一国の幸福に利用されるのであれば、「平和的」とは逆行するものであることに気づかなければいけません。

一国の幸福や利益、あるいは個人的幸福や利益のために科学が作り出したモノは、自然界で平和として機能しないモノであることを書いてきました。
自然界でちゃんと機能しないモノは、ただの「がらくた」です。

ブッシュ大統領は、驚くことに大量の「がらくた」が必要だと言っているのです。

しかし、僕たちが本当に危機感を感じなければならないのは、彼の驚くべき発言ではなく、彼という媒体に、そのような言葉をしゃべらせている「個人主義的な環境」に対してです。

その個人主義的な環境には、僕もあなたも含まれているという科学的事実を知って欲しいのです。


もしあなたの中にも分身主義という幻想が入り込んだなら、媒体であるあなたのその身体は、きっと、「世界平和に通じる」行為をしているはずです。
あなたも自分自身でそれを試してみたらいかがでしょう?

もしあなたが科学者であり、そしてそのあなたの中に分身主義という幻想が入り込んでいるなら、あなたの行為(=科学によってこの自然界の事象を解釈するという行為)は、自ずと「世界平和に通じた」解釈になります。

しかし多くの科学者は個人主義的な感覚に縛られています。

だから、科学によってこの自然界の事象を解釈する場合も、自分中心・人間中心の「つじつま合わせ」になってしまうのです。

次回はそのことを、「進化論」という例を取り上げてお話します。



NO.94 真の科学による生物進化論(2) 2006.07.18

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【真の科学者なら、「生物進化論」は「生物変化論」と言い換えるべきである】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
地球の分身仲間さーん、こんにちは、徳永真亜基分身です。


進化論で有名なのはチャールズ・ダーウィン分身さんの「進化論」で、これは、俗にダーウィニズムなどとも呼ばれています。

もちろんこれが、ダーウィン分身さんの脳内に生じた「違和感」や「疑問」や「不安」や「怒り」などに対する「つじつま合わせ」であることは言うまでもありません。

しかしそれは、残念ながら、自分の自我という錯覚の壁をはっきり意識してそれを乗り越えているかというと、そうでもないのです。
つまり真の科学とは言い切れません。

まず、ダーウィニズムとは何かを一言で言うと‥‥。

生物の形質の違いが生存・繁殖上の有利不利を生み、環境に適応した生物が子孫を残し他は滅びることで進化が起こる。

‥‥と考えるものです。

ただし、ダーウィン分身さんの時代には、まだ遺伝に関する詳細な解明がなされていなかったので、その「形質の違い」はどこから来るのかを説明できませんでした。

現在、進化を説明する理論として最も支持されているのは「進化の総合説」と呼ばれる(あるいはネオ・ダーウィニズム現代進化論などとも呼ばれる)もので、これは、ダーウィン分身さんの自然淘汰による進化と、メンデル分身さんの遺伝子の理論を統合したものです。

遺伝子は、突然変異や組み換え(有性生殖の場合は対応する性の細胞の融合)によって形質の変化を生みますが、その変化が自然淘汰されることによって生物進化は起こっている‥‥と考えるものが「進化の総合説」です。


さて、分身主義は科学(=自然界に正誤のお伺いを立てながら進む学問)の視点ですから、もちろんこの「総合説」を受け入れているのですが、これらの進化論の中には科学の視点ではない部分がたくさん含まれています。

科学者と呼ばれる方も人間ですから、どうしても自然界中心の視点を徹底できず、どこかに自分中心(または人間中心)の視点が混ざってしまいます。

それらの矛盾を解消しないうちに科学者は専門分野を突き進むので、以前ご紹介させていただいた、リチャード・ドーキンス分身さんの

個体は遺伝子の乗り物で、主人公はあくまでも遺伝子であり、遺伝子の目的は個体を犠牲にしてまでも自らが生き残ることである。


といったような、偏見に満ちた考え方が押し出されてくるわけです。

これら科学者たちの中に混入してしまっている自分中心の視点(=非科学)を、順を追って浮き彫りにしていきたいと思います。

初めに、ダーウィン分身さんの進化論についてですが‥‥、原文で彼の論文を読めるわけではないので、これからお話しするのは、一般的に紹介されているダーウィニズムについてです。

生物の形質の違いが生存・繁殖上の有利不利を生み、環境に適応した生物が子孫を残し他は滅びることで進化が起こる。

この中にたくさんの非科学的な、「自分中心・人間中心」の解釈が含まれていることに、あなたは気づきますか?
何度も読み直してみてください。この徳永分身が媒体となって書かされているこのメルマガを、今まで続けて読んでくださっている方なら、きっと気づいてくれると思います。

まず「生物の形質の違いが生存・繁殖上の有利不利を生み‥‥」という部分です。

ここには、「生存・繁殖」をひいき目に見る人間の心理が働いています。
要するに、「自分中心・人間中心」であり、そこから導かれる「有利」「不利」も、人間が考える「有利」「不利」の評価でしかありません!

自然界の事象を科学的に解釈しようとする場合に、自分や自分たち人間の価値観を投影しては、必ず間違いが起こることを忘れないでください。
自然界には、「生」の方が「死」よりも価値があるなどという判断基準はどこにもありません。

それは人間だけにある偏見です。

その偏見を持ち出してきて、それに対して人間が勝手に「有利・不利」という評価をするのもおかしなものなので、ここでは「生物の形質の違いが、環境への適応の仕方に差異を生む」程度の表現で抑えておかなければいけません。

次に、「環境に適応した生物が子孫を残し、他は滅びる」という部分の「適応」は、何を持って「適応」と結論づけるのか、ということです。

人間の視点から見るから、死や絶滅を不適応の結果と見てしまうだけであって、自然界で起こる事象は、科学の視点で見れば全てが「適応」した結果なのです。
繁栄している種も、滅びた種も‥‥。

あなたの感覚の中にも、生や子孫繁栄を無批判に良いことのように感じて、その反対の死や滅亡を悪いことのように感じてしまう偏見があるはずです。
僕たちは、赤ちゃんが生まれたら「良かった。良かった」と喜び合い、誰かが死んだら嘆いたり憂えたりしていますよね。

こういったものは、あなたの中に、自分の生をひいきする自分中心・人間中心の感覚があるからですが、これらの感覚は世界平和には通じていないので、自然界ではちゃんと機能しないことがわかります。

これらは自己中心的な偏見であって、動物たちにはこのような偏見はありません。
彼らは言葉を持たず、したがって自我も持たないからです。(あるのは本能的な自我?だけです)

言葉を持った人間の脳だけが象徴化をして、自我という錯覚を持ち、自然界の事象を自己中心的に解釈してしまうのですが、それは科学では慎まなければいけないことです。

もう一つ、「‥‥を引き起こすことで進化が起こる」の「進化」という言葉についてです。

ダーウィン分身さんは始め「進化 evolution」ではなく、「変化を伴う系統 Descent with modification」という言葉を使ったそうです。つまり彼としては、進化という言葉の中に社会的価値判断である「進歩」という意味を含んで用いたわけではないと言われています。

彼の中には、進化は進歩とは違うという認識があり、彼にとっての進化とは、特定の方向性がない偶然の変異による機械論的なものだったようです。これこそ真の科学の視点です。だったらなぜ「進化論」という言葉に直してしまったのでしょう。

また、現在では進化という言葉の中には、一般的に「進歩」あるいは「グレードアップ」というニュアンスが含まれています。
だとしたら、真の科学者はこのような誤解を招く恐れのある言葉の使用は、慎まなければいけません。
現に、あなたは「進化」と聞くと、どのようなイメージを抱きますか?

例えば、人間は、胎児の時に「進化」の過程をなぞると言われています。
僕たちが魚であった時代や、両生類や猿であった時代の身体の作りが遺伝子に記憶されていて、エラとか指の間の水かきとか尻尾なんかが胎児の時に現われては消えていきます。

これを「個体発生(人の命が生まれてくる過程)は系統発生(人類が発生してくる進化の変化過程)をくり返す」と表現します。
あるいは、再演性変態とも言います。

その事実からも、僕たち人間は次のように考えます。

魚よりも両生類、両生類よりも爬虫類、爬虫類よりも哺乳類、そしてその哺乳類の中でも人間こそ最も進化した生き物である。

この「進化」という言葉の中に、「より進歩したもの」という意味合いが含まれていることは否定できません。
もちろん、科学者の方々は、科学的概念である「進化」は、社会的概念である「進歩」とは全く別物である、と主張すると思います。

「生物進化は環境に応じたランダムな変化であって、価値が高まっていくとか、目標に向かうというような意味は一切含まない」と。

そうだとしたら、なおさらそのような誤解を生みやすい言葉は使用するべきではないんです。

一々、そのような弁解をして回らなくても、「生物変化」で十分言い尽くせていますし、むしろその方が適切に表現しています。

これらの点から、ダーウィニズムの「生物の形質の違いが生存・繁殖上の有利不利を生み環境に適応した生物が子孫を残し他は滅びることで進化が起こる」を科学的な視点で言い直すと、次のようになります。

生物の形質の違いが生存・繁殖上の有利不利を生み( ⇒ 環境への適応の仕方に差異を生み)、環境に適応した生物が子孫を残し他は滅びることで( ⇒ その適応の仕方の差異によって)進化( ⇒ 生物変化)が起こる。

(* 太字の部分をカッコ内の言葉に言い換えました)

この言葉から汲み取っていただきたいのは、「適応の仕方の差異」のどれもが、均等に生物変化に関わっているということです。
存続という適応を果たした種だけが生物変化に関わっているのではなく、滅亡という適応を果たした種も、同じ重要さで「生物変化」に関わっているんです。
これはとても重要なことを言っているので、さらっと聞き流さないでください。
次回、詳しく説明します。


僕は、直接、ダーウィン分身さんの進化論を読めないのですが、その進化論を解説してくださっている方々が、ダーウィン分身さんが全く使わなかった言葉を勝手に持ち出してきて使ったとは考えがたいので、やはりダーウィン分身さん自身も、自分(=人間)の感情や価値観によって「有利・不利」や「適応」などの評価をしてしまったと考えるのが妥当であると思います。

だとしたら、科学者である彼の中にわずかなスキがあったということです。
しかし、そのわずかなスキをあなどってはいけません。

前回、「科学の理論を自然界に戻してみた時、世界平和に通じていなければ正しい理論とは言えない」と述べました。
何故かと言えば、世界平和に通じていない理論は、個人的な利益や信念に捻じ曲げられたままの理論でしかないからです。

要するに、自然界に戻す確認作業を欠いているものは、科学者の脳内に生じた「違和感」や「疑問」や「不安」や「怒り」などに対する「つじつま合わせ」で終わってしまっているということです。

その言葉を証明するかのような出来事が、ダーウィン分身さんの進化論が発表された直後、たくさん起こり始めます。
先ほど危惧した通り、ダーウィン分身さんの心の中のわずかなスキが、増幅されてしまったのです。


19世紀後半、イギリスの社会学者、ハーバート・スペンサー分身さんは、ダーウィン分身さんの自然淘汰説を社会に適用して、最適者生存によって社会は理想的な状態へと発達していくという社会進化論を唱えました。
やがて社会進化論は、適者生存・優勝劣敗という発想から強者の論理となり、西欧諸国の侵略や植民地化を正当化したと言われています。

人間の社会もまた自然界のように、自分たち優れた白色人種が、劣った黒色人種や黄色人種を淘汰していくようにできている、と考えて、地球表面の9割近くを、西欧人が勝手に自国の領土や植民地にしていた、恐るべき幼稚な偏見にとらわれた時代があったんです。

でも、支配している人たちは自分の幼稚性に気づかなかったどころか、黒色人種や黄色人種は幼児的であるとさえ感じていたから救われません。

彼らは、動物を見るような感覚で、劣った人種を見ていたのでしょう。
捕まえてきて檻の中に入れて「人間動物園」のようなものを作って見物したりしていました。


現代に生きるあなたなら、当時の西欧人の偏見を、あまりにも非科学的で幼稚であると笑えると思います。
でもそれは、彼らが悪いわけではなく、産業革命などの目覚しい環境の変化が、彼ら媒体に取らせていた行動なんです。
それに、あなたは笑ってばかりもいられませんよ。

僕たちが、赤ちゃんが生まれたら「良かった。良かった」と喜び合い、誰かが死んだら嘆いたり憂えたりする感覚は、当時の西欧諸国の人たちの感覚とまったく同じ非科学的で幼稚な偏見だからです。

そんなことを言われるとあなたは怒るでしょうか!?
それとも「あほらしい」って言って相手にもしませんか?
ほらほら、当時の西欧諸国の人も、そうだったんですよ。
この社会を、その外側から眺める視点を持てない限り、気づかないんです。
この社会を外側から眺める視点、それはいつも言うように、科学の視点(=自然界中心の視点)を持つ努力をすることで養われます。

せめて、これを読んでくださっている方だけでも、その大人の大人の視点を持てるように、日々、精進してください。
その方法は、‥‥そうブログを作ることでしたね。
自分で書くことによって(行動することによって)、思考もより深められていくのです。

植民地が解放され、彼らの行動を非科学的な偏見に基づく幼稚な行為だとあなたのように気づく人が出てくるまでには、何百年も待たなければなりませんでしたが、でも世界を平和にするために、「生」をひいき目に見て「死」を忌避することが幼稚で非科学的な偏見であることに気づく人が出てくるのを、何百年も待ってはいられないのですよ。

話が飛んでしまったので戻しますけど、今の話は、聞き流さないでしっかりと受け止めてくださいね。


ダーウィニズムは前述のように社会進化論に応用され、また、子供は大人に比べて進化的に前の段階であるとか、いわゆる原始的種族は、進化の段階が低い状態にあるといった説にも発展し、人為選択(人為淘汰)によって民族の退化を防ぐためには、劣った遺伝子を持つものを減らし、優れた遺伝子を持つものを増やさなければいけないなどといった優生学を提唱する人も出てきました。

これらが人種差別・障害者差別・性差別の正当化に利用されるのは自然の流れです。
元々が自分中心・人間中心の視点という偏見に基づいた理論ですから、ちょっとしたきっかけさえあればどんどん加速されます。

20世紀になり、ナチス・ドイツが台頭したことにより、社会進化論や優生学の非科学性が、ものすごい勢いで火を噴き上げたことは、ここに書き記すまでもないでしょう。

どうですか?

これが、人間のわずかな心のスキに入り込んでしまう危険性なんです。

僕たちが科学を行う時には‥‥、

★自分が導き出した理論は、自我の壁を乗り越えているだろうか?
(つまり、自分中心・人間中心ではなく、自然界中心の視点を持っているだろうか?)

★そしてまた、自然界に戻した時にちゃんと機能する(=世界平和に通じている)だろうか?

科学者は、この二つを常に自問しながら、精進を続ける必要があることの重要性をわかっていただけましたか?



さて、リチャード・ドーキンス分身さんの「個体は遺伝子の乗り物で、主人公はあくまでも遺伝子であり、遺伝子の目的は個体を犠牲にしてまでも自らが生き残ることである」という理論も、ダーウィン分身さんと同じ自分中心(人間中心)的な理論に過ぎないことを最後に説明しておきます。

まず、この自然界には「主人公」と「脇役」のような関係はあり得ず、ランクづけする人間の感情や価値観がそれを作り上げてしまうだけです。

また、「生き残ろう」とするような意志のようなものはこの自然界には存在せず、たまたま彼らのような反応をする物質が生き残っているだけです。
それに対して意志的な解釈をしてしまうのは、科学ではなく人間の感情や価値観でしかありません。

だから、自分中心(人間中心)的な理論なんです。
それらは科学ではなく、童話や詩などの文学や、宗教などの世界です。

ドーキンス分身さんは、意志的な意味で使ったわけではないとかばう人もいますが、ちょっとした言葉に、その人の隠れている感情が表れてしまうものなんです。
もし、その感情が言葉に表出するのを避けたいんだったら、科学者はこのような誤解される論調は慎まなければいけません。


徳永分身は、ずいぶん細かいことにこだわるなあ。
ずいぶん口うるさいことを言うなあ。

などと、思ったらとんでもないことです。

こんなに細かいことにこだわらなければ、僕たちのこの世界は、決して平和にはなりませんよ。

別に世界なんか平和にならなくっても、自分が幸せならそれでいいもん。
自分の家族が平和ならそれでいいもん。
自分が生きている間、戦争にならなければいいもん。
自分が生きている間、消費税が上がったり年金が縮小されたりしなければいいもん。
難しいこと考えてたら幸せじゃないから、できるだけ脳天気に生きたいもん。

そのように考えているあなたは、本当に自分や自分の家族が幸せになるためには、世界が平和になるしかないということに気づいていないだけです。
あるいは気づいていても、途方もないことに思えて、考えるのを避けているだけです。

‥‥と言っても、あなたを責めているわけでは、もちろんありません。

あなたのその性格は、あなたの脳を取り巻く環境が作っているだけのものですし、あなたのその考えは、あなたの脳を取り巻く環境があなたという媒体に、浮かび上がらせているだけだからです。

それは、ダーウィン分身さんにしたって、その取り巻く環境の媒体であり、媒体である彼があのような理論を発表させられたのと全く同じことなんですから。



◆◇◆編集後記

生物の形質の違いが生存・繁殖上の有利不利を生み( ⇒ 環境への適応の仕方に差異を生み)、環境に適応した生物が子孫を残し他は滅びることで( ⇒ その適応の仕方の差異によって)進化( ⇒ 生物変化)が起こる。

(* 太字の部分をカッコ内の言葉に言い換えました)

ここから汲み取っていただきたいのは、「適応の仕方の差異」のどれもが、均等に生物変化に関わっているということです。
存続という適応を果たした種だけが生物変化に関わっているのではなく、滅亡という適応を果たした種も、同じ重要さで生物変化に関わっているんです。

これはとても重要なことを言っているので、さらっと聞き流さないでください。

この意味をわかってくださったなら、今回のメルマガ「真の科学による生物進化論」は80%理解してただけたようなものです。

でも、せっかく大切な時間をこのメルマガを読む時間に裂いてくださったあなたです。
残りの20%も理解していただきたいと思います。
そこで、この二回では語り尽くせなかった部分を「真の科学による生物進化論(3)」として、次回、発信します。



NO.95 真の科学による生物進化論(3) 2006.07.25

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【このフライパンに気づかない限り‥‥僕たちは永遠に同じフライパンの中で、同じチャーハンを混ぜ返しているだけです】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
地球の分身仲間さーん、こんにちは、徳永真亜基分身です。


前回は「編集後記」に次のように書いて終わりました。

生物の形質の違いが生存・繁殖上の有利不利を生み( ⇒ 環境への適応の仕方に差異を生み)、環境に適応した生物が子孫を残し他は滅びることで( ⇒ その適応の仕方の差異によって)進化( ⇒ 生物変化)が起こる。
(* 太字の部分をカッコ内の言葉に言い換えました)

この言葉から汲み取っていただきたいのは、「適応の仕方の差異」のどれもが、均等に生物変化に関わっているということです。
環境に適応した生物が子孫を残し他は滅びる」という言い方だと滅びた方は不適応だった、という意味合いになってしまいます。滅亡という適応を果たした種も、同じ重要さで生物変化に関わっているんです。
これはとても重要なことを言っているので、さらっと聞き流さないでください。
この意味をわかってくださったなら、今回のメルマガは80%理解してただけたようなものです。


真の科学を遂行するには、この宇宙で起こる全ての現象に、人間の評価を加えてはいけません。
評価とは、どんなものであろうと、人間の感情や価値観が行うものです。

この宇宙で起こる全ての現象に、人間の評価を加えないとしたら、どの原因がどの原因よりも深く関わっているとか、プラスに作用したとか、マイナスに作用したとか、そのような評価の一切は無効になります。

それが理解できれば、宇宙140億年に起こった全てのことが  "同じ重さ”  で一つのことを決定しているという、この宇宙の大法則が理解できます。

だから、何かの目的を持ったものは、本来、科学ではないんです。
目的とは人間の感情や価値観が最初にあって、そこから打ち立てた到達地点だからです。

敵のミサイルを迎撃する兵器を作るとか、オゾン層を修復する物質を開発するとか、人工臓器を発明するとかは、全て本来の科学ではなく、人間の感情や価値観から打ち立てられた目的に、科学が利用されているだけなんです。

だけどそれらを自然界に戻して確認してみた場合に、ちゃんと機能するのであれば、それらのモノを作るために応用した科学の理論や自然界の解釈は間違いではなかった、ということになるわけです。

例えば、迎撃ミサイルが目的通りにちゃんと飛ぶかどうか、オゾン層が修復されるかどうか、臓器が人間の生体内で拒絶反応もなく機能するかどうか‥‥と確認してみてOKであれば、当たり前ですが、それらを作るために応用した科学の理論や自然界の解釈は間違ってはいなかった、ということになるわけです。

でも、それだけでは自然界でちゃんと機能したとは言えませんでしたね。
最終的には、何を持って「ちゃんと機能する」と判断するかと言ったら、「世界平和(世界中の人が不満や不公平感もなく仲良く生き、祝福の中で死んで行ける世界)に通じているかどうか」を確認するんでしたね。

何故かと言えば、科学の元々の起こりは「幸福を希求する」人間の感情だったからですね。
もし科学が、幸福と切り離されてしまったのなら、科学は存在する意味もないということをこのメルマガの「真の科学による生物進化論(1)」に書きました。

それは、人の乗らない電車を作ったり、人の着ない洋服を作ったりするようなものだということです。
それどころか、気がついたら人をひき殺すだけの電車を一生懸命作っていたりもします。


先ほど書いた、「全てのことが  “同じ重さ”  で一つのことを決定しているという、この宇宙の大法則」というものを、もっとわかりやすく、僕たちの日常に置き換えて説明しますね。

あなたが一人の子供をもうけた女性だとします。
それは、あなたがある男性と情熱的な恋に落ち、ある月のきれいな夜、二人は結ばれ、その結果、(自分たちから見れば)世界一可愛いベビーが生まれた。
‥‥とても美しき物語です。
僕はこの物語を否定する者では、全然ありません。
こう見えても、普通の人以上にロマンチストな徳永分身なんです。
神話や童話だって大好きです。


だけど、真の科学によると、もう一つ別の物語が生まれます。

この宇宙に一人の子供が生まれた原因は、あなたとある男性が愛し合ったことはその原因の一つに過ぎず、あなたと愛し合わなかった男性も、また、子供を作れない身体の女性も、あなたたちの恋を妬んでいる人も‥‥、みんなみんな同じ重さで関わっているということです。

それは人間だけに限らず、遠く離れた冥王星も牡羊座も‥‥、まだ発見されていない星々も、みんなみんな同じ重さで関わっているんです。

つまり、この宇宙140億年の間に生まれた全ての物が、均等に関わり合って一人の子供が生まれた、ということなんです。

そのことに僕たちが気づけないだけです!
それは僕たちが、まだ自己中心的で、自分の被害や利益などの形で実感できるものしか理解しようとしないし、その範囲内で評価やランク付けしてしまうからです!

例えば次のような思考実験を考えてみてください。

水の入ったコップの中にあなたの人差し指を入れたとしたら、人差し指の体積分、間違いなく水位は上昇しますよね。
それははっきりと目で確認できます。

もし、その時、水が表面張力で盛り上がっているくらいに満たされていたら、指を入れた途端に水はあふれ、場合によってはズボンをビショビショに濡らしてしまうような「被害」に遭ってしまうかもしれません。
あなたは「被害」という形で、その変化を実感できます。

では、お風呂の浴槽に張った湯で同じことをやってみたらどうでしょう。
あなたの可愛らしい人差し指くらいでは、水位の上昇は実感できません。それでは、海に人差し指を入れたらどうなるか想像してみてください!

世界中の海面は、あなたの人差し指の体積分、確実に上昇するはずです。何故なら、世界中の海は全部つながっているからです。
だけど、うーみーはぁ広いなぁ大きいなぁ‥‥だし、常に波でうねっているので、世界中の誰一人として、あなたが人差し指を入れたことなど気づきません。

でも、人間が、その事実を実感できないからといって、その変化をゼロとしてしまうのは、明らかに間違っていますよね!
ものすごく精度の高い計測機器があったなら、その変化を計測できるはずです。

自分が実感できないからといって、また、自分に「被害」あるいは「利益」がないからといって、140億年の全てに目をつむり何も起こらなかったとしてしまうのは、明らかに自己中心・人間中心の偏狭な視点ですよね。


ここまでをもう一度、整理しておきますね。

人間が言葉を用いるようになったことで、その脳内に自我という錯覚が生まれたことは、自然界で起こった自然の成り行き。
そして、その自我が生まれたことで、人間に「自己中心的な心」が生まれてしまったのも自然の成り行き。
ここまでは誰もが納得できることでしょう。

「自己中心的な心」とは、「自分の幸福を希求する心」と言い換えてもいい。

しかし、幸福とは、現代では世界が平和になる(世界中の人が不満や不公平感もなく仲良く生き、祝福の中で死んで行ける世界になる)ことでしかない。

この点が、なかなかみんなに理解できないようです。

それは大局を見る視点が欠けているからです。
囲碁を打つ時、素人は自分が戦っている場所の石の死活ばかりを考えて大局を見ようとしません。
しかし、勝つためにこそ本当は大局を見て、今の一手を打つ必要があるのです。

幸福も同じで、今の自分の幸せを考えるなら、自分の利得ばかりを考えずに、全世界の人の幸福を考えるべきなのです。そうしないと囲碁に勝てないのと同じように、自分も幸せになれないのです。


科学とは、人間の「幸福を希求する心」が必要としたものですから、もし世界平和に通じていない科学は、人の乗らない電車を作ったり、人の着ない洋服を作ったりするようなものでしたね。


どうでしょうか!?

そしてこの真の科学から見れば、あなたは単なる媒体で、この宇宙があなたという媒体を通して、一人の子供を産んだと考えられるわけです。
別の言い方をすれば、宇宙があなたに一人の子供を託したのです。

子供はあなた一人のコピーでも所有物でもなく、この宇宙万物の宝物です。
そしてこれは作り話ではなく、科学的な事実であって、自然界に戻して確認してもちゃんと機能します。
この考え方はしっかりと世界平和に通じています!


しかし、先ほどの「美しき物語」は、実は、その後、大変恐ろしい物語に発展します。

あなたとある男性は、家庭という自分たちを守る閉鎖的な集団を作ったことで、その家庭の平和を維持しようと努めるだろうし、そのために自分たちを脅かす様々な敵(病気や不況や事故や事件など)と闘ったり防御したりします。

それは「愛ある家庭」とか「温かい家庭」とか「家族の強い絆」などという世間的な美辞麗句に守られ、自分の中の自我(=自己中心性)にますます磨きをかけます。

子供を作った女性であるあなたは、子供を持たない女性に対して優越感を持ったり、自分の子供をひいきし、競争に勝たせるためになりふり構わずに金やコネを使ったり、見栄を張ったりします。

自己中心性にますます磨きをかけた結果、愛し合って結ばれた二人もやがて自分の我が強く押し出されてきて、全てにおいて計算高くなり、互いの損得を巡って喧嘩になり別れることになるかもしれません。

世界平和に通じていないこのような現象をなんと言ったでしょうか?
そう、自然界でちゃんと機能していない、でしたね。

このような行動を僕たち媒体にとらせてしまう環境を、「個人主義的環境」と僕は呼びます。
自分、自分、自分‥‥という感覚に支配されていて、自分の利益や自分の幸福ばかりを考えます。

これが、悲しきかな、「美しき物語」が到達する結末です。

ちなみに、真の科学の作る物語も幻想(錯覚)ですが、自然界に戻した時にちゃんと機能する(=世界平和に通じている)ので、こちらの幻想(錯覚)は正しい幻想(錯覚)だったと言うことができます。

今回のメルマガを読んでいただいて、ここまで想像していただけたなら、90%理解していただけたようなものです。


さて、それでは最後の10%は何かというと‥‥、それは理解を超えてあなたが行動に移すことを意味します。
もしあなたに、行動を起こさせることがなかったなら、このメルマガは結局はあなたには完全には理解されなかったということです。

このメルマガに関しては、完全には理解されなかったならば、何一つ理解されなかったことと同じです。
削除済みフォルダーの中にポイッと投げ込まれて、おしまいです‥‥。

平和とか幸福とかは、あなたが「なるほど」と納得したり理解したりして終わることではないからです。


例はあまりよくありませんが、誰かが宝くじというシステムを考案して、それはなかなか秀逸で面白いアイデアだと誰もが納得しても、誰もそれを購入しなければ、結局は、宝くじというシステムは誰も考案しなかったのと一緒です。
宝くじはシステムを理解したり納得したり賞賛したりするためにあるのではなく、誰かが1千万円や3億円を享受したりするためにあるのです。

同じように、あなたに享受されるために平和や幸福はあるのであって、あなたに享受されない、単に理解や納得のための平和や幸福など何の意味もないんです。


あなたが、ご自分の神経系の作ってしまう狭い「錯覚の自我」を、この宇宙にまで拡大させて、本当の自分の姿を発見することこそ「世界平和」への行動であり、それだけが、あなたが本当の幸せになる道です。

世界を平和にするには(=あなたが幸福になるには)、実はそれ以外になかったんです! 

