人々を飢饉から救い、福をもたらす漂着神「鯨」 - 『神々の意思を伝える動物たち 〜神使・眷属の世界(第五十四回)』
「神使」「眷属」とは、神の意思(神意)を人々に伝える存在であり、本殿に恭しく祀られるご祭神に成り代わって、直接的に崇敬者、参拝者とコミュニケーションを取り、守護する存在。
またの名を「使わしめ」ともいいます。
『神々の意思を伝える動物たち 〜神使・眷属の世界』では、神の使いとしての動物だけでなく、神社仏閣に深い関わりのある動物や、架空の生物までをご紹介します。
動物を通して、神社仏閣の新たなる魅力に気付き、参拝時の楽しみとしていただけたら幸いです。
鯨と日本人
鯨と日本人の関係は、縄文時代にまで遡ることができます。
縄文時代の遺跡からは、鯨の骨や、それを食器や服飾品などに加工したものが出土しています。また、その脊椎骨は土器の製作台としても使われていました。
これは縄文人が鯨を食料としていた証拠でもありますが、大型の鯨を海に出て捕獲していたとは考えにくく、死んだり、傷付いて海岸に漂着したり、沖に漂流している個体を引き上げるなどしていた可能性が高いとみられています。
このように漂着した鯨を「寄り鯨」などと呼びますが、古くは「寄り神」とも呼ばれていました。
その肉は食料として、骨は生活用品にと、無駄なく使え、一頭の大型の鯨が漂着すれば、村全体が潤ったため「鯨一つ捕れば七浦潤う」「鯨 寄れば 七浦賑わう」(一頭の鯨が漂着すると、7つの村が潤い、多くの民衆がその恩恵を受け取ることが出来る、という意味)などの諺も残っているほどです。
漂着により村に恩恵をもたらす鯨は、次第に神格化され、「えびす」と習合し信仰の対象になります。
伊邪那岐命(イザナギノミコト)、伊邪那美命(イザナミノミコト)の間に生まれた最初の神である「ヒルコ」は不具の子であったため、葦船に乗せられオノゴロ島から流されました。
海上を漂ったあと、摂津国に漂着(日本各地に漂着伝説が残る)したところを信仰心の厚い漁師によって丁重に祀られたのが、えびすでした。
こうした謂れもあり、古の人々は漂着物や海の向こうから渡来してくるものは福をもたらす存在であると考え、漂着神(寄り神)、渡来神として崇め、鯨と同一視したのです。
鯨と所縁ある神社仏閣
海堂神社
長崎県の上五島町に鎮座する「海堂神社」には、ナガスクジラの顎の骨で造られた鳥居があります。
有川(現在は、若松町、上五島町、新魚目町、奈良尾町と合併して上五島町となる)は、捕鯨が盛んな町として知られており、各所にかつて栄華を誇った捕鯨産業の文化遺産が点在しています。
鳥居の高さは、4m45cm。昭和43年、東シナ海で捕獲された体長18.2mのナガスクジラの顎の骨が使われています。
以前は3対の顎の骨と、扇形をした「ひれ」の鳥居があったそうですが、現在は腐食してしまい、この鳥居を残すのみとなっています。
上五島町では、毎年7月の第4日曜日に海堂神社をはじめとする10の神社で「十七日祭り」が執り行われています。
元和3年(1617年)から元和5年(1619年)にかけて、毎年6月17日になると、この辺りの海では溺死する者が相次ぎました。
村の人々が恐れていると、時の乙名役(村落内の有力な名主のこと)高井良福右衛門の夢枕に海神様が立って、「私は長くこの地に住んでいるが誰も祀ってくれる者がいない。これから私を祀る者がいれば、願いを何でも叶えよう」と語りかけたのです。
お告げ通り、石の祠を作り海神様を祀って、にわか芝居を奉納したところ、水難事故はなくなったといいます。
以来、水難事故防止の祈願を込めて山車を引きながら町内を練り歩く「十七日祭り」が伝統行事として続けられています。
金剛寺
愛媛県西予市の「金剛寺」には、「鱗王院殿法界全果大居士(りんおういんでんほっかいぜんかだいこじ)」という立派な戒名を持った鯨の墓があり、地元では「鯨様」と呼ばれ親しまれています。
天保8年(1837年)6月21日、村人が飢饉で苦しみあえぐ中、大きな鯨が獲れます。このことによって村人は飢えから逃れることができ、感謝を込めて金剛寺で盛大な葬儀が催されたのです。
喪主は都屋吉右衛門という人で、龍華山等覚寺の丈獄和尚が戒名をつけたといわれます。
この前年の天保7年に、時の藩主、伊達春山公の父が亡くなっていたことから、春山公は「父が鯨に転生して飢饉に苦しむ村人を身を呈して救ったに違いない」と考え、大名にしか与えられることがなかった「大居士」の戒名をつけることを思い至ったのだといいます。
鯨と所縁ある神社仏閣
参考文献
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