見出し画像

自分という分身(不安を抱えて生きる全ての人へ)

(表紙絵 / 文章:徳永真亜基 分身)
この作品は、鬱(うつ)を抱えたある女性から届いた一通の「相談メール」に対して、分身主義で救おうとしたものです。(*分身主義とは

「それはお節介でも、安っぽい同情でも、自己満足からでもない。あなたをお救いしない限り、この僕も永遠に救われるということがないからです」

彼女を救うということが、自分を、そして世界を救うことにつながっていきます。

2007年に自分のホームページで公開していたものを、note用に再編集したものです。【84.144文字】


🔖まえがき

「われ思う故にわれあり」とデカルト分身さんは言いましたが、あなたの中に確実に存在している《われ》とは何でしょうか?
デカルト分身さんは、疑い得るものをどこまでもどこまでも疑って行ったその先に、今、疑っている《われ》の存在だけは、どうしても疑うことはできない、という発見に至りました。

しかし近年、「真の科学」は、これは間違いだったとわかり始めています。

《われ》とは、僕たちの神経系の見る単なる錯覚です。( * 神経系とは、脳と脊髄と全身に張り巡らされている神経の総称のことです)

では、錯覚ではない《われ》とはいったいどんな姿かたちをしていると思いますか?

* * * * * * * * * *


イジメという、出口の見えない地獄で苦しんでいる子どもたちがいます。

大人たちの想像をはるかに超えたイジメが、現在、小・中・高校で起こっている話は、あなたもたくさん聞いていると思います。

彼らはイジメを受けていることを親にも先生にも言えず、毎日、イジメや脅迫が待っている「悪魔の棲む教室」に我が身を差し出しに出かけるしかないのです。
毎日のように死にたいという思いが浮かび、それでも死んだら親に申し訳ないなどという気持ちで死に切れずにいます。

あなたが明日のデートのことや、夏休みの家族で行く海外旅行のことや、憧れのスターのことや、自分のサクセスストーリーなどを思い描いてワクワクしている間にも、そんなこととは全く無縁のところで、何一つ希望も持てずに、一秒たりとも気の休まる時がなくビクビクと生きている子どもたちがたくさんいます。

だけど本当は、この社会が、「明日のデートのことや、夏休みの家族で行く海外旅行のことや、憧れのスターのことや、自分のサクセスストーリーなどを思い描いてワクワクする」ような社会だから、イジメが起こっているとも言えるのです。

今僕たちが生きているこの社会は、子どもから大人まで「自分が楽しめること」であふれています。自分が楽しめることであふれる社会を、みんなが求めてきたからです。

だから、誰もが一番大切に思う《自分》が、その自分を一番大切にして生きられる仕組みが完成された社会です。

誰もが一番大切に思う《自分》たちが作るこの社会は、「個人主義的な社会」と呼んでいいと思います。

だけどこの一番大切な《自分》とは、いったいどんな姿かたちをしていると思いますか?


* * * * * * * * * *

『教室の悪魔』という本がベストセラーになったそうです。
イジメという、出口の見えない地獄で苦しんでいる子どもたちを、何とか救いたいという強い《思い》からそれを書いてくださったのは、児童相談所で児童心理司(じどうしんりし)をされているある女性の方です。

僕が『教室の悪魔』という本を買ったのは、著者の方がテレビに出演して話しているのを見たからです。
彼女は、

「イジメはもう子どもたちだけでは解決できません。大人が気づいてあげて、大人が解決すべき問題です!」

と訴えていました。

僕はその考え方は少し間違っていると思いました。

今の大人にはイジメを解決できません。それどころかイジメを作っているのが、大人を含めた今の社会だからです。

でも、間違っていると言うにはその人の話を全部聞いてからじゃないとフェアじゃありません。
だから、その本を買ってみたのです。
読んでみたら、やっぱり彼女は、大人たちが協力してイジメに対処していけばイジメはなくなるという微かな?希望にすがっているようでした。

なぜ、「かすか」と僕が感じたかというと、彼女自身が大人をそこまで信頼しているわけではないからです。

「子どものいじめのパタンを見ていると、大人社会をモデルとしているとしか思えないものがたくさんある。子どもたちは、あらゆるメディアや通信のツールを使って、大人たちの負の側面を驚くべき速さで吸収し、濃縮し、持ち前の柔軟さで残酷な“いじめ”の手段を開発し続けている」

と言っている人が、どうしてその大人に大いなる期待ができるのでしょうか?

僕は大人たちにだって解決できないと思います。
むしろ、イジメは大人たちの社会の反映だからです。
ある意味、イジメる子もイジメられる子もこの社会の被害者なのです。

彼女の提案する解決策のように、学校の先生やPTAが、ちょっとのイジメも見逃さない団結した連絡網を作り、それでもしクラスからイジメがなくなったとしたって、そんなことで喜んでいる場合ではありません。

そこまで監視下に置かれた子どもたちの将来を考えると、イジメよりも恐ろしいものが待っているような気がしませんか!?

しかも、学校の先生やPTAの方たちの心の中にあるのは、子供たちへの信頼や希望ではなく、こうでもしなければ子どもたちは何をしでかすかわからない、という強い恐怖や猜疑心(さいぎしん)です。
本当は、そのように厳しく監視していなければイジメが起こるような社会こそがおかしいということに、僕たちは気づかなければいけません。

最近、テレビなどでも「イジメ」についての討論会が増えていますが、その中でちょっとした異変が起きています。
「イジメは絶対になくならない!」と断言する勇気ある人が少しずつ増えているのです。

一昔前には、そのように心の中では思ってはいても、正直に口にすることはタブーだったような気がします。
まだ心のどこかで、微かな希望を持っていたいという気持ちがどこかにあったのかもしれません。

でも、「イジメは絶対になくならない!」と断言する人が増えているということは、やっぱり誰もが心の中では、イジメは大人の社会の反映であることを強く感じ始めていて、どこかで諦め始めているのではないでしょうか?

だって、そうでしょう!?

大人の社会で毎日うんざりするくらいに起こっている犯罪、もめごと、醜い競争、権力争い、奪い合い、足の引っ張り合い、罪のなすり合い、マナー違反、イジメ、パワハラ、セクハラ。
飽き飽きしていない人はいないでしょう!?
そういうものがなくなる社会が来るなんて、もう誰も期待してなんかいないでしょう!?


そういう行動の元となっている、不平、不満、妬み、恨み、怒り、欲望、優越感、劣等感‥‥、自分の心の中にだってそういったものがいつでも渦を巻いているというのに、どうして同じ人間に期待などできるでしょうか!?

だから僕たちは声高らかに宣言できるのです。

「イジメは絶対になくならない!」と。

でも、いくら僕が『教室の悪魔』を書いた方に、「今の大人には無理です」と言ったって、それが現在考えつく最善の方策であるならやるしかありません。
彼女の考える「大人たちの正の側面」があるとすれば、精一杯それに賭けてみるしかありません。

だけどもし、彼女が言う「大人たちの負の側面」というものが、きれいになくなったらどうでしょうか!?

僕たちが今生きているこの環境が、《個人主義的な環境》から《分身主義的な環境》に変化すればそれが可能です。

分身主義などという言葉初めて聞いた方は、恐らく、「そんなことは絶対にあり得ない」という人たちと、「もしそんなクリーンな社会ができたら逆に気持ち悪い」という二つの人たちに分かれると思います。

それらは、今の僕たちの脳が《個人主義的な環境》に置かれている脳だから、そのような発想が浮かび上がってしまうのです。

分身主義は、僕たち人間がどのように動かされ、どのように考えさせ・られているかというメカニズムを科学的に知ったものだから、それがわかります。

分身主義は、錯覚ではない本当の「われ」の姿を科学によって知ったものだからわかるのです。

もしあなたが今、「分身主義だか何だか知らないけど、そんなことはあり得ない!」とか、「分身主義が広まって、もし本当にそういうクリーンな社会になったら逆に気持悪い!」と言うなら、フェアじゃありません。
分身主義を知ってからその批判をすべきだと思うのです。

ただし前もってこれだけは言っておきます。
分身主義は、誰のどんな行動や考えに対しても批判も否定もしません。どんな行動や考えに対してもです!

先ほどから『教室の悪魔』を引き合いに出して、「そんなものじゃイジメはなくならない」などと批判してきましたが、それは、この個人主義的な環境の中にいる僕がやっていることであって、分身主義が批判や否定をしているわけではありません。

分身主義的にもっと正確に言えば(つまり科学的に言えばということですが)、僕が批判しているのではなくて、僕は僕の脳を取り巻く環境にそれを言わせ・られているだけなんです。
繰り返しますが、分身主義は、僕たち人間がどのように動かされ、どのように考えさせられているかというメカニズムを科学的に知ったものです。 

分身主義とは、錯覚ではない本当の「われ」の姿を科学によって知ったものなのです。

* * * * * * * * * *


🔖ある日、見知らぬ女性から短いメールが来た。

日曜日の夜には、何故か不安で不安で、何をする気にもならないのです。
必ず熱があるような気がします。時間を無駄に捨てているようですごく焦るけれどどうにもならない。
どうしたらこの不安感、無力感を解消できるのでしょうか?

彼女の不安は何とか解消してあげたいけれども、この文面からは状況がよくわからない。
ただ、彼女が僕に相談をした理由は、僕のホームページの中にある「分身主義的悩み解決」のコーナーを見てくれたからだろうと、推測がつく。
そこで僕は次のようなメールを送ってみることにした。

「分身主義なら、あなたを完璧に不安から救い出すことができます。もしお望みなら、分身主義をお教えしましょうか?」

それに対する彼女のメールだ。

日曜日の夜の不安は、知識では解消できないと思うけど、分身主義をわかりやすく簡単に少しずつ書いてみてください。

それを読んで、正直、ちょっとムッとした。
その時の彼女は、目の前の何でもいい何かにすがる思いと同時に、どうせどんなものでも自分の不安感を拭い去れるはずがない、という捨て鉢な気持ちが同居していたのだろう。

それにしてもだ。
彼女は最初から分身主義を疑ってかかっているのに、試しにやってみてください、などと言っている。
しかも、「わかりやすく簡単に書け」と注文つきで。
それだけでなく、「少しずつ」などと指定までもしている。一体何様のつもりだろう?

僕だってそんなに暇なわけではない。
見ず知らずの一人の人のために、わかりやすく、簡単に、少しずつ、説明している暇なんてないのだ。


にもかかわらず、その日以来、僕はこの作業に没頭させられることになる。

もちろん彼女の中には、何らかの思い上がった気持ちがあって、あのような鼻持ちならないメールをくれたわけではないのだろうけれども、僕には「どう、こんな私を、あなたに救えるものなら救ってみる?」そんな挑戦状を叩きつけられたように感じられたからだ。


だけど、本当は、僕にはどうしてもこの作業に没頭しなければならない理由があった。


翌日、僕は、次のようなメールを送った。

僕はあなたのことを何も知りません。
あなたがいくつの方なのかとか、どのような人生を歩んでいらした方なのかとか、結婚していらっしゃるのか、お子さんは‥‥とか。
もしあなたが、ご自分の不安の解消にそれらの背景の説明が必要であると思われるなら、どうかお話ください。

顔も見えない間柄ですから、心置きなく話せるはずです。

あなたのメールには、日曜日の夜になると不安で仕方なくなる、と書いてありますから、もしかしたら、月曜日に来る何かを恐れていたり、あるいは日曜日にまとめていろいろなことをやらなければならなくて、そのことで疲れて夜になるとガックリとしてしまい、他のことができなかったという焦りが生まれ鬱(うつ)状態になったりするのかもしれません。

普通なら、そういったことも一つ一つ原因を探り出したりして、それに対して適切な対応を考えていこうとするでしょう。

もし、それらを話していただけるのであれば、謹(つつし)んで拝聴させていただきます。


でも僕は、そんなことではあなたの不安は根本から解決できるとは思いません。
僕は、あなたのことを、ニックネームから勝手に女性だろうと推測していますが、それさえ間違いであったとしても、どうでもいいことと考えます。僕はあなたを根本からお救いしたいのです。
それはお節介でも、安っぽい同情でも、自己満足からでもありません。

あなたをお救いしない限り、この僕も永遠に救われるということはないからです。

この意味は、あなたが知ってみたいとおっしゃった分身主義の中にあるので、後でおわかりいただけると思います。


ところで、仏教のことはあまり詳しいわけではないのですが、避けることのできないこの世での人間の苦悩は四つあると、そこでは言われているようです。

生老病死(しょうろうびょうし)。

つまり、生まれること、老いること、病気をすること、死ぬことです。

あなたの不安の根本の原因も、僕はそこにあるのではないかと思います。それはどんな人間であっても共通の苦悩です。
どんな人間も生老病死と無縁で生きることはできないし、その不安からは永遠に逃れることはできないからです。


彼女からの返信メールが届いた。

自分のことは、今はあまり話す気持ちになれません。どこから話したらいいのかさえわかりませんし、あまり、考えたくもないというのが本心です。いずれ話せる日が来るかもしれません。
だけど、もし話したとしても、根本的な解決にはならないと言うあなたの言葉は正しいように思えます。
私の不安の奥の奥には、確かに生老病死の不安が横たわっているような気がします。
ただし私には、生老病死の「生」は、生まれることではなく生きることです。
たぶん、生きることそのものが無意味で不安なんです。


僕は生老病死について調べて、翌日、彼女に次のようなメールを送った。

「ただし私には、生老病死の「生」は、生まれることではなく生きることです。たぶん、生きることそのものが無意味で不安なんです」
と言うことですが、生老病死(=四苦)の「生」が「生まれる苦しみ」という意味を釋昇空(しゃくしょうくう)というお坊さんが、とてもわかりやすい法話の中で説明されていましたので、そちらの一部を以下に引用させてもらいます。

‥‥「四苦」というのは、先ほども申しましたように「生まれる苦しみ、老いる苦しみ、病む苦しみ、死ぬ苦しみ」のことですが、実際には、これは「死ぬ苦しみ」ひとつに集約されてしまいます。

「生まれる苦しみ」というのは分かりにくいかもしれません。私たちは「産みの苦しみ」とは言っても、「生まれる苦しみ」とは言いませんからね。ですが、「生まれる」ということは「いずれ死なねばならない」ということでもあります。「生まれる」というのは、「死ぬ」ことが約束されているということです。ですから、死ぬことが苦しみである限り、生まれてくることも苦しみなのです。

また、「老いる苦しみ」というのは、ただ歳をとるのが苦しいという意味ではありませんね。たとえば、15歳の人が25歳になっても、別に、苦しくはないでしょう。そうではなくて、「老いる苦しみ」というのは、「死ぬときが近づいてきたと思う苦しみ」「死ぬことへの予感を持つ苦しみ」ですね。

「病む苦しみ」と申しましても、鼻風邪ひとつ引いたくらいで、深刻に苦しむ人もいないでしょう。そうではなくて、大病を患ったときに、「ひょっとしたら、これで終わりかもしれない」と思う苦しみがある。それが、「病む苦しみ」ですね。ですから、「病む苦しみ」というのも、「死への予感を持つ苦しみ」なのですね。

では、「死ぬ苦しみ」とは何か。私たちはよく、「死ぬほどの苦しみ」とか「死ぬより辛い」というようなことを申しますが、かつて死んだという経験を憶えているわけではありませんね。私たちの経験から言えば、死ぬということが、苦しいことなのかどうか、実は、よく分からないのです。かつて死んだときのことを思い出せたら、「死ぬ苦しみ」というのは無いのかもしれませんが、まあ、そういうことは、まずありません。では、「死ぬ苦しみ」とは何かと言えば、それは「死ぬことへの不安」なのですね。
(釋昇空法話集・第18話より抜粋)

どうでしょうか?
「実際には、生老病死は、死ぬ苦しみ一つに集約される」というわけです。

と言うことは、あなたの心の奥底に横たわっていた生老病死とは、全部が死というまだ見ぬものへの不安に集約されるということです。


そのメールに対する彼女の返信は以下のようなものだった。

それでも私には、生老病死の「生」は、生まれることではなくて生きることだと感じられます。

どうしてかと言うと、私は死ぬことはそれ程恐くはないんです。それよりも社会的に、自殺はいけないことだとプレッシャーをかけられているので、それで死ねないことが重荷となっています。

生きることに意味を感じていない人間には、死なせてくれる社会ができればこんなに不安な気持ちのまま生きなくてもすむのに、と本気で思います。
こんな風に考える私は、やっぱりどこかおかしいのでしょうか?


なるほど、なるほど‥‥。
彼女の文面から読み取れることは、彼女は「生」というものにあまり期待をしていなくて、無意味で不安であるとさえ感じていて、しかも「死」はそれ程恐くはないと思っている。

と言うことは、いっそ死んでしまえるならばスッキリするにもかかわらず、この社会は自殺に対して否定的なイメージがあるし、自殺を決行したりすれば、過度な同情を持たれたり、逆に白い目で見られたりする。

それに遺族には悲しまれるし、彼らに肩身の狭い生き方を強いてしまう。

それで死ねないことが重荷になっている、ということのようである。

さて、あなたなら、彼女にどのようなアドバイスをして差し上げるだろうか?

僕は、よく考えた末、次のようなメールを送った。

「それよりも社会的に、自殺はいけないことだとプレッシャーをかけられているので、それで死ねないことが重荷となっています」
あなたのおっしゃる意味はよくわかります。
そして実際、あなたのおっしゃる通りだと思います。

実は、科学的に言えば、死というのは個体のある一時的な“状態”を示す言葉でしかありません。

死そのものには恐いとか悪いとかいう意味はどこにもないのに、死を忌(い)まわしいものとして遠ざけたり、自殺は善くないことであると決め付けたりする社会によって、僕たちは、死や自殺をいたずらに恐がらされ、罪悪であるかのように思わされてしまっているだけなんです。

あなたは死や自殺が恐いのではなく、死を忌まわしがり、自殺を悪と考えるこんな社会の中では、死ぬこともままならないことが重荷となっているわけですね。

だけど、本当は、自殺などというものは存在しません。
他殺があるのみです。

他殺と言っても他人があなたを殺すという意味ではなく、あなたを取り巻く環境があなた自身に(=あなたという媒体を使って)あなたを殺させるという意味です。

あなたは、どんな場合でも「自分の意志」で死ぬことなんてできない、という意味において、自殺なんてあなたのみならず、誰にもできないことだったのです。

このことは今まで耳にしたことのないような考え方かもしれませんが、今まで我々がそのような視点に立てなかったと言うだけで、間違った考え方だというわけではありません。
むしろ、科学が導いてくれた真実です。
そして、これこそが分身主義の視点なんです。

その分身主義の話はちょっと置いといて、あなたの言葉を聞いて考えさせられたことがあったので、書いておこうと思います。

釋昇空(しゃくしょうくう)さんというお坊さんは、生老病死という「四苦」は、全て死ぬ苦しみ一つに集約されるとおっしゃっていましたが、それはもしかしたらそうでもないのでは、ということです。


❶ 生まれる苦しみ
彼(釋昇空さん)は、「生まれるということは死が約束されているので、それで死ぬことが苦しみである限り、生まれて来ることも苦しみである」と言っていますが、どのような理由で「死ぬことが苦しみである限り」と断定しているのでしょうか? 現に、あなたのように死ぬことがそれ程恐くない人もいます。

そして、実際、あなたのように「死ねない苦しみ」、「生きなければならない苦しみ」を感じている人もいるわけです。

❷ 老いる苦しみ
彼は、老いる苦しみとは「死ぬときが近づいてきたと思う苦しみ」、「死ぬことへの予感を持つ苦しみ」のことだと言っています。その理由は、「15歳の人が25歳になっても、別に、苦しくはない」からだそうです。

だけど、例えば50歳になると若い頃のように身体も動かなくなり、無理もできなくなり、身体のあっちこっち痛みや不具合が生じたり、ちょっとしたことで疲れが出たり怪我をしたり、老眼が始まって小さな文字が読みづらくなったり、記憶力が衰えたりしますが、今まで簡単にできたことができなくなってきたことで生じる苦しみのようなものも、確かにあるはずです。

と言っても、人生80年と言われている時代に、50歳になった時に生じるこのような苦しみが即、死への予感を持つ苦しみにつながるとは考えにくいと思います。

むしろ、医療が我々に長寿をもたらし、そのことで近年、認知症の人も多くなりましたが、いずれ自分もそうなるだろうと想像した時の恐怖や屈辱や、家族に負担をかけて生きている自分を想像した時に感じる不安の方が、死を想像した時に感じる苦しみよりも大きいように感じる人も増えているように思えますがいかがでしょうか?
  
自分で自分のことができなくなったり(⇐分身主義にはこんな概念はありません)、自分が壊れてしまったり(⇐分身主義にはこんな概念もありません)する前に死にたい、と考える人たちは多いのではないでしょうか?


❸ 病む苦しみ
彼は、病む苦しみのことを「ひょっとしたら、これで終わりかもしれないと思う苦しみ」、「死への予感を持つ苦しみ」のことだと言っていますね。

その理由として、「鼻風邪ひとつ引いたくらいで、深刻に苦しむ人もいないから」ということです。

だけど、病気でどこかが痛くなったり具合が悪くなったりして辛く苦しい思いをすることはありますが、それは死への予感よりも病気自体が辛く苦しいと感じる比重の方が多いように思います。むしろ「こんなに苦しいならひと思いに殺してほしい」と願う人すらいるはずです。

❹ 死ぬ苦しみ
彼は、「かつて死んだ苦しみを経験をしてきたという人はいないのだから、死ぬ苦しみとは、死ぬことへの不安のことだ」と言っています。

「かつて死んだ苦しみを経験をしてきたという人はいない」と言うのはその通りですが、だからと言って「死ぬ苦しみとは、死ぬことへの不安のことだ」とばかりは言えないと思うのです。

あなたのように死ぬことにはそれ程不安を感じていない人もいるわけですから、死ぬことへの不安というよりも、死に対する社会的な非難の目が恐かったり、あるいは延命治療を施(ほどこ)されて、死を目前にしていながらも、しばらくは肉体的な痛みや精神的な苦痛を背負い続けて生きなければならない日々のことを想像した時の不安もあると思います。

以前、テレビである医者が、現代はそのつもりなら何年でもベッドに生かしておくことは可能な時代だ、と言っていました。

このように見てくると、釋昇空さんが「全てが死ぬ苦しみに集約される」と言った言葉が、あなたがおっしゃるように、「全てが生きている苦しみに集約される」とも言えることに気づきました。

全く正反対の結論に至ったわけですが、とても大事なことなのでもう少し考えてみます。

彼とあなたの言葉の違いを、次のような極端な言葉に言い換えてみるとはっきりと見えてくるものがあります。

釋昇空さん: もし死がなければ、この世に苦しみは一つも存在しないだろう。
あなた: もし生がなければ、この世に苦しみは一つも存在しないだろう。


このように言い換えてみれば、どちらが正しいかはすぐにわかりました。

老いて身体が思い通りに動かなくなっても、はたまた大病を患って苦しくても、永遠に死ねないほどの苦しみはありません。
だからあなたがおっしゃるように「もし生がなければ、この世に苦しみは一つも存在しない」が正しいわけです。
「生」があるからこそ、苦しみもあるわけですから。

だけどこんなことを正面切って言ったとしたら、まるで死を奨励しているかのように聞こえてしまいます。

僕たちは生まれてしまった以上、そして死んだら悲しむ人がいる以上、どうしても生を否定するわけにはいきません。
生を否定するということは、自分の存在を否定することだし、それによって自殺(?)などしてしまったら、悲しむ人の存在を無視してしまったのと同じだからです。

生きている者としても、何としても生はいいものであると思わせてくれなければ困るわけです。それで、なるべく生きることの苦しみからは顔を背(そむ)けさせておいて、「全ては死ぬ苦しみに集約される」と言っておいた方が無難です。

でも、僕はごまかしは一切しませんよ。
分身主義を知っていただければ、僕たちにごまかさなければ困る理由なんて、何一つなかったことがわかると思います。

もしあなたにとって、この世に生きていることが本当に苦しみの連続でしかないのなら、それを何かの理由をつけてごまかすことなんてせずにすっぱりと死を選べばいいのです。

誰だって今の会社や職種が合わないと思えば、辞めて自分に合う仕事を探すじゃないですか!?
今のこの社会に合う人と合わない人がいても少しも不思議じゃありません。たとえ誰もが白い目で見たって気にすることなんてないんです。

この僕だけはあなたの勇気ある行為を称えてあげます!

