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日本でもっとも豊かな隠れ里「人吉」・不思議な出会いと、絶対愛

2020年7月3日から4日にかけて、熊本県南部を50年に1度といわれる豪雨が襲いました。

人吉盆地を貫くように流れる一級河川の球磨川が氾濫し、「九州の小京都・人吉」の町は浸水、冠水の被害に遭いました。

新型コロナウイルスにともなう、緊急事態宣言の発令直後に公開した2つの記事。

これらはこの、大きな被害に遭った人吉・球磨地方で起こったことなのです。

人吉は、今は亡き両親の故郷であり、私自身の第二の故郷でもあります。

温泉と清流が自慢の、のどかな城下町。

そして家族との想い出の詰まった、セピア色の町。

そんな、愛おしい人吉の惨状を報道や、ネットなどで目の当たりにして、災害当時は言葉を失い、心を痛めたものです。

今日で災害から3年。

改めて、熊本南部の豪雨災害で、お亡くなりになられた方々のご冥福を心よりお祈りいたします。

そして、3年の間、ご苦労をなさりながらも、町の復興、復旧に頑張って来られた人吉の全ての皆様に心より「お疲れ様でした」と言わせて下さい。

球磨川

人吉の町は、人生の岐路に立たされた時、深く傷ついて立ち上がることを諦めそうになった時に、救いを求めるような心持ちで訪れると、必ず温かな出来事が起こり、私の心に火を灯してくれました。

今日は、そんな人吉の心温まるお話をしたいと思います。

なぜ、このタイミングでこのことをお話ししようと思ったのか、それは最後の章に書いた出来事があったからなのです。



「人吉」は、「人好し」

人吉城址

球磨・人吉地方は、アニメ『夏目友人帳』の舞台にもなっており、劇中に描かれた場所へ「聖地巡礼」と称してたくさんの方々が全国から訪れて下さっているようです。

佐藤健さん主演の映画『るろうに剣心 最終章 The Final/The Beginning』、岸井ゆきのさん、光石研さんらが出演の『おじいちゃん、死んじゃったって。』などのロケ地にもなっています。

温泉地とはいえ、日々観光客でごった返しているといった感じではなく、人通りは少なく、高齢化の影響からか商店街も閉店している店が多い、お世辞にも活気があるとは言えない町です。

ただ私はそうしたどこか垢抜けない、素朴で、郷愁を誘う、静かな人吉という町の風情が大好きなんです。

『夏目友人帳』でも、人吉の町が鮮やかに描かれています。

人の心の中に誰しもある、心の休息地としての故郷(さと)の原風景がそこにはあります。

幼い頃には、父と球磨川でハヤ釣りをし、両親や親戚たちと青井阿蘇神社の「おくんち祭り」の神幸行列を見物したものです。

人吉は、「人良し」「人善し」「人好し」とも言い換えられるくらい、人がとても温かく、気さくで、優しくて、人懐っこい土地柄です。方言のイントネーションにも、それが表れていたりします。

一人で訪れても、町を歩けば、地元の方が気さくに挨拶をしてくれ、温泉に入れば、居合わせた方とつい話し込んでしまい、長風呂になってしまいます。

最初は伏し目がちで照れ臭そうな地元の人も、一度話し始めると古くからの友人や知人であったかのように、話が尽きないのです。

そんな人吉に住む人々のエピソードを、ご紹介させていただけたらと思います。

ある、焼き鳥屋さんとの出会い

導かれるままに

人吉を訪れるのは、いつも人生の岐路に立ったときです。

思い返しても、心を病んで仕事を辞めざるを得なかったとき、大切な友人を亡くして悲しみのどん底に陥ったとき、孤独を感じて、亡くなった両親が恋しくてたまらなくなったとき。そんなときに、人吉という町が私を呼んでくれます。

このときもそうでした。

人吉を訪れた時は、なるべくホテルや旅館で食事をするのではなく、地元の方が行くような小さな居酒屋などに行くようにしています。飲食店が多く集る通りを歩いて、インスピレーションの導くまま、その日の目的の場所を決めます。

ふと、その日はいつもとは少し離れた場所で食事をしてみようと、人吉の町の中心部に架かる人吉橋を渡り、球磨川を超えて永国寺(幽霊の掛け軸で有名な古刹)の方向へと歩きました。