熱心に平和のためのボランティア活動をされている方には、正直、大変に頭が下がりますし、こんなことを言うのは申し訳ないのですが、そんなことや国連で偉い方たちが話し合ったって、世界は平和にはなりません!

同じフライパンの中のチャーハンを混ぜ返しているだけで、その時々に、違う具が見え隠れしているだけの話です。
僕たちがこのフライパンに気づかない限り‥‥永遠に同じフライパンの中で、同じチャーハンを混ぜ返しているだけです。

どうか外に向ける努力のほんの少しでも、ご自分を知ることに振り向けて欲しいと思います。
世界を平和にするには、「あなた」が気づく以外にないんです。
「あなた」が自分の本当の姿に。

自然界様にやらされている(生かされている、行動させられている)という感覚、これが分身主義です。

あなたがまだ自我という錯覚に縛られている限り、あなたにはこの感覚は理解できません。
自我という錯覚に縛られた僕たちは、自分の意思でものを考え自分の意志で行動していると、当然のことのように思い込んでいます。

でもそれは、とんでもなく傲慢この上ない誤解でした。

僕たちは、自分の脳を取り巻く環境が、この脳に浮かび上がらせた考えを「自分が考えた」ものと思い込んでいただけなんです。
正確に言えば、環境が考え、環境が僕たちを媒体として行動(表現)していたんです。

もちろん、今日、僕が書いてきたこのメルマガも、正確に言えば僕が書いたのではなく、僕の脳を取り巻く環境が書いたのです。

この徳永分身を媒体として‥‥。


この科学的事実に、あなたが電撃的に気づいたなら、今まで神経系の作っていたあなたの狭い「自我」という錯覚が、宇宙にまで拡大します。
僕はこれを自我が育つ、あるいは科学的覚醒をする、と呼んでいます。

このことに気づいたそこのあなたも、あなたも、あなたも、ほら、あなたも、みんな一つにつながったでしょう!?
僕たちは本当は一つだったんです。
僕たちは本当は、この一つの宇宙だったんです。
自我の拡大(自我が育つ)‥‥とは、それがわかることだったんです。

このような自我の拡大に達するためには、具体的にどうしたらよいのかと言うと、「分身Blog」を作ることです。
書くという行動によって、僕たちの思考はより深まるのです。

分身主義は、まさに、この徳永分身が、ホームページや掲示板やメルマガで、書き続けて(書かされ続けて)いるうちに自然発生的に生まれたものなんです。
生まれさせ・られたものなんです。

この三回に渡るメルマガが、あなたの心に届き、いつか行動に駆り立てられる日が来ることを願っています。

これにて、媒体としての今回の僕の役目は終わりました。
今回も、とても有意義な平和活動(真の自分探し)をさせてくださった環境に感謝します。
(書くこと、そして行動することこそ、一番の自分探しなんですよ)



◆◇◆編集後記

もうお気づきでしょうが、最後に、訂正をしておかなければいけなかったですね。

「真の科学による生物進化論」と題して、三回に渡って書いてきましたが、そのタイトルのことです。
このタイトルを「真の科学による生物変化論」と訂正します。
進化という言葉が非科学的だったので、生物変化と言うべきだったんですね。

進化論ではなく、生物変化論ですよ。
科学者のみなさ~ん!
幸福を希求する心が必要とした科学を、志しているみなさ~ん!



NO.96 愛すべきモンスター(3)(和田義彦分身さん‥芸術とは何か) 2006.10.03

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【芸術家などという職業は存在しない。芸術家的な人間がいるだけで、作品に対してお金をもらう人たちは装飾家と呼ばれるべきである】

【芸術とは全くの私的な行為であるが、自然界との絆を取り戻そうとする行為であるという意味において、最も公的な行為でもある】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
地球の分身仲間さーん、こんにちは、徳永真亜基分身です。


今回の愛すべきモンスターは、NO.92でお約束した、和田義彦分身さんです。

和田義彦分身さんの起こした揉め事を通して、「芸術とは何か?」ということと、「分身主義的著作権」について少しだけ語らせていただきたいと思います。


まずはこの事件の概要から。

2006年6月5日、洋画家の和田義彦分身さん(66歳)が同年春季に受賞した、芸術選奨・文部科学大臣賞が取り消されました。
それと同時に、2002年に「深い内面性と象徴性を感じられる代表作」と評価された『想(そう)』という作品に対して与えられた「東郷青児美術館大賞」についても、受賞が取り消されました。

その理由は、彼の作品がイタリア人画家アルベルト・スギ分身さん(77歳)の作品とよく似ていて盗作ではないかとの匿名の投書が、美術館や文化庁などに寄せられていて、このことから文化庁は調査を行い、和田分身さんとスギ分身さんの作品23点が酷似していて「盗作」であると判断したことを受けたものです。

和田分身さんの所属する国画会絵画部は、「盗作と考えざるを得ない」という会員の批判を踏まえ、退会勧告を決定しました。

和田義彦


和田分身さんは、受賞以前に、盗作ではないかという匿名の投書に対して意見を求められたところ、「盗作ではなく、共同製作でありオマージュ(芸術家などに敬意を表して制作した作品)である」と答えていたそうです。
もちろん、投書の件を選考委員の人たち全員が知らなかったはずはないので、彼のその時の言い分を受け入れたのでしょう。

結局は(騒ぎが大きくなったためか)、賞が取り消されることになるのですが、彼(和田分身さん)は、その直前、読売新聞のインタビューに応じていました。
しかし、そのインタビューでは、自分が認めてもいない「盗作」を、あたかも認めて謝罪したように記されてしまったようです。
そのことに対して憤りの文書を送りつけています。

「本日付の読売新聞社に報じられた記事は事実と異なっています。インタビューを受けたことは事実で有り、疑惑を招くような構図の作品を描き世間を騒がせたことは申し訳なく思っていますが、私は盗作とは断じて認めておりません。
疑いをかけられた全作品、すべて私のオリジナルと信じています。『盗作を事実認める』との読売社の報道は誘導質問による捏造であることをお伝えします。(2006年6月5日和田義彦)」

その後、次のような釈明もしています。

「スギ氏とはローマ留学中に家族ぐるみで付き合いのあった友人で、一緒にデッサンしたこともあり、構図が似た可能性があるが、100パーセント自分のオリジナリティをもって創作した作品であり盗作ではない」

「ピカソとブラックのキュビズムの大展覧会を観覧して、サインが入っていない作品もあり、どちらがピカソかブラックか分からす、共作に近い類似作品か、それぞれの独自の境地を開いた例がありますが、私はこのような体験による芸術に深い興味をもちました。(中略)つまり、私とスギ氏との間で意見交換をしながら絵画を制作しようとしたのです」

「この作品だけでなく、(同じ構図で描くことは)すべてスギ氏の了解済みであり、日本で発表する事も伝えていた」


これらの話を受けたスギ分身さんは、「彼が画家であることは知らなかった。
アトリエに来て私の作品を賞賛し写真を撮っている時も、私の一ファンであると思っていた。このおびただしい盗作は、芸術家の権利を侵している。和田氏は個人的利益を得るため、重大な法違反を犯した」と声明を発表しました。

さらに、「(事件が問題化し始めた)2006年5月13日に、和田氏が通訳を連れて謝罪に来たが、その際、『自分は肺癌で余命幾許もなく、帰国したら即入院予定の身であります。だから、ただ一つお願いがあります。私を訴えないでください。私はこの問題から遠いところで短い余生をおくりたいのです』といった言葉を残していった」ということまで公表しました。

それに対して和田分身さんは、

「私がスギ氏のところへ行きお話ししたのは、今日のような問題が発生するのが私本人のみならず御庁に対し非常に迷惑をおかけすることになることを恐れ、ある方からスギ氏から何としても著作権問題にしないということを約束をしてもらえれば、そのような騒動は決して起こらないとのアドバイスを受けたからです。ですから私は不本意にも辞を低くして対応したのです。ところが、それを逆手に取られてしまっています」

と言っています。

スギ分身さんは「和田氏が画家であることも知らなかった」などと言っていますが、和田分身さんが2005年11月26日から12月25日の「つくば美術館」における個展に先立って次のようなファックスを送っています。

「僕のアトリエで和田義彦が働いていた頃のことをよく思い出している。はじめはチェゼーナ、その後はローマだった。真の友情が生まれ、文化的経験の交換が、イタリアの老画家と日本の若い画家の双方に、お互いの仕事を豊かにする機会を与えてくれた。
こうして、今や40年も続いているこの友情関係は、我々の仕事を比較し、我々の作品について意見交換する貴重な基点となっている。
和田とのこの関係は、人生が双方に与えてくれた宝だと思っている。
(ローマ 2005年11月23日 Alberto Sughi)」


二人の言い分の食い違いや、感情的なもつれ、心変わりなどは、マスコミの思い込みによる誘導的な取材や、第三者の妬みや正義感などが作り上げた環境に揺さぶられた結果だと思います。

ちなみに、芸術を志す人は心が純粋だなどと思われていますし、僕も若い頃はずっとそう思っていましたが、芸術界と言われている場所は、普通の会社や政界のように厳然とした上下関係があり、権威や権力が幅を利かし、妬みや策謀の入り乱れた世界です。

僕にデッサンを教えてくれた先生は「むしろ芸術の世界ほど純粋じゃない」と言って、死ぬまでどの団体にも所属しませんでした。


いずれにしても、著作権侵害というのは、親告罪(被害者の告訴がなければ検察官が起訴できない犯罪)にあたるので、スギ分身さんが告訴などの法的措置はとらないことを表明したことにより、この話は幕切れとなりました。

ただし、スギ分身さんは、「このことにより、和田氏は芸術家生命を永遠に絶たれるだろう」と最後に言い残しました。

だけど、僕たちの中ではこのまま終わらせてはいけない問題を、この一件はたくさん提起してくれています。
まず、「芸術とは何か?」ということを考えてみたいと思います。

この「芸術とは何か?」という疑問に明快な答えを見つけ出すことが、高校時代からずっと僕の脳内のほとんどを占めていた最重要課題でした。

僕が、詩、音楽、美術、文学、演劇‥‥と、芸術と呼ばれるいろいろなものに興味を示してきたのは、その道のプロになるということよりも、どうしようもなく自分の心が向かってしまう先に、いつも待ち構えている “芸術” とは一体何なのか? ということを知るためだったような気がします。

ほとんど、「芸術を知ること」と「自分を知ること」とは、同義であると信じて生きていました。

「芸術とは何か?」という疑問に対する答えは、『アラスカの風に乗せて』という書簡体小説を書いていく中で徐々に固まっていき、その完成と共に、芸術論として成就しました。
この芸術論に至るまでの過程がそのまま描かれている『アラスカの風に乗せて』をインターネット上に公開したのは、7年前の42歳の時です。

原始身体装飾や器具装飾、動物の本能による装飾行動と人間の芸術との違い、呪術と芸術との関係、古代ギリシャにおける演劇、西洋美術史や日本美術史の研究、そして、いろいろな人たちの芸術論を比較し、犯罪心理、精神療法、その他いろいろな面から多角的に検討していって、ついには一つの結論に行き着きました。

この僕の芸術論は、自らの日常の苦しみや悲喜こもごもを、小説化するという芸術的行為によって到達し得たものです。

ちなみに、今、他に形容する言葉がないので「小説」などという既成の言葉を使わせていただきましたが、自分自身では、自分が書いたものが小説などという立派なものとは全く思っていません。
『アラスカの風に乗せて』は、自分を迷いから救うために書かなければいられなかったから書いただけであり、一つの芸術行為に過ぎないと思っています。

その意味で、いわゆる学者と言われる人たちが、鑑賞者側の視点から学術的な「芸術論」を書くつもりでは到達しない、より人間の本質に迫った芸術論であると自負しています。
芸術に興味のある方は、『アラスカの風に乗せて』を、是非一度読んでみてください。


さて、あなたは芸術に対してどのようなイメージをお持ちですか?

芸術を「知識階級の、あるいは文化人の高尚な趣味、または教養の一部である」とでも勘違いしている人もたくさんいると思います。

本当は文化人どころか、もっともっと泥臭い、本能的な部分にこそ芸術は密接な関わりがあったんです。

動物が人間になった瞬間、つまり本能を抑圧しなければならなくなった瞬間、反作用的にどうしても行わずにはいられない「行為」が出現したのです。

それが芸術です。

まさに「行為」こそが芸術の本分であり、その行為によって生まれた「作品」は単なる副産物に過ぎません

しかし、死と隣り合わせとも言える本来の芸術の核である本能との格闘などは、野蛮なものとして、文化人たちは蓋をしてしまい、いつの頃からか、副産物に関わるものだけを「芸術」と呼ぶようになってしまったのです。

芸術を辞書で引くと、「特定の材料・様式などによって美を追求・表現しようとする人間の活動。および、その所産」などとあります。
これは、今言ったような、本質的な部分をそぎ落としてしまったものに名づけた「芸術」を定義づけしたに過ぎません。

西洋の芸術(=アート)の特徴は、歴史的に見て、それを享受する階級が存在し、そのために支払われる代価が存在したことです。
ジャングルの奥地から連れ去られて奴隷となった黒人たちが、苛酷な労働が終わった後、ご主人様に隠れて遠くの小屋に集まり、全員で大地を踏み鳴らして一晩中歌って踊り明かすようなものではなかったのです。

つまり、自分の(あるいは自分たちの)癒しや喜びのためというより、享受者に見せたり聴かせたりするために美術や音楽が発展(?)したわけです。
芸術の学校とは、そのための技術を体系的に教えるために作られたわけです。

現在では、芸術関係の学校に雇われた教師たちは、決まって次のように言うはずです。

「芸術作品の正しい鑑賞方法は、できるだけ作者に関する予備知識を持たずして作品として純粋に味わうべきで、作者本人の研究はその後に行えばいい」

これはまさに、その「行為」を必要とした当事者の口を封じて、その時に産まれた副産物を個人の手から取り上げてしまって、自分たちの共通の理解の及ぶ装飾的な部分だけを芸術と名づけてしまった知識階級の(あるいは文化人たちの)言葉です。


『芸術とは何か』という本を書いたランガー分身さん(女性)は、

「芸術は、芸術家がたまたま抱いている感情を表現する自己・表現ではない。その証拠に、赤ん坊は誰よりも自分の感情を強烈に表現するが、人々は赤ん坊の泣き叫ぶのを聞きにホールに集まるわけではない」

と言っています。

恐らく、あなたもこの意見には、首を縦に振らされることでしょう。
でも、本当に彼女の言う通りなのでしょうか?

僕が帰結した「芸術とは何か」の答えをもう少しわかりやすく表現するとすれば、「この社会に適応する上で困難な精神的障害を持ってしまった人間が、社会に迷惑をかけずに行なえる自己治療行為」です。
社会に迷惑をかけずに行なえる自己治療行為として、絵画、彫刻、音楽、文学、舞踊、演劇‥‥などに、精神的重荷を肩代わりさせる行為のことです。

「この社会に適応する上で困難な精神的障害を持ってしまった人間」とはどのような人かというと、人間は社会の中で生きるために自らの本能を抑えなければならない場合が生じるわけですが、感受性には個人差があり、そのことを強要されることによって歪みや強い偏りが生じて破綻してしまうタイプの人です。

これを芸術家的な人間と僕は呼びます。

芸術とは、そのようなタイプの人たちが、「人間として生きる上で抑圧されているものを、形を変えて解放する行為、あるいは、行き場を失くしたマグマの逃げ道を作る作業のこと」と言い換えることもできます。


芸術は赤ん坊の泣き叫びと同じように全くの私的なもので、そもそも芸術を見たり聞いたりするためにホールに集まること自体、異常な現象だったのです。

しかし、いつの頃からか、この私的癒しであった芸術が、ある一線を越えてしまったのです。

いつの頃からか芸術は、自らを文化の担い手と思い上がった人間たちに生け捕りにされ、生気を抜かれてしまい、警備を配した堅固な建物の中に幽閉され、動物園の獣さながら遠くから眺められるだけの物になってしまったのです。

そこにあるのは、もう吠えることを忘れてしまった飼い慣らされた獣たちだけです。
そこにあるのは芸術の標本だけなのです。

一線を越えてしまった境界線はどこなのかということを探るために、次のような表を作ってみました。

画像9

見ていただくとわかる通り、「芸術」とは本来、私的治療行為なので(=その人の本能的な部分との格闘という行為なので)、それ自体には価値はなく値段は付けられないものであったのに対して、いつの頃からか、他人に見せたり聴かせたりするために創り出される「作品」に主眼が置かれるようになってしまったわけです。


さて、現在、僕たちがアート(=芸術)と呼んでいるものは、この表のどの辺に当たるのでしょうか?
本来の私的癒し行為としての芸術はどこかに行ってしまって、右側の???
に示した部分ばかりではないでしょうか?

自分が何で泣いていたのかも忘れて、他人にうまく伝わるような泣き方を研究する人や、初めから、作品を作って収入を得るという職業を目指して芸術を志す人も出てきました。
いや、むしろ現在ではそういう人たちばかりでしょう。

つまり、現在では、この表の中の「???」を僕たちはアートと呼んでいるわけですが、アート(=芸術)とは本来、左側のものだったはずなので、僕は一生懸命、???に当たる言葉を探してみました。

本来の意味が蓋をされたままここまで来てしまった西洋の文化ですから、アートという言葉には洗練されたスマートさのようなニュアンスがあって、やはり「芸術」という訳語はそぐわないのです。

そこで、「装飾」という言葉を当てはめてみたのですが、これが見事にピッタリと決まりました。

他人に聴かせるためにホールで演奏されるものは、芸術ではなく「装飾」だったんです。
美術館や豪邸などに飾ってもらうために描くものは、芸術ではなく「装飾」だったんです。
そして、それらの行為によってお金をもらう人たちは、芸術家ではなく「装飾家(デザイナー)」だったんです。

そのように考えれば、うまく理解できます。

だから僕は、僕たちが現在「芸術」と呼んでいるものは、「装飾」と呼ぶべきである、と訴え続けていこうと思います。
何故そんなことをするのかというと、本来の「芸術」にあった大切な役目は、僕たちが人間であり続ける限り、けっして失わせてはいけないからです。


近年になって、赤ん坊の泣く理由を研究した人がいます。
お腹がすいた、おしっこをもらした、遊んで欲しい、いつものようにその一つ一つを解消していっても、その時は赤ん坊が泣き止まなかった。
そこで涙の成分を調べたら、ストレスの成分が含まれていることが発見され、赤ん坊はストレスを発散させるためにも泣くことがある、ということがわかったというのです。

母親のお腹の中と違う外界からの様々な刺激が、ストレスを作り出していたのです。
だから赤ん坊は無意識でストレスを洗い流しているというわけです。
そんな時、我々は黙ってその胸に抱いてあげることが必要です。
そうすることで、赤ん坊は安心を取り戻すのです。

さて、僕が「芸術」というものの本来の形にこだわり、そして現在的な意味での(=辞書に書かれているような意味での)芸術という言葉を使って欲しくない理由はここにあります。

芸術とは、ランガー分身さんの主張とは正反対の、「赤ん坊の泣き叫び」に近いものであり、本来は私的なものに過ぎません。

だから、本来ならば、「他人がどう思おうと、断じて僕は泣くんだ!」といった身勝手な自己表現なので、他人の理解や反応などいちいち気にしてなんかいられません。

そのような性質のものなので、まるで他人の理解を拒絶しているようなものであるとも言えます。

しかし、私的なものといっても、赤ん坊もやはりわかって欲しくて泣くのですよね。もし、どんなに泣いても、その胸に抱いてくれなければ、子どもだっていずれは泣かない子になります。

僕たちが芸術的行為を行う理由も、拒絶しているように見えて、本当はわかって欲しくて、本当は抱きしめて欲しくて、そして泣くのです。

ここの部分はとても重要です。

先ほど僕は、「人間は社会を作ることで、本能を抑圧することになり、それによって歪みが生じてしまう」と書いたのですが、実は、人間が社会を作ったのは何故かと言うと、逆説のようですが、それは人間だけが万物から切り離されてしまったからなんです。

つまり、自我(という錯覚)を持ってしまったからなんです。

切り離されたから、元通りにくっつこうとする‥‥これが社会の起こりです。だから人間だけが社会を作ろうとするわけです。

人間以外の動物でも社会生活を営むものもいる‥‥と、反論される方もいるかもしれませんが、あれは人間の目から見るから社会であって、自我のない彼らにとってみれば「社会」でも何でもなく、あれがこの宇宙の万物と地続きである彼らの、この自然界に取らされている状態に過ぎません。

人間以外の万物は(もちろん動物も)、みんなこの宇宙そのものです!

ある動物が他の動物に追いかけられて食べられたとしても、それは僕たち自我を持った人間から見たら敵対関係ですが、彼らにしてみれば、敵など存在せず、全てが地続きなんです。

僕たちが芸術というものを通して泣かなければならなくなってしまった理由は、きっと、元は地続きだった自然界との絆を取り戻したいからです。
この宇宙の全てのものの胸に抱いて欲しくて、つまり、あらゆるものと元通りにつながりたいから泣く(=芸術行為を行う)のです。

それなのに、享受者である文化人たちが副産物だけを個人の手から取り上げて、「うーん、今の泣き方は綺麗じゃないねえ。もう少しビブラートを利かせた方がいいよ」などとして、本人の芸術的行為を台無しにしてしまっています。

だから僕は、それらは「装飾」であるとして、区別するべきだと強く主張するのです。
僕たちのやらなければいけないことは、芸術家的な人間たちの泣き声を評価したり、こちら側の好みに合うように変えていくことではなく、彼らの泣き声に素直に耳を貸し、ただ理解してあげることです。


ところで、芸術の理解とは何だと思いますか?

ゴッホ分身さんは、生涯、たった一枚しか絵が売れなかったと言われています。貧しかった彼は、自分の絵を寒さをしのぐ暖炉の薪にしました。

それは、彼の芸術が誰にも理解されなかった、と言い換えてもいいわけですし、彼は、ついに親友のゴーギャン分身さんにも去られてしまいました。
このことが、あの耳きり事件に発展するのです。

この社会に適応する上で困難な精神的障害を持っている彼(ゴッホ分身さん)は、誰よりも、誰かに抱きしめて欲しい気持ちが強かったにもかかわらず、誰からも抱きしめられることなく亡くなったのです。

そんな彼の作品が、彼が亡くなって100年も経ってから何億円という高値で取引されるようになるなんて、なんて理不尽な現象だろうと思いますが、それは、彼の芸術行為に対する理解や値段ではなく、後の人々によって与えられた装飾的(脚色された)部分に値がつけられたと考えれば理解できます。

だから、もし彼(ゴッホ分身さん)の絵が、彼が生きている時に何億円もの値段で取引されていても、彼の芸術は理解されたとは言えません。
彼の心は安心を得るどころか、彼の泣き声はもっと大きく、多くの人が耳をふさぎたくなるようなものに変わるだけかもしれません。

では、芸術の本当の理解とは、何だと思いますか?
その答えは、涙なくして語ると嘘になります。
その答えは『アラスカの風に乗せて』で見つけてください。
http://www.epm-hassin.net/sakuhin.htm
(* 現在ホームページは閉鎖しました)


さて、芸術とは何か、を語らせていただいたところで、話を和田分身さんとスギ分身さんに戻します。

スギ分身さんは次のように言っていましたね。
「和田氏は個人的利益を得るため、重大な法違反を犯した」
しかし、これは芸術ではなく、装飾のことを語っていることはもうおわかりですね。
何故なら、「芸術」と「利益」とは無関係だからです。
作品に対する代価は、装飾の部分に付けられるものでしかないからです。

そして最後に語ったスギ分身さんの言葉、「このことにより、彼は芸術家生命を永遠に絶たれるだろう」ですが、この言葉が、芸術を行為せずにはいられない芸術家的人間であった彼の口から出たものであることが、とても残念です。

今まで権威のある賞を受賞して、多くの人に抱きしめられていると思っていた和田分身さんが、自分の芸術行為がこんな事件にまで発展し、ついには誰も抱きしめてくれなくなった今こそ、芸術家生命は絶たれるどころか、彼にとっては最も芸術が必要とされる時‥‥だからです。

芸術家などという職業は存在しません!
芸術家的な人間がいるだけです。
作品に対してお金をもらう人たちは装飾家のことでしたね。

だから、彼(スギ分身さん)は、「和田氏の芸術行為は彼が生きている限り必要とされるであろうが、装飾家生命は永遠に絶たれるだろう」と言うべきでした。

最後にもう一度言っておきます。

芸術とはあくまでも「行為」であり、そこから副産物として産まれたものに、何らかの価値を与えたとしたら、その時点で「芸術作品」ではなく、「装飾品」です。

芸術作品には価値などを与えてはいけません。

「芸術作品」とは、ただ理解(=分身主義の言う本当の愛)だけでつながり合うものです。
大金でつなぎとめておける物は「装飾品」でしかありません。


あっ、それと一つ言い忘れていたことがあります。
「鑑賞」という行為は、芸術行為であるということです。
僕たちは自分を癒すために「鑑賞」という行為を行っているからです。

芸術は、ホールで演奏される音楽や、美術館の壁に飾られる絵画などの中にあったのではなく、実は、それを鑑賞する僕たちの側にあったのです




◆◇◆編集後記

芸術は私的な癒しで、本来は他人の理解を拒絶している。
装飾はいわば他人の癒しで、その意味で他人の理解を前提としている。そのため、装飾は共通の言語を必要とし、多くの才能の合作によって作られる。

僕たちが、絵画などに一連の様式、例えば「フォービズム」とか「キュービズム」とか「印象派」などというような名称を与えるのは、共通の言語を獲得するためです。
それは芸術に対する名称ではなく、装飾部分につけた名称だったんです。

また、1970年に開かれた大阪の万国博覧会のシンボル『太陽の塔』などは、岡本太郎という「この社会に適応する上で困難な精神的障害」を持ってしまった分身さんの私的癒し(=芸術行為)に対して、多くの人たちが感化され、多くの装飾家や多くの職人たちの合作によって建てられた壮大な装飾品である‥‥と言えます。

ちなみに、彼(岡本太郎分身さん)の名言「芸術は爆発だ!」は、自分の中の行き場を失くしたマグマの通り道を作って噴火させる行為をうまく言い表していると感じます。

彼の特殊な家庭環境が形成した自由奔放さは、本能をある程度抑えて生きなければならないこの社会では、適応しづらいとても生きづらい障害でした。
もしそれが絵画や文学などで満たされなければ、彼は社会に迷惑をかける犯罪行為などを行っていたかもしれません。

抱きしめて欲しい気持ちを、そのような反社会的な行為で表現してしまっていたかもしれません。


芸術と装飾の違い、その境界線をはっきりさせることは、とても重要です。
人類が本来の芸術の意味を知り、理解(=本当の愛)を通してつながり合おうとするその先には、一つの鍵が転がっています。

それは、元々は一つだった自然界との絆を取り戻せる鍵です。
今この傷だらけの世界を修復できる唯一の鍵です。

その意味で、「芸術とは何か?」を解明した『アラスカの風に乗せて』は、僕がいつも口にしている「分身主義」の原点だったのだなと、振り返ってみて思った次第です。


「分身主義的著作権」にまで触れる紙面?がなくなりました。
次回、そのことを書こうと思います。
実際は、自然界様が書こうとしているんでしたね‥‥僕を媒体とし



NO.97 分身主義的・著作権 2006.10.24

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【たった一つの創作物も、宇宙万物の総力の結集によって創られるもので、この宇宙万物の共有財産であり一部の者が利益を独占してはならない】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
地球の分身仲間さーん、こんにちは、徳永真亜基分身です。

前回のメルマガを読んでいただいて、どのような感想を持たれましたか?
いわゆる芸術家と呼ばれる方たちにも聞いてみたいと思います。

「芸術家という呼ばれ方が定着してしまっているような方たち」は、好むと好まざるとに関わらず、その世界を支えている常識や価値観に支配されています。
たとえ自分にその意識は全くなくても‥‥。

芸術家という言葉自体が、もはや常識や価値観の賜物ですから。
それはある意味、その世界を支えている常識や価値観に守られていて、また、少なからずその世界を支えている常識や価値観のもたらす権威の恩恵にも浴して生きているわけです。

と言うことは、芸術界と呼ばれている世界で成功している人ほど、その世界の常識や価値観を再検討したりすることができにくくなっています。

それは僕たちが、その所属する社会(あるいは国)で成功している人ほど、そこだけで通じる常識や価値観に守られていて、その権威の恩恵にも浴して生きているので、宇宙全体に行き渡る大局的な視点でもって、その社会の常識や価値観を再検討したりすることができにくくなっているのと同じことです。

本人は、今の地位を獲得したのは自分の努力の結果であると固く信じているし、その社会の常識や価値観を疑わなければそのまま安泰なので、わざわざ余計なことを考えようとする人がいるでしょうか!?