そんなことを言うと、「たとえ今苦しくったって、生きてさえいれば楽しいこともあるのに、死んでしまってはそれで一切が終わりだ」と言う人が必ずいますが、それは生きることの苦しみになるべく顔を背(そむ)けたがる人たちの言い分で、あなたのような人から見れば「たとえどんなに楽しいことがあったって、生きている限り苦しみはつきまとう」とも言えるわけですからね。

さあ、どうします?
自殺は人間だけの特権ですよ。さあ、思い切って!


‥‥だけど、さっきも言いましたが、本当はどんなことをしてもあなたは自殺などできないんです。

自殺と呼ばれている《他殺》があるだけなんです。
そのことに気づいていただきたいためにも、あなたに早く分身主義を知っていただきたいと思います。

分身主義を知っていただくために一番大事なことは、人間中心の視点ではなく、自然界中心の科学の視点を持てるようになることです。

例えば、自然界中心の科学の視点で先程の「生」や「死」を見つめたらどのようになるでしょうか?

「生」も「死」も、生物の見せる一時的な状態のことでしかありません。それ自体は決して恐いものでも苦しいものでも楽しいものでもないんです。

今この瞬間にも僕たちの身体を構成している元素は常に入れ替わっていますが、それは、外の元素が中に入り中の元素が外に出るという循環をしているだけで、決してこの宇宙の外に元素が漏れ出てしまうわけではありません。

つまり、「生」と「死」を分けていたものは、単なる僕たちの脳の錯覚であり、実は「生」も「死」も、この宇宙の中で連綿と続けられている元素の循環の一時的な状態のことでしかなかったんです。

人間以外の動物は、「生」や「死」を苦しいものだとか楽しいものだとか認識しません。
と言うより、彼らには生や死という概念そのものがなく、実は、自我という境界線もありません。

彼らにとっては生も死も自分の身体も、この自然界とどこまでも連続しているものです。彼らは自然そのものだからです!
それを分身主義では「自然界と地続き」と表現します。

生物の見せる一時的な状態に過ぎない「生」や「死」という用語に、人間だけが、楽しいとか苦しいとかいう色をつけてしまうだけです。

それを分身主義では幻想(あるいは錯覚)と呼びます。


今、幻想という言葉を何の注釈もなく用いてしまいましたが、幻想とは、分身主義を知ってもらうために一番初めに覚えてもらわなければならない用語で、「感情や、意思、意欲、想像、思考‥‥など、人間の脳の作用によって作り出される全ての現象」のことです。

それでは、分身主義の説明に入っていきますが、この分身主義メール (Bunshinismの頭文字を取ってBメールと命名します)は全部、あなたが一週間のうちで最も不安になる日曜日の夜に届くように送ろうと思います。

ただし、あなたが望むように、あなたの理解を確認しながら「少しずつ」書くつもりなので、あなたの返信メールが届くのを待ってゆっくりとお送りするつもりです。


早速、彼女から次のようなメールが届いた。

「本当はどんなことをしてもあなたは自殺などできないんです。
自殺と呼ばれている《他殺》があるだけなんです」
言わんとする意味はわかるつもりですが、感覚的に理解できません。
それと「転職」と「自殺」を一緒にされては困ります。

動物には(人間も動物ですから)、生きたいという本能がどうしようもなく備わっているものだと思います。
だから死にたいと言う人だって、本当は心のどこかでは生きたいと思っているのだと思います。

私が死はそれ程恐くないと言うのは、たぶんその本能が他人より弱いのかと思います。


次の文章が、何十回と推敲を重ねた末に送った、僕の返事である。
彼女に僕の真意が伝わってくれるだろうか? それともここで終わりとなるだろうか?
祈るような気持ちで送ったメールである。


「自殺と呼ばれている《他殺》があるだけ」という感覚は、分身主義の真髄(しんずい)にも触れるものなので、今はわからなくても、これから分身主義を説明していくので徐々にわかっていただけると思います。

それと「転職と自殺を一緒にされては困ります」ということですが、どうして困るのでしょうか?

あなたの意識の中では、転職と自殺とは比重が全く違うものだからですか? 始めに断っておきますが、あなたからの質問は大いに歓迎しますが、あなたからの批判は受け付けません。
例えばこの場合、「転職と自殺をどうして同列に置いたのですか?」という質問なら受け付けます。

その質問に対する答えなら、「あなたが死んでも、あなたの身体を構成していた分子は決してこの宇宙から消滅はしません。それを物質保存の法則と言います。死ぬということは、あなたの身体を構成していた分子が分解されて、他の物質の一部となって生きるということです。その部分を転職になぞらえてみたんです」と答えます。

質問は受け付けるけど批判は受け付けないなんて、ずいぶん身勝手だなと思われるでしょうが、仕方がないんです。

あなたが全ての不安から解放されて明るさを取り戻す方法は、たった一つしかありません。
不安の根本の原因を知ることです。

怖がらずに、目を背(そむ)けずに、決してごまかさずに‥‥。

そして、精神科医も知らない本当の自分と出会うことです。
そのためには、今までのあなたの常識的な(あるいは道徳的な)視点こそが邪魔になっています。
今までのあなたの常識的な(あるいは道徳的な)視点で、僕の言葉に対して批判的な気持ちを抱き続ける限り、その先の世界にはどうしても進めません。

批判とは防衛です。

相手を攻撃すると共に、自分の信念に固執する壁を作ってしまっているのです。

もちろん批判精神は大切です。
それがなければ科学も新しい物を発見できず、自然界の真実の解明には永遠に近づけないでいたでしょう。

だけど、本当の批判とは、そのものをよく知った上でするものです。

そうでなければ、批判ではなくただの言い掛かりです。
でも、あなたは分身主義を批判するには、まだ分身主義というものを一つも知りません。
あなたの気持ちの中に、常識にとらわれる批判的な気持ちがある限り、どんなに僕が一生懸命、力説しても、分身主義はあなたの中に入っていかないでしょう。

それならば、あなたは今すぐこの僕とのメールのやり取りを中断して、医者か薬に頼るべきです。でも、医者も薬もあなたを根本から救い出してはくれないと思います。
医者や薬にできることは、表面に表れた症状を軽減することだけだからです。

以前も言いましたが、僕はあなたを根本からお救いしたいのです。
それはお節介でも、安っぽい同情でも、自己満足からでもありません。あなたをお救いしない限り、この僕も永遠に救われるということはないからです。

この意味も、もし分身主義を知っていただければわかっていただけると思います。

それと「動物には生きたいという本能が備わっている」とおっしゃっていますが、それは間違いです。

動物にあるのは、「生きようとしているように見える本能」だけで、「生きたいという本能」があるわけではありません。
「生きたい」というのは、人間だけにある感情や願望です。

「動物の本能」という科学的な話をする時に、人間の感情や願望を盛り込んではいけません。

本能とは、動物のDNAに書き込まれている情報のことです。
DNAは、細胞分裂の時に自分と同じコピーを作るのですが、どのくらいの割合かはわかりませんが、時々コピーミスを起こします。

それを突然変異と呼びます。

動物はこの地球に生まれてから、何度も何度も突然変異を繰り返してきました。つまり、DNAの情報がほんの少しずつ書き換えられてきたんです。

その書き換えられたものが、その時の環境において滅びてしまう方向に適応すれば継承されませんが、栄える方向に適応すれば子孫に継承されることになり、そのDNAの情報を持ったものが、現在、繁栄しているというだけの話なんです。

そんな中で、例えば自分より大きな動物に追いかけられたら逃げる行動を取るようなDNAの方が生き残り、当然引き継がれていくので、それで現在は、自分より大きな動物に追いかけられたら逃げようとするDNAが繁栄しているだけなんです。

要するに、動物たちが、他の動物の捕食から逃げようとする行動は、自然界が長い間かけて作り上げた単なる刺激に対する反応に過ぎないのです。

それを見て、我々人間が、自分たちの「生きたい」という感情や願望を投影してしまって、「彼らは生きたがっている」と結論づけてはいけません。

ちなみに、動物(もちろん人間も含みますが)のDNAには生きようとする情報と同時に、死に向かう情報も書き込まれています。
細胞には、その分裂回数を決定するテロメアという部分があることがわかってきたからです。

テロメア


しかし、死に向かう情報とは、「死にたいという本能」のことではないのはこれまで説明した通りです。

だから、あなたは「生きたいという本能」が他人よりも弱かったわけではないということはおわかりいただけましたか?

「生きたい」というのは本能ではなくて、それは人間の感情や願望です。
人間の感情や願望というものは、その人の脳内に作られていく記憶と、その人の脳を取り巻く環境からの刺激との相互作用によって、その人の脳内に浮かび上がらせ・られてくるもののことなんです。

もちろん、その人の脳内に作られていく記憶とは、その人の環境が作っていくものですから、その人の感情や願望なども全てが環境に作られていると言うことも可能です。

だから、あなたが、「死ぬことがそれ程恐くない。生きることが無意味で不安である」と感じるのは、それは今のあなたの脳を取り巻く環境が、そのような感情を浮かび上がら・せる環境だからなんです。


ちなみに、「性格や行動を決定するものは、氏か育ちか?」という議論がよくなされます。
「氏」とは遺伝のことで、「育ち」とは環境のことです。
ですが、遺伝も環境によって作られていくものなので、分身主義は、先祖代々、子々孫々と続く遺伝も環境に含みます。

今日のメールも、少し難し過ぎたと思いますが、まずはそのまま受け取ってみてください。
今日のメールの意味も、あなたがもしこれから分身主義を知ろうとするならば、やがてわかっていただけるはずです。


すぐに彼女からのメールが届いた。

「質問は受け付けるけど批判は受け付けないなんて、ずいぶん身勝手だなと思われるでしょうが、仕方がないんです」
わかりました。
確かに私は常識に縛られた発言をしてしまったかもしれません。今の常識に縛られている限り、その先には進めないと言う意味もわかります。
はっきりとは言えませんが、何だか今まで知らなかった世界が両手を広げて私を迎えようとしてくれているような予感はしています。

「あなたをお救いしない限り、この僕も永遠に救われるということはないからです」この意味も今はよくはわかりませんが、いずれわかるようになるでしょう。


‥‥というわけで始まった、「分身主義メール」の第一号である。

🔖「Bメール1・分身主義とは」

以前にもちょっと書きましたが、分身主義を知っていただくためには、どうしても科学の視点が必要です。

分身主義とは、科学が導いてくれたユートピアへの入り口です。その場所は、僕たちを苦しめていたあらゆる欲望や、あらゆる恐怖や、あらゆる争いから解き放たれる理想郷です。

分身主義は、現代科学が解明しているものを整理していった先に導き出されたものですから、その99パーセントが現代科学が解明している事実の開示である、と言ってもいいくらいなんです。

科学の視点とは自然界中心の視点です。

でも僕たちは普段、自分中心・人間中心の視点でばかり物事を見ています。
それは、どんな物事も自分の記憶によって歪(ゆが)めて見てしまうという、人間の脳のどうしようもない習性のせいです。

どうしようもない習性を抱えた人間が、自然界中心の視点を維持して科学を遂行(すいこう)するということは、実は精神修養が必要とされるとても大変な作業なんですが、それができなければ本当の科学者とは言えません。科学とは一言で言えば、唯物論(物質一元論)の世界です。

雷や地震や竜巻や台風といった自然現象も、それに人間の脳内で起こる現象(記憶や感情や思考など)や筋肉の動くメカニズムや遺伝といった現象も、この世のありとあらゆる神秘現象も、科学は、全て物質で説明しようとし、またほとんどのものが説明できるようにもなってきました。

科学とはこのように、「この宇宙に存在する現象は全て物質に還元できる」と考えるものです。
と言っても、勘違いしないで欲しいのですが、科学は決して「目に見える世界が全てだ」などと思っているわけではありません。

あなたは電気というものをその目で見たことがありますか?
素粒子というものをその目で見たことがありますか?

もし目に見えないからといって科学がそれらの存在を否定していたら、僕たちは電子レンジにも、携帯電話にも、パソコンにも巡り合えなかったでしょう。

科学が霊や超能力を否定しているのは、それらが目に見えないからではなく、科学がその存在を証明できないものだからです。
もし、科学がその存在を証明できる日が来れば、科学はいくらでもその事実を柔軟に受け入れ、それらをみんなの幸福に役立つように利用するでしょう。

だから正確に言えば、科学は霊や超能力を否定しているのではなくて、真偽の結論を保留しているだけなんです。

また、今まで霊や超能力などのせいにしていた不可解な現象が、科学では霊や超能力を持ち出さずに説明がつけられるので、霊や超能力を持ち出さずにすんでいるということです。

これだけ科学が僕たちの生活全般に行き渡った現代でさえ、科学に対してまだ根強い偏見や、食わず嫌い的な嫌悪や、よそよそしさや、冷たさを感じてしまう人たちがたくさんいます。
それというのも、科学は、人間の感情を極力排除してモノそれ自体を扱おうとするからなのでしょう。

人間の心を置き去りにして、何だか人間とは無縁のところで冷酷にやっているようなイメージを持たれているのではないでしょうか?

確かに、人類の生活を向上させてくれただけでなく物騒な殺戮兵器(さつりくへいき)もたくさん作ったし、公害も撒き散らしたし、お金と切っても切れない悪のイメージもあります。

だから今、はっきりしておきたいと思います。
科学は決して「目に見える世界が全てだ」などと思っているわけではありません。
それどころか、そのうち説明しますが、「目に見える世界」は偽物の世界であることを知っているのが科学なんです。
また、科学は決して人間の心を置き去りにもしません。
今までの科学が、人間の心にまだ手を着けられないでいただけなんです。

そして、科学が悪なのではなく、恐怖心が強い人間が科学を扱うことで、科学が殺戮兵器(さつりくへいき)を作るだけです。

物欲の強い人間が科学を扱うことで、科学が自然界にゴミを撒き散らすだけです。

金銭欲の強い人間が科学を扱うことで、科学が金にまみれるだけです。科学には罪がないことを忘れないでください。

ただし、今「恐怖心が強い」人間とか、「物欲の強い人間」とか、「金銭欲の強い人間」とか言いましたが、何もその人たちを責めているわけではなく、その人たちの脳内に作られていく記憶と、その人たちの脳を取り巻く環境(特に個人主義的な環境)からの刺激との相互作用によって、知らず知らずのうちにその人たちの脳内に浮かび上がらせ・られているものであることは言うまでもありません。

科学を批判する人の言葉のもう一つに、「科学は、この世の全ての疑問は科学で解決できると自負しているが、それは思い上がりと言うものだ」といったものがありますが、それも科学に対する偏見です。

科学は、自分の限界を知っています。

「どうやって」という「How」に答えることはできますが、「何故」という「Why」に答えることは決してできないことを知っています。

例えば、「目はどのようにして物を見るのか」という「How」には、どこまでも詳しく探求し答えることができますが、「目が物を見る理由」あるいは「目が物を見る目的や意味」は永遠に答えることができないことを知っています。

よく、「目は物を見るために進化してきた」などと説明する科学者がいますが、それは間違いで、たまたま外界の刺激に対してこのような反応をするように変化してきた目の作用に対して、我々が「物を見る」と呼んでいるだけです。

また例えば「人間はどのようにして生まれてくるのか?」とか、「どのようにして涙は出るのか?」というようなメカニズムには答えることができますが、「私が生まれてきた意味は何か?」とか、「私が生まれた目的は何か?」などという質問には永遠に答えることができないことを知っているし、また、「涙を流すほどの悲しみ」の傍(かたわ)らに黙って寄り添ってあげることもできません。

それらは詩やおとぎ話などの文学や、宗教などにおすがりするしかありません。

と言うことは、科学は決して傲慢なものでも、横柄でも高圧的なものでもないと言うことです。ただひたすらに、自然界様を中心にすえ、自然界様から忠実に学ぼうとする最も謙虚なものです。

そうすると、僕たちが生きる上で最も知りたい疑問のどれ一つにも答えられないような科学に、僕たち人間の心を救うことなんてできるのだろうか、という疑問が湧くのは当然です。
だけど、どうして科学にはそれらの疑問には答えられないと思いますか? 実は、それらには答えがない‥‥からなんです。

そんなことを言うと、ますます科学が嫌いになる人が増えそうです。あなたもその一人でしょうか?
科学は、「僕たちは別に、始めに何らかの意味があって生まれてきたわけでもないし生きているわけでもない」と、言い切っていますが、確かにそんなんじゃ、全く頼りなくって、ちっとも僕たちの心を救ってくれそうもないですよね。

でも、あなたが最初におっしゃった言葉、思い出してください。

ただし私には、生老病死の「生」は、生まれることではなく生きることです。
たぶん、生きることそのものが無意味で不安なんです

ほら、あなたもおっしゃっていたじゃないですか。
あなたのおっしゃる通り、「僕たちは、始めに何らかの意味があって生まれてきたわけでも生きているわけでもなかった」のです。

あなたは決してこの世の落ちこぼれなんかではなく、本当は、この自然界の真理を誰よりも先に知ってしまった人だったのかもしれません。

だけど、「僕たちは、始めに何らかの意味があって生まれてきたわけでも生きているわけでもなかった」と言ったからといって、それは、「意味を見つけて生きることができない」と言うことでもありませんから、誤解のないようにお願いします。自分なりに意味を見つけて、前向きに生きることに対して邪魔しようとしているわけでは全くありません。


実は、科学が断言する「無意味」こそ、科学が指し示してくれている本当の「生きる意味」だったんです。
一切のごまかしを排除した科学は、実は、まやかしでない本当の「意味」を教えてくれていたのです。

生はいいものであると思わせたり、なるべく生きることの苦しみから顔を背(そむ)けさせたりして、ごまかしながら生きる必要なんてなかったんです。

また、科学は、僕たちが悲しみに打ちひしがれて涙を流しても同情などしてくれず、「感情とは何か?」とか、「その感情はどのようにして作られるのか?」というような原因を追究することができるだけですが、実は、その疑問を乗り越えた先にこそ僕たちの本当の救いがあったのです。

そして、その科学の指し示してくれている意味と救いに導かれて生きるものこそ分身主義です。

何だか抽象的な説明になってしまいましたが、これから順を追って少しずつ分身主義を説明していきたいと思います。

取り敢えず今日のところは、分身主義とはその99パーセントが現代科学が解明している事実の開示であると覚えておいてください。
だからあなたがもし科学に興味がない方であっても、現代科学がどこまでこの自然界の不思議を解明しているか知っていただく必要があります。

大丈夫。

僕がわかりやすく説明しますから。

きっと科学を好きになってくれますよ。

では、残りの1パーセントは何かと言うと、「何事にも動じることのない安心を手に入れたい」とか、「喜びに満ちた気持ちで幸福に生きたい」などの願いです。もしこの1パーセントの願いがなければ、僕たちは科学とは永遠に無縁だったと思います。

科学なんかには決して頼まなかったと思います。
その1パーセントが、99パーセントを必要としたんです。

こんなメールを送ったところ、一週間待っても彼女からの返信メールが届かなかった。

一週間待ちあぐねた僕は、彼女の返信を待ち切れずに次のメールを送ってしまった。
何だか立場が入れ替わっていくような、気がしてきた。

🔖「Bメール2・再び分身主義とは」

1957年の冬のある日、僕はこの世にポッと生まれてきました。

生まれてみたのはいいけれど、違う土俵に駆り出されて嫌々ながら相撲を取らされているような違和感をいつも感じていて、自分の周りを取り巻く様々な物事がすんなりと受け入れられなくて、考え込んでばかりいました。

この前ご紹介した釋昇空さんは、次のようなことをおっしゃっています。

「私たちはたいてい、生まれ落ちた社会の価値観をほぼ無批判に自分の価値観として生きていきます。皮肉なことに、社会の価値観に沿った生き方ができるほどのエネルギーを持った人ほど、そうなりがちです。
努力して社会的に成功したと思っている人ほど、硬直した価値観に縛られていたり、その価値観に基づいて他人を評価したりする傾向が強いように思います。
本当に大切な気づきが社会の中枢から生まれてこないのも、あるいは、そのせいなのかもしれません」

「社会の価値観に沿った生き方ができる人」というのは、この場合、「社会の価値観に見合った結果を出しながら生きることができる人」というような意味だと考えていいでしょう。
最近流行の言葉で言えば、「勝ち組」といったところです。確かにエネルギーがなければ、結果は着いてきません。

でも僕のような人間から見れば、無批判に社会の価値観を受け入れることができる人たちの方が、よほど安直で、エネルギーを使っていないように思えます。

僕のように何事にも懐疑的で考え込んでしまう人間の方が、風当たりも強く、その分、エネルギーもたくさん必要なんだと感じます。

その辺のところを、昔、自分の作品『レフュージ(水たちの帰る場所)』に、次のように書いていました。

僕がこの世に生まれてきた時、すでに父と母がいて、祖母がいた。三年前には姉も生まれていた。僕が生まれた三年後には妹が生まれた。この小さな集団は、家族と呼ばれていた。いつ誰が家族というものを作ることにしたかは知らないけど、僕たちが生まれるずっと以前からそう決まっていた。その方が何かと都合がいいからなんだろう。

家族は僕を他の人と区別するために、ワタルという名前をつけた。そして僕もワタルって呼ばれると、まるで自分のことを呼ばれている気がして返事をしてしまう。洋服にもどこにも名前なんて書いてないのに。

その証拠にもし着ているものをすべて脱いで、裸でみんなの前に飛び出しても、みんなは僕のことわかっただろう。でも、その時、首から下だけを見て僕の名前を当てるのはちょっと難しいかもしれないから、ワタルっていうのは、僕の顔のことなんだなと思っていた。

だけどそれだって正しくはない。

この顔をめちゃくちゃに作り替えたって、年とってしわくちゃになったって、やはり僕はワタルなんだ。
そしてここは日本で、昭和という時代だった。

ちょんまげを結ったり、着物を着たりしている人はいなくて、みんな洋服を
着ていた。裸では寒すぎるということだと思っていたが、ずっと後になって、裸で外を歩いてはいけないと誰かさんたちが法律で決めたからだということがわかった。

他にもたくさんの法律というものがあって、とても一人じゃ覚えられないくらいあって、どうやら僕は生まれてすぐに、その法律というものに関わらないで生きていくことはできないことになっているようだった。

まだある。

飛行機というものが鳥よりも速く空を飛んでいたし、船がトビウオのように水面をかすめて走っていたし、町には車や電車がけたたましく疾駆していた。

地球がまあるいことや、その地球には国境というものがあって、他の国とは憎み合ったり、仲良くし合ったり、助け合ったり、戦争をし合ったりしなければいけないことを知った。

普通はひとつ屋根の下に家族で住み、大概は男が毎日会社という所へ行き、女は家庭の一切の雑事をつかさどると決まっていた。

僕が少し大きくなると、男と女はいろんな面で違うということを知った。僕は男に生まれたらしい。そして女の子を意識するようにできていた。
もっともっと大きくなってから知ったのだけど、どうやら男と女とは、凸と凹の関係で、合体して愛し合ったり、子供を作ったりしなければいけないのだった。

知るもんかそんなこと。一体誰が決めたんだ。

僕は何一つとして知らされていなかった。あなただってそうじゃないですか?
自分で「うん、ここならまあ生きていけそうだ」と、この社会を選択して生まれてきたのですか?
あなたが家族を作り、国を作り、時代を作り、法律を作り、会社を作り、学校を作ったのですか?

そんなはずないのに、どうして他人に与えられたものを当然のように受け入れたり、あたかも生まれる前からこの社会をよく知っていたかのように振る舞うことができるの?

