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『補欠廃止論』を読む

本日紹介する読書感想文は、セルジオ越後『補欠廃止論』です。

日本サッカー界のご意見番

セルジオ越後氏(1945/7/28-)は、日系ブラジル人(二世)の元サッカー選手です。Jリーグは発足する前の日本リーグで活躍しました。今では、サッカーファンなら知らないものがいない辛口の解説者・評論家として有名です。サッカーのみならず、プロスポーツ全般にも造詣の深い人です。

『補欠』はいらない、に激しく共感する

私は、「子どものスポーツの世界に『補欠』はいらない」という著者の主張に100%同意します。のみならず、大人の世界でも『補欠』は許されるべきではないと思っています。

本書で議論の対象となっている『補欠』とは、チームに所属していても試合に出られる可能性が全くない選手のことです。常時試合に出続けているレギュラーではなくても、ベンチ入りはしていて、交代機会を待つ控え選手(リザーブ)とは別の概念です。

スポーツは、試合に出てプレーをして楽しむべきものです。持って生まれた素質の違いで、技術の習得度合いや能力にレベルの違いがあるのは仕方がありません。だとしても、プレーする機会さえ奪われた状態に留め置かれる子どもが、心からスポーツを楽しめると私には思えません。

著者は、日本の学校スポーツの現状とルールを定めているスポーツ協会が、補欠制度を生み出す土壌になっていると指摘します。補欠の立場でもめげずに頑張る姿を褒め讃える世間の風潮も、思考停止的な我慢や下積みを美化する価値観に繋がっているとも言います。

我慢や下積みの経験は、自分の目指す成功を掴み取る為には避けて通れないものかもしれません。ただしそれは、将来の可能性が開けている場合にのみ正当化される言い分の筈です。

指導者が、競技者として全く試合に出られる可能性のない子どもを補欠という立場に押し込んで、拘束し続けるのは、その子の自己肯定感を下げるものにもなりかねません。本来楽しい筈のスポーツ、自分が好きではじめたスポーツが挫折経験となって、人生を歪めてしまう引き金になってしまうのは悲しいことです。

異文化の発想

本書には、他にも教育についてのヒントが至るところに見られます。生粋の日本人教育を受けていない人特有の視点かもしれません。

● サッカーW杯優勝国にはキリスト教のカトリック教会を信仰している国が多い。
● 日本はスポーツに関しては、強豪国の真似をしないといけないレベル。
● スポーツや研究の分野で外国から日本に来た人は少ない。

人生が補欠でいいわけない

繰り返しになりますが、私は日本では正当化されがちな補欠制度について納得ができません。自分を補欠扱いするような組織からは遠慮なく飛び出します。

スポーツには人生を豊かにする力がありますし、スポーツを通して、人生を愉しむ権利があります。試合という晴れ舞台でプレーすることすらも許されないような環境に身を置いていては、経験が一向に広がりませんし、スポーツの持つ醍醐味も味わえません。

極端な意見だと自覚していますが、補欠に甘んじることに安住してしまう生き方は、私の目指す生き方ではありません。

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