そんな馬鹿なことをして、自分の生活の基盤を失いたい物好きはいません。

だけど日本や世界の日常の出来事や社会情勢を見ていると、今ではいろいろな意味で、人々の間の不満や不公平感は沸点に達しているにもかかわらず、その持って行き場がわからず、形を変えていろいろな所で爆発しているのがわかります。

僕たちは、もう十分に、その先へ踏み出さなければならない局面に差し掛かっているのです。
それはあなたも感じていることと思います。

ただ、誰もが、その解決策が見つけられないでいるだけではないでしょうか?

僕たちがこの環境の中にいる限りは、根本的な解決策は永遠に見つかりません。同じ環境の中で混ぜ返されているだけで、上下・左右が入れ替わっているだけですから。

その理由は、僕たちはこの環境の媒体だったからです!

この環境が次世代の環境に変わらない限り、永遠に同じことの繰り返しです。

次世代の環境とは、科学が自然界様にお伺いを立てて答えていただいた真実、つまり「僕たちはこの環境の媒体であった」ということを受け入れた人間たちが増えることによって作られることになる「分身主義的環境」のことです。

分身主義的環境を作るためには、人々の強い意志や願いが必要なのではありません。

科学がお伺いを立て、それに自然界様が答えてくださった真実を、理解する感受性さえあればいいのです。


ところで、前回は、著作権にまで触れる紙面?がなくなりました。

分身主義が著作権に関してはどのように考えているかは、こちらをご覧ください。

前回の「愛すべきモンスター」として登場していただいた和田義彦分身さんは、次のように言っていましたよね。

「(スギ氏と)構図が似た可能性があるが、100パーセント自分のオリジナリティをもって創作した作品である」

だけど、これは明らかに間違いです。

芸術作品とは、そもそも、その作者が過去に体験した文章メロディーや、過去に体験した構図などのイメージが、その作者の脳内で切り張りされて創られていくコラージュのようなものです。

その意味で、芸術作品とは、全て何らかの作品の部分を模倣したものであるとも言えます。

100パーセント自分のオリジナルのものなどは、世界中どこを探しても、どこにも存在しません。

大体自分の身体からして、1パーセントたりとも自分のオリジナルの部分なんかありませんよね。

確かにあなたの身体は世界にたった一つではありますが、それはあなたの独創で創り上げたわけではありません。
強いて言えば、宇宙のオリジナル(=独創)です。

それ自体が自分のオリジナルでもない人間というものから生まれたものが、そもそも100パーセントのオリジナルなはずがないのです。

それなのに、「自分一人で作り上げた」かのような傲慢な考え方が浮かび上がってしまうのが、僕たちの今いる「個人主義的環境」の特徴です。

風景を描いている画家は目の前の風景を忠実に再現しようとしていると思うのは、素人の考えです。実際は、風景を目の前にした画家は、その画家がかつて目にした絵画の中の、構図などのイメージを、その風景の中に見ていて、それを描写しているんです。


現代科学が導いてくださった分身主義は、芸術作品とは、その人が芸術行為によって産み落とした副産物に過ぎないと知っています。
そして、それは全くのオリジナルなどどこにも存在しないことも知っています。

芸術行為を起こさせる原動力となるものは、その人を取り巻く環境(=つまりビッグバンから連綿と続くドミノ倒し)の後押しです。
擬人法的な言い方をすれば、「その人を取り巻く環境が、その人を媒体として芸術行為をしていた」と言えます。

その人を取り巻く環境とは、この宇宙の万物が関係し合って作り上げている状況です。
つまり、「芸術作品と言われるものは、どれ一つ取ってみても、この宇宙万物の総力の結集によって創られたものである」‥‥という言い方ができるわけです。

そのことを知った分身主義には、本来なら、いわゆる著作者などは存在しません。

しかも、著作物は宇宙万物の総力の結集によって創られるもので、人類にとっても共有財産であり、一部の人間がその利益を独占する「著作権」などあり得ないと考えます。

そのため、分身主義は著作物に関わる一切の利益を放棄します。

一切の利益は放棄するわけですが、ただし、便宜的に著作者を設けて、しかもその著作者には、(利益の伴わない)著作権を与える必要があると考えます。

それは次の二つの理由からです。


1、自分のできない環境で、代わりとなって著作をしてくれた人を誇りに思う気持ちが大切だから。

分身主義では、著作者は単なる媒体に過ぎないし、著作物は万物の総力の結集によって創られるものと知っているので、そもそも明白な著作者は存在しません。

しかし、その媒体者を(便宜上)著作者と呼び、同じ媒体である我々にはできない環境でその媒体を演じてくださったという感謝の気持ちと、まるで自分を誇るかのような誇りの気持ちが湧いてきて、妬みのような気持ちは一切起こらないのが分身主義でもあります。

この分身主義特有の共感の気持ちこそ、どんな取り決めよりも優先しなければいけない大切なものだからです。


2、原本となるものはしっかり保存しておかなければいけないから。

せっかくの共有財産も、多くの人の脳を経由していくうちに、その人その人の都合に合わせて、歪曲されて伝わってしまうので、著作者の名前を目印とした原本だけは残しておいて、常に参照できるようにしておく必要があると思うからです。

この二点が明確であれば、今回の和田義彦分身さんのような事件は起こり得ませんでした。


今回の事件は、僕たちを取り巻く環境が「個人主義的な環境」であることから、必然的に起こるべくして起きたものです。

個人主義的な環境に置かれた僕たちの脳内には、作品は個人の技能や才能で作られるという考え方が浸透しています。また、その技能や才能に対して「評価」や「利益」を与えるのは当然と考える社会なので、誰もが自分の技能や才能をアピールしたくなるのも当然です。

「100パーセント自分のオリジナルです」などという傲慢な言い回しをしてしまうのもそのせいです。

そして僕たちは、優れた技能や才能を持ち合わせた人を賞賛し、自分の励みにして頑張るわけですが、その一方で、個人の力が賞賛されるような個人主義的環境の社会は、その著作者に対して羨望や嫉妬をしてしまうのも事実です。

彼(和田分身さん)の絵に対する匿名の投書があったことが、彼の行為を事件にまで大きくしてしまいましたが、その大元の原因は、この、誰かの羨望や嫉妬だったとも言えるでしょう。

しかし、世の中が分身主義的な環境に変化すれば、誰の脳内にも、彼(和田分身さん)を羨望したり嫉妬したりするような気持ちが浮かんできません。
先ほど言ったように、自分のことのように誇りに思う気持ちが浮かび上がるだけです。

それ以前に、和田分身さんはスギ分身さんに対して、「自分とは違う環境に置かれたスギ分身さんが、スギ分身さんとは違う環境に置かれたこの自分という分身にはできないことを代わりにやってくださった」と誇りに思い、‥‥そう、まるで自分を誇るかのように彼の作品を誇りに思い、その原本を大切にする気持ちを持つことでしょう。

しかも、分身主義的環境に置かれた和田分身さんは、絵のタイトルのどこかに、誇りに思うスギ分身さんの名前を入れることも忘れないでしょう。

そして、「これは私が、私の置かれた環境にやらされた芸術行為、いわゆる治療行為なので、個人的利益とは一切無縁ですから、賞などは辞退します」と言うでしょう。

そしてまた、「もしあなたが、私の治療行為によって副次的に産まれた作品というものを通して、鑑賞という芸術行為(=治療行為)を成功なさってくださったなら、これに勝る喜びはありません」とも語るでしょう。

前回も書きましたが、芸術行為とは「この社会に適応する上で困難な精神的障害を持ってしまった人間が、社会に迷惑をかけずに行なえる自己治療行為」に他なりません。

彼(和田分身さん)には、自分の置かれた環境の中で(=彼なりに追い詰められた環境の中で)、どうしてもスギ分身さんの絵の模倣が必要だったのです!

それが彼の治療行為(=自然界との絆を取り戻すための行為)だったからです。

彼個人の治療行為に対しては、それが社会に迷惑をかけない限り、いかなる者であっても口出しはできないはずです。

そして分身主義は、その個人的治療行為さえも、実はその環境に置かれた媒体がやらされていることだと知っています。

そんな分身主義が、和田分身さんの行為を慈悲の愛で受け止めてあげることができずに、嫉妬や羨望や非難などをしてしまうなんてことがあるでしょうか?

芸術作品を繋ぎ止めているものは、決してより多くの紙幣の束なんかではありません!
それは愛です!
でも、僕たちが日常使い慣れている愛とは違う種類の、真実の愛です!

この(個人主義的)環境で生きている僕たちは、自分以外の人たちを「他人」と呼びます。
しかし、その「他人」も自分と同じこのビッグバンの産んだ分身だと気づいた時、僕たちの自我は宇宙にまで拡大します。

その時、今まで「他人」だと信じていた人が、実は自分であったと気づくことになるでしょう。

「自分」と「他人」が、宇宙を通して一つで結ばれた瞬間です!

それはジグソーパズルの最後の一ピースを嵌め終えた時に完成する、宇宙です。この宇宙のパズル(=謎解き)を解き明かした瞬間です!

そしてその自分であったと気づいた「他人」に対して湧いてくる、慈しみ哀れむ気持ちこそ、真実の愛、そう、分身主義の言う慈悲の愛です。
このメルマガ、『世界を平和にする「自己愛的生活」』の目指している「自己愛」のことです。



◆◇◆編集後記

今回は、著作権についていろいろと述べさせていただきましたが、著作権とは知的所有権の中の一つです。

「分身主義的・知的所有権」については、こちらをご参照ください。

ところで分身主義は、今のこの個人主義的環境が作っている社会を、「お金に頼る未熟な社会」と表現します。

芸術作品の価値も、自分の価値も、お金に決めてもらわなければ、不安で仕方がない気持ちにさせられてしまう社会だから、それでお金に頼るのです。
それに、人の心を動かし勤勉にしてくれるものは、今のところお金しかないと考えられているからです。

だけど分身主義的な環境になれば、お金なんかに頼らなくても、自分のためでなくみんなのために一生懸命に働き、一生懸命に勉強し、みんなの幸福を自分の幸福として喜べる社会になります。

と言っても、分身主義が夢見ている社会は、500年も先の話なんかではありませんよ。

かつて、我々が戦争の中にいた時、アメリカ人たちを「鬼畜」と呼んで憎み蔑んでいましたが、敗戦と同時に一変して、彼らを尊敬し彼らの文化を模倣するようになったではないですか!?

僕たちには劇的な変化が起こり得ます。

何故なら、僕たちは自分たちの意思でこの世の中を動かしているかのように勘違いしていますが、この世を動かしているのは政治家でも人の意思でもありません。
僕たちの意思こそ、環境に動かされているものだったのです。

僕たちは、人間は自律的な生き物だと思っていますが、それは、まだ自分のことを科学的な視点で見ることができず、本当の自分をよく知らないからです。

人間は、他の全ての生き物がそうであるように、他律的な生き物なんです。
環境に動かされているだけの生き物なんです。

早くそのことに気づき、そのことを受け入れる人々が出てきて欲しいと思います。

僕たちを取り巻く環境が、戦時中から敗戦と変化したことで、政治家の言動も僕たちの心もガラリと変化してしまったことが、僕たちは環境の媒体であった、ということを証明しています。

だから、分身主義の夢見ている世界は、僕たちが生きているこの時代にやってくるかもしれませんよ。
お金に頼らない成熟した、「大人の大人」の社会が‥‥。

劇的な環境の変化は、必ず起こります。
僕たちにはインターネットというものがあるからです。


次回の「愛すべきモンスター」は、畠山鈴香分身さんを予定しています。



NO.98 愛すべきモンスター(4)(畠山鈴香分身さん‥犯罪者の環境) 2006.11.14

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【僕たちは彼女を責めるより、彼女に感謝する気持ちを持てるくらいにならなければ、永遠にこのような恐ろしい事件は繰り返されるでしょう】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
地球の分身仲間さーん、こんにちは、徳永真亜基分身です。


今回の愛すべきモンスターは、畠山鈴香(はたけやま・すずか)分身さんです。

ただし、今回のメルマガは、決して、今の僕たちがいる「個人主義的環境」の中の、そのままの感覚を引きずって読まないでいただきたいのです。

できれば「分身主義的感覚」で読んでいただきたいので、その確認からしておきます。

ここまでメルマガを読んでくださっている方は、この世を動かしているのは神様でも政治家でもないことは、もう、わかってくださっていますね。

科学が自然界様にお伺いを立てて得られた回答は、神様も政治家も英雄も犯罪者も‥‥、みんな僕たちの想像が作り上げたモンスターであるというものでしたよね。

人間のような想像力を持ち合わせていないイヌやネコの目の前に、神様や政治家や英雄や犯罪者を連れて行っても、彼らにとっては神様でも政治家でも英雄でもありませんから‥‥。

ましてや人を殺した犯罪者であっても、イヌやネコにとっては犯罪者でもなんでもありません。

人間の想像力だけが、その人の中に神様や政治家や英雄や犯罪者を見ているだけなんです。

また、彼らが自らの意思を持ってそのような地位あるいは評価を獲得したのではなく、彼らを取り巻く環境に彼らは背中を押されて、そのような地位あるいは評価を得る立場に立たされてしまっただけである‥‥と理解できます。

目には見えないし実感もないけれども、実のところ、「彼らを取り巻く環境」が、彼らの個性を作り、そして彼らの背中を、彼らがそのような行動を取るように押していたのです。

僕たち人間は(というかこの宇宙の万物は)、環境に背中を押されて動いているモノたちに過ぎません。

僕たちを取り巻く環境とは、ビッグバンの時の力と方向性が、ドミノ倒しのように連綿と伝わり続けることで作り上げている、全てのものです。
全てということは、僕たち一人ひとりも、その環境を作っている一部であることも忘れないでください。

「僕たちは環境の媒体であり、同時にまたその環境を作っている一部でもある」この言葉をしっかりと覚えてください。

先ごろ、鼻息も荒く郵政民営化法案を立派に成立させた小泉純一郎分身さんの行動にしても、そして彼が、どうしても靖国参拝にこだわるのも、実は彼を取り巻く環境が、彼の個性を作り、彼の背中を押して行動させていたんです。

彼の行動に反対する人も賛成する人も、みんなひっくるめて‥‥です。
この宇宙の万物が‥‥、そう、この宇宙140億年の全てが‥‥です。
そのどれもが同じ重さで‥‥です。
だから中国の人たちの抗議も、結果から見れば、彼が靖国参拝をするように背中を押していたと言えるわけです。

背中を押されているということに関しては、ブッシュ分身さんも、金正日(キム・ジョンイル)分身さんも全く同じだし、それは、あなたという分身さんや僕という分身が、僕たちを取り巻く環境の全てに、個性や気質が作られ、背中を押されて動いているのと全く同じです。

ふと浮かんだ感情一つにしても、練りに練って生まれる言葉や思考にしても、何かを成し遂げようとする意志にしても、指の上げ下げ一つ、あくびやくしゃみ一つ、そして瞬(まばた)き一つにしても、僕たちは、僕たちを取り巻く環境にやらされていたんです。

だけど、僕たちは環境に背中を押されて動いていると同時に、この環境を作っている一部でもあるので、僕たちが小泉分身さんやブッシュ分身さんや金分身さんを作っていたとも言えます。

神様も政治家も英雄も犯罪者も‥‥、みんな、僕たちの脳が集団となって作り出し、そして僕たちが集団となって彼らに息を吹き込み操っていたようなものなんです。

僕たちが作っているモンスターたちを、どうして心から大切に思い、愛さずにいられるでしょうか!
あるいは救わずにいられるでしょうか!
その姿は、この個人主義的な環境という海の中で、漂い翻弄されているあなたや僕の姿、そのものなのに。

だから分身主義では、畠山鈴香分身さんに対してでも、「愛すべき‥‥」という言葉を付けるのです。

子どもを二人も殺した人に対して、そのような言葉を使うのは、不謹慎に思われるかもしれませんが、決して悪ふざけや思慮不足で、今回のメルマガを書こうとしているわけではありません。
全くその正反対です。
二度とこのような、悲しく恐ろしい事件が起こらないようにしたいのです。

だから、決して個人主義的環境の中の、そのままの感覚を引きずって、今回のメルマガの言葉を理解しないでくださいね。

二度とこのような悲しく恐ろしい事件が起こらないようにするためには、どうしてこのような事件が起こってしまったのかを、感情的にではなく科学的に究明する必要があります。

畠山鈴香分身さんが起こしてしまった事件を科学的に究明し、二度と起こらないようにしようとすると、どうしても、今お話したような分身主義について語ることになります。


でもそれは、畠山鈴香分身さんの個性や気質を作ってしまっている、彼女を取り巻く環境の一部でもある自分も救われたいからです。
そして、彼女を作ってしまっている世界中の人を救いたいからなんです。
これは少しも大げさなことを言っているわけではありません!


まず、この事件を知らない方が読んでくださった場合を想定して、一応この事件の概要を書いておきます。もう知っているという方は、飛ばして読んでください。

2006年4月9日、秋田県で小学4年生の少女、彩香ちゃん(当時9歳)が行方不明となり、3日後に自宅から10キロ離れた川の下流で遺体となって発見された。その約1カ月後の5月17日、同じ町内に住む小学1年生の男児(7歳)がいなくなり、翌日、市道脇で遺体で見つかった。今度は首に絞められたような跡があることから警察は殺人事件として捜査を開始した。

そして6月5日、捜査本部は水死した少女の母親である畠山鈴香(33歳)を逮捕した。家宅捜索で鈴香の自宅から男児の血痕等が見つかり、鈴香が犯行を自供。さらに7月には自分の娘も殺害したことを認めた。

裁判で鈴香は、犯行の動機を「娘とどう接してよいかわからず、連れ出して橋の欄干から突き落とした。娘が天国で寂しくないように、日頃から仲良くしていた男児を呼び寄せ、自宅でロープで絞め殺した」などと話した。

2008年3月、秋田地裁は鈴香に無期懲役の判決を下し、09年5月に鈴香の無期が確定した。
(Exciteニュースより)


彼女(鈴香分身さん)の供述にはたくさんの嘘があるとしても、二人の子どもが亡くなっているということは事実です。そしてその殺害方法や動機は供述通りではないにしろ、彼女が実行してしまったということは、もはや疑い得ないことのようです。

何故、自分の子どもを殺すなどというこのような不可解な事件が起こったのか、彼女の生い立ちなどを少し調べてみました。
(彼女の周囲の人たちの証言から、次のようなことがわかっています)

・ダンプカー運転手で運送業の経営をしていた父と、母、弟の4人家族。

・小学校時代から父親から暴力を受けていた。また、学校では教員の悪い対応が元で、「ばい菌」「心霊写真」などと呼ばれイジメに遭っていた。
(*この詳細は次回のメルマガで書きます)

・団地で生まれ、町内に家を建てたが、父親が糖尿病で目が悪くなり運転ができなくなった後は、母親は玄関先でたこ焼きを焼いて家計の足しにしていた。後の近所の人の証言によると、たこ焼きを買いに行ったら、昔、石をぶつけて娘をイジメたからという理由で売ってくれなかったことがあったらしい。

・生活は苦しく、やがて一家は家を手放して町内の借家に引っ越す。

・友達がいないことを苦にして周囲の気を引こうと文房具を万引きをして配ったこともあった。

・高校時代にもイジメは続き、イジメの対象から逃れるためにリーダー格のパシリを買って出るなど処世術も身につけていた。盗みにより停学処分も受けていた。

・卒業時の寄せ書きでは彼女に対して「二度と秋田には帰った来るな」「二度と会うことはないだろう。じゃーな」「会ったら殺す」などの辛辣な言葉が多数寄せられていた。また彼女の将来像として「自殺・詐欺・強盗・全国指名手配・変人大賞・女優・殺人・野生化」などとも書かれていた。
(*こんなひどい寄せ書きを放置した学校側の対応には驚かされる)

・卒業後、一度は栃木県内の温泉旅館へ仲居として就職したものの2年ほどで舞い戻る。このころ、秋田県内で知り合った男性と結婚するが、夫婦仲はあまり良くなく、彩香ちゃんが五ヶ月の時、離婚。家計を支えるべく生命保険会社でセールスレディー、葬儀店、隣町のパチンコ店、実家近くの釣具店といった具合に転職を繰り返した。仕事の態度はあまり良くなかったようだ。

・家事はほとんどせず、パチンコ、夜遊びなどで、たえず借金をしていて、2003年に自己破産を申請し受理される。生活保護を受ける。

・そのくせ携帯電話には月額6-7万円使って、軽四にも乗っていた。

・「自宅売春」もしていて、客がいる間は娘(彩香ちゃん)を外に出し玄関の鍵を閉めていた。客の中には県警能代署署員などもいたという噂。


これらの証言の中で語られているものは、みんな僕たちが当たり前のように送っている日常の中のことなので、あなたは何一つ疑問に感じないと思います。

だけどあなたの想像力を最大限に発揮して、自分が今、違う星から地球に着陸したばかりの異星人だと思って読んでみてください。
そうすると、この地球に生息している人類の不思議な生態が見えてきます。

父親、母親、弟‥‥ふーん、地球では家族という最小単位集団を作って暮らしていて、自分たちが生きていくために、ダンプ運転手や運送業の経営などをしたりしなければならないらしい。

なになに、昔、石をぶつけられてイジメられたからたこ焼きを売らない‥‥、この地球には自分の子と他人の子と区別する感覚があって、自分の子には愛を注ぎ、それ以外にはあまり愛を注がないらしい。差別というものが存在する珍しい星なんだな。

小学校、中学校、高校‥‥どうやら子どもは学校というものに行かされ、イジメたりイジメられたりしながら過ごすらしい。

パチンコで浪費、借金、自己破産‥‥、ふーん、どうやらこの地球の社会というものは、お金を中心に回っていて、それによって地球人はハッピーになったり苦しんだりさせられているらしい。


異星人であるあなたは、地球という星には人間というものが住んでいて、その人たちはどうやら「自分、自分、自分‥‥」という幻想の虜になっていて、それでいろいろな事件を起こしては互いの非を批判し罵倒し合い、また新たな事件を起こしては互いの非を批判し罵倒し合う、‥‥それを飽きもせず繰り返して生きているようだ、と不思議に思うでしょう。

異星人のあなたから見れば、ずいぶんと効率の悪い、あるいはずいぶんと幼稚な人たちに見えるかもしれません。
そして異星人のあなたは、自分の星に帰って報告するでしょう。

「この我々の宇宙の中で、地球とはかなり特別な星のようです。僕たちにとってこの宇宙の万物はみんなのものだという感覚があるけど、どうやら地球という星に住む人間だけは、これは自分のもの、これは誰々のもの、というように勝手に独占し合っているようです。土地もモノも人も、あるいは発想さえもそのように自分のもの、誰々のものと決めて独占し合い、時には奪い合っています。

そして自分のものは大切にし、他人のものは場合によっては破壊してもいいという感覚があるようです。しかし今では、それによっていろいろと不都合が生じていて、もう限界の状態のようです。

この状態は一言で言えば、個人主義の末期状態と言えます。
しかも彼らはかなり高度な科学技術を持っているので、このまま放置していては、我々の宇宙自体が破壊されかねません。緊急な手当てが必要です」


彼女(鈴香分身さん)に対する証言の中で語られている、僕たちが当たり前のように送っている日常は、広い宇宙から見れば別に当たり前でも何でもなく、人間たちは、存在してもいない自我という幻影を信じ切って、その幻影に心を奪われて生きているようなものなんです。

自我という錯覚は、自・他の意識を強め、守る気持ち(=愛)と、排斥する気持ち(=イジメ)を作ります。

だから「愛」と「イジメ」は、この個人主義的な環境という特殊な状況では、当然浮かび上がり得る感情や行為だったんです。

先ほど聞いていただいた、いろいろな人の証言の中にも、個人主義的な環境の特徴である「愛」と「イジメ」の体質が、たくさん見え隠れしています。

それだけでなく、テレビなどを見ていてもこの事件の報道の仕方や批判をするコメンテーターたちの言葉の中にも、この個人主義的な環境の特徴である「愛」と「イジメ」の体質がありありと見えていましたが、あなたはお気づきになりましたか?


皆さんは「愛」という言葉を聞くと「何となくいいもの」「平和的で美しいもの」「イジメと対極にあるもの」というイメージがあるでしょうが、実は「愛」と「イジメ」とは、同じ語源から派生した同類語と言ってもいいくらいのものなんです。

自・他の意識がないところには「愛」の感情も生まれませんし、「愛」の感情がないところには「イジメ」の気持ちも湧き上がりません。
その逆も言えます。

「イジメ」の感情がないところには、「愛」の気持ちも湧き上がりません。

あなたが誰かを愛する人なら、あなたは誰かをイジメる人なんです。
あなたが誰かをイジメる人なら、あなたは誰かを愛する人です。
また、誰かが誰かを愛するなら、同時にその人は誰かをイジメているとも言えます。
自分のことに置き換えて考えてみてください。

つまり、「愛」も「イジメ」も、自・他の意識が生まれた時に同時に生まれたのです。

「愛」も「イジメ」も、どちらも自・他の意識が根本にあり、それが環境によって形を変えて現れた一方が「愛」であり、一方が「イジメ」です。
だから「愛=イジメ」と表記できるくらいです。

ある男性がある女性を愛し、彼女の喜ぶことをたくさんしたとします。
しかしその女性が自分の愛を受け入れてくれなかった場合、一転して、彼は彼女に対してストーカー的な嫌がらせを続けたりする事件がありますが、これも、根本にある自・他の意識が、環境によって「愛」として発現するか「イジメ」となって発現するかの違いだという好例です。

そして、この「自・他の意識」が「個人主義的な環境」を作っているのは言うまでもありません。
僕たちがこの個人主義的な環境に置かれている限り、「愛」や「イジメ」とは無縁では生きられません。

もし本気で「イジメ」をなくそうとするなら、人々の心から「愛」もなくさなければなりません!
自我という錯覚が作り出す、自・他の感覚によって浮かび上がる「愛」をなくさなければなりません!