僕にはそんな器用なこと、とてもできやしない。

僕は、生まれてきたこの社会を嫌悪しているわけでも非難しているわけでもない。ただ、どう受け止めていいやらわからなくて、面喰らっているんだ。
あなたは今生きているこの場所に一度も違和感を感じたことってなかったですか?

それが知りたいんだ。

こんな風に感じるのは僕だけなんだろうか? 他の人から見れば、僕は、慎重すぎて社会に馴染めないでいるただの脱落人間として片付けられてしまうのだろうか? そんなこと信じられない。みんなだってこの社会が自分の居場所であることにどこか疑問を感じてはいるけれど、そのことを直視することから逃げているだけに違いないと思うんだけど‥‥。


石橋を叩いて渡るどころか、石橋を叩き過ぎて壊してしまい、自分自身で石橋の構造を研究してもう一度作り直し、その上でやっと向こう岸に渡るというようなやっかいな生き方しかできませんでした。

もしも一切の疑問が解決して、この宇宙の真の姿をギューッと凝縮して、手のひらに乗せたビー玉のように眺めることができたなら、やっと安心して生きることができるだろうと、ずっと思い続けてきました。

分身主義とは、そんな僕の体質と僕を取り巻く環境との相互作用の中から、生まれてきたものです。もちろん体質も環境に作られたものですが‥‥。

分身主義とは、一切の疑問に、既存の宗教によらず、想像や妄想の作り上げた物語によらず、実証という方法論だけを頼りに歩む現代科学の解明しているものを整理していった先に辿り着いたものです。

命名したのは、2003年5月13日、僕が46歳の時ですが、それを遡ること一年半前の2001年12月にホームページを立ち上げ、それに伴って、メルマガを発行し、ヤフーの掲示板などで多くの人と語り合ったりしているうちに、みんなの総力によって生まれてきたものです。

つまり、僕の体質(=遺伝子に刻まれた記憶や、脳に書き込まれる記憶が形作っているもの)と僕を取り巻く環境との相互作用の中から、生まれてきたものです。

「僕を取り巻く環境」とは、現在の人々が作り上げている身近な環境だけでなく、ビッグバンから始まったこの宇宙約140億年間の全てのことを意味しています。もちろんその意味から言うと、遺伝子というのも、この140億年間の間に作られてきたものなので、遺伝も環境に含めるわけです。

だから、他のどんなものでもそうであるように、「分身主義」はこの宇宙が産み落としたもの‥‥ということになります。
この意味は、今のあなたにはまだ理解していただけないかもしれませんが、取り敢えず、分身主義の由来のようなものを書いて見ました。

さて、前回お送りしたメールは読んでいただけましたか?
分身主義はその99パーセントが現代科学が解明しているものの開示と書きましたが、その意味では、あなたの言うように「知識」なのかもしれません。

しかし、残りの1パーセントが分身主義の命なのです。
それが科学の証明した単なる「事実」を「真実」に変えた瞬間なのです。それが信仰にも似た力を作り出します。

でも、勘違いしないで欲しいのですが、分身主義は宗教でも単なる思想でもありません。

分身主義はあくまでも、科学の方法論だけを信頼しようと実践するものです。科学の方法論によって解明された事実だけを信頼しようとするものです。
そこから離れたら分身主義ではありません。

科学の方法論によって解明された事実だけを信頼するとは、モノそれ自体を、あるいは現象それ自体を、人間の感情や偏見によらず正しく(=自然をありのままに)認識しようとするものです。

実は、人間の脳の習性から言って、モノそれ自体をありのままに認識することは不可能なんですが、科学というのは、その不完全な認識を何度でも自然界に戻して確認してみるという方法論を取るので、「モノそれ自体をありのままに認識」することに限りなく近づけるわけです。

一例を挙げますと、現代を生きる僕たちは、幽霊や神の存在を「錯覚だ、幻覚だ」などと言って否定することはできても、目に見えない電気というものが錯覚だなどと言って疑う人はいません。

何故かと言うと、人間はたくさんの電化製品を作りましたが、それらの電化製品が正しく作動している以上、僕たちは目に見えない電気というものが実際に存在しているということを、自分たちの感情や偏見によらず認めざるを得ないわけです。

あなたは、日ごろお世話になっている携帯電話やテレビなどの実績を「錯覚だ、幻覚だ」などといって否定することはできませんよね。
現代では、携帯電話やテレビなどがなければ生きていけない人たちもたくさんいます。
それほどまでに、「電気」の存在はもはや疑う余地がありません。

分身主義とは、このような、確実に存在していると証明されているものだけを信じる精神から生まれてきたものであって、決してあなたを丸め込むために、幽霊や、前世や、崇(たた)りだのを持ち出す思想でも、非科学的な宗教でもないことを知っておいてください。

月にロケットが着陸して、人類が月の上を跳ね回っている映像を見せられたら、誰も月の存在とその様子を疑うことはできません。科学とは世界中の全ての人を納得させるものです。

月着陸


それに、電気さえ供給されているところであれば、どんな宗教の人でも、どんな民族でも、どんな思想を持っている人でも、人差指でポンとスイッチを入れさえすれば、電気炊飯器で必ずおいしいご飯が炊けます。

ヒンズー教の人がスイッチを入れれば中からパンが飛び出してきたり、菜食主義の人がスイッチを入れればホカホカの焼き芋が出てくるなんてことは、万に一つも起こり得ません。

必ず同じ一つの結論に至ります。

科学だけが、世界を一つにしてくれます。

しかし、不思議なことに、科学によってモノそれ自体をありのままに理解すると、科学を呼び込んだ残りの1パーセントと呼応し合って、そこに信仰にも似た力が生まれてきます。

それは、幽霊や前世や崇りだのを持ち出す思想や、非科学的な宗教がもたらしてくれる信仰と同じようであって、全く違うものです。
万人が納得せざるを得ない真実の力に根差したもの‥‥それが分身主義です。あなたは以前、「知識では自分の不安は解消できないと思うけど‥‥」と書いてきましたね。

だけど、「知識は必ずしもあなたの不安の解消に役立たないものではない!」と断言しておきます。
むしろ、正しい知識こそあなたの不安を取り去るものなのです。

不安とは、「正しい知識」の欠如によって起こるもの‥‥だからです。


このメールに対する彼女の返信メールは次のようなものだった。

「Bメール1・分身主義とは」と、
「Bメール2・再び分身主義とは」‥‥読みました。
私なりに考えることがあって、返事が遅れてしまい申し訳ございません。
分身主義は、その99パーセントが現代科学が解明している事実の開示、とありましたが、どうもこの世の中は、科学では解明できないものがあるように感じてしかたがないのです。

私は指輪などあまりしない性質なのですが、ある友達が手作りの幸運の指輪を作ったと言ってプレゼントしてくれました。
しばらくそれをしていたのだけど、どうもそれをしていると悪いことが続くので返しました。

また、ある人と仕事をすると必ず身体の具合が悪くなることがありました。
特にその人といると緊張するとか、その人のことが嫌いとかいうことは全くありません。
でも、具合が治った後から考えてみると、その人と仕事をした日だったと思い当たったりするんです。

今回も、その人と一週間一緒に仕事をしましたが、その時はそのことは忘れていましたが、今考えると、その間中、歯がグラグラして抜かなければいけないかなと思い悩んでいました。
歯ぐきのケアを普段よりも良くやったおかげで、今は痛みも薄れどうやら抜かなくてもいいような状態になってきましたが、今考えると、その時期とその人と仕事をした一週間とがほぼ重なっています。

ちなみに、このメールはあなたや分身主義に対する批判ではありません。
「そのような事実は、どのように考えますか?」という質問です。

僕は早速、次のようなメールを送った。

あなたのメールを読ませていただきました。
あなたはご自分の二つの体験談を例に挙げて、「この世には科学では解明できないものがあるのではないか」とおっしゃっています。
だけど、あなたと不幸をもたらす指輪との関係性や、あなたと病気をもたらす人との関係性を、どうして科学には解明できないと結論づけてしまうのでしょうか?

それと、もし今、科学では解明できないものがあったとしても、この世には科学では解明できないものがあるのではなくて、まだ科学が解明するまでに至っていないものがある、と考えを変更することはできませんか?

現に科学は、今までは科学には解明できないだろうと思われていた様々な現象を解明してきました。
脳や遺伝子の研究だって、ごく最近になって着手された分野です。
科学とは、ある仮説を立ててもその一つ一つに確実な裏づけを取りながら進むものなので、場合によっては100年後にその仮説が証明されたりします。

しかも、100年後に証明されたものも、その100年後に覆(くつがえ)されることもあります。しかし確実に、100年前よりも100年後の方が、自然界の解明に近づいています。

そういった科学の歩みの遅さに苛立ち、結論を焦っているだけではないでしょうか。

心理学という、科学的手法を使ったちゃんとした科学的学問があります。

心理学
生物体の意識や行動を研究する学問。古くは形而上学の中に含まれ、精神や精神現象を問う学問であったが、19世紀以降実験的方法をとり入れて実証科学として確立。一般心理学・動物心理学・発達心理学・社会心理学・臨床心理学など、多数の分野がある。

その心理学の用語に「バイアス」という言葉があります。

人間は、「こうなって欲しい」とか「こうなるはずだ」という思い(自己成就予言)や、あるいは「こうなって欲しくない」とか「こうなっては困る」という思い(危険回避予言)などを持つと、その思いに合う事実だけを取り入れ、不都合な事実には関心を振り向けないという心理的なバイアス(偏り)の中で生きています。

例えば、自分の考えに合った、自分に都合の良い情報だけを無意識に選んで集めていたり、導かれた結論が自分の信念に沿っているがために、誤った推論を妥当と見なしてしまったりします。
これを「信念バイアス」などと言います。

社会心理学で使われる言葉に、帰属理論(きぞくりろん)というものがあります。

「帰属理論」とは、行動の原因をどこにあると考えるかの心理的過程についての理論のことです。
その理論によると、どうやら僕たちには、物事の本当の原因を突き止めることをスキップして、ある程度当てずっぽうの推論を働かせてしまう習性があるようです。

自分に好ましいことは原因を自分に帰属するし、(これを自己高揚バイアスと言います)、好ましくないものは原因を他者に帰属します(これを自己防衛バイアスと言います)。
思い当たることはたくさんあると思います。

また、自分が観察者の場合は、行為者の行動を相手の内的原因に帰属させ、反対に、自分が行為者の場合は外的原因を強調する傾向にあります。

例えば酒酔い運転でひき逃げ死亡事故などが起これば、観察者である僕たちはドライバーの責任を追及しますが、事故を起こした張本人であれば、「酒酔いの罰則がこんなに厳しくなければ、すぐに病院に連れて行ったから、人殺しにさせられないですんだかもしれないんだ」などと原因を他に帰属させます。

難しい専門用語は別にして、僕たちの思考とは、常にこのように自分中心的であり、偏りの中で判断をして生きている‥‥ということを理解することは少しも難しいことではありません。

さて、あなたは「あまり指輪などをしない人」ということですが、それはどのような理由からなのですか?

宝飾品を身につけると肩が凝ると言う人がいますが、もしそのような理由で指輪をしないのであれば、普段しなれない指輪をすればもちろん気になって仕方ありません。

友達から貰ったからしなければ申し訳ないという気持ちと、気になって仕方ないなどといった気持ちが交錯して、普段何気なくやっていた行動がギクシャクしたりイライラしたりしてしまうことも考えられます。
そしてまた、普段意識もしなかった失敗が目に付き、その原因が指輪のせいに思えたりしてきます。

これは、「回顧性(かいこせい)の予言」とか、「後づけバイアス」と呼ばれたりします。

特定の人と仕事をすると必ず具合が悪くなるというのも同じです。

他の人たちと仕事をした時に具合が悪くなることだって、その人と仕事をして具合が悪くなった時の何倍もあるだろうし、その人と仕事をした時もたまたま具合が悪くならなかった時もあるのだろうけど、そういうものには関心を振り向けないので気づかないでいるんです。

そもそも、あなたは、「悪いことが続く」とか、「具合が悪くなる」と言っていますが、それらはあなたの現状の価値観から見て「悪いこと」や「具合が悪いこと」でしかないことにも注意してください。

例えば宝くじに当たることは「好運」で、車に当たることは「不運」と常識的には考えますが、それは感情というものに支配されている人間の価値観によるものでしかありません。
本当はどちらも同じ、「低い確率の中で起こった事象」でしかないんです。

宝くじで高額当選したり、勢いで始めた事業が当たったりで思わぬ大金を手にした人が、その後の人生がボロボロになってしまったという話はたくさんあります。

テレビで、ある女性が、「バイクに撥ねられ入院していたところ、加害者の男性が毎日お見舞いに来てくれて、それが今の主人です」と、嬉しそうに話しているのを聞いたこともあります。

要するに、「良い」「悪い」とはその程度のもので、その人の立場や考え方によってコロコロ変わるものなんです。
それもこれも人間の脳には「感情」や「偏見」という働きがあるためです。

この前、科学的な視点を持ってくださいとお願いしました。大切なのは、人間の感情や偏見をいったん向こうへ押しやって、物事自体をありのままに受け取り、認識することです。

感情のない動物には、他の動物を捕らえて捕食することも、その逆に他の動物に捕食されてしまうことも、どちらも同じ、自然界に起こった事象でしかありません。

人間が人間を殺して食べてしまったら、とんでもない極悪非道ものです。
でも彼らには、「好運・不運」とか、「良い・悪い」などという感覚はありません。

彼らは、そのまま、あるがままに受け入れるのみです。受け入れるという言い方は不適切かもしれません。受け入れるためには、人間のような言葉による認識が行われ、そのことを意識しなければならないので、言葉を持たない彼らに対しては、「受け入れる」というより、「自然と一体」だと言った方が適切です。

科学的な視点を持てない限り、あなたは決して本当の安心を手に入れることはできませんよ。
でも、これから僕の話しを聞いてくだされば、必ず本当の安心を手に入れることはできますので、安心してください。

実際には、あなたが「悪いこと」と形容した状態の原因は必ず存在します。そしてまた、その原因にも必ず原因が存在します。
その原因の原因の原因の原因の‥‥とどこまでも遡(さかのぼ)っていけば、どこに行き着くと思いますか?

現代科学では、それはビッグバンに行き着くとしています。

つまり、約140億年前に突然起こったビッグバンこそ、この宇宙で起こっている全ての物事の根本の原因だということです。

だから、僕たちの周りで起こっている全ての物事の原因を、分身主義では「ビッグバンの風」と形容します。
約140億年前に起こったビッグバンから一度も絶えることなく、ドミノ倒しのように非可逆的に連綿と背中を押すようにして吹き続けている風です。

人間の脳内の意思や感情や想像や思考や、そういったものもみんな、ビッグバンの風がその人の脳に、そのような意思や感情や想像や思考を浮かび上がらせ・ているのです。


いいですか?
僕たち人間にわかる「関連性」なんて、その物事に関わるほんの近辺のことでしかありません。例えばあなたのお腹が痛くなったら、「冷たいものを飲み過ぎたからだ」とか、「昨夜食べたもののせいだ」とかくらいです。

だけど本当のことを言うと、この140億年間の全てが原因だったんです。全てがあなたの腹痛をもたらしたんです。ビッグバンから140億年間、一度も途切れることなく続いてきたからだし、腹痛はその続いている通過点で起こっていることだからです。

囲碁というゲームは、一つの盤面で打たれるゲームなので、たった一つの手もその後の模様に必ず影響を与えます。
だけど、囲碁の初心者には、今打った一手が最後にどのような影響を与えるのかちっともわかりません。
それなのに、この宇宙というもっと広大な盤面で打たれる一手が、僕たち人間にどのように影響しているかなんてわかるはずもないのは当然です。

たった一つの事故にも、実は、この宇宙140億年間に起こった全てのことがその原因として、どれも同じ大きさで、同じ重さで、同じ価値で降りかかっています。それらのことに、価値や順位づけをするのは感情というものに支配されている人間の勝手な都合で、この宇宙に起こる一切の現象には、価値の違いも順位もありません。

今日、あなたに覚えておいていただきたい言葉があります。

それは、「ビッグバンの風」という言葉です。

この宇宙で起こる全てのことは、ビッグバンの最初の一突きから途切れることなく波及して起こっていることである、ということを、たった一言で言える魔法の言葉です。
それを「ビッグバンの風」というたった一言で言い表すことにします。

またしても、一週間待っても彼女からのメールは来なかった。

僕は少々苛立ってきて、それで、次のような煽(あお)り立てるかのようなメールを送ってしまったのだろう。
だけど、彼女を取り巻く環境の一つでもあるこの僕が、ある刺激となって彼女の心の導火線に火をつけることができたら、彼女は変われるに違いない。

前回のメール読んでもらえたでしょうか?

分身主義は、あらゆる不安や悩みから必ず僕たちを救い出してくれますが、それは待っていて叶うものではありません。
もちろん、分身主義が世界中に行き渡ったならば、全ての大人から子どもに伝え継いでいくだけなので、その意味でやがて受身的な時代は来るでしょうけれど、今の僕たちはフロンティアです。残念ながらそんな楽はさせてもらえません。

今の僕たちが、あらゆる不安と悩みから解放されるためには、「不安や悩みから解放されたい」という強い欲求がどうしても必要です。
《実体》を動かすのはあなたの《幻想》です。

もし、その強い欲求がなければ、たとえ分身主義でも何の力にもなれません。元々、分身主義が生まれたのも、僕自身の中に、まやかしや一時しのぎでない本当の幸福を掴みたいという「強い欲求」があったからです。

僕が手にしたい幸福とは、たとえ盲目になろうとも、たとえ半身不随になろうとも、たとえあらゆる尊厳と自由を奪われる想像を絶するような収容所に入れられようとも、僕の心に灯る小さな炎でした。
マッチ売りの少女が最後に放った、一本のマッチの温かい炎でした。

そして、その強い欲求という支えがあったから、分身主義に辿り着くことができたんです。

もう一度言います。
分身主義は必ずあなたの不安を吹き飛ばしてくれますが、そのためには、不安から解放されたい、救われたいという強い欲求が必要です!
つまり、分身主義を理解したいという強い欲求が必要です!

自分の鬱病との闘いの記録を、『プロザック日記』という回想録にしたためた、ローレンス・スレーターという女性の話をします。

彼女は子どもの時から強度の鬱病と強迫神経症に悩まされていました。
何度も入退院を繰り返し、19歳の時には性格異常と診断されています。

どんな治療法も効果がなかった彼女ですが、1988年に「プロザック・ドクター」と呼ばれている精神科医に出会いました。

プロザックとは、脳内の神経伝達物質であるセロトニンを増加させる(再取り込みを阻害し、シナプス間隙(かんげき)にセロトニンを蓄積させ情報伝達を促進させる)働きがあり、鬱病に非常によく効き、副作用も少ないということで売り出された薬ですが、この精神科医は、まるでプロザックを神のように崇(あが)めている人でした。

彼は彼女を診察すると、型通りプロザックの服用を勧めます。
プロザックの服用を始めた彼女には、今まで経験したことのないような、「おとぎ話のように素晴らしい日々」が訪れました。

ところが、鬱病が治ってくると、彼女は自分の病気を別の目で見るようになります。自分の病気は、母親の愛情の少なかった子ども時代に、自ら不安や恐怖にさいなまれることに逃避していたのではないか、つまり、病気の中に慰めを感じていたのではないか、という疑問が起きたのです。

でも、プロザックを勧めたドクターは、そのことを理解できませんでした。
それどころか、そのような考えが起こるのは、まだ強迫神経症が完全に治りきっていないからだと、プロザックの量を増やします。

「自分は精神薬理学者の考えに洗脳され、脳をコンピュータのように考えろという思想に取り込まれたのではないだろうか。もはや患者の過去は病気と関係ないのだろうか。自分の治療は、化学物質でしかもたらされないのだろうか」そのような疑いを抱きながらも言われるままに量を増やしていった彼女は、次第に副作用(一般的に排尿障害、前立腺肥大、性的不能などの副作用を伴うと言われています)に悩まされるようになります。

思いつめた彼女は、ある嵐の日、外に飛び出し、大声で叫びます。感動的な場面です。

自分は化学物質ではない!
それ以上のものだ!
自分は病気と折り合いをつけながら生きていける!
そして薬を選ぶかどうかは自分の決断に任されている!
自分はプロザックに支配されるような哀れな存在ではないのだ! 


彼女は、自分は脳内の伝達物質の奴隷ではないし、自分には何かを決定する自由意志がある、と言うようなことを宣言したかったのではないでしょうか?
この自覚で、自由と尊厳を取り戻した彼女は、たとえ薬の容量を増やしても自分さえしっかりと保っていればいい、と考えるようになり、薬に対する不安が消失したようです。

そして彼女は、プロザックは彼女の苦しみを除去してくれるのではなく、軽減してくれるだけの一生付き合っていく親友、のように考えるようになったようです。

あいにく、分身主義の辿り着いた答えは、彼女の導き出した答えとは違います。しかし、僕が今ここで彼女の話を取り上げた理由は、彼女の心の中にある「何かに対する強い欲求」が、とても大事だと感じているからです。

その欲求(=幻想)だけが彼女の行動を変化させ、その行動によって彼女を取り巻く環境(=実体)が変化させられるのです。

脳内化学物質が変化すれば気分は変わり、喜んだり悲しんだりするのは確かですが、そのように薬物に頼ることはお勧めできません。
僕たちはまず始めに、自分の中に眠っている強い欲求を自覚することが大事です。

不安から解放されたい、救われたいという強い欲求があなたの中になければ、たとえ分身主義でもあなたの不安を吹き飛ばすことはできません。

分身主義は現代科学が解明しているものを整理して生まれたものです。ほとんど、科学至上主義であると言ってもいいかもしれません。
しかし、科学に対する誤解から、この言葉もまた誤解を招きます。

分身主義は、心の悩みが、プロザック・ドクターのように薬の力だけで解決がつくとは考えません。

化学物質=科学、と短絡的に考えるのは全くの誤解です。
それどころか、医学=科学と考えるのも大きな誤解だったんです。

僕たちの身体の様々な適応症状の中で、自分たち人間の価値観から見て都合の悪いものに対して「病気」という言葉を当てる「医学」は、元々、真の科学とは言えないものなんです。

真の科学とは、真実を究明するために、人間の偏見をはねのけて、自然界に正誤のお伺いを立てながら進めるその方法論のことです。

心の専門家の方が言っています。

「薬を飲めば《うつ病》が治るわけでもありません。表面上は治ったように見えても、後々になり、また別の病気として出て来ることが多いのです。薬だけ内服しても《人間の心》は、なかなか変化しないからです。
重要なのは、人が《悩まない人》となることです。そうすれば、《うつ病》からも、簡単に解放されて行きます」 

ほとんど医学が限界を表明してしまったような言葉ですが、それは医学の限界であって科学の限界ではありません。
適応症状に対して「病気」などと名付けて嫌悪し、それを個人の身体から追い出そうとするだけの医学の視野が狭いので(=人間中心的なので)、鬱をなくせないんです。

「人間の脳はどうしてこの自然界において悩むという適応症状を取るのか?」という疑問から始めない限り、僕たちは決して“悩まない人”になることはできません。
何故なら、僕たちが“悩む人”である本当の原因は、医学が追い出そうとする個人の身体の中に潜む「病気」という憎むべき異物のせいではなく、この自然界(=僕たちを取り巻く環境)の中にあるからです。

科学的究明の末に生まれた分身主義は、プロザックのように、飲めばすぐに効くというものではありません。
読んで、それを理解しなければなりません。

だけどプロザックのような対症療法ではなく、いったん理解すれば、プロザックに負けないほどのおとぎ話のような素晴らしい日々が生涯に渡ってやってきます。
その日が来ない限り、あなたは“悩まない人”になったとは言えません。

もし、あなたの心の中に、救われたい、解放されたいという強い欲求があるなら、分身主義を知るための努力をするべきです!

