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過去から届いた手紙 〜家族の愛は時間をも超えて〜

自粛生活、リモートワークなど、自宅で過ごすことを余儀なくされる今日この頃。メディアやSNSではネガティヴな情報ばかりが飛び交い、情報過多となって不安な日々を送られている方も多いでしょう。

そんな鬱屈とした毎日の中でも、ちょっとした驚きや、想像力をかきたてる気持ちを少しでも感じていただきたい。そこで、私の身に起こった不思議な出来事をいくつかご紹介させていただこうと思っています。

不思議であり、少し怖さもあるのだけれど、その内側に、温もりや、示唆が内包されている。そしてそれが生きる上での活力や希望につながる余地がある、そんなお話です。

さて、例年ならば桜の舞い散る中をランドセルを背にした新1年生たちが、これから始まる学校生活に夢や希望を抱きながら、新しくできた友だちと楽しげに桜並木の通学路を駆けている季節です。しかし、今年は猛威をふるう新型コロナウイルスの影響によって、その新1年生たちの賑やかな声は聞こえて来ません。寂しいものです。

私の入学式の想い出。

それは40数年前。自宅の門の前で真新しいランドセルを背負った私と、着飾った母は二人並んで妙にかしこまり、1枚の写真に収まったのをよく覚えています。

私は小学校の高学年で母と生き別れており、手元に母の写真は1枚も残ってはいません。母の顔は幼少の頃の記憶のみ。40数年前に一緒に写った、あの入学式当日の記念写真の中の母の顔が、唯一私の心に刻まれた母の顔なのです。


母との別れ

母は私を出産した頃から病気がちとなり、入退院を繰り返していました。母が不在の中で、父は男手一つで大変な苦労をして、私を育ててくれたのです。

最も母の愛を必要とするべき時期に、私は母と一緒にいることができませんでした。私を抱きしめてくれる母の姿ではなく、写真に写った動かない母の姿だけしか記憶にないという事実は、多感な時期の私の心に大きな傷を残したのではないでしょうか。

ほとんど一緒に暮らすことはなかった母ですが、それでも会おうと思えば病院にお見舞いに行くこともできました。1年のわずか数週間の間でも、病状が安定すれば家に帰ってくることだってあります。離れていようとも、触れられなくても、そこに母と子の確かな繋がりはあったのです。

しかし10歳を超えた頃、その繋がりさえも途絶してしまう出来事が起こります。

母の妹夫婦が突然、我が家にやって来たのです。

父を囲んで、妹夫婦はうつむいたまま長い時間、沈黙しています。幼いながらも、大人3人の神妙な面持ちを見て、事の重大さ、何かが起ころうとしている言いようもない雰囲気が分かります。子供にとって、そして母にとっても、岐路が訪れようとしていたのです。

妹夫婦は押し殺したような声で、父に何かを告げています。父は伏し目がちに、黙って頷いています。その後、叔母が私のいることろに歩み寄って来て、このように言うのです。

「お母さんは、叔母さんと暮らすことになったの。お母さんと一緒にいるのがいいか、お父さんと一緒にいるか、この場で決めて欲しいの」

叔母は涙を瞼いっぱいに浮かべ、私の手を強く握りしめています。

私は、頭の中が混乱しましたが、口をついて出て来たのは「お父さんと一緒にいる」という言葉でした。一緒に過ごすことがほとんどなかった母ではなく、いつも一緒にいた父を迷いなく選んだのです。

母側の親類は、入退院を繰り返す母と、多忙を極める父がこれ以上結婚生活を続けていても、子供である私にしわ寄せがきてしまう、そういった配慮があっての苦渋の選択だったのでしょう。最終的には、幼い私に選択を委ねたのです。

「お父さんと一緒にいる」

この言葉の重みを知ったのは、大人になってからでした。どちらを選んでも、父や母のどちらかを傷つける。そして、その人生をも一瞬にして変えてしまう。10歳の私に委ねられた選択肢は、あまりに重た過ぎました。