その上で、僕たちは科学によって知らされることになった「真実の自我」で、つまり、今までの自・他の感覚に縛られない「真実の自我」で、「真実の愛」を持たなければなりません。


僕がテレビで鈴香分身さんを見ていて一番感じるのは、彼女は自分の中に「怒り」を抱えている人だな、ということです。

最近、イジメによって自殺した子どもがニュースになったりしています。
でも鈴香分身さんの場合は、イジメられて自殺するタイプではなく、自分を正当化し、反発する強さを持っているタイプだったんだと思います。

たとえ、気に食わないことがあって反社会的な行動をとったとしても、「自分が悪いんでねえ。こんなことをさせたのはお前らのせいだ!」そんな怒りの気持ちがいつもあったんじゃないかと思います。

彼女の心を攻撃的にしてしまった大きな原因は、やっぱり「愛」や「イジメ」を作り出すこの個人主義的な環境です。
この環境に生きている僕たちは、みんな同じように、心のどこかに彼女と同じような「怒り」を抱えて生きています。


人類は、この環境の犠牲となって亡くなった二人の子どもと可哀想な鈴香分身さんから何かを学び取り、二度とこのような恐ろしい事件に巻き込まれないような環境を作らなければいけません。

自分たちを救わなければいけません。

そうでなければ、僕たちの願いとは裏腹に、いつまでもこのような事件はなくなることはありません。



このように考えてくると、もし彼女の犯してしまった(犯させられてしまった)事件から、僕たちが何かを学び取ることができたとしたなら、彼女は、僕たちにそれを気づかせるために、自ら汚(よご)れ役を引き受けてくださった「愛すべきモンスター」だったとも言えます。

もし僕たちが彼女とまったく同じ環境で生きたなら、それは「彼女」自身になっていたわけです。彼女の環境とはもちろん彼女の祖先から連綿と引き継がれてきた遺伝も含まれます。だから、僕はその時女性に生まれていて、畠山鈴香という人間になっていたのです。
環境が人を作るからですね。

それがわかったら、僕たちは彼女を責めるより、むしろ、自分の代わりにその環境で汚れ役を引き受けてくださった彼女に感謝する気持ちを持てるくらいにならなければ、永遠にこのような悲しく恐ろしい事件は繰り返されるでしょう。


次回のメルマガでは、僕たちを取り巻くこの個人主義的環境にどっかりと横たわっている「イジメ」の体質を取り上げて、分身主義ではその「イジメ」をどのように位置づけているのかということを聞いていただきたいと思っています。
タイトルは『イジメと自傷行為』‥‥です。



◆◇◆編集後記

殺人者に感謝する気持ちを持てだって! 頭がどうかしちゃったんじゃないの!
被害に遭われたご家族の気持ちを考えろ!
科学、科学って、あなたには人間の心がわからないのですか!

もし今回のメルマガを読んでいただいて、あなたがそのように感じるとしたら、やはり冒頭でお願いしたことが通じていなかったようです。

「今回のメルマガは、決して、今の僕たちがいる「個人主義的環境」の中の、そのままの感覚を引きずって読まないでください」

僕はそのようにお願いしました。

でも、あなたの脳はその切り替えができていなくて、個人主義的な環境の中にどっぷりと浸かっていて、その日常に疑問を持つことさえなく生きているので、僕の言葉を聞いてそのような怒りが浮かび上がってしまうのです。

今回は、そのような感情が浮かび上がってしまう環境に浸かっている、あなた自身の脳に目を向けていただきたいと思い、敢えて誤解を覚悟で過激な発言をしてみました。
もしあなたに僕の真意がどう考えても理解できないと言うのなら、僕は次のように答えるしかありません。

「それじゃあ、あなたは、このような悲しく恐ろしい事件が何度も何度も繰り返されることを放置するしかありません」

あなたは善人の仮面をかぶってはいるけれど、心のどこかでこの事件は自分とは関係ないことと思っていませんか?
一時の感情に任せて言いたいことだけ言ってしまえば気が晴れて、後は自分の日常に戻ってしまう無責任な人と同じではないでしょうか?

僕にとっては、この環境の被害となって犯罪を犯してしまった人も、この環境の被害となって殺されてしまった子どもも、自分のことなんです。
あなたにとってはもう過去の事件かもしれませんが、僕の心には一生残る傷なんです。

あなたのようにキレイごとを言っている余裕もなく、自分を何とかして救わなければいられないんです。

僕自身が、とんでもない被害に遭ったんです。
そして僕自身がこの事件のとんでもない加害者だったんです。


あなたが人類全ての愛すべき分身さんであるように、畠山鈴香分身さんも人類の愛すべき分身さんなんです。

彼女一人を生贄(いけにえ)にするのはやめましょう。
彼女も実のところ、この個人主義的な環境の被害者なんです。
そしてこの個人主義的な環境を作っている加害者なんです。

そのことを知って、みんなで彼女を救いましょう。

あなたが、僕が、そして世界中の人たちが救われるために‥‥。

もしあなたが、一時の感情で僕の言葉を批判し怒りを表明するなら、そのような反応をしてしまう脳こそ、彼女に子殺しをするような環境を作ってしまっていたんだ‥‥ということを考えてみてください。

そして、どうしたらいいかを考えてみてください。

僕たちはいつまでもキレイごとを言って善人を気取ったり、嘆いてみたり、その場しのぎの解決策を語ったりしていないで、もうその先へ踏み出さなければならない‥‥ということに気づいていただけるはずです。



NO.99 イジメと自傷行為 2006.11.28

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【イジメとは自傷行為である。自傷行為とは、自分で自分の身体をわざと傷つけることだが、それによって一時的に当初の精神的な苦痛が緩和されることがある】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
地球の分身仲間さーん、こんにちは、徳永真亜基分身です。


前回の過激なメルマガで伝えたかったことはわかっていただけましたか?
今回は引き続きイジメについて書きますが、二つの立場からイジメというものを眺めてみたいと思います。

❶ 個人主義的な視点から見たイジメ
❷ 分身主義的な視点から見たイジメ

この二つの立場です。


[❶ 個人主義的な視点から見たイジメ]
畠山鈴香分身さんの高校では、卒業時にクラス文集が発行されました。
クラス文集の中の彼女のページには、まず彼女の親しみを込めたコメントがあります。
「1年間、長い人は3年間どうもでした。すぐには仕事をやめてこないけれど二ツ井に帰ってきた時は遊んでやってください! 帰ってきたらまっすぐビューホテルのあかねのとこに行くのでよろしく!!」とあり、それに対するクラスメートの寄せ書きは以下のようなものでした。

畠山鈴香


「一生会わないでしょう」
「元気でな。ビューさは来るなよ」
「目の前に来んな」
「会ったら殺す」
「いつもの声で男ひっかけんなよ」
「秋田から永久追放」
「秋田の土は二度と踏むんじゃねぞ」
「戦争に早く行け」
「二度と会うことはないだろう」
「山奥で一生過ごすんだ」
「いままでイジメられた分、強くなったべ。俺たちに感謝しなさい」
などです。

また、「将来この友達は何で有名になると思うか?」というアンケートに対して、彼女の場合は「自殺、詐欺、強盗、全国指名手配、変人大賞、女優、殺人、野生化」などと書かれていました。

これって、事件を起こした鈴香分身さんよりもタチが悪くないでしょうか!?

一生の思い出となる卒業時のクラス文集に、このような言葉を残されてしまったら、あなたならどう思いますか?

これらは書いた本人たちは意識していないのでしょうが、明らかに思いやりが欠如していて、書かれた人にしてみればイジメと同じです。
その後の彼女の心に、一生暗い影を落とすものです。実際、彼女はその後の調べで、これを捨ててしまったと言っているそうです。

彼女へのイジメに関わっている人たちは、クラスの子どもたちばかりではありません。

ひどい内容の卒業文集を印刷してそのままみんなに配布してしまった無神経な先生や学校も、それに、先生たちのやる気をそぎ、子どもたちの心を荒廃させてしまう教育制度や教育の現場も、「将来何で有名になると思うか?」などというアンケートを考えつくような精神的風土を作っている秋田の人たちも、それらの全てに関与している日本という国を作っている人たちも、そして、こんな日本の人たちを作っている世界中の人たちも、みんなみんな、彼女に対するイジメに関わっていたと考えるべきです。


元々、彼女が「ばい菌」とか「心霊写真」と呼ばれてイジメられた原因を作ったのは教員たちだったようです。

給食で残した食べ物を児童の手のひらに乗せてお仕置きをする教員がいた。彼女(鈴香分身さん)はいつも肉とニンジンを残し、それを先生に内緒で机の中にしまってたんですよ。当然、ナマ物だから腐りますよね。教室には異臭が漂い、みんなに『鈴香くせー、汚ねえ』ってバカにされ、「ばい菌」と呼ばれるイジメに遭ったんです。

また、心霊写真というイジメの原因もひどいものでした。

(鈴香が)小一のとき、担任から「水子の霊が憑いている」といわれて、母親が呼びだされるという「事件」が起こった。
その教員は、夏休みに、自分が信心している『仏所護念』(土俗宗教)の講習会に行くのだが、ついでにお祓いをうけてきてやる。ついては「三万円の三点セットが販売されているので、それを購入したらどうか」ともちかけた。
たまたま、その学校の校長が、稔(鈴香の父親)の小学生時代の担任だったので、彼が校長の自宅へ談じ込み、担任を替えさせた。それでも、同級生たちに与えた影響は大きく、それ以降、鈴香は「心霊写真」というあだ名を貼りつけられ、気持ち悪いといわれるようになった。
(鎌田 慧『橋の上の「殺意」』より)

級友からいじめの標的にされた鈴香は、その後もさまざまな苦難をなめています。ある日、クラスの生徒から便所に押し込まれ、鍵をかけられて、バイ菌を洗い流すためだと、頭に洗剤を振りまかれ、ホースの水を浴びせかけられています。

中学に入り、修学旅行が迫ってきたら担任から、「あなたは来ないように」と言われたそうです。朝礼や運動会などで、鈴香分身さんは眩暈から、しゃがみ込んだりするからでした。医者の診断によると、これは「起立性低血圧症」のためだったそうです。

鈴香分身さんは万引きをするようになりました。同級生たちの歓心を買うために、キャラクターの絵がついているメモ帳とか消しゴムを店からかっぱらってくるのです。その犯行はほとんどの場合バレてしまい、彼女は教員や親から責められました。そのせいで、物がなくなると、まっ先に「鈴香だ」と疑われるようになったようです。

高校に進んでからも、いいことは何もなかった。

高校入学後の畠山鈴香について、同級生はこんな風に言っている。

「たいがいひとりでいました。休み時間になると、〝不良グループ〟に『パン買ってこい』とパシリのような感じで使われていました。嫌われたくないので、必死で言うことをきいているようでした。不良グル-プにいるようになったのは、高校二年のころから、と思います」

こういう証言を聞くと、この人間社会というものが「イジメの体質」そのものであることがよく見えてきます。
イジメの体質そのものである人間社会が、子どもたちにイジメをさせてしまったと考えられます。


最近テレビを見ていると、「イジメは絶対になくならない!」と断言する勇気ある人が結構増えています。

一昔前には、そのように心の中では思ってはいても、正直に口にすることはタブーだったような気がします。
だけど「イジメはなくならない!」と断言する人ほど、内心ではイジメをなくしたいと真剣に願っていると僕には感じられます。

心の底からイジメをなくしたいという気持ちがなければ、「イジメは絶対になくならない!」などとテレビで大見得を切れるはずがありません。
イジメをなくしたいという気持ちは誰にも負けないし、もしいい方法が見つかるならその方法を真っ先に実践する気持ちはあるのだが、というくらいの自信がなければ、なかなか人前で言えない言葉だからです。

その人たちは、イジメをなくすにはどうしたらいいかと徹底的に考えたに違いありません。中途半端ではないからこそ、壁にぶち当たってしまったんです。

たまたまテレビでイジメのニュースなどを見た時だけ自分の感情を爆発させて、学校やイジメをした生徒やその親を批判してはみるものの、それ以上深く考えることもせずに、すぐに自分にとってもっと大切な「自分の日常」に戻るような生き方をしている大部分の人たちよりは、いくらかましなような気がします。

でも、いくらかましには見えるけれども、実際には、「イジメは絶対になくならない!」とあきらめてしまっているわけで、結局は、自分のことにしか関心がない人たちと大して変わらないのかもしれません。

あなたは、イジメはなくなると思いますか?
なくなると思うなら、どのようにしたらいいと思いますか?
きっと、あなたもたくさんたくさん考えたなら壁にぶつかると思います。
上っ面だけの解決策を考えたり、綺麗事や建前を言えるうちは、まだあんまり考えていないと言えそうです。

実は、「イジメはなくならない!」というのは正しいのです。

人間の社会自体が「イジメの構造」でできているからです。

どういう意味かと言うと、今の僕たちを取り巻く環境は「個人主義的な環境」で、この「個人主義的な環境」に置かれた脳には、相手が得するようにとか有利になるようになどという考え方が、基本的に浮かび上がりにくいからです。
それはこちら側からすれば、自分が損したり不利になるようなことをされているのと同じで、このズレが生まれてしまう構造こそがイジメの構造というわけです。

つまり、「個人主義的な環境=イジメの環境」なのです。

イジメの環境とは、個人主義的な環境の代名詞 と言ってもいいでしょう。

例えば、警察は悪を取り締まるというのが常識ですが、彼らは見方を変えれば、その時代の正義や権力を後ろ盾にして、公然とイジメを行使している悪質な団体であるとも取れます。

ちょっとしたスピード違反や駐車違反などで捕まって、どんなに頼んでも容赦なく高い罰金を取られた側は、まるで弱い者イジメをされているようにさえ感じるはずです。
警察は、違反や犯罪を犯した人の得や有利になるようには考えないので、立場を変えればイジメとなるのです。

公僕(国民のために奉仕する者)であるはずの公務員が、都内の一等地で駐車場つき3LDKの宿舎に数万円の家賃で住んでいると聞きましたが、民間の人が借りたら数十万円もする高級マンションです。
駅から離れたアパートで、家賃に10万円くらい搾り取られ、しかも毎日リストラに脅えているような市民の側から見れば、まるで公僕にイジメられているようなものです。

それも、彼らが公僕というのは名ばかりで、彼らの脳はこの個人主義的な環境に置かれている限りは、僕たちが得するようにとか有利になるようになどとは考えない脳だからです。

スターと言われる人たちに群がってしまう心理や、ブランド品を身につけたがる心理も、この個人主義的な環境に置かれた脳が快さを感じてしまうところから取ってしまう行動ですが、そんな行為を微笑ましいなどと感じている人はいませんか?

実はそんな罪のない行為の中にも、しっかりと根を張ったイジメの根っこが見えますよ。

政治や経済にそれ程興味がない人でも、国際関係の中に、イジメの構造を見て取れる人も少なくないと思います。
それもやはり僕たちの生きる環境が個人主義的だから、相手国の得を考えたり有利になるように考えたりはしないからです。

このような環境下では、立場が変われば相手の行為がイジメになるわけです。

例えば、北朝鮮に家族を拉致された側は、彼らからイジメとも言える仕打ちを受けているわけですが、それに対して対話と圧力をかけられた北朝鮮から見れば、対話も圧力も自分たちに対するイジメなのです。

それよりも以前に、彼らが拉致行為をした背景には、彼ら(金正日分身さんたち)の被害者意識があったからで、彼らにとってみれば、自分たちの体制に対して批判的な人たちは全て、自分をイジメてくる敵と感じるからです。

同じように、小学生の子どもを持つ親が自分の子どもに対するイジメを学校や相手の親に訴えたりすると、学校や相手の親にとっては、逆に自分に対するイジメと感じるんです。

9・11事件は、ある意味アメリカに対して仕掛けられたイジメですが、それを行った人たちにとって見れば、アメリカは自分をイジメる敵でした。

このようにどっちに転んだところでイジメになってしまう環境を、「個人主義的な環境」と言います。


いつも言うように、僕たちには自我(これが自分であると自分で信じているところのもの)という錯覚があり、四六時中その錯覚の虜になっていて、それが僕たちを取り巻く環境を個人主義的な環境にしています。

個人主義的な環境とは、僕たちの脳が何かを考える時に、いつも自分中心的な考えが浮かび上がってしまうという、厄介な環境です。

自分を何よりも一番大切にするので、それは自分の国を愛する心、自分の家族を愛する心、自分の恋人を愛する心、自分の命を大切にする心などを作ります。

そして、僕たちにそれらの心がある限り、僕たちは誰かを無意識でイジメているとも言えます。

どうしてかと言うと、誰かを愛する気持ちは、誰かを他の人たちと差別して優遇することになり、それをするにはそれ以外の人たちを冷遇しなければならないからです。

全てのものを平等に優遇することなど物理的にも不可能だからです。
これがイジメの問題を解決できなくさせている、最も大きな原因です。

ここまで僕が語ってきたイジメというのは、どうもイジメという名前で呼ぶものとは違うような気がする、と感じた方もいると思います。

「だいたい、本人たちにもイジメたりイジメられたりしている意識なんてないと思いますけど」ですって?
「警察官になろうとしている若い人たちは、社会に貢献したいと考えている人たちだって多いんですよ。失言を取り消してください」ですって?

‥‥だからこそ「イジメの構造」と言っているんです。
その構造の中に組み込まれているから、互いに少しも気づかないんです。
むしろみんな仲良く、一種の共感や感謝や義務感さえ持って、つまりイジメの意識などなく、ひたすらイジメにひたすら加担させられているんです。

お笑いの世界で「いじる」という用語があります。
「いじられキャラ」「いじられ役」などと言われる人たちを、みんなでからかうことで笑いを取る方法ですが、小学校や中学校の「イジメ」はこれが高じたものであるとわかってきた人たちが最近増えています。

でも、ちょっと前に僕がそのようなことを言ったら、それはまったく根っこは違うものだと常識的に反発した人が多かったと思います。

「いじる」と「イジメる」は語源的に同じだから‥‥などと主張する学者先生がいますが、語源が同じだから同じだという論理はおかしなものだし、語源など持ち出さなくても直感でわかることです。

だけどこの直感や危機感などというものは、他人のイジメに関心がない普通の人のアンテナでは働かないので厄介です。

やっている本人たちは、イジメの意識などないし、それよりもむしろ仲良く一種の共感や義務感さえ持って没頭しているし、それを見ている人たちも感謝や喜びを表現したりしているから、本質が見えないんです。

今、「みんな仲良く一種の共感や感謝や義務感さえ持って」と書きましたが、イジメには忘れていけない効用があるんです。
誰かを冷遇することで、他の人たちを優遇することができる点です。

つまり、イジメには、イジメられた人たちを苦しめる負(マイナス)の部分だけでなく、人を助けるという正(プラス)の部分もあるということです。
その点は見落とされがちです。

事件後、彼女(畠山鈴香分身さん)が犯人だと知ったマスコミは、醜く吠えているような彼女の顔ばかりを選んでテレビや雑誌に掲載したし、彼女のネグレクト(養育放棄)などを批判するコメンテーターたちもいましたが、これは明らかに正義と権力と報道の自由などを笠に着た、個人に対するイジメです。

だけど、それをすることによって自分やテレビ局や出版社のイメージアップにもなるし、収入アップにもなるわけで、まさしく彼女一人を生贄(いけにえ)にして、みんなは救われたのです。

彼女を批判する意見が共感を受けたり誰かと一致したりすると、良識ある人間と認められたようで、何だか幸福な気持ちになり、もうそれでめでたしめでたしでさっさと次の話題に移ります。

もっとわかりやすい例を挙げれば、クラスに一人イジメられっ子を作っておくことで、自分にイジメの被害が及ぶのを防ぐ効果や、その他の人たちの連帯感が生まれたり、という正の面があります。
ある人を生贄にすることで、他のみんなを助けたり励ましたりすることになる場合があるということです。

また、個人を中傷する言葉や、喧嘩をしかけるような言葉が踊っているインターネットの掲示板などもイジメが蔓延しやすい場所ですが、いろいろな自分のストレスや不満を、匿名性をいいことに解消しているのです。
これもイジメによる正(プラス)の面です。

このような観点から見ても、この社会はまさしくイジメを産み出す構造で成り立っていて、「イジメは絶対になくならない!」と言えるわけです。

何かを考える時にいつも自分中心的な考えが浮かび上がってしまったり、自分を何よりも一番大切にしてしまったりするような、個人主義的な環境があるなら、そこにはイジメが必ず付いて回ると言えます。


[❷ 分身主義的な視点から見たイジメ]
今度は、科学によって自然界様から教えていただいた視点から見てみます。それによるとイジメはどのように位置づけられるのか見ていきます。

科学が自然界様から得た回答は、あなたが、あなたの目の前に(というか目と連続して)カッチリとした境界線をもって存在している物体を「私」と捉えるのは、神経系が作り出す錯覚だということです。

例えば、怪我をして痛いのは他でもないこの身体だし、マッサージをしてもらって気持ち良いのは他でもないこの身体。この身体に張り巡らされている神経系が、そのような経験(=記憶)を積み重ね、他とはカッキリとした境界線を持って存在しているかのように見えているこの身体の内側が、「自分」なのだと錯覚をし始めたのです。

約140億年前に、ビッグバンによって目にも見えない小さな種から生まれたこの宇宙が、ものすごいスピードで膨張することで、その中の素粒子が原子を作り、それが自己複製する分子を作り、神経細胞を作り、やがて我々人間のような「自我」という錯覚を持つ脳が生まれてしまったのです。

錯覚の自分を知ってしまったことで、僕たちは、本当の自分を見失ったのです!

この社会は自我という錯覚を持った脳によって作られているので、あらゆる文化に自・他の意識が反映されます。
「自分の考え」「自分が作った作品」「自分の家族」「自分の国」そのような意識が浮かび上がる個人主義的な環境の中で、僕たちは生かされています。

だけど、真の科学から見れば、この宇宙にある万物は全て関わり合っているわけで、その意味で純然たる「あなた」や「わたし」などあり得ないのです。
つまり真の科学から見れば、あなたや僕の姿は、目の前の(と言うか目と連続している)物体なんかではなく、宇宙そのものだったんです。

一人一人が、自分の本当の姿を知らずに、神経系の作る自我という錯覚に翻弄され、あっちでもこっちでも自分を主張して騒いでいる姿が、まさしく今の人間たちなんです。

それを知った分身主義から見ると、イジメとは、まるで自傷行為です。
あなたが誰かをイジメる時、あなたは自分の身体の一部をイジメているのと同じです。

自傷行為とは、精神関連の本には、「自分で自分の身体をわざと傷つけることであり、それを行うことで一時的に当初の精神的な苦痛が緩和されたりする」
などと説明されています。

「一種のトランス状態に陥っているケースが多く、自傷行為をすることによって、一時的に当初の精神的な苦痛は緩和されたりするが、それは自分を傷つけた直後だけである。
やめたいと思っていたとしても、また新たな精神的苦痛を負うことによって何度も繰り返してしまい、常習化するケースがほとんどである。何度も切っているとその部分の感覚が麻痺してくるうえ、血を見ることに慣れてくるので、常習化はさらに進む」

手首を切ったり(リストカット)、爪を皮膚にたてて強く掻きむしったり、シャープペンシルなどを突き刺したり、身体を壁に強打したり、手などを噛んだり、爪を剥いだり、あるいは煙草などで皮膚を焼いたり、女性は胸を傷つけることや性器付近を切ることもあるそうです。

僕がまだ分身主義に出合う前の話になりますが、ある女性に、リストカットの跡を見せられたことがあります。
リストカットと言うくらいだから、手首の内側をちょっと切るくらいかなと思っていたのですが、長袖をまくると腕の内側全体に渡って無数とも言える数の傷跡がありました。
何でこんなことをするんだろう、と悲しくなりました。

話を聞いてみると自分とは別の人格が存在しており、自己否定の思考からリストカットをさせる、などというわけのわからないことを言っていました。
たぶん、解離性障害といわれる、記憶の障害を持っていたのでしょう。
ある雨の夜に、傘もささずにいつの間にか外に立っていた自分に気づいて恐くなったこともある、などとも言っていました。


「個人主義的な視点から見たイジメ」で見てきたように、僕たちがイジメによって得られる正(プラス)の効用は、実は自傷行為で得られる一時的な苦痛の緩和に過ぎず、それによって自分の身体(=全身=宇宙)はボロボロになってしまっています。

この社会からイジメをなくそうと心底願い、そして一生懸命それと闘っている人たち‥‥例えば教育制度を改革しようとか、先生の質を向上させようとか、親子関係を濃密にしようとか‥‥行動をしている人たちには頭が下がりますが、実はその人たちでさえ、それをすることで、自分の中の言葉にできない様々な怒りやストレスを緩和させたいだけなんです。

何故なら、彼らもこの「イジメの構造」を作っている個人主義的な環境に取り込まれて、そこから浮かび上がる意思によって行動させられているだけだからです。

イジメの構造の中で行動させられている以上、彼らの行動も結局はイジメを強化させることはあっても、決してなくすことなどできません。

僕たちを取り巻く環境が、個人主義的な環境から分身主義的な環境に移行しない限り、僕たちは永遠にイジメと縁を切ることはできません。
この言葉が正しいことを証明するには、多くの時間も説明も要さないでしょう。
あなた自身が、元々、それをわかっていたのではないでしょうか!?
「イジメは絶対になくならない!」と内心では思っているあなたが‥‥。

イメージで言えば、個人主義は、夏みかんの皮をむいて一房一房バラバラにして干乾びさせてしまったのに対して、分身主義は、まだむいたばかりの、みずみずしい一房一房って感じです。
しかも、その一房一房は、宇宙という一つの皮で包まれていたことを知っている一房一房です。( 「分身主義とは」より)

イジメる人も、イジメられる人も、みんなこの個人主義的環境の被害者であることを忘れてはいけません。

イジメる人=加害者、イジメられる人=被害者‥‥いい加減に、人々を縛っていたこの共通の誤解から解放されなければいけません。

そして、一つの皮で包まれていた一房一房であったことに世界中の人が気づいた時、僕たちを取り巻く環境は分身主義的な環境に移行します。
もしその環境の中で「いじられキャラ」の人がイジられても、それは決して今までのイジメに発展することはありません。

だから、今のこの「個人主義的な環境」が「分身主義的な環境」になる以外に、僕たちがイジメから解放される道はありません!

どんなに頭のいい人が話し合ったって、どんなに偉い人たちが法律を改正したって、どんなに良心的な言葉を唱える人が増えたって、それらが個人主義的な環境に置かれている僕たちの脳に浮かび上がった言葉である以上、そこから発信される言葉はみんなイジメを隠し持っているからです。



◆◇◆編集後記

せっかく非核三原則(核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず)を堅持してきた世界に誇れる日本だったのに、その中から、「核保有を論議すべきだ」などと今までの努力を無にするような情けないことを言い出す政治家が出てきて、悲しく思います。

その政治家は、「論議をすることで日本が核を持たない理由をしっかりと再認識し、北朝鮮や核保有国に対して、唯一の被爆国としての手本を示すべきだ」と言いたいのなら結構なことなんですが、そうではなくて、「日本も核を持つべきかどうかを論議すべきだ」と言いたいようなので残念なのです。

内心では、彼自身が核が必要だと思う気持ちがあるのでしょう。

それは彼の心の中に不安や恐怖があるからです。
彼だって環境に動かされている媒体ですから、彼が現在置かれている要職が、彼の脳に不安や恐怖心を浮かび上がらせてしまう環境なのですね!
そうと知れば、我らが分身さんを責めるよりも、哀れみの気持ちが湧きます。


政治家たちの中には、「核は他国からの攻撃に対する抑止力になる」という人たちもたくさんいます。

ノーベル賞をもらった湯川秀樹分身さんは、1981年に74歳で亡くなる直前まで、「核は抑止力にはならない」と言い続けました。

彼のような頭のいい人でなくても、核が抑止力にならないことなんてちょっと考えればすぐにわかります。

核の抑止力が有効な場合とは、「いつでも発射できる態勢にあるから俺たちには手を出すな」という「脅し」が効いている状態です。

脅されて強国の言いなりになるわけにはいかないので、自分の国も核を持って対抗しようとするのが人情です。
そのようにして多くの国が核を保有することになってしまえば「脅し」に頼った抑止力の効果は希薄になり、今度は、より破壊力のある核を作って対抗するしかなくなります。

そのように競い合うということは、地球壊滅の予定が、限りなく短縮されることを意味します。地球を壊滅させることができる程の優秀な兵器を作ってしまえば、どこの国も使えなくなります。
使えない兵器は、もはや「脅し」にもなりません。


それなら、核が抑止力になると考える人たちは頭が悪い人たちなんでしょうか?