僕の話す分身主義は、まだ飛行機が滑走路を走り出しただけで、飛び上がってもいません。
飛行機が離陸し、今まで僕たちが必死でしがみついていた現実が、はるか眼下に広がる様子も眺めてはいないし、その浮遊感も経験していないし、何より目的地がどちらの方角なのかさえおぼろげです。

どうしますか?
飛行機は飛び立ってよろしいでしょうか?


このメールに対する彼女の返信メールは次のようなものだった。

実は黙っていようと思っていたのですが、あなたが書いてきてくださった鬱病の方のように私も長いこと鬱病で苦しんでいるのです。たぶん、仮面鬱病というものだと思います。
だからどうしても返信ができない時があるのです。

まだ本文に入ったばかりなので解りませんが、それを読むことによって不安が解消された暁(あかつき)には、肉体の疲労感もきっと無くなっているだろうと期待されます。

続きをお願いします。
お話の方は、もう少しわかりやすく書いてください。


🔖「Bメール3・自我とは」

「それを読むことによって不安が解消された暁には、肉体の疲労感もきっと無くなっているだろうと期待されます」この言葉はどのように受け取るべきでしょうか?

分身主義なるものへの皮肉と受け取ったらいいのか、それともあなたの脳に浮かび上がってきた強い欲求と理解したらいいものか迷います。
いずれにしろ今の僕の使命は、この場所からあなたを乗せて飛び立ち、そして、あなたの不安が解消され肉体の疲労感も無くなる場所へと無事にお運びすることです。

いいえ、この僕自身も一緒にその場所に運ばれなければ、決して救われることはないからでした。

ところで、あなたは長いこと鬱病で苦しんでいるとのことですが、「たぶん仮面鬱病というものだと思う」と書かれているので、ご自分で調べたわけですか? 仮面鬱病とは、疲労感、睡眠障害、便秘、頭痛、胃腸障害、心臓血管系の障害‥‥などのいろいろな身体症状を訴えるので検査をしても原因が見つからず、実はその背後に鬱病が隠れている、というもののことですよね。

だけどあなたをお救いするために、どうしても約束していただかなければいけないことがあります。
今日から「病気」という言葉を使わないでください。それは科学的な言葉ではないからです。

分身主義は科学しか受け入れません。

そのように取り決めをしないと世界は平和にならないし、世界が平和にならなければ、僕たちも決して救われるということがないからです。

では病気という言葉を使わないとするなら、あなたの症状は何と呼べばいいのかと言うと、それは「適応症状」です。今のあなたの身体の状態が、周囲の環境に適応している状態である、という意味です。

あなたの身体は決して間違ってはいなくて、確かにちゃんと今の環境に適応していますから、ご安心ください。

もし今の適応症状が不満で仕方ないと言うならば、あなたは、ご自分の身体に現れている症状の原因をご自分の外部に探す必要があります。

何故なら、あなたの身体はちゃんと周囲の環境に適応しているのですから。だからと言って、その不満の原因である外部に対して、責任を激しく追及するべきだなどと言っているわけではありません。
そんなことをしては事態は悪化するばかりですから。

ところで今、「あなた、あなた」と何度も書きましたが、「あなた」とは、この宇宙の中のどこからどこまでの部分なのでしょうか?

そのように聞くと、間違いなくあなたはご自分の身体をグルリと一周指差しますよね。
それを言葉で説明すると、自分の意思で思い通りになる範囲、とでも答えるかもしれません。

例えば、テレビで、今上映中の映画の紹介をしているのを見ていて、あなたはどうしてもその映画をある友達と一緒に観たくなりました。
それである友達に電話をしますが、その人は都合が悪いか、その映画を観たくないとか言って断るとします。

先ほどグルリと一周指差した部分は間違いなく協力的なのに、そうでない部分(=友達と呼ばれている部分)は非協力的です。
この、自分の思い通りに動く部分は自分で、自分の思い通りに動いてくれない部分は他人、というのが普通の感覚です。
(このそれぞれの部分のことを、わかりやすくするため、「境界線を持った身体」と記述することにします)

でもそれは、生まれた時に初めから持っている感覚ではありません! あなたが生まれた時のことを思い出してみてください。
‥‥と言っても無理でしょうから、ちょっと想像してみてください。

生まれた時というのは、本能的な「自分」はあっても、こちら側が自分であちらは他人、などという明確な意識はなかったはずです。

「自我」が生まれるためには記憶の積み重ねがなければならないからです。記憶とは、辞書によると、「生物体に過去の影響が残ること。また、過去の経験を保持し、これを再生・再認する機能の総称」とありますが、このことをもう少し突っ込んで、記憶とは一体何を記憶しているのかと考えると、脳が、ある刺激を受けてその時反応したその反応の仕方を記憶していると言えます。

この反応の仕方というのは、後で説明しますが、単なる「反応の経路」のことです。
もし、刺激に対する反応が定着しなければ、叩けばそのつどポクポクと鳴る木魚(もくぎょ)なんかの反応と何ら変わりありません。

記憶というのは脳内の神経細胞の習性なので、脳を持つほとんどの生き物に記憶という生理的な現象は起こっているはずです。
では、人間の脳と一番近い脳を持っているとされる生物であるサルなどにも自我があるのでしょうか?

京都大学霊長類研究所の正高信男(まさたか・のぶお)教授は、「サルには自意識はありません! 自意識は人間だけにしかありません! 」ときっぱりと言い切っています。
「人間はサルとは違って、言語活動などを通して周囲とコミュニケーションを行いますが、《自分》という感覚は、その時の他人からのフィードバックによって作られるものだ」と彼は言います。

つまり、他人という鏡に映っている虚像を、自分の姿だと思い込むことで「自意識」も作られていくというわけです。
わかりやすく言えば、他人が自分をどう見ているかによって自分が決定されていくということです。

ところが、サルは他人という鏡に映っている自分を見るどころか、実際の鏡に映っている自分の姿を見ても自分であると認識できずに、本能のおもむくままに威嚇(いかく)したりします。訓練しても、自分と鏡の中の像との等価関係を結べるようになるだけのようです。

彼らにあるのは「自意識」ではなく、本能的な「自分」だけだと彼も言っています。自意識がないということは他者の意識もなく、ちょっと難しい表現ですが、それは自・他が自然界と地続きだと言えます。

例えばテレビの動物番組などでは、肉食動物に追いかけられて必死で逃げ惑う草食動物の姿などをよく放送していますが、あれは別に敵から逃れようという意識を持って逃げているわけでも、”人間的”な恐怖を感じて逃げているわけでもありません。

そのような行動を取る遺伝子を持った動物が、他の動物からの捕食を免(まぬが)れてきたので、そのような行動を取る遺伝子を持った動物が繁栄しているだけです。それを我々人間の目から見たら、恐怖を感じたり、敵から逃れようとしたりしているように見えるだけなんです。

そしてついには捕まって食べられている映像を見て「かわいそうに」と人間は涙を流すのですが、彼らは別に涙は流しません。

確かにその時、逃げている動物の脳を測定すると、人間と同じように恐怖を感じた時に分泌されるアドレナリンなどの神経伝達物質の分泌量が跳ね上がっているかもしれません。

だからと言って、それを人間の恐怖と同じものだと考えては間違いです。

人間の恐怖は、言葉によって意味付けされ増幅させられたものです。

ちなみに、この「アドレナリン」は、恐怖を感じた時に分泌されるので、「恐怖のホルモン」の異名を持つようですが、アドレナリン自体にそのような性質があるわけではありません。

人間には動物に対して感情移入をしてしまう癖がありますが、動物学者であっても、彼ら動物に対して擬人的な解釈をしてしまう人が多くて困ります。

彼ら(動物たち)は自然そのもので、ひたすら忠実に刺激に対して反応しているだけです。

つまりそれが、「自然界と地続き」という意味です。

人間以外の動物にも記憶はありますが、一つ一つの体験は横一列にバラバラで、人間に一番近い脳を持つと言われているサルであってもそれほどしっかりと一つ一つの記憶がつながっていませんから、自我が生まれなかったのです。

その記憶が一つ一つバラバラではなく、全部が同じ自分の身体が体験したことであるという意識が生まれるためには何が必要だと思いますか?

例えば怪我をして痛かったのも、果物を食べて美味しいと感じたのも、動物に追いかけられて恐かったのも、どれもみんな同じ身体が体験したものであるという意識を持った時に「自我」が生まれるわけです。

実は、バラバラな一つ一つの記憶が一つにつながるには、「言葉」というものが必要だったんです。

言葉とは、バラバラの記憶にタイトルをつけて一つにまとめたり(=象徴化をする)、それぞれに関連性を持たせたり、記憶をより強化させてくれたりする働きを持っているものだからです。

「人間は言語活動などを通して周囲とコミュニケーションを行うことで自我が形成されていく」と正高教授は言っていますが、僕としてはこの言葉は、「自我を持った人たちとのコミュニケーションによって我々は自我を教わっていく」と言い換えた方が適切だと思います。

そう、今の我々が持っている自我とは、自我という宗教をこれっぽっちも疑うことを知らない信者たちに、洗脳させられ身につけさせられていく教義(きょうぎ)のようなものだったのです。

小説家の保坂和志という方が次のように言っています。

「赤ん坊は言葉を覚える前には、まず《私》じゃないんですよ。赤ん坊が《私》になるのは鏡像段階を経てからのことなんですよね。その最初に赤ん坊の中にあるのは、『お腹がすいた』っていう状態とか、『おしっこでおしめが濡れて気持ち悪い』とか、『何かを触って面白い』とかバラバラのものでしかなくて、そこには《私》はまずないんですよ。自分を取り巻く状況の方が自分より先にあるんです」

鏡像段階とは、フロイト派の精神分析学者ラカンの言葉ですが、生まれたばかりの赤ん坊には自我がなく、生後6ヶ月~18ヶ月くらい経て、他者という鏡に映し出された自分の姿に統一された自己イメージを形成するようになる(自我が芽生える)時期のことです。

だけど、もし僕たち人間に「言葉」というものがなければ、この統一された自己イメージが形成されることはありません。

と言うより、言葉が、「統一された自己」という《幻想》を作り上げてしまっていたと言った方が正確かもしれません。

アルツハイマーがひどくなった老人に鏡を見せると、それが自分であると認識できずに、その向こうに誰かいるのかと鏡の向こう側を覗こうとしたり、鏡に向かって話しかけたり、手招きをしたり、怒り出して鏡に殴りかかる人もいるそうです。

先ほどの自我のないサルと同じようなこれらの行動を、“鏡像現象”と言うのです。

そのような行動を取るアルツハイマーの人たちの話を注意深く聞いていると、内容がさっぱりわからず支離滅裂だったりします。

アルツハイマーというのは、原因はまだはっきりと解明されてはいないようですが、彼らに共通している点は、脳細胞の数が急激に減少しているということです。
彼らはサルとは違って、元々は「自我」を持っていたわけですから、自我の消失と言葉の消失が同時期に起こるということから見て、言葉が自我と深い関係にあるということが言えると思います。

しかし‥‥、ここでちょっと、あなたがこれまであんまり耳にしたことのない、場合によっては不愉快に思われるかもしれないことを言わせていただかなければなりません。

自我はむしろ自然界には希少なもので、言葉を駆使する脳を持つ人間だけが持つ特殊な現象であり、アルツハイマーの人の方が自然界においてはむしろ一般的である、と言えないこともない‥‥のです。

違和感を持つかもしれませんが、我々が当たり前のように持っている自我(=これが自分であると自分で信じている意識)は、実は自然界ではかなり特殊だったことがわかります。

それに、よく考えれば「自我」ほどいい加減なものもないんです。
僕たちの脳の中に根付いた「自我」というのは、あんまり信頼のおけるものなんかじゃなかったことがわかります。

先ほど、友達と映画を観に行きたくなった例を挙げて、協力的で自分の思い通りに動く部分は自分で、非協力的で自分の思い通りに動いてくれない部分は他人、という感覚が普通‥‥と言いました。

では、ちょっとお聞きしますが、あなたの身体はいつもあなたの思い通り(=脳の命令通り)に動いてくれると言い切れますか?
自分の意思とは無関係にお腹が痛くなったり、お腹が減ったり、めまいがしたり、おしっこをしたくなったり、‥‥全くと言っていいほど、赤の他人のように身勝手じゃないですか。

科学的に味気ない言い方をするとすれば、あなたがグルリと指差したその物体とは、身体の外部や身体内部からの様々な情報(あるいは刺激)に対して、脳を中心とする神経系が反応しているだけのモノだったんです。

画像5


そしてよく考えれば、脳というのは自分の身体を思い通りに動かしていた存在ではなく、むしろその逆に、身体に左右されているだけの存在だったというのがわかってきます。

例えば、あなたが今、自分の意思で目の前のコーヒーカップに手を伸ばしコーヒーを飲んだとしても、最初にあなたの「思い」があり、そのあなたの思い通り(=脳の命令通り)に手が動いてくれたわけではなく、それ以前に、あなたの身体が外部からの様々な情報(あるいは刺激)に反応したのであって、それによってあなたの脳が総合的に解釈させ・られた結果が、あなたの脳に浮かんだ「ああ、疲れた。目の前のコーヒー飲みたいわ」という「思い」だったんです。

そんなものを、僕たちが今まで「自分の意思(あるいは意志)」と呼んでいたんです。

今まで人間の脳の研究が遅れていて、仕組みがよくわかっていなかったので、人間には、何からも影響(指図や制約)を受けずに、自発的に浮かび上がる「思い」のようなものがあると信じられていて、それで「自分の意思(あるいは意志)」などという言葉が巷(ちまた)にあふれているんです。

つまり、僕たちの脳というのは、外部からの様々な情報(あるいは刺激)と僕たちの身体との仲介をしてくれているだけで、脳には自発的に生まれる「意思(あるいは意志)」のようなものなんて、これっぽっちもなかったんです。これは僕たちが勘違いしている最も大きなものの一つです。

だけどこれが勘違いだったということがわかり始めたのは、人間の脳の研究が始まった最近になってからで、それを勘違いだと知らない学者も今でもたくさんいます。その人たちの方が多いくらいです。

では、あなたの身体や脳と同じように、外部からの情報( or 刺激)に反応しているだけのモノといったら、他に何を思い浮かべますか? などと聞くまでもなく、それは、あなたが今周囲を見回したところにある《全部》ですよね。

コーヒーカップも鉛筆も時計もテーブルも、あらゆる電化製品も食料も、目に見えない空気や、それに天気や地震などといった現象も、もちろん犬や猫も‥‥みんなみんな外部からの情報( or 刺激)に反応しているだけのものです。

あなたが人差指を内側に向けてグルリと指さした、あなたが自分と呼んでいる物体は、この宇宙に存在する《あらゆる物体》がそうであるように、「外部からの様々な情報( or 刺激)に反応しているだけのもの」だったのに、あなたの脳は、「人間だけは他のものとは別格の存在であり、尊厳を持った唯一無二のものである」とはっきりと区別していた(=自我を持ってしまっていた)わけです

でも、それは今まで書いてきたように、あなたの脳が刺激に対して反応したその反応を記憶する性質を持った神経細胞という物質でできていて、しかも言葉というものによってそれらの記憶が同一の身体に起こったことであるという感覚を強化させられていたから、ということだったんです。

しかしよくよく考えてみれば、この一見境界線を持って存在しているかのように見える身体は、この宇宙の中でどこにも接することなしに存在することはできません。

‥‥と言うことは、境界線はあってないようなものだったんです。

もっと細かく見れば、この身体は、光の粒子や電波や空気中を漂う様々な原子などと常に接していて、その中で、同じように漂いながら常に影響を受け変化しています。

これも科学が最近解明したことですが、この宇宙に存在するほとんどの原子が安定して存在するためには、常にプラスかマイナスの電荷を帯びた状態だったということです(これをイオンの状態と言います)。そしてプラスとマイナスは互いに引きつけ合います。

例えば、塩は、実はプラスの電荷を帯びたナトリウムイオンとマイナスの電荷を帯びた塩素イオンが互いに引き合い結合することでできている物質なんです。

水の入った容器に塩の塊(かたまり)を入れると、少しずつ形を変化させてやがては消えてしまいますが、それでも塩の塊を形成していたナトリウム原子や塩素原子は決してなくなってしまうわけではありません。
それは水の分子とイオンを介したやり取りをすることで変化しているだけです。

溶ける塩


それと同じように、僕たちの境界線を持った身体を構成している細胞も、常に外部とイオンのやり取りをしながら存在しています。


もしイオンを失うと細胞は形を保てず即座に破裂してしまいますし、脳だって電気信号を作り出すことができず、僕たちは何かを考えたりすることも手を動かしたりすることもしなくなります。

そもそも、この境界線を持った身体も、水の入った容器の中の塩の塊(かたまり)のように、実は宇宙という容器の中で少しずつ変化していて、7年~10年も経てば脳と心臓以外の全身の細胞は全て入れ替わり、もう全く別人の身体になっているわけだし、もし死んで境界線が跡形もなく消えても、決して僕たちを作っていた様々な原子は一つとしてこの宇宙から消えてしまうことはありません。

つまり、境界線を持った身体などと言っても、水に溶けていく直前の塩の塊のようなもので、一時的な境界線を持っているに過ぎません。
しかも10年経っても、同一人物であると、神経系が錯覚しているだけのものだったんです。

だから本当は「境界線をもって存在しているかのように見える身体」と記述するのが一番ふさわしく、その方が科学的な記述でもあるわけです。

この宇宙に存在するありとあらゆる物質は持ちつ持たれつの関係で存在していて、厳然たる境界線を持って存在しているものなど一つもなかったんです。だから、「あなた」の身体はあなたの持ち物なんかではなく、それを取り巻く環境に作られて常に変化させられているだけのものだったわけです。

これが科学が解き明かした我々の真の姿です。


蛇足ですが、金(きん)や鉄は硬くてじっとしているように見えますが、あれは原子の一番外側にある電子(マイナスの電荷を持つ)が、複数の原子の間を自由に動き回っているのであの形を留めていられるのです。
現代科学が解明していることを知ると、僕たちがいかにこの世界を固定的に認識してしまっていたかがわかってきます。


それでは、次週は記憶についてもう少しそのメカニズムを詳しく書き、その次の週は言葉について書き、そしてその次の週は、人類が言葉を獲得したことによって人類の身に起こってしまった悲運について書きます。
その後、それらのまとめとして、再び「自我」とは一体何だったのか、ということに立ち返ります。

次週は記憶のメカニズムのお話ですから、少し科学らしい話になっていきますが、科学の一番の功績について覚えておいて欲しい言葉があります。

「科学の一番の功績は、全ての物事には原因があって結果があるということをわからせてくれたこと」です。

実は、科学の法則というのは、「原因⇒結果」の関係を突き詰めていったもののことなんです。

「原因⇒結果」の関係は、「刺激⇒反応」と言い換えることもできますので、ここではなるべく、より即物的な感じのする「刺激⇒反応」の方を使います。
そして、ある刺激(原因)に対する反応(結果)は、次の反応(結果)の刺激(原因)となり、そのようにして延々と続いていくということです。

これはまた、宇宙がビッグバンによって生まれた約140億年前から、一度も途切れることなく続いている「刺激⇒反応⇒刺激⇒反応⇒刺激⇒反応‥‥」の連鎖でもあります。

ちなみに、分身主義では、ビッグバンの最初の一突きから途切れることなく連綿(れんめん)と続いているこの力を「ビッグバンの風」と呼んでいます。
この言葉は、以前少し説明しましたが、覚えていらっしゃいますでしょうか?

僕たちが今まで「自分の意思(あるいは意志)」と呼んでいたものも、何の前触れもなく突然この脳に浮かび上がってくるものではなくて、何らかの刺激に反応しているだけのものです。

その刺激を起こした刺激は何か、そしてその刺激を起こした刺激は‥‥とどこまでも遡っていくとどこに行き着くか?
科学は、ついには万物の刺激の大元を突き止めることができました。それはビッグバンでした。

だから、分身主義では、全ては「ビッグバンの風」に吹かれていると表現するのです。
例えばあなたが今、「コーヒーが飲みたいわ」と考えた時、それは、「約140億年前からずっと、ドミノ倒しのように背中を押し続けて吹いてきた《ビッグバンの風》が、今あなたの脳にそのような考えを浮かび上がらせるように吹いてきた」と表現するわけです。

ここまでで質問があれば、メールをください。


以下が、翌日すぐに届いた彼女からのメールである。

今は質問と言うよりも、最後まであなたのお話を聞いてみることにします。ところで、お話の途中で悪いのですが、あなたは「強さ」についてどのようにお考えになりますか?
私は強くなりたい、なれたらいいなと思います。
他の人たちのようにもっと度胸があれば、この私の人生はどんなに良い方向に変わっていただろうと思います。

が、実際の私は全く逆で、時には強い人を嫌ったり憎んだりすることさえあります。
もし私の心がもっと強ければ、気がふさいだりすることもないわけですし、それに私に強さがあれば、もう少し余裕ができて他人のことも考えてあげられると思います。
今は、自分のことで精一杯で、そんな自分も嫌いです。


🔖「Bメール4・記憶とは」

「記憶のメカニズム」について書く前に、あなたの次の質問にお答えします。

「あなたは「強さ」についてどのようにお考えになりますか? 私は強くなりたい、なれたらいいなと思います」

僕は特に強くなりたいなどとは思いません。

強さという言葉には「鈍感さ」「図々しさ」などのイメージがあるので、他人の気持ちを思いやったり、場の空気を読んだりすることに鈍い人のような感じがするからです。
だから強い人が嫌いでした。(過去形)

でも、強くなりたいと願うあなたのような人は嫌いではありませんでした。何故かと言うと、そういう人は鈍感でないどころかむしろ敏感すぎるくらいの人だからです。

ただ、よく「本当の優しさとは、強さから生まれる」みたいに言われますが、あれは間違いです。
強さ=余裕、といったイメージがありますが、それも正しくありません。

例えば、厳冬の過酷な雪山登山なんかをしていて、そこにいる全員が疲弊しきっている時、誰かがダウンしてしまい、その人は自分の荷物を持つ力もなくなったとします。
それで、その人は次のように言います。「自分はもう動けない。みんなの足手まといになるのでここに置いていってくれ」と。

それは死を意味するわけですが、当然誰もが疲弊しきっているわけですから、ほとんどの人が彼を助けようなどと考える余裕はありません。そんなことをしたら、自分も巻き添えを食って死んでしまいますから。その時、リーダーがこう言うとします。
「荷物は全員で分配して持ってあげる。もうすぐだから何とか頑張って歩けないか?」

そのように言える人は、そうでない人よりも強い人であると誰もが思うでしょう。体力的にもまた精神的にも‥‥。
だから僕たちには、「強い人=余裕がある人」というイメージがあるんです。また、その「強い人=余裕がある人」が、「=本当の優しさを持った人」というイメージにもつながってしまうのだと思います。

でも、強いことと、あなたがおっしゃる「他人のことも考えてあげられる余裕」とは別問題です。

そのリーダーと他の隊員たちとの決定的な違いは、何だと思いますか?