私のその返事を聞いた叔母は、強く握った私の手を思わずするりと離しました。叔母もきっと動揺したのでしょう。叔母の、私の手を握るあの力強さに、母の私に対する思いが込められていたように感じました。

叔母と会ったのは、これが最後でした。

そして母とも、この出来事以降、会うことはありませんでした。

母の死を知る

生き別れた後、互いに所在を知らぬまま、32年の月日が経ったある日、ひょんなことから私は母の死を知ることになります。

長い年月、母に会ってやることが出来なかった。その行動を取ることが出来なかった。死に目にも会うことさえ叶わなかったことが悔やまれました。

私は母の死を知り、居ても立っても居られなくなりました。生前の母に再会出来なかった罪悪感や後悔の念が日に日に押し寄せて来ます。せめて墓前で手を合わせたい、これまで会ってあげられなかったことを心から詫びたいと思ったのです。

調べて分かったのですが、叔母夫婦は母が亡くなる随分前に先に亡くなっていて、その後は母の一番上の兄(7人兄弟の長男)の元にいたのだと。

それなら叔父に直接、母の墓の所在を聞くほかありません。

勿論、母と生き別れて以来、母方の親戚とは一切の付き合いがありませんし、連絡先なども分かりません。叔父が工場を経営していたことだけは、辛うじて覚えていましたので、ネットを検索して叔父の経営する工場のものではないかと思われる住所を見つけ出したのです。 そしてその住所に宛てて手紙を書きました。疎遠になってしまったことへのお詫び、そして母の墓前に手を合わせたい気持ちを書きしたためたのです。

返事が来るなどという淡い期待は持たないようにしていたのですが、数ヶ月後に叔父から返事の手紙が届きました。

そこには震えるような筆跡で...

「お前が無事に生きていてくれて良かった。涙ながらにこの手紙を書いている」

と書かれていました。

そして便箋の最後には、母が眠る菩提寺の名前が添えられていました。 その手紙を読んで、すぐにでも飛んでいきたい思いで一杯でしたが、多忙だったことと、心に踏ん切りがつかないこともあってすぐには行けないでいたのです。

色あせた手紙

多忙さも落ち着き、母の墓前に向き合う心の準備も整いました。そろそろ墓参りに行こうと計画を立て始めたのは手紙が届いてから数ヶ月後。もう一度、寺の名前を確認しておこうと、叔父から送られて来た封書を机の引き出しから取り出します。

すると封書を手に取った瞬間、違和感を感じました。

その封書は、とてもひどく色褪せているのです。

慌てて封書の中から便箋を取り出すと、まるで古書店の一番上の棚に恭しく飾ってある昭和初期に出版された初版の小説のような、江戸時代の古文書のような、宝物の在り処が記された古地図のような、黄ばんだ風合いで、手にするともろくも崩れ落ちてしまいそうなほどです。

数ヶ月で便箋がこれほどまでに劣化するものでしょうか...

何か胸騒ぎがしてなりません。

私は叔父に会うため、そして亡き母に再会するためにかの地へ急ぎました。

叔父から届いた手紙を手に、菩提寺を探しようやく見つけました。そこには確かに母の名前が刻まれた墓がありました。30数年の時を経て、ようやく母に再会することができたのです。

何度も何度も、繰り返しこれまで会ってあげられなかったことを詫びました。 これまではどこにいるのか分からなかった母。これからは、この場所に来ればいつでも会うことが出来る。そう思うだけで心はフッと軽くなります。本当に救われた思いがしました。

叔父の工場を探して

次は、叔父の工場を探します。

叔父から届いた封書の裏には、工場兼自宅の住所が書いてあります。タクシーをつかまえ、運転手に行き先を告げると、運転手はカーナビにその住所を入力しました。

タクシーの車窓から見る景色は、見覚えのあるものです。ところどころ父や母と幼い頃に訪れた当時の記憶が蘇ります。川に架かる赤い鉄橋の下ではハゼ釣りをし、通りの小さな商店ではアイスクリームを買ってもらった思い出などが、セピア色に浮かんでは消えていきます。