すると一軒だけ、ポツンと赤提灯と、暖簾の下がった焼き鳥屋さんが見えます。周囲には他にお店から漏れてくる明かりも見えない様子なので、これ幸いとその焼き鳥屋さんへ入ることに決めました。

暖簾を手でかき分け、扉を開いて店内に入ると、狭いその店には店主と思しき中年の男性が厨房ではなく、テーブル席にリラックスした姿勢で座り、新聞を広げています。

一瞬「あ!入っちゃいけない店に入ってしまったかな・・・」と後悔しましたが、入ってしまったものは仕方ありません。

店主は、扉の開く音に気付き、両手で開いていた新聞を少し下に下げると、入口の扉の前に立っている私に目をやり、その存在を確認するや否や、ハッとした表情で新聞を慌てて畳んでテーブルに置きました。

そしておもむろに立ち上がり、「いらっしゃいませ!すみません、お客さんがいないんで、くつろいでました」と、申し訳なさそうな照れ笑いを浮かべる店主。

「開いてますか?」と私が聞くと、「は、はい!開いてますよ。どうぞ、どうぞお座りになって下さい!」と、一番奥の4人掛けのテーブルへ案内してくれます。申し訳ないくらい何度も頭を下げるのです。

「いや〜こんな場所でしょ?ご近所の方以外には滅多に一見のお客さんは来ないので、今日は来て下さって嬉しいです!さ〜何にしましょうか、あ〜これはどうですか?」

そして「おーい、おーい、お客さんだぞ!」と、どうやら奥様を呼んでいる様子。

すると奥様が、店の奥にある部屋から出て来て、私の姿を見つけるなり満面の笑顔。

「あら、いらっしゃいませ!」元気な声が店内に響きます。

それから、注文していない料理まで出して頂き、ご夫婦と私の3人で地元人吉の話しに花を咲かせました。初めて会ったのに、馴染みの店か、親戚の家に遊びに来たかのように迎えてくれたご夫妻。

この日は、素晴らしく楽しい夜を過ごしました。

そろそろ夜もかなり更けてきました。名残惜しいですが、宿へ戻ることにします。

「お勘定を」とお願いすると、金額が書かれた一枚の紙を渡してくれました。そこに書かれていたのは、そんな額で良いのかというほどの料金。安過ぎるのです。

「これ、計算間違いじゃ・・・」

「いや、いいんです。来て頂いて嬉しかったのは私達の方ですから。また来られた時にたくさん注文してもらえれば、それでいいんです」

ご夫婦が、楽しそうな笑顔を浮かべて、そのように言ってくださるので、その日は、お言葉に甘えて、お店を後にしました。

店主の心遣い

人吉駅舎

翌日は、福岡へ帰る日です。

帰りの特急までは時間があるので、人吉の町を散策することにしました。昨夜の思いがけない楽しく、温かい宴を思い出すと、足取りも軽やかになります。

ひとしきり散策を楽しんで、人吉駅に着いたのは午後2時くらいだったでしょうか。

駅に入ろうとしたところ、誰かに背後から声をかけられました。

「いや〜、会えて良かった〜」

何と、昨夜の居酒屋のご主人です。

この日に福岡へ帰るとは言っていたものの、何時の特急で帰るとまでは話していませんでしたから、朝から駅前に車を停めて、私が来るのを待っていたそうなのです。

福岡までの長旅でお腹が空くだろうと、朝一番でケーキを買って来てくれていたのです。

「これ、食べてもらいたいと思って」

「ずっと待ってたんですか?」

「いや〜昨日は嬉しかったもんだから、お礼にと思って」

そのご主人の温かさと、人懐っこい笑顔に、涙が溢れそうになりました。

私はご主人に見送られて、人吉を後にしました。


やり取りは続いて...