それは視野の広さです。

つまり、隊員たちは自分の命を最優先したのに、リーダーは全員の命を優先したのです。

自分の命を最優先した隊員たちの考えは、彼らが弱かったからではなく、彼らの視野が狭かっただけなんです。一言で言うと、彼らの脳に浮かび上がった考え方は、個人主義的な環境から浮かび上がった考え方だったと言えます。

またその反対に、リーダーは強かったからではなく視野が広かっただけなんです。

つまり、置かれたリーダーという立場(=環境)が彼の視野を広くしていたわけです。

そのような視野の広さは、強さ弱さに関係なく誰だって持つことはできます。と言うより、知らず知らずのうちにその視野の広さを持つ立場に置かれることになるのが分身主義なんです。

あなたが敏感なのは少しも悪いことなんかではありません。
むしろあなたのような敏感で感受性の強い方の方が、分身主義を理解しやすいはずです。
あなたは「他人のことを考えてあげられ」ない弱い人間ではありません。
あなたに欠けているものは強さや度胸なんかではなく、「あなたが今おっしゃった他人」とは、実は「自分自身」のことだったと知る視野の広さが欠けているだけなんです。

もしあなたが分身主義を知って、他人も自分の一部であり、自分も他人の一部であり、全部が一つの宇宙だったと知ったら、あなたのような敏感な人こそ、「他人のことを考えてあげられ」る人になるはずです。

何故なら、敏感で神経質な人が常に自分の身体全部に注意を払って生きているように、あなたは常に自分の本当の全身、つまりこの《宇宙》に注意を払って生きていける人だからです。

だから、取り立てて強くなろうとする必要なんか全くありません。

むしろ弱いくらいの人の方が分身主義に近づきやすく、視野が開けやすいとも言えます。

人間はどんなに努力しても、この宇宙で最も弱い生き物なんです。
それは、理性を持ってしまったことに由来します。

理性のない動物は、自分の本能に任せて、やりたいことをやりたい時にやり、やりたくないことはやらなければいいわけですが、僕たち人間は、自分がやりたくなくてもやらなければならなかったり、やりたい時にも他人の気持ちを思いやって自分を制したりしなければなりません。

そこから人間としての苦しみも生まれ、それが人間という生物を生きにくくしている弱さであり、分身主義は「人間は唯一この宇宙では生きにくい、理性という障害を持ってしまった」と表現します。

「障害者」「健常者」という言葉がありますが、この自然界から見たら、本当はどちらもその身体が自然界に適応している状態なんです。でも、現在の社会が、たまたま少数派の「障害者」と呼ばれる人たちには生きにくい環境なので、そのように区別されているだけの話なんです。

もし本当に、「障害者」というものが存在するとしたら、それは僕たち人類みんなです。他の動物にはない理性という「生きづらい」障害を持ってしまったのです。

理性を持ったことで、他人を思いやる優しさを持ったり、やりたいことを我慢したり、やりたくないことも我慢してやらなければならなくなったり、と地球上で一番弱い生き物になってしまったのです。人類は、みんなで助け合って生きなければ生きることができなくなりました。

空手などをやって心身を鍛えるのはいいことですが、それによって理性をなくせるわけではないと諦(あきら)めるべきです。

だから、本当に強い人間とは、理性という障害を持ってしまった人間としての弱さや限界を、目をそらさずに勇気を持って見つめることができる人だとも言えます。
それを全世界の人が知った上で、みんなで助け合い慰め合って少々のことは笑い飛ばしながら生きられれば、それが何よりも人間としての強い生き方です。

人間とは、まとまることができる、という強さがあります。
しかし、しっかりとまとまるためには科学の《知》が必要です。
あなたはことさら強くなろうとするのではなく、科学の《知》によって視野を広げることだけを考えればそれでいいのです。

そうすれば、やがて世界が分身主義的な環境になり、人間として強く生きられる(=みんなで助け合い慰め合って少々のことは笑い飛ばしながら生きられる)ようになります。

今はまだ、僕たちが生きている環境は「個人主義的な環境」なので、視野が狭くて、鈍感で、図々しい人が強い人に見えるし、彼らが生きやすく得しているように見えますが、人間全体を一つの生き物と見た場合、何てまとまりのない脆弱(ぜいじゃく)な生き物なんでしょう。

ふくらはぎの筋肉と心臓だけが強い生物がいたとしたら、結局は自然界では生き延びていけない弱い生物ですよね。
と言うことは、得しているように見える、視野が狭くて、鈍感で、図々しい人たちにしても、結局は自分に火の粉が降りかかってくるわけです。

ちなみに、僕の言う「視野が広い」という言葉を勘違いされないように言っておきますが、例えば、大統領や総理大臣というような職責を担うような人物は、世界中の状況を把握していなければいけないので、視野が広い人たちだと思われるかもしれませんが、実はまったくその逆で、自分の国の利益(あるいは自分の名誉)が常に中心にある、がちがちに視野の狭い人たちなんです。

僕の言う視野の広い人というのは、人間全体を一つの生き物として見れる人のことで、つまり人間全体の利益(=幸福)を優先的に考えることができる人のことです。

あるいはこの宇宙を、一つの生き物として捉えることができる人のことです。広い視野というのは努力して作られるものではなくて、この環境が分身主義的な環境になれば、自然に人々の心に作られていく感覚です。

以前は強い人は嫌いだったし、あなたのように憎んだりしたこともありますが、分身主義を知った今ではその気持ちは全くなくなりました。
僕たち(=弱く見える人たち)がそうであるように、彼ら(=強く見える人たち)もまた、彼らの脳を取り巻く環境の媒体ですから。

彼らが鈍感なのでも図々しいのでもなく、彼らの脳を取り巻く環境が、彼らを鈍感で図々しくしてしまっているだけなんですから。

では早速、記憶のメカニズムについて書いていきます。

神経細胞というのは、例えば目や耳や鼻や皮膚や舌などを通して外部からある刺激が入力されてきた場合、それが閾値(しきいちorいきち:生体の感覚に興奮を生じさせるために必要な刺激の最小値)を超えた刺激であったなら、その生理的な構造から電気を発生(これを発火と呼びます)する仕組みになっている物質です。
前回書いた、刺激⇒反応、のパターンですね。

この仕組みは現在ではかなり詳しいことまでわかっていますので、興味があったら本やインターネットでお調べください。

簡単に言っておけば、神経細胞の内側や外側は常にナトリウムイオンやカリウムイオンという電荷を帯びた物質(イオンとは電荷を帯びた原子または原子団のこと)に満たされていて、神経細胞に刺激がやって来ると神経細胞の膜にあるタンパク質でできた扉が開いて、内側と外側のイオンのプラスとマイナスの状態が瞬時に入れ替わって、その変化(電位差)によって電気が発生する仕組みになっています。

活動電位

そのようにして発生した電気は、これもまた生理的な構造から次の神経細胞に電気を発生させ、そしてまた次の神経細胞にも電気を発生させ、と結果的にどんどんと伝わっていくような仕組みになっています。
「刺激⇒反応⇒刺激⇒反応⇒刺激⇒反応‥‥」ですね。ちなみに、そのことには何の意味も目的もありませんよ。

この自然界で行われている全てのことには、何の意味も目的もなく、ただこの宇宙が約140億年前に最初の一突きによって生まれると同時に発生した、自然界の法則に則(のっと)って行われているだけなんです。

自然界には意味も目的もないのに、そのことに意味をくっつけるとしたら、それは人間の感傷的な行為に過ぎません。自分たち人間の都合に合わせて、自分たちを満足させるような意味を付け加えているだけなんです。

それがいけないと言うわけではないのですが、それらは宗教や文学などの分野で、科学のやることではありません。そして、現代を生きる僕たちには、科学に頼る以外に幸せになる道はありません。

科学だけが全人類を一つに結び付けてくれるからです。

そのために科学だけを頼りにして生まれた分身主義が必要なんです。


ちょっと話が飛んでしまいましたので、戻します。

僕たちの脳というのは、ただそれだけのことをやっているだけだったんです。

外部からの刺激( or 情報)が電気を発生させ、それが次の神経細胞に電気を発生させ、それがまた次の神経細胞に電気を発生させ‥‥と、ただそれだけのことによって、僕たちの身体が演じさせられたり、何かを連想させられたり考えさせられたりしていたのです。

まるで手品みたいに不思議に思えますが、手品も種明かしされれば「なあんだあ」と納得するように、現在では、科学がその種明かしをしていますので、それを理解すれば、それほど不思議なことでもないことがわかります。
その種明かしを今日はやろうとしているのです。

シナプスという言葉は聞いたことありますか?

聞いたことなければ、この言葉はぜひ覚えてください。
神経細胞と神経細胞の接続部分のことをシナプスと呼んでいるのですが、この部分にはごくわずかな(1ミリの4万分の1くらいの)隙間があり、シナプスにはこの隙間があるお陰で、せっかくそこまでやってきた電気信号はそこでストップしてしまいます。

そこまでやってきた電気信号はそこで終わりなのですが、そこまでやってきた電気信号が神経伝達物質(脳内ホルモン)と呼ばれる鍵を放出し、その鍵が1ミリの4万分の1くらいの隙間を突き進んで次の神経細胞の鍵穴にぴったり合うと、その神経細胞の膜の扉が開き、それによって外からナトリウムイオンが流れ込んだりして、膜の内側と外側に電位差が生じることによって新たに電気が発生します。そしてその電気信号がまた神経細胞の先端まで行けば、神経伝達物質を放出する、ということを一瞬にして繰り返して、そのようにしてどんどんと情報は伝わっていくというわけです。

シナプスの働き


この鍵の役目をする神経伝達物質は、現在、脳の中で50種類(100種類と書いてあるものもあります)以上見つかっているそうです。
ノルアドレナリン、アセチルコリン、ドーパミン、グルタミン酸、セロトニン‥‥などという名前は聞いたことあるのではないでしょうか?

神経細胞と神経細胞の接続部分であるシナプスというのは、先ほど説明したように神経伝達物質という鍵によって、進行を許可されている部分で、大きな刺激や何度も同じ刺激がやってきたりすると、その生理的な性質から、接続部分を増強させ、通りやすい道を作るようです。

これをシナプスの可塑性(かそせい)と呼んでいます。
可塑性とは、粘土のようにいったん力を加えて変形させると、力を取り去っても元に戻らない性質のことを言います。

それぞれの神経細胞の内部で作られる神経伝達物質は一種類です。また、その神経伝達物質に合致する鍵穴を持つ神経細胞も限られているので、外部からの刺激に反応した神経細胞が発した電気の経路は、ある程度決まってしまうわけです。

僕たちの記憶とは、CDやDVDなどの記憶媒体に《記録》することなんかとは全く違って、まさにこのシナプスによって「方向性を持った道(=特定の神経回路)」が作られることを意味します。

つまり、「記憶」とは、刺激に反応したその反応の経路を記憶することを指しています。つまり、次に同じ刺激がやってきた場合に、その刺激によって同じ反応が引き起こされやすくなることと言えます。

例えば、モリスのラットを使った「水迷路の実験」というのがあります。
これは、大型の円形プールに透明な水を満たし、そのプールにラットを入れ、避難場所として水面下に隠れた台を置いておきます。

モリスの迷走実験


ラットは試行回数を重ねるとやがて避難場所を憶えて、それ程、迷走して泳ぎまわらずに避難場所に行き着けるようになるというものです。

これはラットが視覚的に(あるいは嗅覚も使っているのかもしれませんが)周囲の状況を記憶したからだと言えます。

一度避難場所に辿り着いた経験をしたラットは、同じ刺激がどこからかやってきたら、その刺激は、脳内に作られた方向性を持った神経回路を通り、その方向性を持った神経回路はかつてと同じ反応を誘発しながら進みますので、それによって同じ行動を取りやすくなるわけで、このことを僕たちは記憶と呼んでいたわけです。

大事なことなので、「記憶とは、方向性を持った刺激の神経回路が作られることである」ということをしっかりと記憶してください。

もしあなたが今、この言葉を記憶してくださるとしたら、あなたの脳内ではどのようなことが行われているのでしょうか?
まず、この文章があなたの目から視覚刺激となって入力され、その視覚刺激が脳に届くと聴覚刺激に変換されます(黙読しているので視覚刺激から聴覚刺激に変換されます)。

すると、この刺激の神経回路は、それ以前に形成されている神経回路とのネットワークに支えられるようにして(つまり肉付けされ、関連づけされて)、より骨太の流れやすい方向性を持った神経回路となり、記憶が成立します。

それは決して手帳などに書いておく記録などではなく、あなたの脳の中に作られたその方向性を持った刺激の神経回路は、それ自体が、刺激を作り出すので、他のいろいろな部分に反応を起こさせるものでもあるわけです。

記憶とは、記録のような静的なものではなく、動的なものだということを知れば、人間の脳内に、連想、想像、思考‥‥、そういったものが生まれる理由も、記憶というものが動的だからこそ生まれてくるものだとわかります。

話を戻しますが、次の神経細胞の扉を開ける鍵の役目をしている神経伝達物質と言われるものが、人間の感情や行動に様々な影響を与えていると現在では考えられていますが、これは実は大きな勘違いで、神経伝達物質自体に、人間の感情や行動を左右する力があるわけではありません。

かと言って、人間の感情や行動を左右する力は、神経回路を流れる電気の中にあるのでもありません。

たまたま、その神経伝達物質を使って電気を発生しながら進む神経回路の中に、感情や意識をくっつけながら記憶が作られていくので、神経伝達物質や電気はその力を引き出しているだけなんです。

しかも見落としてはいけない点は、感情や行動を引き出す記憶とは、その脳を取り巻く環境によって作られているものだということです。
このことに気づくことはとても重要です。

つまり、セロトニン自体は、セロトニン受容体を持った神経細胞の扉を開くか開かないか(ONかOFFか)の決定権があるだけで、それによって電気的興奮を起こさせ、刺激を伝達するかどうかに関わっているだけだ、ということをしっかりと覚えてください。

今、セロトニンは扉を開くか開かないか(ONかOFFか)の決定権があるだけ、と言いましたが、あなたの目の前のパソコンも実は ONかOFF か(0か1か)を決定しているだけなんです。
それなのに、文章や画像や動画を見せてくれたり、音楽を聴かせてくれたりするわけです。

それを考えれば、ONかOFFだけの僕たちの脳の中で、連想や想像や思考や文章や画像が浮かぶことくらい、何の不思議もないことです。
脳の中には、ON・OFFに意味を与えるプログラミング言語にあたるものが、その人のその人の脳を取り巻く環境によって作られているからです。

これが、「なぜ、僕たちの身体が演じさせられたり、何かを連想させられたり考えさせられたりしていたのか」という疑問に対する、科学による種明かしです。

さて、次回は、このON・OFFが我々の脳の中で意味のある、連想や想像や思考や文章や画像などを浮かび上がらせるためのプログラミング言語にあたるものについて説明します。
もちろんそれは、僕たちの脳の中で渦巻いている「言葉」のことです。

言葉がなければ、僕たちの脳内に外部から刺激(=情報)が入力されても、認識、連想、想像、思考、感情、意思‥‥などは浮かび上がりません。
もちろん、言葉がなければ、「自我」も浮かび上がりません。ちなみに、これらを分身主義では「幻想」と名づけています。

幻想の意味についてはいずれ説明しますので、今日のところは、「人間の脳の記憶と外部からの刺激との相互作用によって作り出される全ての現象を幻想と名づける」ということだけを覚えておいてください。

ここまでで質問とかありましたら、メールください。次回はお約束通り「言葉について」書きます。

彼女からの返信です。

何から質問していいのかわかりません。というのが正直な気持ちです。
何だか本質を突いているような気はしているのですが、それが何なのか自分でもよくわかりません。
言葉についてを読んだら、それがわかるかもしれません。


🔖「Bメール5・言葉について」

「言葉についてを読んだら、それがわかるかもしれません」
あなたは実に乗せるのが上手ですね。
あなたに乗せられて、僕はせっせと書かされているような気持ちになってきました。

でも、この言葉はあながち間違いではありません。

ちょっと分身主義的な言い方をさせていただければ、このメールは僕が書いているのではなくて、僕は環境の単なる媒体で、僕は書かされているのです。僕を取り巻く環境が‥‥とりわけあなたが(あなたが僕という媒体を使って)書いていたのです。

もちろん視点を変えれば、あなた自身も、僕に書かせるように働く力に演じさせられている媒体ですが。
今日のメールを読み終えたら、そのことにも気づいていただけると思います。

早速、言葉についての話に入ります。


サルと違って、どうして人間が言葉を用いるようになれたかというと、喉の構造の違いだと言われています。

二足歩行になり、頭がしっかりした脊柱の上に真っ直ぐに乗ったために、鼻だけではなく喉でも空気の出し入れができる構造になりました。
喉が食べ物を飲み込むだけでなく空気を吐くことが可能になったということは、そこで複雑な音声が出せるようになったということです。

音声が出せるようになった人間が初めてやったことは、音マネではないかと想像します。風の音や、雨の音や、雷の音や、動物の鳴き声、そんなものを器用に真似するところから初めて、ますます様々な音が出せる喉に変化していったのではないかと思います。

マネをするということは、その物が自分の心象に訴えかける強さを表現するわけですから、音の表情なんかも工夫されるようになり、やがては顔の表情も豊かになっていったのではないでしょうか?

次にどのようなことが起こったかと考えると、その「音」と「物」とがくっついていくのが自然の流れではないかと思います。例えば雷の音を「ゴロゴロ」とマネすると、その音が雷を指し示すようになるのは当然のことですから。

そのようにして、モノに名前を付ける(=音をくっつける)ということが行われるようになりました。

モノの名前とは、そのモノが自分に与える視覚刺激、味覚刺激、触覚刺激、嗅覚刺激、聴覚刺激などを、一つの音に象徴させるということです。

例えば、「りんご」という音には、そのモノの色や形という視覚刺激、味という味覚刺激、ツルツルざらざらとした触覚刺激、それら全てが象徴的に表されていますよね。

りんご


名前をつけるということは、それだけに留まりません。
それは、りんごにまつわる様々なイメージが、その一つの音に張り付いたことになります。

りんごが実っていた場所の風景や、仲間と一緒にもいだ時の心境や、あるいはりんごを持って帰った時の母親の喜ぶ顔‥‥そういったたくさんのイメージが一つの音に張り付いたわけです。

「好き」とか「嫌い」という言葉も、人間の感情に付けられた“名前”ですが、「好き」という名前にだって、人それぞれのたくさんの状況やイメージが張り付いていますよね。それと同じです。

名前というのは、モノと一対一の関係では決してありません。
名前というのは本のタイトルのようなもので、たくさんのイメージをその一語に象徴しているわけです。


それによって人間の脳は、象徴的な思考をする脳へと展開していくわけですが、その辺のところを順を追ってみていきます。

名前(=タイトル)を付けるという象徴化によって、人間の脳というのはますます記憶が強化されますし、脳内の離れた場所の記憶とのネットワークも密になります。

現代の僕たちの頭の中で、どのようなことが起こっているかを想像してみます。

この頭の中では、外部から刺激が入力される度に、まるでインターネットの検索のように、常におびただしい数のタイトルがあっちでもこっちでも発光していて、それ自体がネットワーク上のたくさんのタイトルを刺激します。

タイトル自体も聴覚刺激という刺激ですから、それだけでもたくさんの神経細胞の反応を誘発しますから、もう大変な状態です。
と言っても、でたらめな状態ではなく、一定の方向性を持って流れています。記憶が方向性を作っているんでしたね。

先週も言った「方向性を持った刺激の神経回路(=記憶)」というベルトコンベアーに乗って流れるわけですが、その一つでもある「日本語の文法」というベルトコンベアーに乗って流れていけば、意味を持った「言葉」が浮かび上がってくるわけです。

ここで感じて欲しいことは、僕たちは自分の意思で言葉を作り言葉を発していたわけではなかったということです。

外部から脳内に入力された刺激( or 情報)が、方向性を持った刺激の神経回路を興奮させながら進むことで、以前の記憶(=反応)を蘇(よみがえ)らせたり、そのネットワークを興奮させたりしながらベルトコンベアーに乗って流れる中で、意味を持った言葉が浮かび、その音を脳が口の筋肉(=しゃべり)や指の筋肉(=筆記)や腕や足の筋肉(=スポーツなど)に振り分けていただけだったんです。

その証拠に、例えばイヌイット語を発光させる神経細胞も文法も記憶させられていない僕たちの脳には、そのベルトコンベアーがないため、イヌイット語の「言葉」が入力されてきても、どの神経回路も興奮させませんし、イヌイット語で思考もできません。

そのようにしてしゃべらされたり、書かされたりしているのが、僕たちの実際の姿だったわけです。

以前書いたアルツハイマーの人たちだって、自分の脳内のベルトコンベアーによって生成されている言葉をただ発しているという意味では、アルツハイマーではない我々と全く同じことをしています。
彼らは我々と全く同じことをしていただけですが、ただそのベルトコンベアーを形作っていた神経細胞自体が間引かれてしまっているので、共通の約束事に則った言葉が出てこないというだけの話です。

今では僕たちの脳から「言葉」を取り去ることは不可能です。
どんなに言葉を用いないようにしようと思っても、「言葉を用いないようにしよう」という言葉が頭の中に浮かんでしまいます。

どんなことをしても言葉から逃れることができない脳になってしまっています。

このようにして、四六時中言葉に支配されているのが現代の僕たちの脳です。

この事実を知ることがとても重要です!