そうとばかりも言えません。
彼らの主張も、ある環境(この個人主義的な環境)においては真理なのです。

湯川分身さんは、「核は(戦争の)抑止力にはならない」と言ってはいますが、全世界が核を廃棄した先に戦争のない仲良く生きれる世界を約束してくれているわけではありません。

彼はただ「核は抑止力にはならない」という当たり前のことを言っているだけで、その代わりに抑止力になるものを持ってきてくれて、「こちらを使いなさい」と言ってくれているわけでもありません。

この個人主義的な環境(=イジメの環境)の中に生きている限り、他国に対して何らかの脅威を見せ付けていられない国や、強国に媚を売っても守ってもらえない国は、自分たちがイジメられる側に回るだけです。
こんな中で自国の武器を手放したとしたら、無謀な自殺行為でしかありません。

問題なのは、核が抑止力になるかどうかではありません。

今、人類が生きているこの環境がイジメの体質であり、この環境が僕たち人類の脳に不安や恐怖を浮かび上がらせてしまうことが問題なのです。

もし、僕たちの脳に不安や恐怖が浮かび上がらないのであれば、どの国が好き好んで、あんな厄介な核など持ちたがるでしょうか?
核を捨てさせるには、人類の心から「恐怖」を取り除く以外にありません。


「核こそ抑止力である」などと主張する人たちの言葉は、悲しいかな、この個人主義的な環境においては真理であると言わざるを得ません。

その逆に、「核は抑止力にはならない」と命を懸けて言い続けてくださった湯川秀樹分身さんの言葉が真理であるためには、僕たちはやはり、核を安心して捨てることのできる分身主義的な環境を作るしかないのです。



NO.100 世界を平和にする愛 2007.01.01

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【愛とは、感情ではなく、理解することである】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
地球の分身仲間さーん、明けましておめでとうございます。
徳永真亜基分身です。

今年も、僕が心をこめて作った年賀状をお受け取りください。(文末に、年賀状と、初夢のプレゼントのリンク先を書いておきます)

‥‥と偉そうに言ってしまいましたが、1パーセントたりとも僕のオリジナルではありませんでしたね。
その証拠に、正月や年賀状という風習を作ったのも僕ではないし、年賀状に書く日本語を考えたのも、絵という表現方法を考えたのも僕ではありません。

僕たちは、ドミノ倒しのように過去からやってくる力に押されるままに、年賀状を書かされている単なる媒体です。

たとえ画用紙に引かれたたった一本の線であっても、宇宙万物の総力の結集だったのでした。

「じゃあ、オレはその力に抗って、年賀状を一枚も書かないぞ」と意気込んでいる人も、その人だって、そのような行動を取らされているだけなんです。やっぱり環境に抗(あらが)らされているのですよね。

今日、みなさんは何十枚かの年賀状を手にされると思いますが、みなさんの脳は現在、どっぷりと個人主義的な環境に浸かっているので、何年も会っていない方の年賀状を目にして、「○○さんかあ、懐かしいなあ、元気そうでよかったなあ」などといった感慨が浮かび上がると思います。

でも、せめてこのメルマガを読んでくださっている方には、もう一つ別の、次のような感慨も浮かび上がって欲しいと思うのです。

「まだ見ぬ世界中の分身さんたちの力が一つになって、今、一人の分身さんに降り注ぎ、彼を媒体としてこの一枚の年賀状が生まれ、自分の手に届いたんだなあ」

これは嘘でも大げさでもなく、科学が自然界様に教えていただいた真実なんです。

あなたの脳がそんな気持ちも浮かび上がる脳に変化しているなら、世界平和は間近です。
世界を平和にできるのは政治家でも神様でもNPOでもなく、あなたの脳です。


でも実際には、現在の僕たちは個人主義的な環境の傀儡(かいらい=操り人形)だから、いくら僕が分身主義的な環境の中に置かれた脳の話をしても、理解していただくのは難しいことです。

みなさんと同じ個人主義的な環境で生きている僕なのに、どうして僕のこの脳にだけは、分身主義的な環境の感慨が浮かび上がるのかと言うと、それは自然界様に教えを乞う科学が僕に気づかせてくれて、僕がそれを理解したからです。

それを理解したとたん、僕はほんのちょっとだけ今のこの個人主義的な環境の外に顔を出せたのです。

でもすぐにこの日常が、僕を個人主義的な環境に戻させますけどね。(笑)


すぐに戻りはしますが、初めはそれでもいいんです。
まずは、科学が自然界様に教えを乞い、いただいた回答をたくさんの人が理解すること‥‥それが一番難しいことですが‥‥それさえできれば、後は水が高いところから低いところに流れるようにすんなりと流れていくはずです。

ここから生まれた視点を、分身主義的視点と言います。

これからの僕たちは、少しずつでもいいですから、この視点も持てるようになる必要があります。

僕たちが今生きているこの個人主義的な環境は、もう修復も効かないくらいに傷だらけです。世界中で起こっている事件や事象を眺めてみれば、もう根本的な解決策も浮かばず行き詰っていることがわかり、誰一人としてこの個人主義的な環境の将来に希望を託す人はいないはずです。

この個人主義的な環境の中で生きているにもかかわらず、それでも将来に希望を持って生きていける人は、真実を見る目が希薄か、目先の楽しいことでごまかして真実を見ないようにしているか、将来は良くなると無理やり思い込もうとしているだけです。


僕たち人類が歩んでいる環境が崩壊の一途をたどる理由は、それは、「自然界と自分」との関係を間違って理解していたために、自然界に抗っているからなんです。

全身の力を抜いて自然界という水面にゆったりと仰向けに寝そべれば気持ちよく浮かぶのに、何とか溺れまいと手足をバタバタさせているのがこの個人主義的な環境における僕たちの姿です。

僕たち人類の環境は、遠からず、「個人主義的な環境」から「分身主義的な環境」に移行します。それが科学によって自然界様に教えてもらった「自然界と自分」の関係のあるべき姿だからです。

その日のために少しずつ、「分身主義的な環境」に置かれた脳に浮かび上がるイメージを想像して、脳を慣らしておきましょうよ。


正月早々、かたい話から始めてしまいましたが、実は、今日は、気持ちが明るくなる愛についての話をしようと思っていたんです。

まず、冒頭の「今日の一言」を見て違和感を抱かれる方もいらっしゃるのではないでしょうか?

普通、「愛」とは、母が子を思ったり、男性が女性を、女性が男性を好きになったり、自分の故郷や国に愛着を持つような「感情」だと思われているので、「理解」とは最も遠いものだと感じるかもしれません。

しかし、そのような「感情の愛」は、世界に争いを起こす元になるものだということを、『世界を平和にしない愛』で述べてきましたよね。

だけどそれとは反対に、「愛とは理解することである」という言葉を聞いて、なんとなくわかる気がする、と思ってくださった方もいらっしゃるかもしれません。
その方たちは、もしかしたら僕が「愛とは他人を理解することである」と言っていると勘違いされたのかもしれません。

徳永分身が言っている意味はそうではなくて、「愛とは“自分を”正確に理解することである」ということなんです。
「正確に」ということは、「科学的に」という意味で用いています。


今ここで、科学が僕たちをどのように捉えているか見てみましょう。

科学は、僕たちの脳の仕事は、24時間営業でひたすら錯覚をし続けることだということを発見しています。
既に失った腕の痛みを感じたり(幻肢痛)、夜の海を泳いでいて足に絡みつくワカメを溺死した人の手と思ってしまって、慌てて逃げようとして浅いのに溺れてしまったり、好き嫌いで人を判断してしまったりします。

それだけでなく、泣いたり笑ったり落ち込んだりと忙しい僕たちですが、全て犯人は脳の錯覚です。

そして僕たちの錯覚の最大のものはと言えば、「自我」です。

このように錯覚を旨とする脳に、四六時中翻弄されているのが、科学が正確に捉えた僕たちの姿です。


自我という錯覚は、好むと好まざるとにかかわらず、自分たちを取り囲むこの環境を個人主義的な環境にしてしまいます。

今、個人主義的な環境に置かれたあなたの脳は、まるで冷蔵庫のような狭い空間に閉じ込められ、厚い壁に囲まれて、喘ぎながら生きているような感じではないでしょうか?
自分で作ってしまった厚い壁ですが、その壁に守ってもらわなくてはとても生きていけないようにさえ感じていませんか?

「私は自らの人生の持ち主(=主人公)である」

それが、この個人主義的な環境が、僕たちの脳に浮かび上がらせている感覚です。

その感覚が自分の周りに在りもしない敵を作り上げてしまい、際限なく膨らみ続ける敵という幻想に脅えて生きているのです。

だけど、それらの感覚が単なる神経系の作っていた錯覚に過ぎなかったとわかった時、僕たちは自分を正確に理解します。

僕たちこの宇宙の万物は、決してカッチリとした境界線を持って存在していたわけではありませんでした。


僕たちは今までの「個人主義的な環境」が自分を愛する気持ちを浮かび上がらせていたように、いずれは「分身主義的な環境」の中で自分を愛する気持ちが浮かび上がるようになります。

それこそ、このメルマガのテーマである、世界を平和にする「自己愛」です。

何故って、分身主義的な環境が浮かび上がらせる「自我意識」とは、この宇宙とイコールだからです。
あなたの周りの全てが「自分」であり、あなたが自分を愛することは、すなわちこの宇宙の万物を愛することとイコールです。

イコールとは、主従の関係でも相似や縮図の関係でもなく、全く同じもの(同価)ということです。

その科学的真実を自分で再認識するためにも、そして、皆さんにお伝えしていくためにも、今年もこの 『世界を平和にする「自己愛的生活」』、書き続けて(いや、書かされ続けて)いこうと思います。

‥‥と今回は珍しく短くまとまりました。



◆◇◆編集後記

徳永分身だって完全無欠の分身主義者を目指しているだけであって、例えば会社に嫌な人間がいれば、「あんな奴辞めちゃえばいい」とか、「首になればいい」などと願ってしまいます。

でも、あなたと違う点は、それらが個人主義的な環境に置かれた僕の脳に浮かび上がってきてしまうだけのものであることを、知っている点です。

そして、僕はこんな自分がどうすれば変われるかを知っている点です。

それは、環境が変わるしかないと‥‥。

もう一つ、徳永分身があなたと違って知っている点は、環境を変える方法です。

この環境を変えるには、「分身Blog」です。


僕たちは一方ではこの個人主義的環境の日常の中で、人を恨み、人を批判し、自分は正しいと主張してはいますが、しかしその一方、「分身Blog」の中では全ての人を自分と同じように愛し、決して恨まず生きることができます。

やがて、仮想現実が、僕たちの日常を塗り替えることができます。

何故って、僕たちの日常も、実は仮想現実だったんです。

インドの脳科学者ラマチャンドラン博士分身さんが言うように、僕たちの見ている現実とは、過去の記憶に歪められて見ている幻覚のことだったからです。「人間は皆、いつも幻覚を見ている。その中で一番現実に合ったものを選んでいるに過ぎない」とも言っています。


あなたが本当の幸せを、そして本当の心の平安を持てるようになるには、世界が平和(世界中の人たちが不公平感や不満がなく、仲良く生き、祝福の中で死んで行ける世界)になるしかありません。
世界が平和になるためには、この環境が変わり、僕たちの脳に浮かび上がる感情も変わらなければなりません。

その方法は、たった一つしかありません。

今の日常の「個人主義的」環境とは違う世界に自分を置く場所を作ることです。

その場所が「分身Blog」です。

世界を平和にできるのは神様でも政治家でもありません。
神様も政治家も、この環境の内側にいて、この環境に作られ操られているだけで、この環境の持つ体質は一向に変えられません。
変わっているように見えても、それは上下や左右が入れ替わっているだけなんです。

世界を平和にできるとしたら、この環境を知った(つまり、ちょっとだけこの環境の外側に顔を出すことに成功した)脳が増えることだけです。



NO.101 愛すべきモンスター(5)(小澤勲分身さん‥認知症を超えて生きる) 2007.02.06

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【この自然界の中で身体が見せるある適応症状に対して、我々の心がそれを受け入れることができない場合を、病気と命名するだけである】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
地球の分身仲間さーん、こんにちは、徳永真亜基分身です。


高齢化社会に突入したせいか、このところ世間では、認知症と呼ばれる現象への関心が急激に高まってきているように思うのですが、あなたはそのようにお感じになりませんか?

NHKなどでは、認知症に関する番組を放送していない日はないと言ってもいいくらいではないでしょうか?

このことは、今まで僕たちが目を背けてきた自分と向き合わなければならなくなることなので、むしろ、僕たちが真の自分を知るためのいい契機となってくれるような期待を寄せています。

僕たち人類が次のステップへ踏み出すために、自然界様が課してくださった大いなる試練であると思っています。

そこで今回の愛すべきモンスターは、今までも何度か登場していただいている小澤勲(おざわ・いさお)分身さんです。

長年、病院や老人保健施設で痴呆ケアーに携わってくださっている精神科医のお医者様で、現在、69歳になられます。
大学の教授や老人保健施設の施設長などをされているのに、少しも偉ぶったところがなく、この人なら信頼できるなと感じさせてくれる方です。

小澤分身さんは、ご自身が癌に侵されて辛い状態であるにもかかわらず、今も献身的に認知症と呼ばれる方たちに寄り添うケアーを実践してくださっています。昨年の5月15日には、NHK教育テレビの『福祉ネットワーク』にも出演されていました。

「認知症・その人の心に寄り添う」と題したそのインタビューの中で、次のような印象的な言葉を語られています。

「認知症で何が一番恐いかというと、他人に迷惑をかけると思うこと。それは周囲の人が適切な手を差し伸べてくれれば恐くなくなる。周囲の環境に、忘れてもいいんだ、できなくてもいいんだという雰囲気が生まれれば、暴力・妄想も次第になくなる。妄想とは自分を認めたくないための自己正当化から生まれるものなんです」

ここで言っている「恐い」というのは「心配や不安に思う気持ち」のような意味だと思いますが、認知症という現象に巻き込まれてしまった、その当事者の感じる「心配」や「不安」は、その周囲の人の感じる「心配」や「不安」も反映していると僕は考えています。

彼がこの言葉の中で言いたいことは、認知症になったら本人も家族も悲惨な運命をたどるしかないというのは、全く間違った古い認識である、ということではないでしょうか。

認知症に対して抱く僕たちの心配や不安は、周囲の環境(=認知症に対してまだまだ無知な社会)が作り上げてしまっている幻想に過ぎない、というようなことを言っているような気がするのです。

認知症になると、イライラしてわけのわからないことをわめいたり、暴れたり、暴力が始まったりします。
それは、今まで普通にできていた自己表現や日常の行動ができなくなり、そんな自分に対する苛立ちや、他人に迷惑をかけているという苛立ちが彼らの心の中にあるからです。

しかしその苛立ちは、周囲の人たちの認知症に対する正しい理解と受け入れによって、和らげることができるようです。

と言うことは、彼らの苛立ちというのは、実はこの社会が認知症に対して抱いている「心配」や「不安」、それに「嫌悪」などの気持ちが反映されてしまっていた、と言えなくもないのではないでしょうか。


認知症になってしまった人たちの我がままで反抗的な態度に、介護師たちもホトホト困り果てていたところ、それまでの禁止的な態度から受容的な態度に変えてみたとたん、暴力もなくなり、それまで見せてくれたこともなかった笑顔すら見せてくれるようになることがよくあるそうです。

それは、周囲の人たちの気持ちの中に認知症を受け入れる余裕が生まれたことで、それが彼らの心に反映され、彼らの心の中にあった苛立ちが消えたせいだと思います。

そんな彼らを分身主義的な視点で見ていて思うことは、「やっぱり彼らもこの環境の中で動かされている機械に過ぎないんだな」ということです。
環境が彼らにあのような行動(=反応)を取らせているだけなので、環境が変われば彼らの行動が変わるのも当然のことなのです。


先日、少子化の解消策として、「子供を産む機械(=女性)の数は決まっちゃっているので、後は一人頭で(たくさん産むように)頑張ってもらうしかない」といったとんでもない発言をして批判を浴びた大臣もいましたが、そして僕も、彼の立場からあんなことを言われては実際腹が立ちますが、僕の言う「機械」の意味はそれとは全然違います。

彼の場合は、大臣という立場に置かれてしまったことによって、あたかも自分がその機械を動かす優位な人間であるかのような勘違いをさせられてしまっているところに来て、それでうっかりあんな発言をしてしまったから問題だったんです。

僕の場合は自分を含めて人間はみんな自然界の機械だ、という立場で発言しているのです。
むしろそのことを認めたがらず、あたかも自分たち人間は、この自然界の中では機械以上の存在で、自然さえも作り変えることができる特別な存在だと思いたがる姿勢こそ傲慢なものだと思います。

たとえ自然を自分たちの都合に合わせて作り変えたとしても、それはあくまでも、自然を作り変えるように自然界様に動かされた機械なのです。
もちろん、偉そうにこのメルマガでしゃべっている僕だって、自然界様にしゃべらされている機械です。

ただし、僕が言う「自然界様に動かされている機械」というのは一つのたとえであって、実は、僕たちは自然界そのものであるということを言いたいのです。

自然界のあらゆる振る舞いには意味も目的もなく、ひたすら法則に則って動いているだけですから、その中の機械と言ったところで、何かの目的、例えば子供を産むなどといった目的のために動かされている機械では全くありません。

だから僕が言う「自然界に動かされている機械」と言った場合、自然界と自分が一体になっている状態をイメージしていただきたいのです。

僕たちが自然界の機械(あるいは操り人形)であったことに気づくことは、この宇宙万物と手をつないで一つになることを意味します。

その時感じるイメージこそ、真の僕たちの姿なんです。

今、あなたが固執している「自分」とは、あなたや周囲の人があなたの身体の中の神経系に見させている錯覚に過ぎないんです。

僕たちに争いや犯罪や戦争を起こさせているのは、僕たちの心の中に、「自我」という錯覚に基づく恐怖や欲望や感情があるからです。
「自我」という錯覚の虜(とりこ)になってしまっている僕たちの脳に、自ずと浮かび上がってしまう恐怖や欲望や感情です。

つまり、遠い昔人類が「自我」に目覚めてしまった段階で、「他者」という敵が生まれてしまったせいです。

科学は長い年月、自然界様に質問を続けて、ようやく、僕たちの「自我」は神経系の作る錯覚に過ぎないという答えを聞き出しました。

今、科学が導いてくれた分身主義は、僕たちには敵など存在しないことを教えてくれています。
僕たちの現在の「自我」は、神経系の作る錯覚で、僕たちの真の姿は、この宇宙そのものだと教えてくれています。

今の僕たちは、実際にはどこにもいない「自分」という幽霊を見ているようなものなんです。
幽霊でしかないものに翻弄されて、いい気になったり、威張ったり落ち込んだり、妄想の敵を作って恐がったりしていただけだったんです。

もし世界中の人たちが、自分は自然界の機械(あるいは操り人形)であることを認めた時が来たら、その時こそ、認知症の問題など少しも大した問題ではなくなります。

何故なら、その時はもう、認知症とか病気とかいう概念も、障害者とか健常者とかいう概念もなくなり、そこから僕たちの脳に浮かび上がる感情は、みんなで助け合って生きることに喜びを感じるだけの社会に変貌しているわけですから。

この宇宙と一体となった僕たちが誰かのことを助けるとしたら、それはそのまま自分を助けることになるわけですから。


小澤分身さんの話に戻りますが、彼は5年前、肺がんの全身転移を告知されたそうです。

それについて彼は次のように語っています。

「がんになって、一番うれしかったのはいろんな人の人情。病になったおかげで、いい出会いがあった。痴呆の人も、痴呆を病むというマイナスを抱えながら、別の豊かな世界を確保できるはずだという確信が深まった」

いい言葉だと思いませんか?

だけど、小澤分身さんの目は、癌や痴呆になった人たちだけに注がれていて、彼らに対して優しさのこもった言葉を投げかけてくれていますが、癌でも痴呆でもない僕たちのことはあんまり考えてくれていません。

その「豊かな世界」っていうのは、癌や痴呆になった人たちだけの特権で、僕たちには体験できない世界なんでしょうかね?
そんなのは不公平ですよね。(`ε´)

癌でも痴呆でもない僕たちだって、彼らに負けず劣らず様々なマイナスを抱えて生きています。
そんな僕たちだって、彼らが体験できる豊かな世界に連れて行ってもらう権利くらいはあるはずです。

小澤分身さんは、次のように語っています。

「生老病死という生命の流れ。痴呆もその中の自然な過程の一つとして、周りの人たちや地域、社会全体が受け入れることができれば、痴呆という難病を抱えても生き生きと暮らせる」

彼は、認知症などというものは、僕たち人間の想像力が作り上げてしまった病に過ぎないということに気づき始めているのではないでしょうか?

本当は、この自然界には病気などというものすら存在しないのです。

この自然界の中で身体が見せるある特定の適応症状に対して、我々の心がそれを感情的に受け入れることができない場合を、我々が病気と命名しているだけなんです。

科学的に言えば、僕たちが病気と呼んでいるものは、それがその人の身体が自然界に適応している状態なんです。

ところで、今、偉い先生に向かって、「気づき始めた」などと生意気な言葉を使ってしまいましたが、分身主義を皆さんにお伝えするためには、ちょっとくらい刺激的な言葉で表現する必要があるので、敢えて生意気に語るのですから、そのことに免じて失礼をお許しください。

さて、その「気づき始めた」偉い先生は、少なくとも「認知症に対して周囲の人たちの捉え方が変われば、認知症なんて少しも恐くなくなるし、むしろ生き生きと暮らせる」と言っているわけですが、実は、分身主義が目指しているのは、このもう一つ先の世界なのです。

癌でも痴呆でもない僕たちだって、不安や恐怖もなく生き生きと暮らせる世界です。

僕たちの周りの人たちや地域、社会全体が「ある真実」を受け入れれば、いいえ、この地球に暮らす全ての人が「ある真実」を受け入れさえすれば、もう僕たちは明るく仲良く不公平感も不満もなく生きて、安心感に包まれて死んでいける日が来るんです。

だって全てが自分なのに、そこに不満や不公平感が生まれるわけないじゃないですか!?

その、僕たちが受け入れなければならない「ある真実」とは何か?

あなたにはもうわかっていますよね。

それこそが分身主義が僕たちの心に浮かび上がらせてくれる喜びです。
「僕たちは誰一人として例外なく、この自然界に動かされている機械である」という安心感です。



◆◇◆編集後記

痴呆になったら、本人も家族も、悲惨な運命をたどるしかないというのは、全く間違った古い認識だということがわかり始めてきました。

僕たちはそろそろ認識を改めなければいけない時代に入ったようです。

それと共に、僕たちだって彼らと何ら変わらない自然界の機械である、という謙虚な認識も持てるようにならなければいけません。
彼らを上から眺めて助けてあげるのではなく、彼らにも助けてもらう気持ちを持って、機械に過ぎないお互いを憐れみ合い喜びを分け合って生きれるようにならなければいけません。

「機械」という言葉を聞いてすぐに拒絶や反感が浮かび上がるのは、それは僕たちの脳があまりにも個人主義的な環境に浸かり過ぎていたから、というだけの話です。

この脳が分身主義的な環境に置かれれば、拒絶や反感よりもむしろ安心や喜びが浮かび上がります。

その美しい認識に染められた環境からは、犯罪も争いも戦争も生まれてくる素地がありません。
犯罪も争いも戦争も、僕たちの「自我」という錯覚が作る環境が生んでいるだけだったんです。

僕たちを傲慢にするその錯覚が‥‥です。



NO.102 所有しない生き方 2007.04.17

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【完全無欠の分身主義者になるということは、なにものをも所有しない人間になるということである】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
地球の分身仲間さーん、こんにちは、徳永真亜基分身で~す。
と元気そうに始まりましたが、実はあんまり元気ではないんです。


前回のメルマガを発行してから、なんと2か月以上も音信不通でごめんなさいでした。
弁解するわけではありませんが、世界を平和にする自己愛的な生活をサボっていたわけではありません。むしろ今まで以上に頑張っておった次第でございます。

世界を平和にするための自己愛的な生活を模索しようという意図のもとに始めたこのメルマガ(2003年2月11日創刊)でしたが、翌年の5月13日にその結論めいた「分身主義宣言!」なるものをさせていただきまして以来、今ではこのメルマガの内容も完全に分身主義一色になっていますが、来年からは、その分身主義の普及(目標は、世界中の人が一人残らず手をつなぐこと)に向けて頑張ってみようと思っているので、そのための下準備に追われていたのです。

その一環として、まずは実績を作るためにも、以前から書きたかった分身主義のメッセージを込めた作品を三つは完成させてしまおうと考えたのです。
一つは『自分という分身(不安を抱えて生きる全ての人へ)』という作品ですが、こちらはもう2年以上も前から構想は立てていたにもかかわらず、あまりにも大事にしすぎて眠らせている状態だったので、ここらで一発、集中してかかろうと思い、メルマガの執筆は少し休んで、そちらに没頭させていただいていたわけです。
そしてついに今月の初めに完成し、後は「あとがき」を書くだけというところまで辿り着きました。バンザーイ!

‥‥と、ホッとした矢先、な、なんと、突然、パソコンが起動しなくなってしまったのです。
いろいろ試してみましたが、どうしてもダメなのでメーカーに問い合わせると、再セットアップをしてみてそれでもダメなら修理をするしかないということでした。
でも、パソコンがちゃんと起動してくれないのでデーターのバックアップが取れず、再セットアップをしたとしたら、不眠不休(?)で書き終えた作品までも一瞬にしてパーにしてしまうのです。
かと言って修理に出せば、ハードディスクの交換になるかもしれないということなので、データーを失う可能性はもっと高くなります。
作品を書き上げるために全身全霊を傾け、今はまさに精も根も尽き果てた状態なので、あれをもう一度最初から書き起こす力なんてどこにも残っていません。
茫然自失でした。

僕がこんなにショックを受けている理由は、それは僕がパソコンの中に、失いたくない何物かをたくさん「所有」していた‥‥からですよね。
一生懸命コツコツと作ってきた作品類やホームページのためのこまごまとしたファイル類、それに読者の方々のメールアドレス、いろいろなところにアクセスするためのパスワード‥‥それらが自分の「大切な物」でも何でもないなら、ショックを受ける理由なんてどこにもないわけですから‥‥。

今の心境は、まるで、思いもかけない落雷に遭って一瞬にして何もかも消失してしまったような感じです。

大きな落雷がこの家に落ちたら、それまで何十年と培(つちか)ってきた大切なものを一瞬にして破壊してしまいますよね。
家族を失ったり、思い出の詰まった品々を壊してしまったり、何十年も愛用してきた道具が使い物にならなくなってしまったり‥‥他の物では掛け替えがきかないものを一瞬にして失います。
もちろん何十年も住んでいた家もですし、それまで生きていく上での張りとなっていたものや支えとなっていたものさえも。
まさか自分だけはそんな目に遭わないだろうと誰もが思っているのですが。

だけど地震やどんな悲惨な被害に遭ったとしても、それほど悲しむことなく生きる方法が一つだけあります。
何かを所有しないことです。
一緒に暮らす家族も、大切に思えるほどの品々も、愛用する道具も、自分の家も財産も所有しないことです。
失ってもほとんど失ったとは言えないくらいの必要最小限のお金と、少しの洋服を持っているだけ‥‥くらいになればいいんです。

物だけに限りません。
地位や名誉やプライドも持たず、大切な思い出も趣味も持たず、また、夢や希望などという大層なことなど考える脳も持たない人間になることです。
しかも、何があってもニコニコ笑っていられる正真正銘の馬鹿になれたら、周囲の人たちも引き立ててくれるので申し分ありません。

と言っても、正真正銘の馬鹿になるのは簡単なことではありませんよね。
それは天性のもので、なろうと思って誰でもなれるものではありません。

だけど実を言うと、分身主義の目指している場所は、そこにあったのです!