数十分は走ったでしょうか、運転手が「頂いた住所は、この辺りのようですね」と言いながら、タクシーを路肩に停めます。民家もまばらな、静かな山間の町です。

目を凝らして辺りを見渡すと、古ぼけた小さな看板が目にとまりました。そこには叔父の営む工場の名前が書かれています。叔父の工場が見つかりました。そこに隣接するように、叔父家族の住む家があります。

おそるおそる、近付いてみます。

よく見ると、その工場は現在は使われていない様子です。その隣に家もありますが、どう見ても人が住めるような状況ではありません。完全に廃墟なのです。壁はあちこちが朽ち果てており、隙間だらけ。窓は割れ、屋根は今にも崩れ落ちそうです。

「そんなバカな...、この住所から、つい数ヶ月前に手紙をもらったばかりなのに。何かの間違いに決まっている」何が何だか、訳が分かりません。

当惑しながらも、ご近所の方なら付き合いがあって事情をご存知だろうと思い、ちょうど立ち話をしていた高齢の男性お二人に話を聞いてみることにします。

「すみません、あちらの工場に用事があって来たのですが、もう誰もお住まいではないのでしょうか」

「工場?... あそこはもう何十年もやっとらんよ。誰も住んどらん。あんたは知っとるか?」

「いやぁ、もうずっと前にご主人は亡くなって、工場は閉じられとるはずだけど」

私は頭の中が真っ白になりました。

「いえ、つい数ヶ月前に、この住所から手紙が届いたのです!」

...とは言えず「そうですか...」とお茶を濁して、その場を足早に立ち去ったのです。

過去から届いた手紙

叔父から届いた手紙が、黄ばんで色褪せていたことと、叔父が営んでいた工場兼住居が廃墟だったこととが、私の頭の中で一致しました。

私が母の死を知り、母に心から謝りたい、母の墓前で手を合わせたいという一心で投函した叔父への手紙は、どうやら過去に届いたのかもしれません。

未来の私から届いた手紙に、叔父は何の疑問もなく応えてくれた。過去から届いた手紙は、机の引き出しにしまわれている間に、数十年の時間を取り戻したせいで、あんなに色褪せてしまった。 私には、そうとしか思えないのです。

叔父は、私を母と引き合わせたかったのでしょう。そして母も、愛する我が息子を抱きしめたかった、触れたかった。私、叔父、母のそれぞれの思いが絡み合って、この奇跡のような時間の概念を超えた不思議な出来事が起こったのだと思います。

母は、昭和7年生まれ。高等女学校を卒業して、大手化粧品会社の美容部員としてデパートで働き、結婚を機に歌人になり、40歳で私を出産。美しく才女だった母。

母は、若い頃に思い描いた理想的な人生は歩めなかったかもしれませんが、私に確かな愛を残してくれました。人は例えその身が離れていたとしても、そして生きていようと、死んでいようと、奇跡を起こし得るような愛を人に届けることが出来るのだということを実体験を通して知りました。

過去から届いた手紙は生涯、私の宝物であり続けます。

新型コロナウイルスのパンデミックによって、当然のように今日も明日も存在していてくれるはずだと信じて疑わない愛する人が、突然去ってしまう過酷な現実を今、私たちは生きています。

私も、志村けんさんの死に愕然とし、立ち尽くしました。

しかし、志村けんさんの残した「笑い」にかける情熱と、人や動物、生きとし生けるものに対する深い優しさと愛情は、これからもこの世界にたくさんの奇跡を振りまいてくれるはずです。

そして、あなたの愛する人も、きっといつかあなたに生涯の宝物をくれます。

私の、母や叔父のように。

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