では今日のところをまとめます。

僕たちは自分で言葉を駆使して何かを考えたり、文章を作成したりしていると信じていますが、実は、外部からの刺激( or 情報)が「方向性を持った刺激の神経回路(=記憶のベルトコンベアー)」を流れることにより、それに刺激されて浮かび上がった様々な視覚刺激、味覚刺激、触覚刺激、嗅覚刺激、聴覚刺激などをまとめ上げているタイトル(=これも音という聴覚刺激)を呼び覚まし、それがベルトコンベアー上をいろいろなものを付け足しながら流れている様を、脳が口の筋肉や指の筋肉や身体中の筋肉に振り分けていたということです。

つまり、今僕が書いているこの長ったらしい文章も、そのようにして生まれているのです。

では、僕にこの文章を書かせている、外部からの刺激とは何でしょうか?
その一つが、あなたが一番最初に僕にくださったメールでもあるし、先週のあなたのメールの「言葉についてを読んだらそれがわかるかもしれません」という乗せ言葉です。

だから僕はあなたに書かされていると言ったのです。

僕たちはみんな《環境の媒体》であり、環境に書かされたりしゃべらされたり、あるいは行動させられたりしていたという事実を理解して欲しいと思います。

そして、僕たちは《環境の媒体》であるという意味のもう一つは、環境から受けたものをまた外の環境に形を変えて受け渡しているということです。つまり、環境を作ってもいたということです。

あなたは環境の媒体で、あなたを取り巻く環境によって書かされたりしゃべらされたり、あるいは行動させられたりしていただけなんですが、でもそんなあなたは、僕の脳を取り巻く環境の一部となってこの僕に文章を書かせてもいるわけですから。

そしてまた、あなたを含めた僕を取り巻く環境に書かされていた僕も、環境の一部となって、あなたや僕を取り巻く環境に影響を与えるわけです。
やっぱり持ちつ持たれつですね。みんなつながっているのです。140億年間途切れることなくね。

言葉についてのお話はこれで終わりますが、次週は「人類が言葉を獲得したことによる悲運」についてお話します。

人類が言葉を獲得したことによる利点(あくまでも自分たちにとっての利点ですが)は数え切れないくらいありますが、実はそのことによって背負わされてしまった悲運はほとんど見落とされています。
その辺のことを知ることが、分身主義を知るための近道です。

その悲運とは、言葉を獲得してしまったことにより幻想の中でしか生きれなくなってしまったということです。
自我というのも言葉が作る幻想の一つでしたね。


翌日、彼女からの返信が届いた。

「言葉について」読みましたが、もし私たちの言葉がそのようにして外からの刺激からだけで生まれていたものだったとしたら、
何だが今までの認識をひっくり返すようなことになるかもしれないと感じています。


🔖「Bメール6・言葉と悲運」

「もし私たちの言葉がそのようにして外からの刺激からだけで生まれていたものだったとしたら」

とありますが、それは「もし」ではありませんよ。
もう一度読み直して、ご自分でよく考えてみてください。

もちろん今、あなたが、もう一度読み直してご自分でよく考えるとしたら、それは僕のこの言葉が、刺激( or 情報)としてあなたの脳に入力させられたからで、あなたが誰にも指図されずに自発的に行動する脳を持っていたからではありませんよね。

もしあなたが、この僕の言葉を聞いても、もう一度読み直しもしないし考えもしなかったとしても、僕からの刺激を途中で妨げる刺激( or 情報)が介入したからであって、それさえもあなたの自発的な意志などではなかったんです。

つまり、僕たちには今まで考えられていたような、自分の意思(あるいは意志)などというものなんて、どこにもなかったというわけです。

この脳を取り巻く環境と、脳内に作られた記憶という刺激の回路との相互作用によって浮かび上がらせ・られたものを、今まで「自分の意思(あるいは意志)」と呼んでいただけです。

「自分の自由意志」という言葉は、そんな勘違いからきた言葉なのですが、まだ脳の研究がそこまで進んでいなかったから、勘違いに気づかなかっただけなんです。

先週は「言葉について」までお話しましたが、今日は、言葉を持ったことによって、人間が背負ってしまうことになった悲運についてお話します。

言葉を持ったことで、人間は、この宇宙から唯一孤立してしまったという話です。

以前、「言葉を持たないサルには自我がない」と書きましたが、これは僕の勝手な仮説ではありません。
京都大学霊長類研究所の先生が、ご自分の研究によって導き出された答えなのです(彼は自意識という言葉を使っていましたが‥‥)。

人間に一番近い脳を持つサルなのに「自我」がない理由は、彼らには人間と同じような、何かを象徴的に思考するための言葉がないからです。

だけど、それは人間の方がサルよりも利口だからでも、サルの方が人間よりも劣るからでもありませんよ。

どちらかと言うと、自然界を見渡したらサルの方が当たり前であって、言葉を獲得して物事を象徴的に考える能力が身についた人間の方がかなり特殊であり、実は、人間は言葉を獲得した時点で、モノそのものをありのままに認識することは決してできなくなってしまったんです。

それは、人間が何かを意識する場合、言語的処理をしてしまうからです。

逆に言うと、言語的な処理がなされない限り、外から僕たちの身体の中に入ってくる光も音もニオイも、あるいは物理的な作用も、決して僕たちに意識されることはありません。
外からの刺激が、どんなに僕たちの肉体に物理・化学的な変化をもたらしたとしても、言語的処理をしない限りは、僕たちはそれを意識できないんです。

もちろん、「自分」というものも言語がなければ意識されることはありません。自意識、あるいは自我、というものも、それは言語的処理の結果だったんです。

言葉を構成する最小の単位は、モノに付ける「名前」ですが、名前とは、そのモノにまつわる様々なイメージを、ある音を作ってその音に象徴させたもののことでしたね。
本の内容を表すタイトルのようなものでした。

名前を付けるということは、言い換えると、自分とそのモノとの関係性を構築(こうちく)することとも言えます。

例えば「太陽」という名前ですが、それは、晴れた日の空に輝いている物体で、まぶしくて直視することができなくて、日焼けを起こさせるような物体で‥‥、といったたくさんのイメージを、僕たち日本人の場合は「タイヨウ」という音を作って、その一つの音に象徴させているわけですが、それは自分と太陽との関係性を構築しているということでもあるわけです。

それはあくまでも象徴化であって、太陽そのものではありませんよね。
もし太陽そのものを扱ったのなら、瞬時に灼熱(しゃくねつ)に溶けてしまっています。

僕たちが何かを意識するということは、こういうことだったんです。
あるモノを意識するということは、そのあるモノを言語という音に象徴させることであり、そのことで、そのモノへの僕たちの理解も助けられるわけです。

太陽を見て「あっ、まぶしい!」と言語的な反応をして目をそらす時、僕たちは太陽を意識したと言えますから、その行動は「自然界の一部を意識したもの」です。太陽を他者として意識したことになります。

言葉を持たない動物が同じ行動をしても、それは太陽を意識したわけではなくただ強い光に反応しただけなので、動物の行動は全て「自然そのもの」です。つまり、太陽を意識しない動物にとっては、太陽は他者ではありません。

だから、もしこの時、僕たちが言語的な処理を介在させずに、動物的に「強い光に反応した」だけの反射行動を取ったとしたら、その時の行動は「自然そのもの」です。

ただしその時、僕たち人間は太陽を意識していませんから、「今、太陽を見たでしょう?」と聞かれても、「えっ、そうだっけ。ああ、そう言えば見たような気がする」と、後になって「意識」します。

しかしそのように太陽を意識するとは、実は、言葉によって自分とそのモノとの関係性を構築すること、を意味しています。
今の例で言えば、太陽を、自分にとって「まぶしい!」という被害を及ぼす関係性を持ったものとして意識したということです。

このことから何がわかるかと言うと、人間は、モノそのものをありのままに認識できないということです。

例えば、科学は、太陽とは何かということを研究して理解しようとします。

「太陽系の中心にある恒星。地球からの距離は約1.5億キロ。直接見える部分を光球といい、外側には彩層やコロナがある。光球の半径は地球の109倍、質量は33万倍、平均密度は1.4。表面温度はセ氏約6000度。恒星としては大きさも明るさもふつうの星で、エネルギーは中心における水素の核融合反応によってまかなわれている。地球上の万物を育てる光と熱の源(みなもと)となっている」


しかし、これはあくまでも太陽そのものではなく、言葉に置き換えられた太陽です。皮肉なことに、人間は自然界の諸々(もろもろ)を理解しようとして言葉を用いるようになってしまった時点で、むしろこの自然界の諸々をありのままに認識することができなくなってしまったんです。

それなら、言葉を持たない動物の場合は、モノそのものをありのままに認識できているのかと言うとそうではなくて、彼らは自然そのものであり、そもそも認識などとは無縁の存在なのです。

僕が可愛い犬を見つけて、「ああ、かわいい!」と言語的処理を行って頭をなでてあげようと思って手を出した時、その犬はうなり声を上げたとします。

それは、言葉を持つ人間の僕から見れば、明らかに彼(=犬)の行動は誤解に基づく行動です。僕には全く悪意はなく、彼に危害を加えるつもりはなかったんです。

でも、彼の行為は僕から見れば勘違いであっても、言葉を持たない彼にとっては勘違いでも何でもありません。
彼は、自然界の中でひたすら無心に(つまり、刺激に対してひたすら反応して)プレーをしているプレーヤーであって、その行為自体は“自然そのもの”です。

言葉を用いるようになってしまった人間だけが、自然界の中で無心でプレーすることができなくなってしまったんです。

モノそのものを、より一層正確に理解しようとした人間は、モノそのものを最も歪めて見てしまう動物になってしまったんですね。
これが、言葉を獲得してしまったために、人間が背負ってしまった悲運ということです。

ちなみに、今書いた「自然そのもの」のことを分身主義では《実体》と呼び、自然と向かい合い距離を置いて、「自然を意識したもの」のことを《幻想》と呼んでいます。

・実体‥‥人間が意識しなくても存在する全ての物質、全ての物体。

・幻想‥‥人間の脳の記憶と外部からの刺激との相互作用によって作り出される全ての現象。認識、連想、想像、思考、感情、意思‥‥など。
(人間の脳の記憶とは、もちろん言語も含めます)

《実体》と《幻想》について、具体例を挙げてみます。
あなたが意識しなくても、あるいは死んでしまっても、間違いなく存在している月は《実体》です。

だけど、あなたが夜空を眺めた時に視覚を通して脳に入力された月は、つまり、あなたに意識された月は、あなたの脳に作られていた「記憶」の神経回路を巡って「綺麗だなあ」とか、「今日は三日月だわ」などと言語的処理をして認識されるわけですから、《幻想》の範疇(はんちゅう)に入ります。

月という《実体》はこの宇宙にたった一つしかありません。なのに、人間の認識した《幻想》の世界の月は、《幻想》の数だけ、つまり人間の数だけ存在します。

例えば100人の人が同じ場所で月を見たとしても、100人はそれぞれの記憶によって歪められた互いに違う月を見ているわけなんです。
月そのものが、目の中に飛び込んでくるわけではないからです。

それなのに、僕が「昨夜の月は綺麗だったよ」と言った時に、相手に理解してもらえるのは、それは、お互いの月のイメージが近似(きんじ)しているだけの話なんです。

そのように考えると、僕たちの会話というものは、全て互いのイメージの近似値(きんじち)で交わしているようなものだったんです。

次回は、今日出てきた《実体》と《幻想》という言葉をもう少し掘り下げてみます。
これらの用語は、分身主義を知るためには避けて通れないものですから。ここまでで質問ありませんか?


早速、彼女から頼もしいメールが届いた。

そのまま受け止めればいいので、質問はありません。このことは《実体》か《幻想》かと聞かれたら、
多分間違いなく答えられるでしょう。

そこで、彼女に問題を出してみることにした。



🔖「Bメール7・実体と幻想(1)」

「このことは《実体》か《幻想》かと聞かれたら、多分間違いなく答えられるでしょう」という頼もしい言葉です。

それでは先に進む前に、もう一つ例を挙げた上で、問題を出します。
まず初めに手紙というものを例にとって、《実体》と《幻想》をもう少し掘り下げて考えてみることにします。

分身主義にとって、《実体》と《幻想》はしっかりと理解しておかなければ次へ進めない大切な概念だからです。

ある人が、大切な人から心温まる手紙をもらったとします。
その紙にあるものは、インクで書かれた単なる文字(記号)ですから、その文字を知らない外国人には内容が理解できませんし、ヤギなら食べてしまいます。でも、その人はそれを読んで嬉しくて涙を流すかもしれません。

文字はインクの作る染みなので《実体》ですが、その中に表現されているもの(言葉)が《幻想》です。
この場合、その人が流した涙という《実体》が、文字という《実体》にポタリと落ちて、文字を駄目にしてしまうかもしれませんが、表現されているもの(言葉)までも台無しにしてしまうことはありません。

大切な人の温かい気持ちまでも、どこかに消えてしまうわけではありませんよね。それはその紙の中にあるのではなく、手紙を受け取った人の脳内で作り出される現象だからです。

だけど、その大切な人に裏切られたりすると、世界一嫌いな人に変質します。その時、以前いただいた大切な手紙の文字自体はほとんど変化していないのに、見たくもないくらいに嫌悪すべき手紙に変わってしまいます。

ほらね、脳内で作り出される《幻想》だから‥‥でした。

紙や文字は《実体》で、言葉(表現されている内容)は《幻想》‥‥です。でも、ここで注意しなければいけないことがあります。

今、紙や文字は《実体》である、と言いましたが、実は、僕たちが「ここに紙がある」とか、「ここに文字が書かれている」と「認識」した場合、途端に紙や文字は《実体》の世界から《幻想》の世界に移行します。

認識とは、人間の《幻想》の世界のものだからです。では問題です。

人間の行動は《実体》でしょうか、それとも《幻想》でしょうか?

ヒントは、今日の文章の中にあります。
ちょっと難しいです。



この問題に対する答えが、彼女から届いた。

人間の行動は、肉体は《実体》。
行動の元となる脳作用は《幻想》。
《幻想》に突き演じさせられて行動している肉体は《実体》。
行動の結果の湧き上がる感情は《幻想》。
つまり、《実体》である脳が《幻想》し、《幻想》が《実体》を動かし、動いた結果《幻想》が生まれ、その《幻想》が《実体》を動かす。分けることのできない関係。



🔖「Bメール8・実体と幻想(2)」

問題に答えてくれてありがとうございます。

「行動の元となる脳作用は《幻想》。《幻想》に突き演じさせられて行動している肉体は《実体》。(中略)分けることのできない関係」

《実体》と《幻想》については、ほぼ理解していただけたようです。

だけど、意地悪を言うわけではないですが問題の答えにはなっていません。

問題は「人間の行動は《幻想》か《実体》か?」というものです。
あなたの答えは、動物の行動にも当てはまる回答です。
それと、あなたの答えの中の「行動している肉体は‥‥」という部分ですが、これは肉体に主眼を置いた答えであり、「行動をしている状態」の考察がありません。

僕の質問は「肉体は《実体》か?」と聞いたのではなくて、「行動(している状態)は《実体》か、それとも《幻想》か?」という質問だったのです。

「人間の行動は《実体》か《幻想》か?」

この答えは、「言葉を持たない動物の行動は、《実体》の世界に属するものであるが、言葉に意味づけされた人間の行動は《幻想》の世界に属する」というものです。

決め手は、言葉が関与しているかどうかということです。

例えば動物はサッカーなどしませんが、人間の行動であるサッカーのシュートなどは、「得点を入れる」などという言葉に意味づけされた行動なので、《幻想》の世界に属するものです。

僕たちが意識を向けた全てのものは、その瞬間、《幻想》(=錯覚)の世界のものに変質します。

もちろんそれは「行動」だけでなく、僕たちが目を向けたものは何でも、例えば、紙でも文字でも、リンゴでも犬でも木でも太陽でも‥‥全て同じで、僕たちがそれに意識を向けた瞬間、《実体》の世界のものだったそれらは、《幻想》の世界のものに変質してしまうんです。

あのギリシャ神話に出で来る、見るもの全てを石に変えてしまうメデューサのように‥‥。

メデューサ

メデューサ:
ギリシャ神話に登場する、見たものを石に変える能力を持つとされる魔物。
もともと美しい少女であったメデューサは、海神ポセイドンと、アテナの神殿のひとつで交わったためにアテナの怒りをかい、怪物にされてしまった。頭髪は無数の毒蛇で、イノシシの歯、青銅の手、黄金の翼をそなえた容姿を持っている。


つまり、人間は、《実体》の世界のものを《実体》の世界の中で認識することは決してできないし、たとえ行動であっても《幻想》の世界のものになってしまう、ということを言いたかったんです。

科学は、人間の感情や偏見といった《幻想》に惑わされずに、《実体》の世界のものを扱おうとしますが、その科学でさえも、それを《実体》の世界のままで扱うことは決してできません。
いくら科学といえども、人間が行うものである以上、その研究の対象となるモノは、《幻想》の世界に引き入れてしまったモノだからです。

その研究者の目の前にあるモノは、その研究者によって「研究対象としてのモノ」のように意味づけされたモノですし、研究という行為も言葉によって意味づけされた行動なので、どちらも《幻想(=錯覚)》の世界に属します。

以前、「科学は決して『目に見える世界が全てだ』などと思っているわけではない。それどころか、『目に見える世界』は偽物(にせもの)の世界であることを知っているのが科学である」と書きましたが、それがこの意味なんです。

実は、僕たちは、「確かに太陽は空に存在している」と信じていますが、正しくは、「いろいろな経験から総合的に見て、太陽は空に存在していると推測できる」と言うべきなのです。

僕たちは、目に見えているからその形のモノはその形のまま存在している、などと安易に考えますが、ではスクリーンに映った映像などはどうでしょうか? スクリーンのどこを探しても高倉健さんはいませんよね。
映画という娯楽は、人間の目の錯覚を利用しているわけです。

それと同じように、僕たちが空を見上げて認識する太陽は、それは僕たちの脳の錯覚が見ている太陽に過ぎないんです。

じゃあ、本当は空に太陽はないのか? と言うと、そうではありません。
誰一人として素粒子を見た人はいませんが、どうしてそれが存在しているとわかるかと言うと、実験上の数値として間違いなく検出されるから、存在しているに違いないと推測‥‥できるわけです。

太陽だって、それが存在することによって引き起こされる様々な現象が、今まで一度も例外なく確認されている以上、間違いなく存在していると言っていいわけです。

科学とは、実はこのように、《実体》の世界のものを《幻想》の世界に引き寄せて認識しておいて、その認識を再び《実体》の世界に戻してみても成立するかどうかを常に検証しながら進むものだったということです。

ちなみに、以前、《実体》の説明で、「あなたが死んでも間違いなく存在している月は《実体》です」と書きましたが、もしかしたらあなたは「自分が死んだらそれが存在しているかどうか確かめることはできないから、この言葉は正しくないんじゃない?」と思われたかもしれません。

それは実に真っ当な疑問です。
正確に言うならば、今まで、あなたの知人が何人か亡くなっていても月は存在しているので、それであなたが死んでも月は存在しているだろう、とかなり高い確率で推測できるだけなのです。

もちろんそれだけでなく、数々の科学的なデータが、あなたが死んでも月は存在することを高い確率で推測していますが‥‥。

《実体》と《幻想》の意味が以前よりもはっきりしてきましたか?
これはこの先、本当に必要になってくるものですから、もう一度おさらいをしておいてください。

ちなみに、自然界にお伺いを立てながら歩んできた科学は、「《実体》として見た場合の人間の筋肉の動くメカニズム」を、現代では次のように解明しています。

筋肉はそれ自体が伸び縮みしていたわけではなく、それを形成しているアクチンというタンパク質とミオシンというタンパク質からできた太さの違う線維(繊維)が、注射器のピストン運動のように滑るようにして伸び縮みしていた。

骨格筋

脳から発せられた電気刺激が、神経細胞という通路を通って筋肉を包み込んでいる膜にあるセンサーに到達すると「カルシウム放出チャンネル」というものが開かれ、筋小胞体という袋に蓄えられていたカルシウムイオンが筋線維内に流れ出す。

その流れ出したカルシウムイオンがミオシンにあるトロポニンというタンパク質と結びつくとアクチンが引き寄せられ、筋肉が収縮を始める。
(筋肉は、いつもバネのように収縮しようとしていて、トロポニンはそのバネを抑えるブレーキ役として働いている) 

しかし、このように言葉に置き換えられて説明されたものは、もはや《実体》としての筋肉そのものではなく、《幻想》の世界に翻訳させられたものだということでしたよね。

僕たちが「人間の筋肉の動き」を理解しようとしてしまったので、それは《実体》の世界から《幻想》の世界に引き寄せられ、歪められてしまったわけです。

しかし、その歪められたもの(=言葉による理解)をもう一度自然界に戻した時に正しく作用するなら(つまり実験によって証明されるなら)、その《幻想》は正しかったということになるわけです。

そしてそれが科学の歩み方だということです。

例えば、筋電義手(きんでんぎしゅ)というのを知っていますか?

これは腕を失った人のために開発された義手なんですが、人間の脳から発せられる微弱な電気を皮膚から拾い上げ、その電気信号を義手につけたモーターが読み取り、義手の指などを思い通りに動かすというものです。

この義手が正しく作用するということは、人間の脳内には電気が発生していてそれが筋肉を動かしていたという解釈が正しかったことが証明されるわけです。


人間が誕生するまでの長い長い年月、この宇宙は《実体》だけでできていました。つまり、人間の意識外の世界ということです。

《幻想》は人間が生まれるまではなかったものなので、自然界においては、《幻想》というのはずっとず~っと後発のものです!!

僕たち人類の《幻想》は、昨日、今日、この宇宙に仲間入りした新参者(しんざんもの)の青二才なのです。
この事実は重要なので決して忘れないでください!!


ところで、僕たちは《実体》をありのままの状態で受け取ることはできず、「意識」、あるいは「認識」された《実体》は、《幻想》の世界に引き入れられたモノ、つまり脳が錯覚したものでしかないと言いましたが、実は、錯覚とは今まで言われていたように「そんなもの単なる錯覚だよ。気にすんなよ」などと言ってすませておけるものなんかじゃなかったんです。

《幻想(あるいは錯覚)》は《実体》を変化させる力を持つものです。
昨日今日仲間入りした新参者で青二才の《人間の幻想》ですが、今ではそれが自然界に君臨し、生物のDNAを操作したり、この宇宙を作り替えようとしているかのように見えます。

では、長い間、《実体》だけでできていたこの自然界は、ついにその実権を《幻想》に明け渡す時が来たということなのでしょうか!?

分身主義がこの疑問を解きました。
ここまでの感想、質問などをお願いします。

その後の一週間の間に、彼女からの質問はなかった。


🔖「Bメール9・幻想の暴走」

質問がないようですが、ちょっと難しくなってきたので、もう一度前回までのことを復習しておきます。

僕たちが目を向けた全てのものは、その瞬間、《幻想(=錯覚)》の世界のものに変質します。100人の人が同じ場所で月を見ても、それはそれぞれの記憶によって歪められた100通りの月を見ています。

《実体》の世界の月は、人間によって意識されたり認識されたりした途端、《幻想》の世界に引き寄せられます。僕たちが月を見たというのは、月そのものを目の中に入れたのではなく、脳の中で100通りに翻訳された《幻想》の月を、それぞれが見ているということでした。

科学者であっても、月を調査・研究しようとした時点で、その月はもはや《幻想》の世界のものです。

でも、誰もが、自分が見ているものは月そのもので、それはみんなが見ているものと同じであると信じています。

実際は、その人の言葉で翻訳された《幻想》の月を感じているだけなのに‥‥です。


ところで、《幻想》とか錯覚とか言っても、決して「そんなの錯覚だよ。気にすんなよ」と言ってすまされるものではなく、《実体》を変化させ得る力を持ったものでしたね。

前回ご紹介した筋電義手も、人間の《幻想》によって産み落とされた道具です。
そして筋電義手がこの自然界でちゃんと機能するということは、その《幻想》が正しかったことを証明しています。

しかし、現在我々が抱いている、「これが自分である」という《幻想》は、明らかに自然界でちゃんと機能していません。
自然界で機能していないと言うより、元々は自然界と地続きだったある種の動物が人間になったことで、もはや自然界と対峙(たいじ)してしまっています。

毎日うんざりするくらいに起こっている犯罪、もめごと、醜い競争、権力争い、奪い合い、足の引っ張り合い、罪のなすり合い、マナー違反、イジメ、パワハラ、セクハラ。
自然界から迷い出てしまった人類なので、その人類が抱く「これが自分である」という《幻想》が、自然界とちゃんと機能するはずがありません。。

ちゃんと機能していない《幻想》なら、正しいものに作り替えなければいけません。



まず、「《実体》を変化させ得る力」というのは、その人の内部から「自分の熱い思い」のような力で湧き上がる「自由意志」だと思われてきました。

でも実のところ、《実体》を変化させているのは、その人の脳を取り巻く環境によって浮かび上がらせ・られた「意志」、つまり環境に作られた「意志」だったことに気づく必要があります。

例えば、「よ~し、明日からダイエットをするぞ~!」というのも、環境からそのような意志を浮かび上がらせ・られているというのはすぐにわかります。その人の環境に「ダイエット」というものも「ダイエットをするぞ」と思わせるものもなければ、決してその人にそのような「意志」が作られません。

例えば、DNAを操作したり、自然を作り替えたりしている人間ですが、実際は、環境にそのようにして浮かび上がらせ・られた《幻想》に、僕たち人間が操られて、DNAを操作させ・られたり、自然を作り替えさせ・られたりしているだけだったんです。

近年、「自由意志」などは存在しないという実験結果がたくさん報告されていますが、そんなもの実験などしなくても、今まで見てきたように、科学的に順序だてて「原因⇒結果」の流れを考えて行けば、子どもでも容易にわかることです。

我々の脳は、五感などを通して入力された刺激が電気信号に変換されて脳に届いて初めて反応します。外部からの刺激を受けないのに、脳が自分から何らかの反応を始めることは一切ありません。

何も入力されないのに、勝手に怒り出したり悲しんだり、否定的な感情が湧き上がったり、まして何かを成し遂げようなどとする「意志」が、外からの刺激(あるいは情報)を受けずに、脳内に勝手に浮かび上がることなどは絶対にないのです。

また、現代科学がもたらしてくれた最も大きな功績は、「全ての物事には必ず原因がある」ということを我々にわからせてくれたことです。それなのに、脳だけは外部からの刺激を受けなくても自分から何らかの反応を始めるのであれば、脳だけは原因がないということになり、その時点で科学が積み上げてきた真理が崩壊します。

科学が信頼できなくなるということは、今まで科学が作ったもの、例えば飛行機や自動車や電車などの乗物や、電子レンジやパソコン‥‥など、この先何が起こるか予測もできないことになるので、危なくて使えないということになります。

そういった道具だけは「原因⇒結果」のルールを信頼して、疑うことなしに安心して使わせてもらっているくせに、「人間の意志」だけは自然界の「原因⇒結果」のルールには従っていなくて、《自分》が自由に作り上げているなどと思うのは、まさに人間の身勝手です。

そもそも、今まで人類が抱いていた《自分》という意識が、誤った《幻想》であったということを知らなかったために、「自分の意志」などというものがあると思い込んでしまっていたのです。

その誤った《幻想》は、どんどん暴走を始めました。

そして、今では人類は、まるで自分の力でこの宇宙に産まれてきたとでも言わんばかりに、何でも自分たちの「意志」で思い通りになるとでも錯覚をしています。

人間の都合に合わせて作り上げた《幻想》が、今では妄想と化してどんどん膨らみ、《実体》としての「自分の本当の姿」が見えなくなってしまっています。


今、自然界から迷い出てしまった人類が、可哀想に、不安にかられ、自分の進むべき道も戻るべき道もわからず途方にくれています。

元気一杯で能天気に生きているように見える人もいますが、それでも時には心細さに泣いている人たちがほとんどです。

分身主義がどうして《幻想》と《実体》について、こんなにしつこく説明するかという意味をわかっていただけましたか?