いつも難しい理屈ばかりをこねている僕ですが、分身主義の目指している場所は、実は難しい理屈とは正反対の、天性の馬鹿にしか到達できないような場所に到達することです。

つまり、なにものも所有しない境地です。

それは、とらわれる何物も持たないということと同じです。

そんな境地に至るためには、何十年も苦しい修業を積まなければ無理だと感じるかもしれません。
人間というものは、本当は馬鹿になることはできないからです。
いろいろと考えてしまう脳を持つのが本来の人間だからです。
だから「馬鹿になれ」と言われるくらいなら、いっそ「もっと勉強して利口になれ」と言われた方がよほど簡単なことなんです。
それだからほとんどの人がそちらを選ぶか、あるいはどっちつかずの場所でうろついているわけです。

でも、逆説のようですが、もっと勉強することで僕たちは天性の馬鹿にしか到達できないような境地に到達することができます。
ただ、学者になるくらいに猛勉強したとしても、その方向性が間違っていたら同じことです。
真の科学とは何かを知って、その視点でもって科学が解明していることを勉強して、それを理解することが大事です。

僕たちの身体や脳の習性を目覚ましいスピードで解明しつつある科学を、真の科学の視点でもって勉強していくと、僕たちの自我(これが自分であると自分で思っているところのもの)とは、実は錯覚を旨とする脳の見る幻であって、本当の僕たちの姿は、この宇宙の中でどこにも境界線など持たない存在だったと教えてくれていることに気づきます。

境界線がないということは‥‥つまり宇宙こそ僕たちの真の姿だったんです。

今、目にしているこの身体という境界線は、宇宙的な時間から見れば変化の過程に見せているほんの一瞬の姿でしかなく、しかも人間的な時間から見ても、この一瞬一瞬にもそれを形作っている細胞は入れ替わっているというのが実情だったんですから。

自分とは、‥‥まさに神経系の見ている幻です。


簡単に言ってしまえば次のように言えます。
脳細胞だけは唯一細胞分裂をしないのですが、その脳細胞の生理的な特色である可塑性(反応の仕方を保持する性質=記憶)が、身体中に張り巡らされている神経系と連動することで‥‥、もっと正確に言えば、そこに言葉が介入されて、見させられている幻影(=一時的な境界線)を自分の身体と思い込み、そして脳の中に自我という幻想が作られていたわけです。


その仕組みを知ってしまった僕たちに、一体所有できる何があるというのでしょう!?

所有するために前提とされる、このちっぽけな境界線を持った自分もそこにはいません。
僕たちはこの宇宙の中で、自分のモノなんて何一つなかったことに気づかされます。


社会に目を向けてみてください。
錯覚を旨とする脳に僕たちは翻弄されて、「これは自分たちの土地だ」「いや、それは私たちのものだ」とか、「責任はあなたたちにある」「いや、あなたたちの方こそ謝罪をしてくれ」などとやり合っているけど、こんな幼稚な話し合いが国際社会の実情なんですよ。

僕たちは大人と言っても、成人式を終えたとか、就職をしたとか、子供を作ったとかいう形ばかりのことで、実際はまだ何にも知らない子供とまったく一緒だったんです。
それなのに自分たちで勝手に、まるで完成品とでも言わんばかりに「大人」と呼び合って、それで子供と区別して、子供の見本のような顔をして一方的優位な立場に立ち、偉そうに子供たちに教育やしつけをしたり、また昨今の子供たちの荒廃ぶりを憂えたり、更生させようとしたりしていますが、本当は、大人と呼んでいる僕たちの心が彼らに反映していたなんて誰も考えもしません。

大人と呼び合っている僕たちの心の実情は、自我というありもしない幽霊を信じて、不安になったり縁起を担いだりしていたようなものだったんです。
あるいは、大勢で一つの映画を見ているので、それを現実と勘違いしているようなものだったんです。

インドの脳科学者ラマチャンドラン博士は、「現実とは、脳が過去の記憶に基づいて見ている幻覚のことである」と言っています。

僕たちが幽霊や映画の中の物事を現実であると錯覚しても、それは世界中の人が同様に錯覚しているので、誰もそれが幽霊や映画の世界のことであるなど疑う人が出てこないのは当たり前です。

僕たちは、どんなに苦しい修行を積んでも絶対に馬鹿にはなれない人間という悲しい生き物に生まれてしまった以上、むしろそのまま突き進んでみようではないですか?

真の科学とは何かを考え抜いて、そして徹底的に科学的な視点でもって勉強してみようではないですか!?
その先には、天性の馬鹿にしか到達できない境地、どんな被害に遭っても悲しみや苦悩とは無縁の境地に至る分身主義が待っています。

今、僕たちは「自分」という実際には存在しない地縛霊にとりつかれ、脳といういたずら好きのスクリーンに映し出された映像を現実と勘違いして生きていますが、それらが全世界の人の共通の錯覚なので誰も疑わないように、もし世界中の人たちが、この宇宙こそ自分の真の姿だと了解し合う人たちばかりになったらどうでしょうか?

今の僕たちの脳を取り巻く環境は、個人主義的な考え方を思い浮かばせるような環境なので、やたらと自分の身体を守るような行動ばかりを取らされていますが、宇宙こそが自分の真の身体であったことを了解し合う環境になったならば、そこから浮かび上がる考え方は分身主義的なものばかりになります。

今まで自分の身体にばかりに気を遣っていた健康オタクのような人は、宇宙に気を遣う宇宙環境オタクになるでしょう。
また、「イジメ」や「犯罪」や「戦争」をやってしまう人たちは、むしろ人を救う行為ばかりを行ってしまう結果になるでしょう。

ちなみに、分身主義とは、なにものも所有しないものと言いましたが、家族を捨てろとか、財産を捨てろとか、地位や名誉やプライドを捨てろとか、大切な思い出や趣味を持つなとか言っているのではありませんので、誤解のないようにお願いします。

なんかそんな宗教ありそうですね。
それは全部巻き上げるためにやっているんです。

分身主義は、家族も財産も地位も名誉もプライドも思い出も、決して個人のものなんかではなく、みんなによって作られているものであると知っているだけです。
だから巻き上げるわけではありません。元々誰のものでもないのです。

空気は誰の所有物でもなく自然界に作られているだけのものですよね。
それを知っている僕たちは、空気に対して、誰も所有しているとは言わないのと同じです。

だから、家族も財産も地位も名誉もプライドも思い出も趣味も、環境に作られているだけだと知った分身主義は、もしそれらがそこに在っても、もうそれらを所有しているとは考えなくなるのです。
要するに、それらにとらわれることがなくなるのです。

パソコンが壊れたくらいで大慌ての僕ですが、だからこそ早く、なにものをも所有しない生き方ができる完全無欠の分身主義者になりたいと思うのです。

完全無欠の分身主義者になった時というのは、世界中の人が自分の真の姿を知った時のことです。
世界中の人が一つになって、その姿こそ自分の姿(全身)であったことに気づいた時のことです。

今までもそのことをわかっていただこうといろいろと頑張ってきましたが、分身主義は僕の口から語られている間は、誰にも伝わりません。
今年は三つのメッセージ作品を書くだけでなく、世界中の人たちに出会ってこようと思っています。
それも分身主義の普及活動(目標は、世界中の人が一人残らず手をつなぐこと)の下準備です。
来年からはもっとみなさんのお力にお頼りして、普及活動に励む心づもりですので、よろしくお願いいたします。
まだ来年のことを言うのは早すぎましたね。


次回は、真の科学がいかに大切かということを、ある小学生たちに行った実験結果を例にあげてお話したいと思います。
どうして分身主義が、これほどまでに「真の科学」だけを頼りにしているのかを、わかっていただきたいと思うからです。



◆◇◆編集後記

パソコンが壊れてしまった日、三時間後には新しいパソコンを買いに走っていました。
世界を平和にするための自己愛的な生活は、休んでいる暇を与えてくれません。
これが新しいパソコンで書いたメルマガ第1号です。
Vistaのパソコンは動作はのろいし、まだ使い慣れていないのでなかなか大変です。



NO.103 事実? 意見?(1) 2007.07.04

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【人間は決して、事実を事実のままに認識することはできない。 認識とは事実を言葉に置き換える作業だからである】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
地球の分身仲間さーん、こんにちは、徳永真亜基分身です。

また長いことメルマガの発行ができませんでした。
でも、世界を平和にする自己愛的生活は今まで以上に実践していますし、着々と世界平和への計画も進んでいますのでご容赦ください。
前回のメルマガで次のようにお約束しましたね。

次回は、真の科学がいかに大切かということを、ある小学生たちに行なった実験結果を例にあげてお話したいと思います。
どうして分身主義が、これほどまでに「真の科学」だけを頼(たの)みにしているのかを、わかっていただきたいと思うからです。


お約束どおり、今回のメルマガはそのことについて書こうと思うのですが、実はこの話は、昨年の10月から、いつかは書こうとずっと思っていたことだったのです。

みなさんは、NHK教育テレビの小学5・6年生向け番組、『わかる国語 読み書きのツボ』などは、もちろん見ないと思いますが、昨年の10月18日に放送されたその番組(タイトルは『事実?意見?』)の中で、小学生を対象にある興味深い実験が行われました。

それをこれからお話します。

その日の出演者は、光浦靖子分身さん、パペットマペット分身さん、そして司会の徳田章アナ分身さんでした。
パペットマペットさんってご存知ですか?

パペットマペット


ちなみに、インターネットのフリー百科事典『ウィキペディア』には、冒頭に次のように紹介されています。

パペットマペットは、ウシとカエルの動物2匹からなる漫才コンビ。
通称:パペマペ。
かわいらしい外見でブラックユーモアをこめた掛け合いをネタとしている。
うしろに黒子がいてネタにも登場するが、いないことになっている。
テレビの共演者が何気なく黒子を指差して喋った時等は、カエルくんがどこ指差してんだよ!」と突っ込む。
「僕らの後ろに黒子的なものが見えた人は、目医者に行くことをお勧めする」とも。

右手と左手に、腹話術のようにウシとカエルの人形を持って、黒子(くろこ)に扮したある芸人?が普通にしゃべる例のアレです。
どちらにしても黒子はいないことになっているらしいので、言葉をしゃべれるウシくんとカエルくんが、ある学校を訪れて、ある実験をしたと思ってください。

では、その時の状況を説明します。
ある日、ある小学校(杉並区立高井戸第四小学校)に、ウシくんとカエルくんが訪れました。
そこでカエルくんは、そこにいる30人くらいのみんなに、自分の書いた次のような文章を読み上げます。

「ウシくんはけちだ。誕生日に本をくれた。きたない本だった。『何回も読んだよ』と(ウシくんは)言った。読みあきた本をくれるとは、本当にけちだ」

この文章を聞いて、「あなたは、ウシくんはけちだと思いますか?」と、いないはずだった黒子が聞きました。
すると、ほとんどの子どもが、「ウシくんはけちだと思う」という意見でした。

「誕生日には新しいものをあげるのに、いらなくなったものをくれるのはひどいと思う」と、ある女の子は答えました。

さて、この番組のタイトルは「事実?意見?」ですが、まず、事実と意見、どう見分けるかを、番組では次のように整理していました。

・事実とは、「本当にあったこと」や「誰でも確かめられること」。
・意見は、「その人が “考えた” こと」。

番組が次にやったことは、この文章をわかりやすく5つの文に分けることでした。

1、ウシくんはけちだ。
2、誕生日に本をくれた。
3、きたない本だった。
4、『何回も読んだよ』と(ウシくんは)言った。
5、読みあきた本をくれるとは、本当にけちだ。

そしてそれぞれに、事実か意見かを子どもたちに検証してもらうことになりました。

まず、「1、ウシくんはけちだ」についてです。
これはカエルくんが勝手に思っていることだから「意見」だ、というのがみんなの答えです。

「2、誕生日に本をくれた」は、汚い本だったけどウシくんはちゃんと本をくれたから、全員が「事実」だと考えました。

次の「3、きたない本だった」は、「事実」だと思う人と「意見」だと思う人に分かれました。
「事実」だと思う人の理由は、「実際にウシくんがくれたのはぼろぼろの本だったから、事実としてきたない本だった」というものです。
「意見」だと思う人の理由としては、「何回も読んだからといって、きたないとはかぎらない」や、「きたない本かどうかは見た目や人によって違うと思う」でした。

「4、『何回も読んだよ』と(ウシくんは)言った」は、本当にウシくんが言ったことだから、という理由で、全員が「事実」だと答えました。

最後の「5、読みあきた本をくれるとは、本当にけちだ」は、カエルくんが勝手に決めつけていることなので「意見」だ、というのが全員の答えでした。

みんなの答えをまとめると、「ウシくんはけちだ」、「きたない本だった」、「読みあきた本をくれるとは、本当にけちだ」の3つの文が、「意見」。

「誕生日に本をくれた」、「『何回も読んだよ』と(ウシくんは)言った」の2つの文が、「事実」でした。

この結果をふまえて、黒子の方がもう一度みんなに尋ねます。
「ウシくんがけちだと思うひとーっ!?」

すると最初とちがって、ウシくんをけちだと思う子どもは誰もいなくなりました。

「何回も読んだということはおもしろかったということで、その本をカエルくんにあげたということは、けちじゃないと思う」という意見まで出てくる始末です。

その他に、「どちらとも言えない」という意見の子どもも何人かいました。
本が汚いというのも、ウシくんがけちだというのも、「意見」だから、本当はどちらなのかわからない、と考えたのです。

つまり、「どちらとも言えない」という意見の子どもも含めて、全ての子どもが「ウシくんをけちだ‥‥と結論づけることはできない」という“意見”に一致したたわけです。

そこでカメラはスタジオに戻されます。
「なるほど。わたしもすっかりカエルくんにだまされるところでした」と光浦分身さん。


さて、この実験によって『わかる国語 読み書きのツボ』では、子どもたちに何を教えたかったのかというと、次の点です。

文章には事実と意見が混ざっている。
だから文章を読む時は、事実か意見か、しっかり区別して読むことが大事である。
そして、どれが事実でどれが意見かを意識して読むと、「客観的」な判断ができるようになる。

なるほど、なるほど。
これは世界平和に使えそうです。
常に、事実と意見を意識して「客観的」な判断をするように心がければ、偏見や差別はなくなり、世界中の人の考え方にブレがなくなりそうです。

ある国では「これは正しいことである」と言うのに、ある国では「それは間違ったことである」と言ったり、ある国では「それは悪である」と言うのに、ある国では「これは善である」などと感情的に判断して意見が分かれることはなくなり、なんとなく世界が一つになれそうです。

どうです!?
いい考えだと思いませんか!?

それなのにあなたはきっと、世界中の人たちが同じ考え方になることなんて絶対にあり得ない、と否定するに違いありません。
誰だってそう感じるに違いありません。
それはどうしてでしょうか?

世界平和などというと、自分とは遠い世界の話のように感じる人がいるかもしれませんが、世界平和とは、本当は「あなたの幸福」と言い換えることができるんです。
だったら、何をさて置いてもやらなければならない一大事ですから、よく考えてみてください。

「世界中の人たちが同じ考え方になることなんて絶対にあり得ない」と感じるのは、どうしてなんでしょうか?
これがあなたへの宿題です。

僕の答えを書いておきます。
世界中の人たちが同じ考え方になることなんて絶対にあり得ない、と僕たちが感じる理由は、次の二つのことが考えられると思います。

1、人間には「事実」を「事実」のままに認識することは絶対にできない、と いうことを僕たちは体験的に学んでいるから。
2、現代人は、他人と同じ考え方になることを恥じる習性があるから。


もし、あなたの意見が違うのであれば、その理由も書いてメールしてください。

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まず、[1、人間には「事実」を「事実」のままに認識することは絶対にできない、ということを僕たちは体験的に学んでいるから]を説明します。

認識とは、辞書によると「ある物事を知り、その本質・意義などを理解すること。意欲・情緒とともに意識の基本的なはたらきの一つ」とありますが、これは言葉を持つ人間だけの特徴です。動物が「その物事の本質・意義などを理解」しているとはとても思えません。

認識という作業は言葉を介するものである以上、言葉を介した時点で感情が入り込み、「事実」とはかけ離れ、言葉を発した人の感情に捻じ曲げられてしまっています。つまり、どんな「事実」も認識された時には「言葉に変換」されていて、その時点でその人の「意見」なのです。

これはあたかも報道番組の映像が、どんなに中立を保とうとしても、そのカメラマンの「意見」や「感情」が入り込んでしまうのと同じです。

人間には「事実」を「事実」のままに認識することは絶対にできません。

(ちなみに、言葉を持たない動物は、人間のように物を認識しているわけではありません。彼らにあるのは人間的な自我ではなく本能的な自我だけなので、根本的に「認識」という営みとも無縁です。これを分身主義では、彼らは自然界と地続きである、と表現します)

例えば、この番組の中で事実として取り上げられた二つのこと、「誕生日に本をくれた」、「『何回も読んだよ』と言った」などは、よく考えると「事実」なんかではなく、言葉である限りそこに感情が入り込んでいるのがわかります。

「誕生日」という言葉一つ取り上げてみても、何だかワクワクしてお祝いしたくなるような気持ちとか、あ~あ、また一つ年取って嫌だなあ、などと思う気持ち抜きで、あなたはその言葉を発することができますか?
言葉には必ず何らかの感情が張り付いています。

「本」という言葉だって、何だかありがたいものがたくさん詰まっているような感情が張り付いていたり、「くれた」という言葉にだって、例えば感謝したくなるような感情が張り付いていたりします。

例えば同じ「くれた」動作でも、「手渡した」「寄越した」「差し出した」「投げ渡した」「与えた」などと、言い換えるとまったく違う感情を持っていることがわかります。

つまり、番組で事実だと結論した「誕生日に本をくれた」は、事実ではなく、むしろ、かなり事実に近いものではあるけれどカエルくんの「意見」だったわけです。

「~と(ウシくんは)言った」だってそうです。
たとえウシくんが言った現場を一万人の人が目撃したとしても、それがその一万人の人に認識された時点で、一人一人が言葉を介した認識行為をしているわけですから、その人たちの意見(=考え)となってしまうのです。

一万人の人が「確かにウシくんは言いました」と一致したとしても、それは、言ったか言わなかったかということに関してだけ、彼らの「意見」が一致したというだけの話です。

「事実」ではなく「意見」が一致しただけの話です。
ちょっと難しいですか?

「事実」とは、「誰でも確かめられる本当にあったこと」ですから、「ウシくんが言った」ということに関しては誰にも曲げられない「事実」だ‥‥と、普通の人はお思いになるでしょうが、それは限りなく事実に近いことではあるかもしれないけれど、番組で言う「誰でも確かめられる本当にあったこと」ではありません。

誰でも確かめられる本当にあったこととは、人間の認識の向こう側で起こっていることである、という意味なんです。

何より、この番組でも気づいていない過ちは、どれが事実でどれが意見かを、しっかり見極めましょうと言いながら、それを見極めた最終的な答え「ウシくんはけちであるとは言えない」というのは、結局は、子どもたちの主観的な意見であることに気づいていない点です。

それは、この番組に誘導された子どもたちの「意見」で、限りなく客観的に近い「主観的な意見」だったのです。
番組では「事実とは本当にあったことや誰でも確かめられることである」、と定義していますが、それがそもそもの間違いであって、「事実」とは、「人間の意識の外の(=脳内に言葉が浮かび上がる以前の)世界で行われたこと」だったのです。


例えば、誰にも気づかれずに、今、宇宙のどこかで天体が超新星爆発をしたとします。
それが事実です。

事実とは、宇宙とか天体とか爆発という言葉に置き換えられる外での、人間が言葉を介する認識という作業をする外側の出来事のことです。

もし、それを天体望遠鏡などで確認した誰かが、「○○座の○○星が爆発した」と報告したとしたら、それはもう事実ではなくその人の意見になってしまう、ということです。

天体が爆発したことが「事実」ではなかった、と言っているのではありませんよ。それを「事実」と呼ぶのは不適切だと言っているのです。

本当の事実は、誰にも認識できないと言っているのです。認識の向こう側にある、と言うことです。

言葉とは、何かを象徴的に説明できる便利なものですが、だからこそ、事実との間にどんなに埋めようとしても埋められない誤差が生じてしまうものなのです。

何かを意識したり、認識したり、解釈しようとしたりした時点で、人間は必ず「言葉」を用いています。

もっとも、人間の脳に「言葉」が記憶されているから、何かを意識したり認識したり解釈したりしてしまうと言った方が適切なのですが‥‥。

もしそこに「言葉」の介入がなければ、人間には何かを意識することも認識することもできません。ただあるがままに、「言葉」を持たない動物たちのように、ある刺激に対してある反応をするだけのことです。
この自然界とどこまでも地続きであるだけです。


もっとも、人間が何かを意識したり認識したり解釈したりしていることだって、人間がある刺激に対して、ある反応をしているだけのことなんですが‥‥。

ただ、そこに、動物と違って「言葉」が介入しているというだけの話です。
人間には事実そのものを認識することはできないということは、要するに、今まで僕たちが「事実」だと思っていたことは、その人の認識した「意見」だったということです。

ある意味、歴史の教科書などは、一つも「事実」は書かれていません。
多くの人によって作られた物語(あるいは意見)を、教科書の作者や、その国の検定員が「事実」として認定しているだけです。

だからこそ、この世にたくさんの史実が存在してしまうし、史実は常に書き換えられるのですね。

誰かが、「未来のビジョンが過去の歴史を作る」のようなことを言いましたが、確かにそういう面もかなりあります。
ある意味、僕たちは自分がこうあって欲しいと願う歴史を創作しているだけなんです。

僕たちは長い人生の中で、こんな難しい理屈抜きに、人間とは誰もが自分に都合のいいように事実を解釈するもので、だからこそ、この人間の歴史始まって以来、一度だって世界中の人の心が一つになったことなんてないし、これからもあり得ない‥‥ということを、体験的に嫌というほど思い知らされているに違いありません。

それは確かなことですが、ただし、これからも世界が一つになることなんてあり得ないかと言うと、実はそうでもありません。
そこで「真の科学」の出番なんですが、その話は置いといて、もう一つの説明を次に短めに書いておきます。


[2、現代人は、他人と同じ考え方になることを恥じる習性があるから]

人間は言葉を持つと同時に「自我」に目覚めました。
自・他の意識が生まれ、個人主義への道をひた走り始めるわけです。
そんな僕たち人間が、自分の思い通りに動いてくれないはがゆい他人を、自分の思い通りに動かしたいと考えたとしたって少しも不思議ではありません。

他人を支配したいと考えるようになったわけです。
人間の歩んできた歴史を思い起こしてみてください。
それは常に支配と被支配の入れ替わる歴史でしたよね。
今でもそうです。

あなたの周りの人間関係を見回していただければ、すぐに納得していただけると思います。
そんな中で、僕たちの感覚の中に、誰かに支配されることは弱者であり敗者であり、屈辱の何ものでもない、という感覚が作られています。
だけど、それは、本当に恥ずべきことで屈辱なのでしょうか?
よく考えてみてください!

「個人主義的な環境」という、現代の僕たちの脳を取り巻く環境が、支配と被支配の関係を作ってきたわけで、考えようによっては支配する側も支配される側も、この「個人主義的な環境」に支配されてやらされていただけの話だったんです。

それに、一つになることを恥じたり拒んだりするような感覚だって、この「個人主義的な環境」が、僕たちの脳に浮かび上がらせているだけのものだったんです。

つまり、他人と同調したり、他人と同じことをやったり、他人に付き従ったりせずに、しっかりした自分の考えを持つこと、個性的であることをよしとする考え方を浮かび上がらせる環境に、この脳が「支配」されていただけだったんです。

他人に支配されたくないし、支配されることは屈辱だみたいな考えを浮かび上がらせる環境に、この脳がガチガチに支配されていたわけです。


実は、先ほど「自分の思い通りに動いてくれないはがゆい他人」と書きましたが、自分だって本当は自分の思い通りに動いてくれているわけではなく、この環境に動かされているだけの存在だったわけです。

あなたの身体は、本当にあなたの思い通りに動いてくれていますか?
勝手におしっこに行きたくなったり、勝手に肩や腰が凝ったり、目に見えないウイルスや他人の言動に左右されたりと、ちっとも言うことなんて聞いてくれないことを、あなた自身が一番知っているはずじゃないですか!?

それと同じで、僕たちは「一つになることを拒むような感覚を脳に浮かび上がらせてしまう環境」に支配されているだけだったんです。


もう一つ言わせていただければ、今まで「あなた」という言葉をたくさん使わせていただきましたが、その言葉を受けてそれをあなたが「自分のこと」と理解してくださっている意識こそ、つまり「自我」こそ、脳の作り上げていた幻想だったのです。

実は、僕たちの身体は「自分の思い」通りに動いてくれないのではなく、その「思い」そのものが、環境に浮かび上がらせられていただけのものだったんですが、それを、錯覚の自我が「自分の思い」と勘違いしていただけだったんです。


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以上が、僕の意見の理由です。
‥‥というか、僕の脳が、その取り巻く環境に作らされた意見ですけどね。

今、事実か事実でないかを見極めるコツをあなたに伝授しておきます。
それは、言葉を用いない犬や猫などになったつもりで世界を見ればいいんです。
この方法は次回説明します。
もちろん、言葉を用いるカエルくんやウシくんになったつもりになってはいけませんよ。
そして、「事実とは、言葉のあちら側の世界のことである」というヒントを書いて終わりにします。

ところで、

1、人間には「事実」を「事実」のままに認識することは絶対にできない、と いうことを僕たちは体験的に学んでいるから。
2、現代人は、他人と同じ考え方になることを恥じる習性があるから。

この二つの理由が厳然と人間界に横たわっている限り、世界中の人が一つの考え方になることなんて永遠にあり得ないわけで、それなら世界も永遠に平和になることはなく、あなた自身も決して幸福にはなれないと諦めるべきでしょうか?

違います。

だからこそ、真の科学が必要だと言っているんです。
だから分身主義は真の科学だけにこだわり、真の科学だけを頼みにしているのです。



◆◇◆編集後記

大人と呼ばれている僕たちは、常にどれが事実でどれが意見かを意識して客観的な判断をしているのでしょうか?

あなたは自信ありますか?

僕は、今日述べたような理由から、全く不可能だと思っています。
だから世界から対立がなくならないのです。

でも大事なのは、そのことに「気づくこと」です。
大人と呼ばれている僕たちどころか、実は、事実だけを見つめるように訓練されているはずの裁判官や科学者たちだって、少しも事実を事実のままになんか見つめられるはずはなかったんです。

裁判官の話はさて置いて、科学者と言われている人たちは、真の科学とは何かをほとんどわかっていません。
そのことを次回、説明します。

それが世間一般的に言われている「科学」と、分身主義が頼みにする「真の科学」の違いでもあります。

そんな僕たち大人が、子どもたちに事実をしっかり見極めようなどと言うのは、無理な注文でしたね。
NHKさん、もっと勉強してください!