それ以降、ご主人とは年賀状のやり取りが続きました。ご主人から頂いた名刺の住所宛へ、私がお礼の手紙を送ったのがきっかけです。

年賀状には「また、店に来てくださるのを妻と楽しみに待っています」と毎回書かれています。私もご夫妻の笑顔をまた見たいと、いつも思っていたのですが、なかなか人吉に行けないままに年月は過ぎ去っていきました。

すると、年賀状がある時期からピタリと来なくなってしまいました。気にはなっていても、なかなか人吉に行けずに時間ばかりが経過してしまいます。

やっとのことで数年振りに人吉へ赴き、ご主人を突然訪ねて驚かせようと思ったのですが、焼き鳥屋があった場所は既に更地になっていました。

もう、商売を辞めてしまったのでしょうか。身体を壊してしまったのでしょうか。移転したのか、それとも人吉以外の場所に引っ越したのでしょうか。

私が20代の後半頃の話しなので、お元気なら今、ご主人は70代くらいではないでしょうか。お元気でいてくれているでしょうか。

数年前に人吉を訪れた際に、ふらりと入った居酒屋。店主は地元のことに詳しいということで、この辺りに居酒屋があったはずだと、当時のことを説明すると、他の従業員にも「知ってるか?」と聞いてくださりましたが、誰もこの居酒屋の存在を知りません。

狐につままれような感覚に陥ります。

ご主人にいただいた名刺や、年賀状も、どこを探しても見つからないのです。

あの居酒屋、そしてご主人・・・本当に存在していたのでしょうか。

今でも、当時の記憶だけは、温かく心に残っています。


ある、お婆さんとの出会い

青井阿蘇神社

焼き鳥屋のことは特殊な例かもしれませんが、人吉の人はいつも気さくに声をかけてくれます。ですから一人旅も、こちらが心を開きさえすれば全く寂しくはありません。

こんなこともありました。

ある時、青井阿蘇神社での参拝を終えて、鳥居の前で佇んでいると、1人のお婆さんが歩み寄って来て「どっからきやったとね?(どこから来たの?)」と尋ねて来られました。

福岡から来ていて、実は両親が人吉の出身で、と生い立ちや身の上話をすると、そのお婆さんは、私の背中を温かいその手でさすってくれ、「そうか、そうか、よく来たね。お父さんも、お母さんも喜んでるよ」と涙を流してくださっています。

お婆さんと出会った、青井阿蘇神社の前の通り

私も、ついついもらい泣き。お婆さんは、そのまま私の背中に手を置き、空を見上げて涙を乾かしている様子。それからお婆さんは、ご自身の苦労話や、人吉の町の移り変わりについて、優しい眼差しで話して下さりました。

しばらく会話を交わした後、お婆さんは私の手をギュッと握りしめて、ニコッと笑い一言。

「いつでも、帰っておいでね」

涙を拭いながら、そう言い残して帰って行く後ろ姿を、見えなくなるまで見送りました。

私が人一倍、人吉という地に思い入れを持っているからかもしれないし、出会いの偶然が重なっただけともいえるかもしれませんが、人吉は私にとって本当に「人良し」な場所なのです。