僕たちが不安から救われる唯一の道は、迷子になっている「これが自分である」という《幻想》が、「本当の自分」という《実体》としっかりと手をつなぐしかありません。

それが僕たちがこれからやろうとしていることです!!

いいですか!?

科学の視点に導かれて《実体》としっかりと手をつないだ《幻想》、それが分身主義なんです。

脳という、錯覚を生業(なりわい)とするものを持ってしまった僕たちは、どうせ《幻想》と無縁で生きることができないなら、世界中の人が納得して一つになれる科学的な事実に基づいた《幻想》、つまり、唯一、自然界という《実体》と手をつなげる《幻想》を持つ方が良いに決まっています。

そして、世界中の人の心から不安が消える《幻想》を持った方が良いに決まっています。

これから僕たちがやろうとしていることが、まさにその《幻想》を、自分の脳の中に上書きすることなんです。

この自然界でちゃんと機能する正しい《幻想》を!

彼女から返信が来た。
ちょっと沈んだメールだった。

「幻想の暴走」はよくわかりましたが、それがわかったところで、私に何ができるでしょう。私を動かしているのが環境が作る《幻想》でしかないなら、なおさら私はこれからも、環境に作られる《幻想》に踊らされて生きていく以外に、なすすべがありません。


🔖「Bメール10・再び自我とは」

「私はこれからも、環境に作られる《幻想》に踊らされて生きていく以外に、なすすべがありません」
あなたのおっしゃる通り、これからも、僕たちは環境に作られる《幻想》に踊らされて生きていくしかありません。

だけど、その《幻想》はどのように作られていたか、もう一度考えてみてください。

脳の中に浮かび上がらせ・られていた《幻想》(=認識、連想、想像、思考、感情、意思‥‥など)は、元々は脳外部から入力されてきた刺激(あるいは情報)によって僕たちの脳内に作られた記憶、つまり「方向性を持った回路」が、再び脳外部から入力されてくる刺激(あるいは情報)に反応して、その回路上を様々な記憶を揺り起こしながら電気が走るからでしたね。

「方向性を持った回路」は、記憶(言葉も含む)が作っていますよね。
と言うことは、その記憶が変われば、そこから浮かび上がる僕たちの《幻想》も変化するわけです。

もし全人類の記憶に、科学が解明している事実が書き加わったらどうなるでしょうか?

今はまだ、科学が解明している事実など多くの人たちが知らないし、科学者でさえも自分の専門以外はよく知らないので、誰もがこの「境界線を持って存在しているかのように見える身体」が「自分」であり、その自分の自由意志で動いているという《幻想》(=錯覚)に縛られて生きています

この、科学的に言えば間違った《幻想》に踊らされて生きている環境を、「個人主義的な環境」と言います。

だけど、全人類が足し算引き算を習うように、全人類が科学が解明している(=科学がかなり高い確率で事実であろうと推測している)事実を習うだけで、僕たちの環境は「個人主義的な環境」から「分身主義的な環境」に変化します。

その環境の中で踊らされる僕たちの脳には、不公平感や不満や恨みや怒りなどが浮かび上がりにくくなっています。

そのことを唯一、平和な状態と言います。

平和とは戦争がない状態のことではなく、全世界の人の心に不公平感や不満や恨みや怒りなどの、争いの種(たね)がない状態のことです。

よく日本人のことを「平和ボケしている国民」などと形容する人がいますが、その意味から言っても、今の日本は全然平和なんかじゃありません。
不公平感や不満や恨みや怒りなどが満ち溢れているじゃないですか!?


科学が解明した事実をいくつか挙げてみます。
解剖学者の養老孟司先生は「人間は機械を作るけれども、機械とは、実は人間の一部である」と言っています。

それを彼は「延長」と呼んでいます。
「人間は自分の延長として、特に身体の延長として機械を作る」と言っています。

例えば、東京医科歯科大学の入来篤史(いりき・あつし)先生たちが行ったサルを使ったこんな実験があります。

まず、檻(おり)の中にいるサルの手の届かないところに餌を置き、近くに熊手を置いておきます。サルは頭がいいので、すぐに熊手を使って遠くの餌を引き寄せて食欲を満たすことに成功します。

この時、サルの脳の神経細胞の活動を特殊な装置を作って観測してみると、熊手を手に取って眺めている時には、その反応は起こらなかったんですが、熊手を使用した際、彼の脳は熊手を自分の手の一部であると認識しているようだということがわかりました。

つまり、熊手を使用しているその瞬間、熊手は彼の手の「延長」になったのです。

長いスキー板をかついで繁華街を歩くとして、その時誰にもぶつけずに歩けるのは、スキー板の先端までがその人の身体(延長)だからです。

目が不自由な人が突く杖は手の延長、スケーターの履くスケート靴は足の延長です。


何度か、筋電義手のお話をさせていただきましたが、もし脳から発せられた微弱な電気を離れた所に置いてある筋電義手に飛ばすことができたなら、まるで超能力のようにその機械の指を動かすことができるんです。
実際に電気を飛ばすことなんて、もう夢の話ではなくなりましたしね。

また、筋電義手にセンサーを取り付けておけば、その時誰かが握ればその感触を脳にフィードバックさせることも可能です。
では、ちょっと想像してみてください。

そんな仕組みを作ったあなたの筋電義手を世界各国に設置し、その先にテレビ画面を置いておきます。
すると、あなたは、世界各国の人と顔を見ながら握手しているような錯覚を持てることになります。
その時の「あなた」の自我は、この世界にまたがった大きな身体を持った「あなた」になっています。

僕たちのこの、境界線を持って存在しているかのように見える身体は、それは神経系の作っていた錯覚であったと以前言いましたが、その錯覚は、このように熊手やスキー板や杖やスケート靴にまで延長できるし、まさに世界にまたがった大きな自我を錯覚することも可能なわけです。

このような科学が解明した事実を今の僕たちの記憶に書き加えれば、自我も変化するということです。
科学が解明した事実は、まだまだたくさんあります。例えばビッグバンです。

この宇宙は、約140億年前に、目に見えない小さな種(たね)から突然生まれ、それが急膨張して今の宇宙の大きさになり、今もその膨張はものすごい勢いで留まることなく続いていると現代では考えられていますが、地球は、その宇宙の初期に存在していた素粒子がくっついて原子になり分子になり、そして90億年以上かけてできてきたと考えられています。

これらはビッグバン仮説と呼ばれていましたが、現代ではこの説を否定する学者はほとんどいません。
それというのも、否定しようにもその仮説を裏付けるデーターがいろいろなところで報告されてしまっているからです。

下の図は、あなたのために一生懸命に描いたものですが、その説明を書いていたらとんでもなく長くなってしまったので削除しました。

ビッグバン宇宙


本当はこの部分の科学的な説明は、分身主義を知っていただくためには省略できない部分なのですが、『人類の育てた果実 NO.4宇宙の始まり』に詳しく書いていますので、そちらを参照してください。

今日はただ、僕たちの身体を形作っている元素、骨の中のカルシウム、血液中の鉄、身体の組織の炭素、DNAを構成している窒素・水素・炭素、他にも身体を作っている微量なあらゆる元素も、みんなビッグバンの時に存在していた素粒子がくっついて原子になり、それがまた長い年月をかけてくっついたり離れたりして作られてきたものだ、ということを覚えておいてください。

分身主義の分身とは、この意味だったんです。

つまり、この宇宙に存在するあらゆるもの、天体も石ころも木も草も動物も全てが、このビッグバンから分かれた身(からだ)という意味です。

僕たちの身体の作られ方を考えてみてください。
初めは受精卵というたった一つの細胞ですよね。それが何度も何度も分裂を繰り返し、それぞれの環境に合わせた細胞が作られていきます。それを《分化》と言いいます。

細胞分裂

一つ一つの細胞に書かれている情報‥‥つまり設計図は一緒なのにもかかわらず、その場所の環境に合わせてあるものは心臓の細胞になり、またあるものは目の細胞になったりしていたのです。
これは、その環境に合わせて遺伝子の発現を制御する調節因子タンパク質が働き、その指令に従って《分化》するからということです。

と言うことは、皮膚になってしまった細胞も、元々の設計図は他の細胞と一緒なので、これをうまく培養すると、例えば胃袋ができたり、目玉ができたりする可能性もあるわけです。

これを《分化》と言いますが、これは宇宙のでき方も同じですよね。元は超高温・超高密度の小さな種(たね)から、環境に合わせて様々に《分化》して天体ができ、地球ができ、植物ができ、そして今あなたや僕がここにいます。

この宇宙の万物は、ビッグバンの時に存在した素粒子が、環境に合わせて様々に形を変えていただけで、元は一つ、つまり素粒子が作る《分身》たちだったんです。


ちなみに、ビッグバンの生まれた直後(10のマイナス34乗秒後)の大きさは、野球の球くらいの大きさ(先ほどの図参照)だとイメージしてください。これは頭の良い方たちが計算した大きさですからそのまま受け取ってください。そうすると、何だか今まで茫洋(ぼうよう)として、つかみどころのなかった宇宙という概念が、手の上に乗せられるので、自分にちょっと近づいた気がしませんか!?😉

科学が解明した事実はまだまだたくさんあります。

僕たちが死んで例えば火葬場で焼かれるとすると、その身体を構成していた原子は消えてなくなるのではなく、他の分子を構成するものに変わったりするだけで、この宇宙の原子自体の総量は決して変わりません。

これを質量保存の法則(あるいは物質不滅の法則)と言って、実験で証明されています。

科学者である安斎育郎さんという方が、僕たちの身体を構成していた炭素原子が火葬によって大気圏に平均にばら撒かれたとすると、一体この大気圏にはどの程度の割合で、その炭素原子が存在するかを計算で確かめました。ちなみに彼は大気圏を地上10キロメートルで計算しました。

それによると、75キロの体重のAさんの場合なら、大気中のどこで1リット
ルの空気を採集しても、例えばエルサレムでもリオデジャネイロでもピョンヤンでもニューヨークでも網走番外地でもどこでも、1リットルの空気を採取したら、なんとそこには、13万2500個ものAさんブランドの炭素原子が存在するのだそうです。

そんなバカな、ですって。
あなたは原子の小ささを忘れていますよ。

彼は次のように言っています。

「私の体を構成している原子のうち、あるものは過去にナポレオンの体を構成していた原子かもしれないし、徳川家康の体を構成していた原子かもしれないのだ。
これは科学的な意味において『輪廻転生』と呼ぶにふさわしい大自然の摂理ではないか。

私の体も、やがてこの大自然の輪廻に参加し、あるいはベトナムで米となり、あるいはジンバブエで少年の心臓の一部となり、あるいは見も知らぬフランス人の脳に宿るかもしれない。私の生命は『個体の死』とともに終わっても、私の体は世界に広がって生き続けるのだ」


僕は世界中の脳に、科学が解明しているこういった事実を上書きして欲しいのです。
そうすれば、そこから浮かび上がってくる僕たちの《幻想》も次第に変化して、いつしか「個人主義的な環境」から「分身主義的な環境」へと移行しているはずです。

ただし、科学のことを書いた本はたくさんありますが、注意が必要です。

科学者と言われる人たちが真の科学とは何かを常に考えて、真の科学を行っているかと言うと、そうでもないんです。

自分の仮説への思い入れの強さや名誉を焦る気持ちから、実験結果に対する評価を誤ったりする場合も多々あるだろうし、自分たち人間だけの「感情」や「感覚」を他の生物にも投影して、その生態を解釈してしまう学者もたくさんいます。

それに、宗教の布教活動や商品の宣伝広告に科学的な知識が使われている場合もよく見受けますが、それらはちゃんとした知識がない人が、自分たちの主張に合う部分だけを抜き出してきて使用しているだけなので、気をつけてください。

ホームページにもこの手のまがい物が結構あるので驚きます。

だから、科学者でもなく宗教の信者でもなく営利目的でもない僕の方が、むしろ純粋に「真の科学」とは何かをじっくりと考える環境にいたわけです。

「真の科学」とは何か知りたい、そして真の科学が解明している事実を知りたい、と思ってくださるなら、最初に、僕が書いたものを読んでくださる方がいいと思います。

そうすれば、科学を装った非科学を、安易に信じて騙されてしまう確率は減るはずです。

人類の育てた果実(自分探しの旅の果てに)』(2002年)
分身主義宣言!』(2003年)
バラ色の素粒子(分身主義のお話)』(2004年)
分身主義の森を抜けて‥‥』(2006年) 

これらを書くために読んだ本や雑誌は、全て読書ノートを作って重要な部分を抜書きしているのですが、それによると、宇宙に関するもの、脳に関するもの、筋肉の動く仕組みに関するもの、遺伝子、細胞、量子論、電磁波、それに芸術論、教育論、心理学、精神療法、哲学‥‥など二百冊を超えていました。

例えば、僕を驚愕(きょうがく)させたほど解明されていた筋肉の動く仕組みに関するもの一つとっても、何十冊も図書館で借りて理解できるまで調べたし、インターネットでも調べ上げましたが、それだって脳や遺伝子や細胞や量子論などに関して調べた時の努力と比べたらわずかなものでした。

それだけでなく、科学に関するテレビ番組は録画して何度も見たり、むしろ科学とは相反する霊や宗教に関する本や番組も、科学の正当性を知るためにも貪欲に見ました。

何故そこまでしたのかというと、僕はそれまで自分の考えたことを世間に訴えたいという思いでいくつかの作品を書いてきたのですが、それが世間(というか出版社に)に受け入れてもらえなかったことで、その上のものを書こう、その上のものを書こうとしてきた結果、30歳くらいになってから、『アラスカの風に乗せて』という自分探しの物語を書きたいという強い思いに取り付かれ、そのためにもっと「自分を知りたい」「宇宙を知りたい」「本当の愛を知りたい」「本当の幸福を知りたい」などという思いに衝き動かされてきたからです。

先ほどご紹介させていただいた四つの作品は、そういった行動から得た知識や思想を時間をかけて要領よくまとめたので、これだけ読めば、科学者も気づいていない「真の科学」をわかっていただけると思います。

必ずしも制作順に読まれる必要はありません。

どこから読んでいただいても、真の科学というものが何を意味しているのかわかるようになっていますし、分身主義に興味を持っていただけるように書いています。

ただ、2002年に発表した『人類の育てた果実(自分探しの旅の果てに)』に関しては、まだ分身主義という言葉が出てきていません。
この作品が元になって、それが発展することで「分身主義」が生まれてきました。

当時、二つのメールマガジンを発行していました。
『世界を平和にしない愛』と『自分探しの旅 with マーキー』というものです。これらのメールマガジンの完結と同時に、その二つをまとめたものが、その『人類の育てた果実(自分探しの旅の果てに)』です。

これは、愛というルートで登り始めた『世界を平和にしない愛』と、科学というルートで登り始めた『自分探しの旅 withマーキー』が、最終的には同じ頂上で出会うという設定の物語です。
メールマガジンを発行すると同時に、Yahoo!の掲示板で多くの方と「平和」について語りました。

そういった行動によって、生まれさせ・られたものが「分身主義」です。


ところで、この「真の科学」が僕たちに教えてくれた事実をまとめると、次の二点に集約できます。

❶この宇宙は、素粒子たちが、きちんとした筋書きのない「自然界の法則」というシナリオに基づいて演じさせられている劇場である。そして僕たちは、その劇場の中で、人間という配役を任されて演じさせられている、電気仕掛けの期限付きの役者である。

❷その素粒子たちの振る舞いによって、長い年月をかけて作られた僕たちの脳は、個人の持ち物でもないし、個人の意識でどうにかなるものでもない。

僕の書いたものを読んでいただければ、この意味もわかっていただけるはずです。


🔖「Bメール11・鬱病とは」

あなたからのメールを楽しみに待っていましたが、届きませんでしたので、先に進めます。
もしわかりにくかったらどんどん質問してくださいね。

以前、『プロザック日記』という回想録を書いたローレンス・スレーターという女性の鬱病の話をしましたが、その中に出てきたセロトニンというのも神経伝達物質の一つで、鬱病の人はこのセロトニンの濃度などが低下しているなどと言われていますが、勘違いしてはいけないことは、神経伝達物質は決して主役ではありません

セロトニンは人体中には約10ミリグラムあり、そのうちの90%は小腸の粘膜にあるクロム親和細胞(EC細胞とも呼ばれる)内にあると言われていますし、それに鬱病とは無縁とも思える小動物や昆虫にもセロトニンは存在します。

しかし、小腸や小動物や昆虫が、セロトニンの濃度が低下したからといって鬱になったり死にたくなったりした話は聞いたことがありません。

だから神経伝達物質(ここではセロトニン)は主役ではなく、その先の働きを促すための“鍵”程度に考えておいた方が妥当です。

セロトニンという「神経伝達物質」ばかりに目が行き、それを主役のように考えてしまうと、鬱病を治すにはセロトニンの原料であるトリプトファンを牛乳などから摂取すればいいとか、セロトニンの再取り込みを阻害する薬を服用すればそれでいいというような結論に落ち着いてしまい、何故、セロトニンが放出されにくい脳になっているのかという根本の原因、つまりその脳を取り巻く環境に目が向かなくなってしまいます。

「この脳を取り巻く環境」が原因となってセロトニンが放出されにくい脳になると、その先の「方向性を持った神経回路」が活性化されない状態が続いてしまうことになります。

この「活性が抑えられた状態」そのものを脳が検知した場合に、「気分が落ち込む」、「つまんない」、「不安になる」といった感情に反映されて出てくると考えられます。

例えばスキップをしながら落ち込むことは難しいですが、その逆に、この身体がスキップができないように押さえつけられていて、幸福感を感じろというのは無理な話です。

「身体がスキップができないように押さえつけられている状態」とは、「神経細胞が活性化できないように押さえつけられている状態」のことだと考えていただければ、僕の言いたいことがわかっていただけると思います。

鬱の原因はセロトニンの濃度の低下というよりも、この一連の流れ(=活性化)が阻害されることである点に、目が向いて欲しいものです。

そして僕が一番言いたいことは、この一連の流れが阻害される本当の原因は、実は、「個人の脳の中にあったのではない!」ということです。

この身体がスキップできないように押さえつけているものにこそ、きちんと目を向けていただきたいと思うのです。

現在では、医者と呼ばれる人も患者と呼ばれる人も、鬱とは個人の脳の機能的な、そして一時的な障害であり、それはセロトニンを増やす薬を飲むことで改善できる、という結論に落ち着いてしまっているように見受けられますが、それは本当の原因を見失った勘違いとしか言いようがありません。

しかしこの勘違いは、医者と患者が共同して作り上げてしまっている《幻想》かもしれません。

精神科医の片田珠美さんという方は、

「少なくとも現在の流れが、うつは心の病気としてではなく、脳の病気として説明されるようになり、患者さんが受診する際の敷居が低くなった。『あなたは心の病気です』と言われることは受け入れられなくても、『脳内の神経伝達物質が不足しているのだから、それを増やしてあげる薬を飲みなさい』という説明には納得できるのである」

と書いています。
では、その薬が僕たちを救ってくれるのでしょうか?
彼女(片田珠美さん)は、『薬でうつは治るのか?』という著書の中で、薬の限界を指摘しています。

それによると、「うつ病は再発しやすいので、服用中止後、離脱症状(イライラ、身体の震えや違和感、気分が落ち込む、なんとなく元気がなくなる、不安になる) が現れる場合も多いので、維持療法を勧める精神科医は多い」ということです。

維持療法とは、治ったと思っても再発防止のために一定期間抗うつ薬を服用させることで、その期間は、「3年~5年、あるいはほとんど一生を推奨する医師もいる」そうです。

また、患者と言われる側の人の不満として、「(医者に)話をちゃんと聞いてもらえない」「診察で言われることは薬をちゃんと飲みなさいだけ」「ちょっと調子悪くなったら薬をどんどん増やされ、副作用が出たと訴えたら、副作用止めの薬を処方されて、また薬が増えた」
などが報告されているそうです。

その背景には、日本の保険医療制度の構造的な問題があり、「(点数は変わらないので)一人当たりの診察時間をできるだけ短くして、なおかつ大量の薬を処方して儲けようという医者がいる」のも事実です。

彼女は、「ここまで悪口を書くと、筆者は精神科医として勤務できなくなるのではないか」と本気で危惧(きぐ)しながらも、どうしても「現在主流になっている薬物療法には少なからぬ問題があり、それを指摘せずにはいられなかったというのが正直な気持ちである」とおっしゃっています。

今日は、最後に彼女の、心を打つ言葉をご紹介して終わりにします。

「薬でうつは治るのか? この疑問に答えるためには、まず“治る”とはどういうことかを明らかにしなければならない。薬を飲んでいるうちに症状が目立たなくなり、仕事や家事を何とかこなしていければ(=維持療法)それでよしとするのか、そして薬の助けを借りながら安楽な生活を送ることを目指すのか、それとも自らの内面を見つめ、人生を振り返って苦悩も引き受けられるようになることを目指すのか。あなたはどちらを選ぶだろう」

この結論として、彼女は「安楽は、(本当の意味での)治癒ではない」、と言っています。

つまり維持療法を否定しているわけです。

「落胆や悲嘆を消してくれる薬はない。我々の中の悪魔を追い払うことも押し殺すこともできない。その影と共に生きていかなければならない。それが人間の性(さが)である。もし我々が苦悩と共に生きる術を知るならば、最終的には我々の助けになるだろう。何故ならば、治るとは苦悩を受け入れられる、苦悩に耐えうることだからである」

まるでご自分に言い聞かせてでもいるかのような強い言葉で、心打たれます。
あなたはこの言葉、どのように受け取りますか? 