僕たち大人が子どもたちに教えなければならないことは、「人間は決して事実そのものを見つめることはできないんだよ」ということだったんです。
それこそ、これからの大人が、そう、世界を本当に平和にしようと考えているこれからの大人が、言わなければならない自戒を込めた言葉だったんです。



NO.104 事実? 意見?(2) 2007.07.10

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【事実とは、人間の意識の外の(=脳内に言葉が浮かび上がる以前の)世界で行われたことである。それは科学的方法論によって確かめるしかない】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
地球の分身仲間さーん、こんにちは、徳永真亜基分身です。

前回のメルマガでは、パペットマペット分身さんが、ある小学校を訪ねて実験を行なったお話を聞いていただきましたね。

初めはカエルくんの考え(=意見)に引きずられてしまった小学生のみなさんでしたが、一つ一つ事実か意見かを検証していった結果、カエルくんの単なる “考え” に同調してしまう子どもは一人もいなくなりました。

そして、「ウシくんをけちだ‥‥と結論づけることはできない」という同じ一つの“考え”に統一されたわけです。

しかし子どもたちが「事実」だと結論づけたものは、結局は子どもたちの意見であり、しかもそれは、文部省の作る学習指導要領を基にしてNHK自身が作成し直した指導要領?に誘導された、客観的に近い「主観的意見」だったわけです。
『読み書きのツボ』では、

・事実とは、「本当にあったこと」や「誰でも確かめられること」
・意見とは、「その人が“考えた”こと」

と定義しましたが、本当にそうでしょうか?
人間は、「考え」をどこか棚の上かなんかに置いといて、事実だけを述べることって可能なんでしょうか?

言葉とはそもそも、その人の意見のことではないでしょうか?

言葉とはその人の脳内に蓄えられている記憶や感情と無縁でいられません。
事実とはこの世で起こったことですが、人間にはそれを意見でしか捉えることができないとしたら、世界中の人たちが「たった一つの事実」の前にひれ伏して一つになることなんて、永遠にあり得ないと諦めるしかありません。

事実だけを見つめるように訓練されている科学者と言われている人たちでさえも、やはり事実だけを見つめることが難しく、真の科学とは何かをほとんどわかっていない‥‥ということを前回書きました。

今回はその説明をするお約束でした。

もう一つの約束は、事実か事実でないかを見極めるコツを伝授することでした。


そこでお約束の二点の説明を、次の順序でやります。

1、事実か事実でないかを見極めるコツ。
2、ほとんどの科学者が真の科学とは何かをわかっていない。


[1、事実か事実でないかを見極めるコツ]
番組では「事実とは本当にあったことや誰でも確かめられることである」、と定義していますが、それがそもそもの間違いであって、「事実」とは、「人間の意識の外の(=脳内に言葉が浮かび上がる以前の)世界で行われたこと」だったわけです。

だけどここで一つの矛盾が生じます。
「人間の意識外の(=脳内に言葉が浮かび上がる以前の)世界で行われたこと」なら、人間には何一つ認識することができず、結局はその事実があったことなど誰にもわからないはずです。

何かが言葉に置き換えられた時点で意識や認識とつながってしまい、もはや事実そのものではないと言いましたよね。

では、何がいったい事実そのものかというと、言葉を持たない動物になったらどう感じるかを考えればいいのです。
例えば彼らから見れば、あなたは「ご主人様」でもないし、食べるものは「エサ」でもないし、吠える相手は「敵」でもありません。

彼らはただ、この自然界の中でひたすら反応しているだけです。
この自然界の中で起こったたった一つのことを事実と呼ぶなら、それは、人間の意識の外で行われた、自然界の「反応」のことである、と言えます。

それを分身主義では、「言葉を持たない動物は、自然界と地続きである」という言葉で表現しています。あたかも水の流れに身を任せ、もはや水と一体化しているような感覚です。

ものすごく簡単でしょう!?

こんな簡単なことで今まで誰も味わえなかった「真実」を体感することができます。
要するに、あらゆる言葉を退けることで、現象の中にただ浸る体験ができるわけです。

元々、他の動物たちと同じように、自然界と地続き(=自然界の媒体)だった人間が、言葉を持つことで、唯一、自然界と切り離されてしまったんです。

そして今では、自然界と切り離されたどころか、一人一人までが切り離されて孤独の中を生きています。
それが個人主義と言われているものの正体です。


[2、ほとんどの科学者が真の科学とは何かをわかっていない]
科学者でもないお前が偉そうなことを言うな、などと言われそうですが、実は科学者でもない僕だからこそわかることがあるんです。
科学者とは意外に近視眼的だったりします。

それに、科学者というのは事実だけを見るように訓練されている人たちのはずなんですが、科学といえども言葉と無縁なわけではないですから、誰もがその実験結果から導かれた自分の「意見」を言っているだけなんです。

リンゴが落ちるのを見て万有引力の法則を発見したというすごい科学者がいましたよね。
だけど彼が、「この自然界の万物には、引力という互いに引き付け合う力が働いている」ということを証明したのではありません。

それを証明したのは自然界様自身であって、彼がやったことはその声を受け取っただけなんです。

人間には、この自然界のどんな小さなことですら、その存在証明一つできやしません。

例えばあなたは、空に輝く太陽が確かに存在することを証明できますか?
「実際にこの目で見ている。それこそが確かな証拠じゃないか!」ですって!?

では、あなたは、確かに目に見えているスクリーンの中の高倉健さんを、「間違いなくそこに存在している」などと馬鹿なことを言いますか?

しかも今、あなたが見た太陽は、それは今そこにある太陽ではなく、8分19秒前の太陽なんですよ。

「じゃあ、ロケットで太陽に突入してこの身体が融けることで証明して見せよう」ですって!?
融けてしまってはもう証明できないじゃないですか!?

「だったら、オレが融けていくのを、お前が見ていてそれを証明してくれればいいじゃないか!」ですって!?
だからさっき、見えているからって証明できないと言ったじゃないですか!

いいですか!?

太陽の存在証明などした科学者は、世界中に一人もいませんよ!
彼らがしたことは、自然界様が証明している声を受け取っただけなんです。

つまり、「自然界様がお示しされるたくさんのデータを元にすると、この地球から約1.5億キロの距離に、その半径は地球の約109倍、質量約33万倍の物体が確かに存在していると推測できる」と科学者たちは言えるだけなんです。

また、「たくさんのデータを元にすると、僕たちが見ているのは約8分19秒前の姿だ」と推測できるだけなんです。

そして、「たくさんのデータを元にすると、そのエネルギーは中心における水素の核融合反応によってまかなわれていて、地球上の万物を育てる光と熱の源となっているに違いない」と推測しているだけなんです。

もう一度言います。
科学者ができることというのは、自分の意識外に(言葉に変換される以前に)、同じ条件下にあれば常に同じ影響を与える物体のデータがあるので、それが存在しているに違いないと推測できるだけなんです。

それはあくまでも自分の意識外の世界のことなので、推測するしかないんです。

だから、もし言葉に変換されて(=意識されて)しまったら、それはこちら側(=意識の世界)に引き寄せてしまった太陽であって、それはつまり「太陽そのものの説明」ではなく、「そのものと自分との関係性を説明」しただけになってしまいます。

僕があなたのことを説明しようとしてどんなに言葉を尽くしても、それは僕との関係性から見たあなたを説明しているだけであって、決してあなた「そのもの」のことではありませんよね。

あなたそのものとは、僕が意識しなくてもどこかに存在している「あなた」のことです。
もちろん、あなたが意識したあなたも、それは、あなたそのものではなく、あなたという脳内の錯覚が作った架空の主人公との関係性から見た「あなた」の説明(あるいは意見)でしかありません。

本当の「あなた」は、僕もあなたも意識しない外の世界に存在しているもののことであり、それは言葉を持った人間には見ることはできません。

もし真のあなたを見ることができるものがいるとすれば、それは言葉を持たない動物たちであり、それは僕たちが言葉を介して認識するような方法とはまったく違って、ただ「あなた」という物体に反応しているだけの状態です。

それは「あなた」を自分以外の者として認識しているのでも、「ご主人様」と認識しているのでもなく、そもそも「自我」の存在しない彼らにとっては、あなたはただ「地続き」であるだけです。

今、言葉を用いて、言葉の向こうの世界のことを説明しようとしているので、かなり無理があるので、僕の語っている世界の話を、「なるほどねえ」と、ただ想像したり感じたりしてもらう以外にありませんが‥‥。

とにかく、科学者が口に出す結論はどれもその科学者の意見であって、科学者ができることは、自分の言葉の向こう側に確かに存在していると推測できるものを「イメージする」ことだけです。

これが「真の科学」の限界であり、そのことを知って実践しているのが「真の科学者」です。
だから僕はほとんどの科学者が真の科学をわかっていない、と言ったのです。

例えば、医学に関わる科学者のほとんどが、一見、自然界様の声に耳をそばだてて熱心に聞き取っているかのように見えますが、そうではなくて、その声を自分の言葉に翻訳(=自分の意見を発表)しているだけであり、そのことに気づいていないので「真の科学者」とは最も遠い存在の人たちです。

だから、彼らは、「医者」「患者」「病気」などという、人間中心の感情を伴った言葉を用いてしまうのです。


今あなたに、おもしろい質問をしてみます。
ある医者が、「この患者の胃にはかなり大きな癌がある」と言ったとします。
これは事実でしょうか?

胃カメラやエックス線写真や、そういった客観的なデータがあり、どの医者が見ても間違いなくかなり大きな癌だと言います。
どうでしょう?

そこまで言われたら、その患者にかなり大きな癌があるというのは事実でしょうか?


事実だけを見つめるように訓練されている科学者でさえ、そう言うのですから、あなたは「間違いなく事実です!」と答えるに違いありません。
ところがそれは事実ではなく、その医者の(あるいは世界中の医者たちの)意見です。

真の科学者だとしたら、「科学機器のデーターを元にすると、この人の身体の中に、現在の環境への適応の結果、ある不死化した細胞のかたまりがあると推測することができる」と淡々と言うだけで、それを「癌」などという忌まわしい意味の名前で呼びません。

もし、忌まわしい気持ちがこめられてしまうような、「癌」という言葉を用いてしまったら、それはもはや、その医者の「意見」です。

実は、言葉を用いる人間の脳が、そこに医者(という尊大な人)や、患者(という哀れむべき人)や、胃(という身体の部分)や、癌(という恐怖に値するもの)を見ているんです。

ここで先ほど伝授した方法を試してみてください。


ほら、言葉を用いない動物が見ているものは、「医者」でも「患者」でもないし、モニターに映し出されたものは「胃」でも「癌」でもありません。
この、医者や患者や胃や癌という言葉が用いられる時に、人それぞれ、いろいろな感情が込められていることを否定できる人は一人もいないでしょう。

あなたはそれらの言葉を、自分の感情なしで用いることができますか?


もう一つ例を挙げますが、生物に関わる科学者のほとんどの人たちも、一見、自然界様の声に耳をそばだてて熱心に聞き取っているかのように見えますが、最終的に彼らの口から発せられる結論の言葉は、自分の意見を発表していただけだったんです。

その理由は、生物学はその性質上、彼ら動・植物の見せる様々な振る舞いに、人間にはあるとされる意志や願いのようなものを盛り込みやすいからです。

そして、人間である自分の感情や期待を織り込んだりもしてしまうからです。
例えば、あなたも、生物の擬態(ぎたい)の不思議さを、かつて、テレビや本などで驚きと感動を持って見つめたことがあるはずです。

「木の葉」に擬態するコノハチョウ。
「幹の模様」に擬態するキノカワガ。
「木の枝」に擬態するシャクトリムシやナナフシ。
「海底の砂」に擬態するハゼやヒラメ。
「枯葉」そっくりに擬態するカレハカマキリ。

それらの解説に必ず、「敵の捕食から逃れるために、自分の形態や振る舞いを周囲の色や形や動きに似せて身を守っている」という言葉が使われます。

下は「枯葉」そっくりに擬態するカレハカマキリです。

カレハカマキリ

植物の例で言えば、オーストラリアのハンマー・オーキッド(ランの一種)は、「雌バチ」そっくりに擬態した唇弁(しべん)を持ち、それに飛びつく雄バチによって受粉を成功させます。

ハンマーオーキッド

このことを、「種子植物が確実に受粉し安定して子孫を残せるように工夫をした結果である」などという学者がたくさんいます。

これらを発見した科学者たちは、それこそ不眠不休で自然界様の声に熱心に耳を傾けたわけで、そのことには本当に頭が下がりますが、彼らの口からそれが説明されると、とたんに自然界様の声とは無関係に、自分たち人間に引き付けた自己中心的な解釈(=意見)になってしまいます。


彼ら言葉を持たない生物たちから見れば、「敵」でも、「捕食」でも、「身を守っている」わけでも、まして一生懸命「工夫した」わけでもありません。

遺伝子というのは、長い年月の中、突然変異を何度も繰り返すものなのだけど、たまたまその時の環境の中でそのような振る舞いをする遺伝子を持った生物が、捕食を免れたり受粉の確率が高かったので、その遺伝子が引き継がれ、現在たまたま繁栄しているだけの話です。
‥‥と、言葉で説明すると、これまた僕の意見のようになってしまいますので、次のように言い換えます。

真の科学が無数のデータを解析した結果、今では、「生物たちはただ、その取り巻く環境に反応しているだけである」ということを、ほぼ100パーセント事実であろうと推測できる、と。

それを分身主義では、彼らはこの自然界と地続きである、と表現するんでしたね。

-------------------------

現代は、自然界様の声を聞くための技術や道具がとてもよくなり、真の科学は、かなりの高い精度でこの自然界の様子を推測できるようになりました。

それによると、どうやら、僕たちの「自分」という意識は、それは脳内のスクリーンに映っている高倉健さんを見ているようなもので、実はそんなものどこにもはっきりとした姿で存在しているわけではなかったということまで、推測できるようになっています。

重度のアルツハイマーになった人(=脳の神経細胞が間引きされたため記憶のつながりが以前と変化した人)は、「自分」という意識さえも消失していくなどという豊富なデータから、自分という意識は、神経細胞が映写機やスクリーンの役目を果たしていたという事実を推測させます。

意識外に存在しているものだけが事実であるという意味から言うと、自分という意識(=自我)は、文字通り意識内に存在しているだけなので、これは僕たちの「意見」だということになります。

では、真の科学が推測している僕やあなたの真実の姿はというと、それは、僕たちは一つの「宇宙」だったということです。

今、あなたの目の前に、水をいっぱいに張った浴槽があるとします。
それを我々の広大な宇宙だと仮定します。
今、その水の中から、小さなスプーンでほんの少しの水をすくい取ってみてください。

それが、言葉の支配するこちら側にすくい取られた「あなたという意識」です。
それはあなたの脳内のスクリーンに映し出された「意見」なので、「事実」ではありませんでした。

ではもう一度、宇宙という浴槽に戻してみて下さい。
どこにも切れ目なく溶け込みましたね。
そのことを地続きという言葉で表現していたのです。

真の科学は、僕たちのこの身体さえカッチリとした境界線を持って存在しているのではなく、まるでこの溶け込んでいる状態のように存在していたことを突き止めています。

と言うより、そのことをほぼ100パーセントの確率で「事実」であると推測している、と言うべきでしたね。

そうすると、僕たちが今まで「自分」と呼んでいたものの本体は、この宇宙のことであったという事実が推測できます。

あなたはその事実を感じることができますか?

言葉を持ってしまった僕たち人間は、事実を事実のまま認識することはできなくなってしまいましたが、言葉のおかげで「想像力」というものを持つことになったので、僕たちには「事実」を想像する(=イメージする)ことができます。

「この宇宙で起こったたった一つのこと=事実」を、想像や推測することができます。

そして、想像や推測することしかできないことを知っているのが「真の科学」である、ということでした。



それでは、長々と難しいことを書いてきましたが、今回の二度に渡るこのメルマガの結論を書きます。

「事実」というのは、この世に起こったたった一つのことではあるが、僕たちは本当の意味で「事実」を認識することはできない。

それは言葉を介した時点でその人の「意見」に変化してしまう性質のものだからである。

だから結局、この世にはたくさんの「意見」が生まれてしまうわけで、人類は決してたった一つの真実の前にひれ伏して一つになることはできないように思われる。

しかし、僕たちは真の科学によって、たった一つである「事実」を推測することは可能である。

科学が推測している「事実」は、我々人類が作り出す携帯電話や、パソコンや、電子レンジや、自動車や、飛行機などが、間違いなくこの言葉の向こうで稼動していることで、一つ一つ「事実」であることを証明している。


つまり、言葉の世界で作ったモノを言葉の向こうの世界に戻した時に、言葉の向こうの世界が「これであってるよ」と証明してくれ、その声を聞くことで僕たちは、事実の世界が確かに「ある」ことを推測できる(=感じることができる)わけである。

我々は、その推測までも疑うことはできない!

もしそれさえも疑うなら、いつもお世話になっている携帯電話や、パソコンや、電子レンジや、自動車や、飛行機を、こんなもの幻だと言って今すぐ放棄すべきである。それらは間違いなく、あなたや僕が意識しまいが、言葉の向こうで存在しているではないか。


真の科学が僕たちに語りかけてくれているものは、それは宇宙で起こったたった一つの「事実」であり、それに耳を貸すことのできる「真の科学」だけは、もはや誰かの意見ではなく、それは「自然界の証明している声」なので、僕たち人類はそこで始めて一つの事実の前にひれ伏して一つになることができる。

これが今回のメルマガの結論です。

僕たちは、「事実か? それとも意見か?」ということをはっきりと意識して生きることで差別や誤解のない平和な世界が作れるのではありません!

僕たちが「人間は決して事実を見つめることはできない」ということを世界中の人が諦めを持って受け入れた時、その時初めて差別や誤解のない平和な世界が、そこに‥‥自ずと出現しているのです。



◆◇◆編集後記

だから分身主義は僕の意見なんかではありませんよ。
言葉の世界によって作り出されたモノを、言葉の向こう側の世界に戻しても間違いなく機能するモノに囲まれた、科学時代と言われる現代に生きている僕たちの中から、同じように言葉の向こう側の世界に戻しても間違いなく機能する、確かなイメージが生まれたのです。

自然界様の証明なさる声だけに耳を傾ける「真の科学」から、分身主義は生まれたのです。

だからそれは、もはや僕の意見なんかではなく、「事実」です。


人間がイメージすることでしか、それとの隙間を埋めることができないという性質であるところの、唯一の「事実」です。

イメージを通してしか交信することができない唯一の「事実」です。

言葉の向こう側で間違いなく稼動している携帯電話やテレビや自動車や、ありとあらゆる文明の利器を疑うこともなく使いこなしているあなたなら、言葉の向こうに確かに存在している、その唯一の「事実」をイメージすることは、そんなに難しいことではないのではないでしょうか?

それは、僕たちは一つの「宇宙」だったという「事実」です。

それが今、分身主義にはっきりと見えているイメージです。
(『事実? 意見?』おわり)



NO.105 愛すべきモンスター(6)(阿部謹也分身さん‥個人主義の終焉) 2007.09.21

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【個人主義の言う個々人の尊重とは、「自分という個人が尊重されたい」という気持ちがその裏にあり、それを侵害されないために他人を尊重するそぶりも見せておくという尊重である】
【分身主義の尊重は、世間などという非科学的な呪縛とも違い、科学によって真の自分を知った時に、自分の中からこんこんと湧き出てくる「思い」が取らせる行動である】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
地球の分身仲間さーん、こんにちは、徳永真亜基分身です。

今回の愛すべきモンスターは、阿部謹也分身さんです。
と言ってもあんまりご存じない方が多いと思います。僕も『心の時代』を見るまでは知りませんでした。

今年の1月28日、NHK教育の『心の時代』は、ドイツ中世史の第一人者の歴史学者であり、一橋大学の学長でもあった彼をクローズアップして『われとして生きる』というタイトルで放送していました。

『われとして生きる』

どうやらこの意味は、「世間」というしがらみに縛られていないで、自立した個人として生きる、という意味のようでした。
この日本という国には「世間」などという言葉があり、ちょっと他人と違った目立つことをすれば特別視され、差別され、排斥されてしまうようなところがあります。

例えば日本特有の盆暮れの贈り物の習慣などは、世間への帰属意識に対する踏み絵のような面や、世間という枠に束縛する面もあります。
日本では「世間に迷惑をかけました」という言葉があるけれど、欧米ではその言葉を、ニュアンスを壊さないように訳すのはできないそうです。

欧米には「社会」はあるけど、日本的な意味の「世間」はなくて、個人として、人としての善悪があるのみで、日本にはそこに(昔から)「世間」という存在があったわけです。

彼(安部謹也分身さん)は、世間に個人を埋没させれられて生きなければならないそんな日本に違和感や居心地の悪さを感じ、一生を通じて「われとして生きよう!」と呼びかけ続けた方のようでした。

彼は1935年、自転車の製造販売をしている裕福な家庭に生まれましたが、お父さんには親しみが持てずほとんど話をした記憶もなく、また異母兄弟たちに囲まれ、病弱で友達も少なく、楽しいということをあんまり感じたことがない幼年期をすごしたそうです。

小学校では6回、中学校では3回も転校を繰り返し、そこでも親しい友人はできませんでした。だけど友人ができないのはそのせいばかりでなく、一人でいる時間の方が楽しかったようです。

というのも、日本特有の人間関係や規律や習慣がうっとうしくて、しんどくて、そこから逃れるために大学でも一人で山登りばかりしていたということです。

ところが、34歳の時、2年間のドイツ留学を経験することになり、そこで日本にいた時とは全く違った感覚を経験します。

日本では、常に誰かの評価を受けているように感じ周りの目が気になったり、変わった言動を取ると見下されているように感じたりして居心地が悪かったのですが、ドイツではあるがままを受け入れてくれて、そこでは今まで感じたこともない自由を感じたというのです。

また、ヨーロッパの歴史を研究することで、日本を外から眺めて、日本独自の「世間」の存在に気づき、世間の中で個人はどう生きるかという考察を生涯のライフワークにすることに決めました。

彼は、一橋大学の学長に就任した頃、腎臓病を患ったのですが、重い病気を持つ彼が公職を続けることには違和感を感じる人が多い(と彼は感じた)ため、大学にはひた隠しにし、週3回、1日3~4時間の人工透析も職務の合間を縫って隠れて行きました。

それは彼が、世間というしがらみの中で生きなければならない日本では、差別され不利な目に合うと感じていたからです。

腎臓病というのは飲んだ水分を尿として排出しにくいので、水を取りすぎると心臓に負担をかけます。
それで、水分を取りすぎたことが医者にばれると、日本ではまるで叱責されるかのごとく強く注意をされますが、ドイツの医者は水分を取りすぎるのはよくないことを初めに説明しはするけれども、「それを知った上で水分を取るのはあなたの自由であり、むしろ権利である」と見てくれて、自由にさせてくれる感じがしたと言っています。

僕はこの方のおっしゃる、日本における「世間」の感覚はとてもよくわかります。

僕自身も、世間というものに馴染めず違和感や反発を感じるタイプでしたし、自分が世間に対して何か異種な発言をした後に返ってくる、あの常識に染まった信念にも似た反撃を避けるため、なるべく自分を隠して、普通の人以上に普通で平凡な自分を長いこと演じて生きてきました。

だから、彼を否定するわけではありませんが、それにしてもちょっと被害者意識が強すぎるようにも感じます。
それは、彼の体質と子供の頃の環境が基礎を作っているわけですが、それだけでなく、研究者という道を歩むためには人と違った何か独創的な主張をしなければならず、そのテーマに「日本の世間」を選んでしまった以上、それにとらわれ続けなければならなかったという外因もあるように思えます。

以下が代表的な安部謹也分身さんの著書です。

『「世間」とは何か』
『学問と世間』
『日本人の歴史意識(「世間」という視角から)』
『「世間」への旅』
『近代化と世間』
『世間論序説』

そのような独創的な視点の著書を次々と発表し続けなければ、世間的に認められず、従って収入も得られず生きていけない立場にいたからです。

彼はほとんど死ぬ直前まで大学で講義をしましたが、そんな中で、若者たちに向かって、「世間の中で様々な摩擦や困難があっても自分に自信を持って、希望を持って、自分を信じて “われ” として生きてほしい」などと語っていますが、僕には、彼が感じているほど現代の日本の、特に若者たちは、「個人」を抑えている社会だとも思えません。

それよりもむしろ現代では、「自分の人生を生きろ!」などという言葉があふれすぎていて、そのせいで「もっと自分勝手に生きていいんだ」と拡大解釈している人が増えているくらいではないかと思います。

よく個人主義と自分勝手とは違い、本当の個人主義とは「個々人を尊重するという思想だ」という人がいますが、それは都合のいい詭弁(きべん)にすぎず、「個々人を尊重する」という発想の裏には、「自分という個人が尊重されたい」という気持ちがあり、それが侵されないために互いに作っている不文律にすぎません。

つまり「個人主義=自分勝手」という図式はあながち間違いではないのです。

カントという哲学者は、「真の自由とは、理性的意思が自ら立てたルールによって自分自身を規定する事、つまり意思の自律こそ真の自由である」などと言っています。

例えば、「お腹がすいたから食べ物を盗む」というのは、自然の因果律に基づいて行為したことにすぎず“自由”な行為でもなんでもなく、もしその時「お腹がすいたからといって食べ物を盗むことは悪い行為なので、やめよう」と行動したなら、それは、自然の因果律に基づかずに自分の「理性的意思」に基づいて“自由”に行動したことになる、などと難しいことを言っていますが、これも哲学者特有の自己正当化(*)にすぎません。

現代の科学は、「自分の意思」などというものも、自然の因果律に基づいて脳に浮かび上がるものであることを解明しています。

いずれにしても、安部謹也分身さんが「若者よ、世間から自立して、個人として生きよ!」と言う時は、僕が言う「自分勝手」のような悪いイメージはなく、どこまでも解放感のあふれた澄み切った青空のようなイメージなのでしょう。

彼にはそのイメージが強すぎて、個人主義のもたらす弊害には思いが及ばないようです。

それはともかくとして、安部謹也分身さんはドイツ中世史の研究者ですから、日本にはどうして「個人」がなく、西洋には「個人」主義が発展したかということを次のように歴史的な分析をしています。

元々はヨーロッパにも、日本と同じ「世間」があったそうです。

『ハーメルンの笛吹き男』というグリム童話(これは、ただの童話ではなく1284年に実際にあった130人の子どもの失踪事件をもとにつくられているそうです)に代表されるように、異能者は畏(おそ)れられ、同時に差別され疎まれる存在だったということです。

画像12


ところがその後、日本とはっきりと道が分かれ、自立した個人の権利を獲得する道への歩みが始まったのは12世紀ごろだったとみています。

その原因となったものはキリスト教の「告解」です。

これは電話ボックスのような中に入って、教会で神父に罪を告白するものですが、それを成人は年に一回はやらなくてはいけないことになったそうです。
そのことによって人々の心に自意識が目覚め、内面の成立が起こり、個人の成立が始まったと彼(安部謹也分身さん)は言っています。

つまり、これこそが輝かしき「個人主義」の始まりであると彼は考えているわけです。

確かにその後、個人に目覚めた社会は、目覚ましい発展(分身主義には発展という言葉はなく、あるのは “変化” だけですが)を見せることになったのは、世界中の誰もが認めることです。

もし、ヨーロッパも日本のようにいつまでも世間という枠の中に縛られて生きていたなら、大した発展もなかったに違いありません。

彼は、「日本では、金、地位、名誉、異性、といった世間の枠の中での関心ごとにしか目がいかず、宇宙、正義、平和などには関心が向かない」と言っています。
それは僕も認めます。

何より分身主義が唯一頼みにしている「科学」ですら、そんなヨーロッパの気運から生まれて、そして発展して今に至っているわけですから。

だから、分身主義は個人主義を否定しているわけではありません。
個人主義は、彼(安部謹也分身さん)がおっしゃるように、人々が「われ」に目覚めてしまった以上、たどらざるを得ない必然的な成り行きだったからです。


