論考『ハラリと落合陽一 ーシンギュラリティ批判ー』を読む
本日は、文藝春秋2022年5月号に掲載されている、東浩紀氏の論考『ハラリと落合陽一 ーシンギュラリティ批判ー』(P344-355)の読書感想文です。愛聴しているVoicyの"荒木博行のbook cafe"2022年5月6日放送分で紹介されていて、どんな内容なのか興味を持ったので、購入して読んでみました。
共産主義に代わる情報技術
東浩紀氏(1971/5/9-)は、2000年代以降に台頭し、その発言が注目されている気鋭の批評家です。本稿は、2022年秋に発刊予定の雑誌『ゲンロン13』に収録される予定の論考の一部を抜粋したもののようです。
私にとっては、非常に判り易い主張が展開されています。冒頭に、世界を襲ったパンデミックの混乱を総括して、論考をスタートさせています。
東氏によれば、
となります。とても、わかりやすい整理だと感じました。
落合陽一・ハラリの倫理的な問題
東氏は、2010年代に強い影響力を持った人物の代表として、落合陽一氏とユヴェル・ノア・ハラリ氏の思想を取り上げています。
落合氏の『デジタルネイチャー』という著作で語られる、ひとにぎりの先進的な資本家=エンジニア層(=AI+VC層)と残り大多数の労働から解放された大衆層(=AI+BI層)に分裂する、という未来社会像に疑問を投げ掛けています。そこには(優秀ではない)人間こそが、機械を中心とする理想的な世界観の実現を邪魔するノイズになる、という乱暴な排除の思想が包含されていることを指摘しています。その批判の矛先は、落合氏個人にではなく、彼の提示するヴィジョンを疑問なくすんなりと受け入れてしまっている人々が多数いる、という状況に向けられており、そうした状況に警鐘を鳴らしているかのようです。
また、ハラリ氏の世界的ベストセラー作品『ホモ・デウス』の、ひと(ホモ)の歴史は神(デウス)の実現に向かっている、という思想の方向性にも同じく警鐘を鳴らしています。ハラリ氏は、技術万能主義者ではないし、シンギュラリティにはむしろ批判的な立場であるにもかかわらず、カーツワイル氏(シンギュラリティという言葉や思想が注目される契機を作ったアメリカの未来学者)や落合氏の描く未来像と、ハラリ氏の世界観は、似たような構造を持っており、出発点の現状認識がそもそも夢想的ではないか?という疑念を、東氏は呈しています。
人間はそんなに簡単には変化しない、という現実を軽視し過ぎではないか、という視点を喚起しているように思います。
東氏の批判は、漠然とですが、主知主義的な鋭さを緩め、主意主義的な寛容さを纏うように促しているように感じました。
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