三日後、返信が届いた。

今日はどうしても聞いて欲しいことがあります。
先日、何気なくテレビをつけたら、ジョン・レノンの特集をやっていました。
地平線が見えなくなるほどの大勢の群衆の中でピアノの弾き語りなどをやっていました。
見ているうちに、ビートルズに夢中になっていた自分の若い頃を思い出しました。
新聞や雑誌の切抜きを集めたり、友達と見せ合いっこをしたりして楽しかった時期があったなあ、なんて…。
こんなことを言うと年がバレてしまいますね。
そんなことを思いながらテレビを見ていたら、ジョンのメッセージがスーッと体の中に入ってきて気がついたら泣いていました。
泣いて泣いて、涙が止まらなくなりました。翌日、顔の筋肉が痛くなっていました。
何十年ぶりに泣いたのでしょう。
何十年も泣くことや笑うことから遠ざかっていて、顔の筋肉も動かさないでいたのです。
私に、大勢の人の前で歌えるジョンのような度胸がほんの少しでもあれば、苦悩を受け入れる勇気も持てたことでしょう。人の顔色ばかり気にしてずいぶんとビクビクと生きてきました。
今は、「治るとは苦悩を受け入れられる、苦悩に耐えうること」という言葉が心に染み入ります。
苦悩を受け入れる勇気を持たなければという気持ちになっています。ありがとうございました。


🔖「Bメール12・これからの僕たちの生き方」

「今は、治るとは苦悩を受け入れられる、苦悩に耐えうること、という言葉が心に染み入ります。苦悩を受け入れる勇気を持たなければという気持ちになっています」
そのような気持ちになってくれてよかったです。僕もあなたのメールは涙なしには読めませんでした。あなたの言葉は僕に希望を与えてくれました。

だけど僕たちは本当に、「苦悩を受け入れて、それに耐え続けて」生きなければならないのでしょうか? せっかく前向きな気持ちになっているあなたに対して、こんなことを聞くのは憚(はばか)られますが、実はそこのところを考えていただきたくてあの文章を紹介させていただいたのです。

僕はそんなに悲観することはないと考えているからです。

たとえあなた一人が「苦悩を受け入れる勇気」を持ったところで、それであなたの何がどの程度救われると言うのでしょう。

それよりも受け入れなければならなかったのは、世界中の人が「人間は自分の意志で考え行動していたのではなかった」という事実です。
「この脳は個人の持ち物でも、個人の意識でどうにかなるものでもなかった」という事実です。

片田珠美さんは、心の中の悪魔は消し去ることはできず、その影と共に生きていかなければならないのが人間の性(さが)である、みたいに言っていますが、昔の僕なら「その通りだ」と感銘して自分を奮い立たせていたと思います。

でも、今の僕はちょっと違います。

分身主義を知った今は、こんなに過酷なセリフを聞くと何だか古臭い浪花節(なにわぶし)でも聞かされているような気がしてしまいます。

あなたにそのことを知っていただきたいために、先日、敢えて彼女の言葉を紹介させていただいたのです。

ところで彼女(片田珠美さん)は、鬱の増加状況を統計的に分析した結果から、次のような興味深いことを言っています。

「うつを生み出したのは経済危機ではなく、むしろ自由で豊かな社会である」

鬱が増えだしたのは、1970年代、それぞれの個人が自らの人生の持ち主(=主人公)であるという考え方が、社会的に浸透し始めた民主的な社会において、だそうです。

普通、鬱というと、家庭の崩壊や会社の倒産や貧困によって始まるようなマイナスのイメージが浮かびますが、そうではなくて「精神の解放と個人の自発性が重視されるようになったはずの社会においてむしろ増えている」のは興味深いと思いませんか?

その理由は、「つまり、解放は我々を服従と罪悪感から抜け出させたが、そのかわりに、今度は自発性と自己責任へと導いた。その結果、抑うつ的な疲労や不全感が神経症的な不安や葛藤に取って代わった」ということです。

ちょうどあなたが涙したジョン・レノンなどに象徴される時代に、若者たちは自由や解放を叫び始めました。

自由という言葉と親和性のいい「愛」という言葉も盛んに使われだしました。教育にも「個性」という言葉が盛んに使われ始め、それまでの戦時教育のような、「教育とは個人を国家の枠にはめることである」という考え方が、「教育とは個人の能力を引き出すことである」という考え方に変わりました。

こういった変化は、自律的・自立的に生きようとする人たちにはいい生き方をもたらしてくれることに成功しました。

最初のうちは、生き生きと自由に羽ばたく《幻想》を見させてくれましたが、気がついてみたら、「個人に自由を!」と叫ぶために必要だった不自由な社会が解体させられてしまっていて、この社会に「何をしてはいけなくて、何をしていいかという明確な基準」がなくなっていたのです。

闘う矛先(ほこさき)を見失った若者たちの心は、鳥かごで飼いならされていた鳥が、大空へと解放されたかのように不安になり、今では個人の自由が、個人の責任に取って代わって、個人に重くのしかかってきたのです。

鳥かごは鳥にとっては自由を束縛するものではあるけれど、ある意味、巨大な敵から守ってくれたり、苦労せずに食料を与えてくれたりするものでもあったわけです。

広々とした大空に放たれてしまった人間という鳥たちは、今では自分で自分の身を守り、自分で自分の食料を獲得しなければならなくなったのです。

この能力主義的な社会の中で、個性的でない人間やアイデンティティーの確立ができない人間や、また、今の社会の価値観に馴染めない人間は、社会の底辺で生きるしかないという強迫観念に追い立てられて誰もが生きています。

片田さんも、現代人が、「しんどい」、「何をするのも億劫」、「何もする気がしない」と延々と訴える原因は、我々が、今の社会から「常に自発的に行動し、能力を最大限に発揮することを要請されている」ことの裏返しではないかと考えているようです。

そうして精神科医を受診すれば、「あなたは鬱です」と言われ、そこでむしろホッとし、医師から薬を処方され、それこそ自他共に認める正真正銘の病人に仕立てられてしまうというわけです。

薬は鬱を根本から救ってくれるわけではなく、むしろ薬がなければ生きていけない身体にさせられてしまい、鬱病に仕立てられてしまった病者は、薬の副作用に悩むことになります。

また、気力低下などを賦活(ふかつ)してくれるはずのこれらの薬が、時には自殺衝動や攻撃衝動まで賦活させられてしまい、社会的な問題まで起きています。

一方で精神科医は永続的に儲かる基盤ができ、薬の売り上げも爆発的に増加して製薬会社も喜び、花形職業の精神科医にはなりたがる人も増え‥‥と、ますます「鬱全盛」の時代は上り坂でしょう。

どうしてこのような、泥沼のような悪循環が生まれてしまったのでしょうか? 

その原因は、全世界の人類が、本当の自分の姿を何一つわかっていないからです。


僕たち人間は、単に環境に演じさせられているだけのものだったということに、まだ誰も気づいていないからです。

それは医者と言われる人たちだって例外ではありません。

政治家だって、エコロジストだって、評論家だって、学者だって‥‥どんなに偉い人だって、みんなみんなその人を取り巻く環境に演じさせられ、しゃべらされているだけのものだったことに、誰一人気づいていないからです。

以前、この宇宙のあらゆる事象を科学的に(=自然界中心に)整理していった結果、次の二点にたどり着いた分身主義のお話をしましたね。

❶この宇宙は、素粒子たちが自然界の法則というシナリオに基づいて演じさせられている劇場である。

❷その素粒子たちの振る舞いによって、長い年月をかけて作られた僕たちの脳は、個人の持ち物でもないし、個人の意識でどうにかなるものでもない。

僕たちは決して自分の意思で動いているのではなかったことを、理解していただいていますか?

例えばある時代、若者たちが「自由」「解放」を叫びましたが、それは、若者たちが偉かったからでも先見の明(めい)があったからでもなく、そのように叫ばされるような環境に生きていただけだったのです。

分身主義の言葉で言えば、そのように「ビッグバンから吹き続けている風に背中を押された」のです。

そしてそれによって結果的には鬱が増えたのも、鬱病という言葉が生まれたのも、精神科医が増えたのも、みんなみんな僕たちの環境が作っていただけだったんです。

もっとも今「先見の明」などという言葉を使いましたが、自分と違ってそのような能力の優れた人がいるなどという考え方は、これからは改めるべきです。

分身主義は、たった一人だけの天才も、たった一人だけの落ちこぼれも、たった一人だけの英雄も、たった一人だけの犯罪者も作りません。
天才も落ちこぼれも英雄も犯罪者も、一人だけの力で作られるものではないことを知っているのが分身主義だからです。

天才も落ちこぼれも英雄も犯罪者も、それはこの宇宙に存在するありとあらゆるものの総力の結集で作られ、ありとあらゆるものの分身として、そこにいます。

いいですか!?

鬱病という言葉だって、精神科医だって、それはこの環境(社会と言ってもいいです)によって、産み落とされているだけのものだったんですよ。

そのことに、僕たち人類が気づかない限り、永遠に悪循環は繰り返されます。

そのことに気づかない限り、この社会に蔓延(まんえん)している全ての悪循環は繰り返されます。

例えば、もし本当の医者というものがいるなら、彼は全ての人の病気が治ることを願っているはずなので、いつか自分が必要でなくなる日が来ることを夢見ているのが本当の医者ではないでしょうか?
また、もし本当の警察官というものがいるなら、彼はこの世から犯罪がなくなることを願っているはずなので、いつか自分たちが不要になる世界が来ることを夢見ているのが本当の警察官ではないでしょうか?

しかし実際には、病気がなくなれば困る医者や犯罪がなくなれば困る警察官がいるだけです。

極端に言えば、今では、医者も警察官も病気や犯罪がなくなって欲しくないし、なくならないような社会をみんなで作り上げているようなものです。

つまり、どんなことをしてもこの社会から悪循環がなくなることはなく、ますますこの社会は悪い方向に進むだけです。

僕たちがそこから抜け出せないのは、「自分」というものを何一つわかっていなかったからです!

片田珠美さんは言います。「うつというのは、これまでのあなたの生き方を続けていたらしんどいですよ。このままではダウンしますよ、という信号である」と。

違います!

そうではないんです!

そのように考える僕たちだから、その先に進めないんです!
「あなたの生き方」などというものは、どこにもなかったということに、もう、人類は気づかなければいけない時にきています。

あるのは「環境に生かされているあなた」だけです。

誰も自分の意志で自分の生き方を選択していたわけじゃなく、環境がその人にそのような意志を浮かび上がらせ、生き方をさせていたのです。どんなに貧しい人もどんなに裕福な人も‥‥。犯罪者も英雄も‥‥。学者も政治家も‥‥。あなたも僕も‥‥。

そのことが理解できない限り、人類は決して鬱から解放されはしません!

鬱とは、決して一個人の脳の問題なんかではなくて、その脳を取り巻く環境が作っている現象です! 

同じように、医者と呼ばれる人も自分の意志や努力でなったのではなく、その脳を取り巻く環境に難しい勉強をさせられ医者にさせられていたんです。
だって、その人の脳を取り巻く環境に医者も大学も勉強もなければ、それにそのようなことに興味を持つような環境にいなければ、やらされていないはずでしょう!?

つまり、人類が言葉を獲得したことで《幻想》の脳を持つことになり、それによって、病気という概念(=幻想)が生まれ、患者という概念(=幻想)が生まれ、医者という概念(=幻想)が生まれたわけで、医者と呼ばれる人は、患者と呼ばれる人の鬱を治していたのではなく、患者と呼ばれる人と一緒にこの社会を作る環境となって、鬱を作り上げていたのです!

その証拠に、自然界で「自然そのもの」に生きる動物たちの前に、医者や患者や、あるいは大臣や犯罪者を連れて行っても、それは決して医者でも患者でも大臣でも犯罪者でもありません。

僕たちが今感じている現実とは、言葉という《幻想》の脳を持つ人間だけが、つまり、この宇宙という自然界から唯一はぐれてしまった人間だけが作り上げている、錯覚の世界の物語でしかありません。

自然界の中で唯一「自然そのもの」として生きれなくなってしまった我々人間は、今では自然界からはぐれてバラバラにされてしまっただけでなく、一人一人が自我という錯覚にがんじがらめに縛られています。

それはまるで、宇宙という夏みかんの皮をむいて一房一房バラバラにした後、干涸(ひから)びさせてしまったようなものです。

この環境のことを、分身主義では「個人主義的な環境」と呼びます。

先週、「この身体がスキップができないように押さえつけられていて、幸福感を感じろと言うのは無理な話だ」と書きましたが、実は、今の僕たちの個人主義的な環境が、ちょうどこの脳の状態と同じだということに気づいていただきたいと思います。

「自由」や「解放」を叫ぶことから生まれた個人主義的な環境ですが、それは今ではむしろ、自分のことは自分で守り、自分の食料は自分で確保しなければならないという、過酷な自己責任と過激な競争を要請してくる環境になってしまいました。

そのせいで、むしろ個人という一つ一つの神経細胞が発火されにくくなり、しかもそれは、インターネットと同じようにネットワークで成り立っているはずのこの脳が活性化されない状態を作り出し、《共感》という名の幸福感を作りにくくしています。

個人主義的な環境こそ、鬱を作る社会の代名詞だったとも言えます。

まさに、鬱とは、人類みんなで畑を耕し、種を撒き、肥料を与えて大切に育て上げてしまった大木です。

生まれるべくして生まれていたのです。

今のあなたにどんなものよりも優れた薬を処方しましょう。
それがこの《共感》です!

《共感》さえあれば、世界中の鬱は魔法にかかったかのように消失します。
《共感》は死の恐怖よりも強いもので、それこそ初めにお話した生老病死という四つの苦しみなど物の数でもありません。

これがあなたに知っていただきたかった分身主義というものだったのです。
もしあなたが、何を見ても無感動になっていたり、何もやる気が起きないくらいに気分が落ち込んでいるなら、この個人主義的な環境が作ってしまった医者などに相談に行くことはやめてください!

この個人主義的な環境が作った医者は、「鬱病は個人の脳の問題である」という考え方が元になって生まれた、個人の脳を改善するための「抗うつ薬」なるものを、自分や病院という個人の利益のために大量に処方するでしょう。

あなたの話などほとんど聞いてはくれずに、マニュアルに基づいて‥‥。

この脳は自分の持ち物でも自分の力でどうにかなるものでもありません。僕たちの脳はみんなつながっています。
そのつながりがうまく働かなければ、僕たちの心は幸福を感じることができません。

必要なのは共感です!
それさえあれば、人間はどんな恐怖もどんな不安も乗り越えて行けるのです。

しかし医者は、個人の脳を治そうとするばかりです。

場合によっては、その脳を隔離(かくり)したりします。
こんな医者や科学者が本当の科学をやっているとは、とても言えません。
あなたは、それらのことから一切離れて、今すぐやらなければならないことがあります。

世界中、足を棒にして歩き回って、自分に一番ふさわしい最も有能なカウンセラーを、ご自分で探し出すことです。

あなたの話にちゃんと耳を傾けてくれて、あなたが一番聞きたかったことにちゃんと答えてくれる、本当のカウンセラーを今すぐ探し出すしかありません。


一週間待ったが彼女からのメールは来なかった。
なんとなく、もう彼女からのメールは来ないだろうという予感がした。そして、僕のメールもこれが最後になるだろう。


🔖「最後のBメール・自分という分身」

この一週間のうちに、あなたからのメールが来なかったのは、ちょっと淋しく思います。
せっかく「苦悩を受け入れる勇気を持とう」という気持ちになってくださったのに、その気持ちをくじくようなことを言ってしまったし、それだけでなく、あなたをますます混乱させてしまったのではないかと案じています。

共感こそが鬱を消し去る魔法だと知ったところで、あなた一人からの共感を得る術すらも知らないようでは、なかなか困難な魔法です。

だけど僕の言うこの《共感》という魔法は、共通の故郷、共通の宗教、共通の趣味‥‥などを持ったもの同士で感じるような、要するに、閉じられた仲間意識などから生まれるような「共感」ではなく、会ったこともない人たちが、たとえどこにいようといつも感じている一体感のような「共感」のことで、これはまだ世界中の誰一人として体験したことはないものです。

全人類が分身主義を知った時に初めて効果の出る魔法だから、この程度のことでへこたれている場合ではありません。

そのためにも、最初はほんの数人でもいいから、分身主義をわかってくださる人が必要です。
あなたにその一人になっていただきたいという強い思いから、あのような混乱させてしまうメールを書いてしまったのです。

恐らく、このメールがあなたに書く最後のメールとなるでしょう。

もう一度、この前のメールをゆっくりと読み返して、分身主義について考えていただければ嬉しいのですが‥‥。
それでももし、あなたには分身主義というものが受け入れられないとしても、分身主義は決してあなたを見捨てたりしませんからご安心ください。

その逆に、もし、あなたが分身主義を理解してくださったとしても、あなたはそれでもまだ不安の中にいるかもしれません。

あなたは恐らく、全人類が《共感》という魔法を手にすることは永久にあり得ないことだと感じることでしょう。
僕にはそれは少しも不可能なことだとは思えないのですが、それは僕が想像しているだけの話ですから、あなたが不可能だと思う気持ちは僕にも変えられません。

でも、僕たちが生きている間には、世界中の人が分身主義を理解することが無理であって、僕たちが、分身主義の求めている《共感》という魔法を手にすることもできないとしても、それでも分身主義は、十分、今のあなたの救いになってくれるはずです。

もしあなたが分身主義を理解してくださったのなら、あなたがご自分の人差指を内側に向けてグルリと一周させて示した「あなたの身体」は、あなたの最も身近な「分身」だったことに気づいていただけるでしょう。

それを知るだけでも、あなたは救いの中にいます。

前回、「あなたに最もふさわしい有能なカウンセラーを求めて、世界中を自分の足で歩き回って探すべきです」と書きました。

その人を探す目安は、当たり前のようですが、まず第一に、あなたの話を親身になってよく聞いてくれる人です。
有能なカウンセラーの第一条件は「聞き上手」ですから。
普段誰にも言えないようなことまで、まるで催眠術にかかったみたいに、その人の前ではペラペラとしゃべらされてしまうでしょう。

だけど、ただ親身に聞いてくれるだけでなく、何時間でもあなたの気が済むまで話に付き合ってくれなければ失格です。

もし30分くらいで、「だいたいわかりました。ではまた一週間後来てください」などと言われたら、それはあなたの探している人ではありません。
あなたは一週間後会いに行く代わりに、一刻も早く、あなたの本当のカウンセラーを探しにその場所から旅立つべきです。

第二に、あなたに薬など何一つ処方しない人です。
たとえ、話をよく聞いてくれたとしても最後に薬を処方したなら、その人もあなたの探していた人ではありません。
もっとも薬に頼るような人は、初めからあなたの話を聞く態勢には入っていないでしょう。

彼に必要なのは、マニュアルのどの薬を処方するかの情報をあなたから引き出すことであって、あなたの生きてきた環境や人生観などはほとんど不要です。

もしも幸運なことに、あなたに最もふさわしい有能なカウンセラーにあなたが巡り会えたなら、医者が注射器であなたの身体から血液を吸い取って検査するように、あなたの記憶の引き出しの奥の奥にしまいこまれた過去の出来事やそれに伴う感情を、どんな細部も見逃さずにその人は吸い取るでしょう。

その人は深い洞察力であなたの嘘も誇張も全て見抜いてしまいますが、あなたに対して否定的な言葉は一切言いません。

そしてあなたが話し終えたのを見計らって、あなたが一番喜ぶ言葉を投げかけてくれるでしょう。

「つらかったわね‥‥。よく頑張ってきたよね‥‥。偉かったわ‥‥」

あなたの話に同情してくれたその人の短い言葉は、神の啓示のようにあなたの心に響き、ただそれだけであなたは、今までの緊張がスーッと溶けていくかのような深い安らぎを感じるでしょう。

試しに、その人が困るような言葉を言ってみたらどうでしょう。
「死にたい‥‥」と。
たぶんその人は、それに対しても少しも驚いたそぶりを見せず、否定的なことも言わないでしょう。

「うん、もう、あなたは十分頑張ったわ。本当にそう思うなら、死んでもいいのよ」とさえ言ってくれるかもしれません。

だけど、それを聞いてうろたえているあなたに向かって、そっと両手を取って言うでしょう。

「でも、あなたはどんなことをしても、自分で自分の命を絶つことはできないはずよ。そもそも、あなたは自分の力で生きていたわけではなかったの」


あなたはその時、今まで生きてきた中で一度として目にしたこともないような、深い慈悲と慈愛にあふれた微笑みをそこに見ることでしょう。

「それに‥‥、あなたにはまだ死んでほしくないわ! やっとこういう形で、あなたと私が出会えたんじゃないの!?」

、、、、、

気がつきましたか!?

その世界一有能な、世界一あなたにふさわしいカウンセラーとは、あなた自身だったのです!

あなたを押しつぶそうとする大きな悲しみや、誰にも肩代わりしてもらえない苦しみや、どこに逃れてもどこまでも付いて回る悩みから救ってくれるものは、精神科医でも薬でも宗教でもありません!

それは自分の真の姿を知ったあなた自身です。
ビッグバンという産声を上げてから今まで、その140億年を生きてきた宇宙こそあなただったんです。

今、視点を変えてみてください。

宇宙そのものである「あなた」の目の前に、昨日までの小さなあなたが立っています。
世界一有能な、彼女のカウンセラーである「あなた」は、今こそ彼女に向かって言ってあげて下さい。

「こんにちは、わたし!」

驚いて眼をパチクリさせている昨日までのあなた向かって、ゆっくりと語りかけてあげて下さい。

こんにちはあたし3


「こんにちは、昨日までのわたし! あなたにしかできない人生を、みんなの代わりにやってくださっている、全人類の誇るべき分身さん!」

長い話を終えた昨日までの小さなあなたは今、まるで、生まれたばかりの宇宙そのもののように輝いてそこに立っているはずです。

そこには、あなたの環境でしかできないことを、全ての分身の代表として見事に演じているあなたがいるではないですか!?

格好悪くたって、格好良くったって、英雄だって、犯罪者だって、たとえどんな人であったって、それはあなたの環境でしかできないことを、あなたは、みんなの分身としてやってくださっているじゃないですか。

眩(まぶ)しくてもしっかりと見つめてあげてください!

昨日までの小さなあなたは、もう、「悩む人」とか「悩まない人」とか、「死ぬ」とか「生きる」とか、そんな言葉すらはるかに超越した場所で輝いているじゃないですか!?

その人こそ、あなたの一番身近にいたのに少しも気づかなかったあなたの、いえ、この宇宙に存在するみんなの分身さんです。

今は、自分の真の姿(=全身)を知ったあなたと、自分の真の姿(=全身)を知った僕だけが、確かにその存在を感じることができる、大切な大切な、僕たちの分身さんです。

これがあなたにわかっていただきたかった分身主義です。

これがあなたにわかっていただきたかった分身主義のすべてです。


あなたへのメールもこれで最後になると思います。
でも、たとえ僕がどこにいようと「自分の真の姿」を知った人間があなた以外にもう一人ここにいることを忘れないでください。

「自分の真の姿」を知った人間が自分以外にもいるということは、きっと僕たちの心の支えになるでしょう。
僕たちはまだ完成されていないジグソーパズルの一つ一つのピースです。
でも、少なくとも、完成された自分の姿(=この宇宙そのもの)を感じているピースです。

僕たちの距離が離れていれば離れているほど、同じ一つのものを感じている心の存在を、より遠くに、より大きく感じることができて、喜びが一層大きくなります。僕たちが感じているものが間違いなく真実の自分の姿である限りは、必ずや、このジグソーパズルは完成する日が来ます。

これが科学が導いてくださった真実である限り、このパズルが完成して、世界中の人が一人残らず手をつなぐ日はきっときます。

その時は、世界中の人の心の中から不満も不公平感も跡形もなく消え去り、誰もが仲良く生き、祝福の中で死んで行ける、本当の平和な世界になっています。

その日のことを想像すると、もう喜びはこの宇宙いっぱいにはちきれそうじゃないですか!? この宇宙いっぱいに‥‥!?

だけど、当たり前でしたね。
だって僕たちはこの宇宙そのものだったんですから。
あなたが僕を見る時、僕があなたを見る時、同じ一つの宇宙を見ていたんですから。



今の僕は、あなたがどこにいようと、この宇宙がある限り、決してあなたからはぐれることはありません。
もしあなたが、分身主義を知ったなら、この宇宙がある限り、決してこの自然界の全てのものから、あなたははぐれることはありません。

たとえあなたが今まで「自分」と呼んでいた、あなたの分身が死んでも‥‥。

科学が、あなたの真の姿とは、この宇宙であったことを教えてくれたからです。


  ~ おわり ~


画像14

★★★   関連記事(保存版) ★★★
📌分身主義とはジジイの遺言書-10-
📌真の科学とは何か?ジジイの遺言書-7-
📌個人主義から分身主義へジジイの遺言書-8-

★★★   未来モデル小説   ★★★
ブンシニズム・ドット・ネット
人類が「科学的覚醒」を果たして、「個人主義の《環境》」から「分身主義の《環境》」に移行した未来の世界を感じてもらうために小説にしました。
お金も武器もなくなった世界なので、誰もがボランティアのように自由に働きながら世界を行き来して、行く先々で出会う人たちと交遊して人生を楽しみ、生だけでなく死も大切にする人たちの物語です。
実現可能な平和な世界。実現の願いを込めて描いた未来の世界です。

画像15






長い文章を読んでくださりありがとうございます。 noteの投稿は2021年9月27日の記事に書いたように終わりにしています。 でも、スキ、フォロー、コメントなどしていただいた方の記事は読ませていただいていますので、これからもよろしくお願いします。