誰かの身になって考えられるということ:eläytyä
eläytyä:empathise、共感、その人の立場になって考えること
このコロナ禍において気づいたのだが、私はどうやら他人に感情移入しやすいらしい。(ただし、自分と似たような境遇にいる人や自分のかなり近しい存在の人限定。詳しくはこちらの、3月19日の項を参照のこと)
今日、5-6年くらいずっと話していない友人から連絡がきた。その友人から誘われて急遽電話で話すことになった。
その友人は「だいじょうぶかな、私話しすぎてないかな」と気にする私のことを「それ気にしすぎだよ!」と笑い飛ばしてくれて、私のとりとめのない話をずっと聞いてくれた。いろいろ、温かい言葉もたくさんかけてもらった。
その話の途中で、それぞれの反抗期について話すことになった。その友人の話を聞きながら私はなんだか泣きそうになってしまった。その友人の話(抱いていた感情)と私のそれと少し重なるところがあったからかもしれない。(『泣くとこじゃないよー!』と友人は明るく笑いとばしてくれた。)
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また別の、10年くらい話していない親しい友人と最近ラインでよくやり取りをしている。その人に昨今の事情で日本に帰されてしまった交換留学生たちのことを悔しいと思うという話をしたら、「感情移入しやすい性格は苦しいかもしれないけど、まりのがそういう性格だから、交換留学生たちもまりののことを頼りたいと思うようになったんじゃないかなあー」というような主旨のことを言ってくれた。
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私はどうやら、感情移入しやすい性格であるようだ。感情移入して苦しくなるだけで、誰の役にも立てないなら、こんな感情いらないと思ったこともある。でも、今日友人たちと話していたら「それも自分のいいところなのかなあ」という気がしてきた。
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『相手の気持ちになって考えること』エスノグラフィーの基本だ。修士一年目の、エスノグラフィーの授業でそう教わった。(量的調査法のいくつかある授業のうち一つが選択必修で、エスノグラフィーの授業だったのだ。)調査する主体をただ観察対象として眺めるのではなく、理解したいと思う人々と同じ目線で同じ景色を一緒に眺めるということ。
そんな、エスノグラフィー的な手法を用いた私の修士論文は、指導教官の先生にもとても良い評価を頂いた(正式な評価はまだ頂いていないけれど)。その話を今日の夕方、ユバスキュラで仲良くさせてもらっている友人とお話ししたら、その方はそのことをとても喜んでくれた。
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心許せる方たちと、しっかり話すことは必要だ。一人でいると不安にさいなまれてしまうから。物理的な距離をとっても、心理的な距離はとらないようにしようと思った。
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今日もどうにか#30dryc を続けることができた。
この動画にもあるように、今日はうどんを打った。
今日は一日二回うどんを打った。一回目打ったらおいしくできたから。ポイントは生地を伸ばすとき、打ち粉をしっかりすることだろうか。そうすると、麺同士がくっつかず、上手にゆでることができる。
昼のうどん。担々麵風の汁でいただいた。
夜のうどん。友人からいただいた鍋キューブを使った。
いずれも見た目が映えない。おいしいけど。
フィンランドの家庭には大体どこにでもある、生地等をこねる台がついた引き出し。
こうやって取り外してつかったり、洗ったりできる。これフィン語でなんて言うんだろう…。
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今日は久しぶりに人とたくさん話したので眠たい。心地よい眠気という感じ。
おやすみなさい。
ヘッダーの写真は、手打ち麺をゆでている様子。このレシピを参考にした。
そんな、皆様からサポートをいただけるような文章は一つも書いておりませんでして…