都会で心が疲弊したら、皆さんも「人吉」を訪れてみませんか?その時は、心閉ざさず、思いっきり心を開いて、自分の方から人へ歩み寄ってみて下さい。

偶然、手にした一冊の本

熊本南部豪雨が発生する1週間前、私はある古書店に入りました。

とくに目当ての本があるわけではなく、棚に並んだ本の背表紙を右から左に、左から右に、上から下に、下から上にと眺めて、面白そうな本がないか探していました。

すると、一冊の本が目に止まりました。

タイトルは『球磨川物語』。

葦書房という出版社から23年前に発行された、この本。どうやら初版は1979年に発行されているようで、かなり古い本です。

前山光則さんという人吉の定時制高校の教諭が執筆された、球磨川や、その流域である球磨・人吉地方の歴史、文化、習俗を解説した本なのです。

数ある古書の中から、まるでその本が私にメッセージを送ったかのように、「球磨川」というキーワードが私の目に飛び込んできたのです。

「ゆったりとした風土...」という書き出しから始まるのですが、何しろ筆致が温かく、素朴。

ただの歴史、文化、習俗の解説本ではなく、球磨・人吉地方に住まう市井の人々の眼差しに寄り添った本で、さすが地元の高校教師が書いた本だということが伝わります。

読み進めていくうちに、ハッとしました。

「第二章 城下町・人吉」の、1ページ前。29ページに、前の持ち主のものであろうと思われる、赤字の書き込みがあったのです。

その言葉は「絶対愛」。

第1章の最後のページに書かれた「絶対愛」の文字

この言葉が書かれたページ、前後のページにも、一切「絶対愛」という言葉は本文に書かれていません。本の内容とは全く関係がないのです。

前の持ち主はどんな思いを抱いて、この「絶対愛」という言葉を、この『球磨川物語』の、このページに赤字で記したのでしょうか。

「絶対愛」とは、キリスト教でいう「隣人を愛する」ということ。つまり「アガペー」、神の人間に対する愛、人と人との間での無償の愛を示す言葉です。

神が人を無条件、無制限に愛するように、人も隣人を等しく愛しなさい、という教えが「絶対愛」です。

人吉という心の郷里に思いを馳せる時、私の脳裏に浮かび上がってくるのは、まさに「絶対愛」。

両親の想い出が今も生きる町であり、あの焼き鳥屋さんのご夫婦の愛ある歓迎であり、神社で出会った、お婆さんの私の心を想像してくださった姿であり、人吉という町で出会ったすべての皆さんの笑顔なのです。

そして、私が熊本南部豪雨の1週間前に、古書店で『球磨川物語』という本を見つけて、その中に「絶対愛」と赤字で書かれているのを見つける、この偶然を装った深いメッセージ性。

私の父方の先祖は、分かっているだけでも室町時代からキリシタンでした。ですから、この「絶対愛」という言葉には、より深い意味性を感じてなりません。

皆さん、どう解釈されるでしょうか。

『球磨川物語』の冒頭には、球磨・人吉地方の人々の「人良し」を表すエピソードがいくつか綴られています。

著者の前山光則さんは、民俗学者である宮本常一さんの著書『私の日本地図11・阿蘇・球磨(1972年刊)』から、ある一節を引いています。

人々もゆったり住みついている。このあたりは乞食の多いところだというが、その乞食ももらいが多くて貯金も少なからず持っている由である。最近年老いた乞食が死んだが、何十万とか貯金を持っていたそうである。遺言にその金で乞食が集まってドンチャンさわぎをしてほしいというので、盆地中の乞食が河原に集まって、一晩中河原に大きな火を焚いて飲み食い踊って騒いだという。

*一部、現在では不適切と思われる表現がありますが、原文のまま引用しています。

民俗学者の宮本常一さんが、球磨・人吉地方を訪れたのは、1962年のこと。この私が生まれる9年前には、まだこんな光景が残っていたとは驚きです。

著者の前川さんも、幼い頃に橋の下に住む路上生活をしている方の息子と友達になり、彼らが住んでいた小屋に遊びに行くと、その友達の父親から小遣いとして百円札をもらったことが書かれています。当時の人吉市内の食堂で、肉うどんが十五円ほどであった時代の百円です。

こうした、弱い立場にある人々が、なぜ「ゆったり住みつく」ことができていたのでしょうか。私は、やはりこの地方独特の、寛容さ、心の豊かさにあるような気がしています。

前川さんは、このように結論付けます。

球磨・人吉地方には、よそ者を粗末には扱わぬ気風、あるいはよそ者が上に立っても強くは反発したり排除しようとはせぬ性向があるのに違いない。

「人吉」が俗に「人好し」と語呂合わせされるのも、観光宣伝のためだけでない。

また、急峻な山々に囲まれた盆地に住む、人吉の人々は昔から「よそ者」の身体から発散される、「山の向こう」の文化の匂い、違った生活圏の雰囲気といったものに、無意識のうちに魅かれていた、そうした人々からもたらされる情報をニュース・ソースとして生活に取り入れていたのではないかという考察も書かれています。

私は、完全な「よそ者」ではないものの、今は福岡に住む「半よそ者」。

その「半よそ者」を無条件に受け入れ、歓迎し、涙を流してくれた人吉の人々は、私の大好きな「男はつらいよ」に登場する「とらや」の、寅さん、おいちゃんや、おばちゃん、さくらや、博と重なります。

「とらや」の一家も、旅先で寅さんが出会った人々を、何の疑いも、抵抗もなく、「絶対愛」で受け入れますね。

きっと球磨・人吉地方の皆さんは、隣人を思う、無償の愛、「絶対愛」で、この難局を乗り越え、心の故郷を取り戻したのでしょう。

皆さん、どうぞ球磨・人吉地方へお出かけください。

実は、今も何度目かの人生の岐路に立っています。

また、そろそろ人吉が私を呼んでいる声が聞こえています。


参考文献

『球磨川物語』前山光則(著)葦書房


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