僕は、現在では、この個人主義が限界に来ていると感じているだけです。
そして、個人主義を全否定するのではなく、その利点を生かし、その欠点を乗り越えたところに分身主義はあります。

自称個人主義者の言う個々人の尊重とは、その裏に「自分という個人が尊重されたい」という気持ちがあり、それを侵されないために他人を尊重するそぶりも見せておくという尊重ですが、分身主義の尊重はそうではありません。

それは、誰もがみんな自分と同じこの宇宙の分身同士という気持ちや、あなたは私の分身で私はあなたの分身というような気持ちから、自然に尊重してしまうものです。

他人を尊重することと自分を尊重することがイコールなのです。

それを教えてくれたのは、他でもない個人主義を標榜する欧米の人たちが作り上げた科学でもあります。

分身主義の尊重は、世間などという非科学的な呪縛とも違い、科学によって真の自分を知った時に、自分の中からこんこんと湧き出てくる「思い」が取らせる行動です。

僕は、2006年9月に亡くなった安部謹也分身さんに敬意を表して、「個人主義を熱烈に信奉した最後の巨人」と呼ばせていただこうと思います。

「個人主義」といえども、それは「世間」という環境があったところから生まれたものだし、また彼自身も、世間と個人との挟間に立つ環境にあって、その環境に動かされて行動させられてきただけのことだったのです。

味気ない言い方で、「分身主義」を知らない人には反感をもたれるかもしれませんが、これが科学の視点です。

しかし、今の僕たちを救ってくれるユートピア(本当の世界平和)はこの視点の先にしかありません。

ユートピアへの扉を開くには、僕たち人間をどこまでも傲慢なものにしてしまった「個人主義的な環境」を外側から眺める視点を持つしかないんです。
そのためには今までの人間賛美的な感覚ではなく、どうしてもこの科学の視点が必要です。

彼(安部謹也分身さん)が世間論を考えることになり、たくさんの本を書かされることになったのは、彼が偉いわけでもなんでもなく、実は彼を取り巻く環境が彼の脳を作り、そして彼の脳を取り巻く環境が彼の脳に働きかけ彼に行動を起こさせたのです。

僕が今回このような文章を書いていることだって同じです。
つまり、徳永分身も安部分身さんもこの環境を作っている一部でもあるみなさんや、それにこの宇宙に存在する全てのものに書かされているのです。

例えばあなたが野球の選手で、目が覚めるようなホームランを打って大観衆の喝采を浴びたとしても、それはあなたが偉いわけでもなんでもなく、あなたの環境を作っている僕たちみんなの力や宇宙の総力にあなたは日々努力させられ、そして、バットとボールが接触するその一瞬にいたるまで、その力が働いているということなのです。

生きるとは、その力の連続のことなのです。

スーパースターであるあなたは、一人の人が全ての環境を経験できないことを、みんなに代わってその環境でやってくださっている、みんなの誇るべき分身さんなんです。

そして同時に、あなたは、みんなの総力によって動かされている代弁者のようなものです。

これからの僕たちは、科学が気づかせてくれたこの謙虚な気持ちを忘れてはいけません。

(*)哲学者の自己正当化
哲学の実際は、人生経験を通してその哲学者の中に、あらかじめ「こうであって欲しい。こうあるべきだ」という漠然としたものが作られていて、それを裏付けるような形で学説が打ち立てられていくのが普通なので、そのことを僕は、哲学とは偉大なる自己正当論であると言うことにしています。
だけど、分身主義的に言えば、つまり科学的に言えばということですが、哲学者は単なる媒体で、その学説を唱えているのは彼を取り巻く環境なのですが。



◆◇◆編集後記

死ぬ直前まで、若者たちに「われとして生きよ!」と言い続けた彼ですが、死んでも彼の肉体は分子や原子に分解され、形を変えて生き続けるように、「個人主義の妄想」もそろそろ他のものに変わって欲しいと思います。

個人主義と共に生き、個人主義の産み落としてくれたプレゼントを享受し、そしてまた個人主義の産み落とした害悪を道連れに死んでいってくださった偉大なる指導者だった‥‥と区切りをつけさせていただきたい思いです。


だから、我らが誇るべき分身さんである彼には、次のような言葉を贈らせていただきたいと思います。

これからの時代を生きる僕たち分身一同は、我らが誇るべき分身さんであるあなたが生涯に渡ってこだわり続けることになった個人主義を、本当の意味で個人を大切にする分身主義というものに引き継いでいこうと思います。
これからはあなたも想像しなかった分身主義という妄想の時代に入ります‥‥

‥‥と。

最後にちょっとご報告があります。
出来たてホヤホヤの新作発表です。
お忙しいでしょうが、なんとか時間を作って「まえがき」だけでも読んでみて下さい。
自分という分身(不安を抱えて生きる全ての人へ)

今の僕が、この脳を取り巻く環境に書かされた物語です。



NO.106 盗まれた子どもたち 2008.02.25

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【個人主義的環境の中から浮かび上がる考えは、どんなものでも世界平和とは逆のものを作りだす仕組みになっている】

【今我々が、この個人主義的な環境の中から浮かび上がる意志に任せて、世界を平和にしようと何らかの行動を起こすことは、結果的には、世界平和とは逆の道をたどることになる】

【世界を平和にしようというその人の熱い思いですら、それはこの個人主義的な環境の中からその人の脳に浮上したものにすぎないのだから】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
地球の分身仲間さーん、こんにちは、徳永真亜基分身です。

しばらくメルマガの発行をしていませんでしたが、実は、分身主義がどこまで世界に通用するのかをこの肌で感じてこようと、地球一周の旅に出ていたのです。

そして、もし世界に通用するものであるという確信が持てたなら、その体験を生かして、分身主義がイメージしている未来の社会を「小説」にしてみようと思っていたのですが、ついに出来上がりました。

タイトルは『ブンシニズム・ドット・ネット』です。

後半はユーモアを取り入れてわかりやいく書いたつもりですが、でも前半はちょっと難しく感じてしまう方もいらっしゃるかもしれません。だから、それを読んでくださる前に、今回のメルマガを読んでいただければ、よりわかりやすいと思います。


     *  *  *  *  *  *  *


2月13日、テレビを見ていたら、「オーストラリア政府が、親子強制隔離政策で被害を受けた先住民アボリジニに対し、公式に謝罪した」というニュースが流れていました。

何のことかわからなかったのでインターネットで調べてみました。
すると、1880年頃から1970年頃にかけて、オーストラリア政府は、白人の男性とアボリジニの女性との間に生まれた子を無理やり親から引き離し、その子供たちに英語とキリスト教教育を施して白人社会と同化させる「隔離同化政策」を行なっていたということだったのです。

1930年代にはアボリジニの少女たちをメイドとして雇う白人男性との間で意図的に混血児を作り出し、アボリジニの血をどんどん薄めて行って、結果的には白人の中に取り込んでしまおうとする、いわば「アボリジニ絶滅政策」までが国の方針として承認されていたらしいのです。

インターネットでいろいろ調べていたら、2002年に、『裸足の1500マイル』という映画が作られていたと知って、レンタルビデオ屋で借りて見てみました。

母親からむりやり引き離され、施設に収容されてしまった3人の女の子たちが、施設を逃げ出して、母の待つ故郷に帰るため1500マイルもの距離を歩き通すという実話を元に作られた映画です。
1500マイルと言えば、なんと稚内から沖縄くらいの距離だそうです。

オーディションで選ばれたという、実際のアボリジニの女の子たちが可愛く、また演技も素晴らしいので、時間があれば是非見てみてください。

さて、ニュースの話ですが、この度、この政策に対して、「深い悲しみ」を与えてしまい、「誇りある人々と文化が受けた侮辱を申し訳なく思う」として、オーストラリア政府は、先住民アボリジニに正式に謝罪した、ということだったわけです。

現在、こうした一連の政策は「文化的大虐殺」と定義され “Stolen Children
(盗まれた子どもたち)”  あるいは、“Stolen Generation(盗まれた世代)”
などと言われているようです。

あなたはこの一連の出来事をどのようにとらえますか?

立場によっていろいろな意見が出ると思いますが、僕が勝手にその人の立場を想像して書いてみます。

[子を持つ母親]
自分のお腹を痛めた子どもを引き裂かれるほどつらいことはありません。なんてひどい話でしょう。世界中の人に知ってもらって、こんなこと、二度と繰り返してはならない。

[謝罪した首相]
前首相は謝罪を拒否したけど、オリンピック聖火の点火者にアボリジニの人が選ばれたり、映画などの影響で、最近、世界中からやたらとアボリジニに対する同情票が集まっている。もう謝罪するっきゃないだろう。
むしろ今なら自分の株を上げるチャンスかもしれないな。

[政策によって母親から引き離された子ども]
親が誰かもわからないし、自分のアイデンティティーも持てない。ひどい差別や暴行も受けてきて、自分の青春を返してほしい。

[平和活動家]
かつてオーストラリアで何が行われていたかという歴史的事実を、世界には知らない人がまだたくさんいる。少しでもその人たちに知ってもらう努力をするのが自分の務めだ。それが世界を平和に導く道だと信じる。

[当時の政策に関わった係官や宣教師]
自分たちの行為は、無教養で野蛮なアボリジニの人たちを救ってあげる尊い行いだったと信じます。

[ある白豪(はくごう)主義の人]
あんなのは昔の話です。現在の政府は、土地やお金、施設など、先住民にばかり与えていて、今や、特権を与えられた先住民達が私たちの犠牲の下に楽しんでいる。彼らもアジア人も、我々より劣る下等な民族です。これ以上のさばらせておくわけにはいきません。

[その他1]
へーえ、そんなことがあったんだ。知らなかった。まあ、どっちにしても関係ない国の話でよかった。

[その他2]
そんなことも知らなかったのかよ。無関心は罪だぞ。という自分も知らないことがたくさんある。もっと歴史の“事実”を勉強しよう。

[その他3]
賠償金問題はどうなってるんだろう。そういう問題じゃないけど、やっぱ最後は金だからな。

これらは、あくまでもそれぞれの立場に立たされた人ならこのように考えるのではないかな、という僕の勝手な想像です。

ところで、なんで今、オーストラリアの隔離同化政策の話なんかを持ち出したかと言うと、実は、未来を描いた僕の小説の中では、生まれたばかりの子どもが政府に取り上げられます。そしてキリスト教は押し付けられないけど英語を押し付けられます。

でも、彼らの誰一人として、深い悲しみや侮辱を感じる人も、怒りを抱く人もいません。それどころか深い喜びこそ感じてそれらのことを受け入れます。

他にも今の社会では考えられないことがたくさん起こっています。

貨幣というものがそもそも存在しないし、病気という概念は存在しないし、死も彼らにとっては悲しみを伴うものではなくむしろ喜びです。

それらは分身主義が行き渡った世の中を想定して、僕がイメージした社会ですが、どうして「分身主義的な社会」では喜びを感じるのに、今僕たちがいる「個人主義的な社会」では同じ行動が、悲しみや怒りを浮かび上がらせるのか、その違いがどこから来るのかを、是非、考えていただきたいのです。


そのヒントとして、皆さんに、どうしても知ってほしいことがあります。
「僕たちは自分の意志で考えたり行動をしているのではない!」
という事実です。こちらは僕の勝手な想像ではなく、科学が自然界様に教えていただいた事実です。

では誰の意志で行動していたのかというと、政治家たちや独裁者や神様の意志ではなく、僕たちは誰もが、その取り巻く環境に動かされていたんです。

実は、政治家たちも独裁者も神様も、言葉を持つことで特殊な脳に変化した僕たち人類の、その脳に、浮かび上がらせる幻想にすぎません。

その証拠に、犬や猫の前に政治家たちや独裁者や神様を連れて行っても、それは政治家でも独裁者でも神様でもありません。言葉も持たない彼らの脳には、そのような幻想も浮かび上がらないからです。

だからと言って、何も特別驚くことはありません。

もしあなたが少しでも科学を勉強した方なら、人間以外のものは全てが環境に動かされているだけであることは知っていますよね。
この宇宙に地球が生まれたのも月が生まれたのも、科学が解明していることを知れば、それは決して地球や月が自分の意志で生まれたのではなく、その時の宇宙の環境に作られたことがわかります。

人間も例外ではないというだけの話です。

この宇宙の万物が、環境に作られ動かされていたと言うだけの話で、別に特別のことを言っているわけではないですよね。

簡単に言うと、「分身主義的な環境」というのは、科学が自然界様に教えていただいたこの事実を世界中の人が理解していて、その気持ちが彼らの潜在意識に深くしみ込んでいる人たちばかりになった時に生まれる環境のことを指しています。

「分身主義的な環境」と、「個人主義的な環境」とでは、同じ状況であっても全く違う感情を喚起させられてしまう理由は、感情もまた、その人の脳を取り巻く環境が、その人の脳に浮かび上がらせたものに過ぎないので、環境が変われば違う感情が浮かび上がるのは当然だったからです。

ちなみに、ここで言うその人の脳を取り巻く環境とは、遺伝や体内からの情報ももちろん含みます。


「個人主義的な環境に生きる今の僕たち」は、宇宙という夏ミカンの皮をむかれて一房一房バラバラにされて、ひからびさせられてしまったようなものです。「自分、自分、自分」という気持ちばかり浮上して、脳に必要な共感という “うるおい” が行き渡りません。

そこからは、怒り、恨み、悲しみ、妬み‥‥そういった感情が浮かび上がったり、自分にとって有益な思いだけが浮かび上がったりするだけです。

その “自分にとって有益な思い” が浮かび上がった時だけ、僕たちの脳内に、喜びや愛や、あるいは共感の神経伝達物質が放出されるのです。

このような個人主義的環境の中から浮かび上がる考えは、全てが世界平和とは逆のものを作り出してしまう仕組みになっています。

今日、僕が勝手に想像して書いた、[子を持つ母親]や[謝罪した首相]や、[政策によって母親から引き離された子ども]や、[平和活動家]や、[当時の政策に関わった係官や宣教師]や、[ある白豪主義の人]や、[その他の人たち]のどの意見も、世界平和と逆行してしまうことがわかりますか?

その根底にはどれも、「自分」という根っこがしっかりと根を張っているからです。
しかしその「自分」は神経系の作る錯覚に過ぎませんでした。僕たち人類は、この脳に騙されていたのです。そのことに気づき、本当の自分の姿を知ったものが分身主義です。


では、「分身主義的な環境に生きる人々」はどうかと言うと、まだむかれたばかりの、みずみずしい一房一房って感じです。しかも、その一房一房は、宇宙という一つの皮で包まれていたことを知っている一房一房です。

そこに浮かび上がる感情は共感や親愛や喜びの感情ばかりで、怒り、恨み、悲しみ、妬み‥‥そういった感情が浮かび上がりません。自分を愛することと他人を愛することがイコールだからです。

「そんな社会つまんない!」とあなたはお考えになりますか?

そのような感情も、今のあなたの脳が、この個人主義的な環境に置かれているから浮かび上がるだけです。

このメルマガのタイトルの『世界を平和にする「自己愛的生活」』の自己愛とは、いわゆる今の僕たちが育っている個人主義的な環境の中における自己愛ではありません。

真の自分の姿はこの宇宙だと知ったところの「自己愛」だったのです。

それは自・他の境界線が限りなく薄まって、自分を愛するように他人を愛する、そんな自己愛のことです。
それをわかっていただきたいと思います。



小説『ブンシニズム・ドット・ネット』を読んでいただければ、そのこともわかっていただけると思います。
そして、実はこれは小説なんかではなく、とんでもないものだったことを察していただけたら嬉しいのですが。

僕が書いたこの小説は、僕の脳に記憶されている51年間の様々な体験や、僕が唯一記憶させられている日本語という母国語や、今も外から絶え間なく入ってくる情報や、身体内部からの情報などのコラボレーションによって僕の脳に浮かび上がってくる言葉を、僕が急き立てられるように書き取らされただけなんです。

その証拠に、僕の中に記憶されていないドイツ語やバジュゴリ語ではこれらの文章は決して浮かび上がりませんし、江戸時代などの環境にいたら、このような思考も行われません。

僕は僕の脳を取り巻く環境に考えたり書いたりさせられていただけなんです。

僕たちはみんな環境の媒体なのです。

だから、この小説は、実は小説なんかではなく、世界を平和に導くための唯一の方法を、僕という媒体を使って、この宇宙が提示して見せたものだったわけです。実はあなたに向けて放たれた天からの啓示であったことを、ハッと、察していただけたらと思います。

この僕が9年前に打たれた、あの突然の稲妻のような天啓のように。



◆◇◆編集後記

皆さんに公表する前に、何人かの人に、小説『ブンシニズム・ドット・ネット』を読んでもらったのですが、その後、次のような感想や意見をいただきました。

・女性には母性本能というものがあります。自分のお腹を痛めて産んだ子どもを取り上げられた女性が、たとえその代わりに他の国の子どもを授かったとしても、ちゃんとした子育てなどできるのでしょうか? その時、何らかの葛藤はないのでしょうか?

・貨幣がなくなってもちゃんと機能する社会などあり得ないと思います。必ずどこかに不具合が生じるはずです。


その時は素直に感謝のメールをお返ししましたが、これらの感想や意見は全く的外れで、一体どこを読んでくれたんだろう、と悲しくなりました。今日のメルマガが、その方たちに対する僕の答えのつもりです。


「子どもが取り上げられることの是非」や、「貨幣の是非」などを、個人主義的な環境に置かれている脳で論じることは全く無意味であるどころか、むしろ害でしかないと僕は思っています。しかもそれはあの小説のまったく些末な部分だったのです。

あの小説を読んで一番感じて欲しかったものは、自分の真の姿です。

自分の真の姿を知ることが、我々を取り巻くこの世界の環境を、個人主義的な環境からやがて分身主義的な環境に移行させることになるからです。

それなのに、個人主義的な環境が、その脳に浮かび上がらせる意見をそのまま口にしている間は、今までの自分に凝り固まったままで、一歩も今の場所から動こうとしません。

世界中の人が「錯覚の自我」から解放されれば、この世界が個人主義的な環境から分身主義的な環境に移行します。
そうすれば、その環境が僕たちの脳に浮かび上がらせる意志に導かれるままに、僕たちは行動させられることになり、自ずと世界は平和になるのであって、決してそれ以上のことをやろうとしてはいけないのです。

僕たちは、一番やらなくてはいけない「本当の自分を知ること」をないがしろにして、いつも一番やってはいけないこと、つまり外に目を向けてばかりいるんです。


もし、世界を平和にしようと一生懸命活動している方がいらっしゃったら、むしろその方たちに先陣を切ってやっていただきたいことがあります。
外にばかり目を向けて社会を批判したり、抗議をしたり、社会を変えようとなどせずに、ただひたすら、己の真の姿を知ろうとすることだけをしてほしいのです。

真の科学の視点で「本当の自分」を知ることです。

そうすれば、自然界様が導いてくださった「分身主義」に必ず行き着きます。平和は、この我々の環境を、「個人主義的」なものから「分身主義的」なものに変えることでしか叶えることはできません。

分身主義的環境の中から浮かび上がる考えは、どんなものでも世界を平和にしてしまう仕組みになっています。
これは、科学が自然界様に教えていただいた真実です。嘘だと思うのなら僕の勉強してきたものをたどってご自分で考えてみてください。
人類の育てた果実


世界中の人たちの取り巻く環境が分身主義的なものになった時に、その環境から浮かび上がる意志に導かれて起こす我々の行動だけが、結果的には世界を平和にする行為になるだけであって、平和とは、意気込んで平和活動をしたりする先には絶対にありません。


それは平和とは反対のものを招くだけです。


今まで僕たちは、個人主義的な環境から浮かび上がる意志に任せて行動していたから世界を平和にできなかったというのに、同じ個人主義的な環境から浮かび上がる意志によって平和活動をさせられているままでは、いつまでたっても世界を平和にできないということを、どうしても知っていただきたいと思います。

今あるものに反抗して現実を変えようとしても物事は変えられない。
何かを変えようとするなら 
古いモデルがもう時代遅れになるような 
新しいモデルを作るしかない。
     (バックミンスター・フラー/思想家、発明家、デザイナー)

世界に変革を求めるなら、あなた自身がその変化になれ。
     (マハトマ・ガンジー/インド独立の父、宗教家、政治指導者)



あとがき 2020.10.14

2003年2月11日から2008年2月25日の約5年間にわたり計106回発行したメールマガジン『世界を平和にする「自己愛的生活」』を『分身主義宣言!』というタイトルに改題したシリーズは今回でnoteにすべて移し終わりました。

現在は、定年で仕事から解放されて、何にも煩わされることなく、このように書くことだけに専念できる環境であることがとても幸せです。何よりお金のために働かずに、自分の好きな時間に好きなことができるのが、最高です。

だけど僕が理想としている世界は、誰もが今の僕のような環境で生きられる世界です!
お金のために働かずに、自分の好きな時間に自分の好きなことを存分に楽しめる世界です!

スポーツが好きな人はスポーツを、絵が好きな人は絵を、掃除が好きな人は掃除を、料理が好きな人は料理を、設計が好きな人は設計を‥‥。

でも別に、現在みたいに、「これが自分の職業です」などと固定せずに、これら「自分の好きなこと」の間を自由に行き来できる世界になってもいいではないですか!?

それはもはや仕事や職業などという固定されたものではなく、ボランティアのように、世界中を誰かを助けたり楽しませたりしながら巡り、そしてそのことで自分も助けられ楽しみながら生きる世界です。
(『ブンシニズム・ドット・ネット』)

それこそが本当の仕事のはずです!

仕事は懲役(拘束され労役に服すこと)ではありません。

本当の仕事とは、みんなで楽しむ何かを見つけることなのです!


だけど現在の仕事とは、「お金」があるせいで生まれてしまった仕事の方が多いくらいです。
ちなみに、もし「お金」が無かったら不要になる仕事には何があるか考えてみてください。
いかに、本来なら不要な仕事であふれているかわかるはずです。

では、今度はその不要な仕事がなくなったら、どんな世界になるか考えてみてください。自由な時間がもっともっと増えます。

「お金があればできることが増える」などと考えるのは全くの誤解です。実はお金が無くなった方がみんなができることが格段に増えるのです。みんなでできることも増えるのです。

若者も老人も体の不自由な人もみんなが一緒になって大らかに遊び、大らかに働ける世界を、むしろお金が阻(はば)んでしまっていたのです。お金は効率を求めるからです。


本当は、僕たちの人生は、みんなで仲良く楽しむためだけにあるはずです!

あなたにお聞きしますが、それ以外に大事なことが、この世界に一体何があるでしょうか!?

せっかく生まれてきた僕たちが、みんなで仲良く楽しんで生きる以上に大切にしなければいけない、一体何があるというのでしょうか!?


お金を稼ぐことですか?
子どもを有名な大学に入れることですか?
身を立て名をあげ、他人に称賛されるような人間になることですか?

でもその願いを叶えるためには、人並み以上の努力をします。
たとえ、その競争に敗れた人でも、壮絶な苦しみも悲しみも争いも経験します。

考えてみてください!

苦しみたいため、悲しみたいため、争いたいために人生はあるなどと言う人はどこかにいるでしょうか!?

それなのに、現代を生きる世界中の人が、苦しみや悲しみや争いがない世の中をイメージすることすらできない世界で生きているのはなぜでしょうか!?

それを疑問にすら思わないで生きている人たちが多いのは、なぜでしょうか!?

苦しみや悲しみや争いがない世界を想定できない現代、そして、お金に頼らなければやっていけない現代は、なんと未熟なのでしょう。

最後にもう一度お金が生まれた流れを確認してみます。

まずは、人類が言葉を持ってしまったことから始まります。
言葉が生まれた原因は、人類が二足歩行になり、咽喉を通る空気の流れが自由になり、それで複雑な音声が出せるようになったからだと言われています。

言葉を持ってしまったせいで、物に名前を付けるようになりました。いろいろな物を象徴化(シンボル化)して把握する能力が生まれたわけです。

やがて人類の脳に「錯覚の自我」が生まれます。つまり、「自分」という象徴化です。そして、その時から現在まで、その錯覚にがんじがらめに縛られることになってしまったのです。

その「錯覚の自我」から、強い「自・他の意識」が生まれ、自分の所有物という概念が生まれ、物々交換が始まり、必然的に「お金」が生まれてきたのです。


もちろん、その「錯覚の自我」が、現在の「個人主義的社会」を作っていることは言うまでもありません。


では、この「自分という意識」が錯覚なら、本当の自分とは‥‥。

本当の自分とは‥‥、この宇宙そのものだったのです。


それさえ人類が気づきさえすれば、この世界は平和になります。
それを僕は「科学的覚醒」と呼んで訴え続けてきました。

世界を平和にしようと外に向けて抗議活動をする人がいますが、それは宇宙である自分の身体を攻撃しているだけだったのです。

今のこの環境が「個人主義的な環境」から「分身主義的な環境」に変わらない限り、上下左右が入れ替わるだけで、世界は永遠に平和にはなりません。

世界平和は外に目を向けて抗議活動をしても何も始まりません。
それは平和とは正反対のものを招くだけです。
世界平和は自分を知るところからしか始まりません。


このメルマガの『NO.105 愛すべきモンスター(6)』を発行した後に、地球を一周していろいろな国を見てきました。いろいろな国の人と交流したり、各国で平和活動をしている人たちと出会って話を聞いてきました。

そしてその経験を活かして、平和になった新しい世界で生きている人々をイメージして、小説を書きました。
(『ブンシニズム・ドット・ネット』)

「分身主義」は、この徳永分身を媒体として、世界中のみんなで作り上げたものです。「わたしは世界平和なんてまったく関心ありません」などといった人も含めて‥‥。

何故なら、徳永分身は、その人たちの影響もヒシヒシと感じて書かされていたからです。

☆ ☆ ☆

ところで、このメルマガを最後に発行した2008年は、もちろん今のようにSNSなどは盛んではなく、インターネットの世界ではせいぜいブログが最新の情報発信ツールだった頃の話です。それでも「ブログって何?」って言う人が多かった頃のことです。

このメルマガでは至る所で「分身(主義)Blog」を作ることをお願いしていますが、書くことで、つまり行動することで、より深く「本当の自分」を知ることにつながり、同時に分身主義を広めることができると思ったからです。

だけど、今ならたくさんのSNSを使ってもっと分身主義を広めることはできるはずです。

僕はこの年になってしまったのでSNSは全く苦手です。
あなた方にお願いするしかありません。


メルマガを発行したり作品を書いたりして頑張ってはきましたが、僕が生きている間には世界平和は無理でした。
でも‥‥何とか世界を平和にしてください!!!!!

みんなが助け合って仲良く生きる世界にしてください!

世界中の人の心の中から不公平感も不平等感も消えて、妬みや恨みや怒りも消えて、祝福の中で死んでいけて‥‥、
そして、お互いを「プラウド」する気持ち(分身同士誇り合う気持ち)であふれるような‥‥、


そんな素晴らしい世界にあなたの行動で変えてください!
自分を知ることです!
自分を知ることで世界を変えられます!

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★★★   関連記事(保存版) ★★★
📌分身主義とはジジイの遺言書-10-
📌真の科学とは何か?ジジイの遺言書-7-
📌個人主義から分身主義へジジイの遺言書-8-

★★★   未来モデル小説   ★★★
ブンシニズム・ドット・ネット
人類が「科学的覚醒」を果たして、「個人主義の《環境》」から「分身主義の《環境》」に移行した未来の世界を感じてもらうために小説にしました。
お金も武器もなくなった世界なので、誰もがボランティアのように自由に働きながら世界を行き来して、行く先々で出会う人たちと交遊して人生を楽しみ、生だけでなく死も大切にする人たちの物語です。
実現可能な平和な世界。実現の願いを込めて描いた未来の世界です。

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長い文章を読んでくださりありがとうございます。 noteの投稿は2021年9月27日の記事に書いたように終わりにしています。 でも、スキ、フォロー、コメントなどしていただいた方の記事は読ませていただいていますので、これからもよろしくお願いします。