見出し画像

心の帰る場所


あったかくて、心地よくて、自分が自分であっていい場所、許されている場所


生まれてから小学校低学年くらいまで私にとってのそんな場所は”家族”だった。



家に帰ればいつも母の作ったご飯があって、他愛のない話で家族みんな笑ってて、そこはなんとも言えないあたたかい空気で包まれていて


自分のことも優しく包んでくれた。



外で嫌なことがあって傷ついたとき、落ち込んだとき、悲しくなったとき


そんな優しい場所にすぐに帰ることができた。



許されて、元気になって、よし頑張るぞってまた出発していった。


何度も何度もそうしていた。



自分にとって“帰る場所“は当たり前のようにすぐそばにあって


そしていつまでもずっと変わらないと思ってた。




いつまでもずっと。




でも、いつのまにか無くなってしまった。





いつからか居間に家族みんなが集まることはなくなった。


家の中は重たく冷たい空気が漂っていて


父と母はお互いの顔を見ないように常に別々の部屋で生活していて


私は彼らの伝言係謙愚痴のはけ口になっていた。


家族みんなバラバラになって


あのあたたかな空気はどこかに行ってしまったみたい。




社会人になったらすぐに家を出てた。


家族のもとに帰る気はなかった。


社会ではしばしば理不尽な目に遭う。


不快な言葉を投げかけられたり、無駄に比較されたり判断されたりもする。


それでもなお無理して明るい自分を装い前を向く。


出口の見えない道をひたすら進み続ける。


いつか感じたあの安心はどこへ行ってしまったのだろうか。


ふと思う。


あの頃自分の心の中にあった安心という暖かな光はいつのまにか不安の闇にすっぽりと覆われてしまった。


そんな光があったことすら今ではあまり覚えていない。


今はどこを見ても真っ暗な闇しかない。




どこへ帰ったらいいのだろう。




ありのままの自分を包み込んでくれたあの場所はもう無い。



物理的にはあってもあのあたたかさはもう無い。



そこに帰りたいという気持ちもどこかに置いてきてしまったみたい。



大人になった今、あの頃の自分の“帰る場所“は全然当たり前じゃなかったんだと思う。


父や母の優しさも、家族がつくるあたたかい空気も、それに触れて得た安心も



いろんなことが当たり前じゃなかったんだ。


当たり前が存在することがどれだけ難しいことかなんて、ひと1人の想像力じゃ乏しすぎてわからない。


だからいつも失ってからじゃないとその有り難みに気づけない。




やっぱり自分には帰る場所が必要なんだ。


あったかくて、心地よくて、自分が自分であっていい場所、許されている場所



自分の心の中にそんな場所をつくろう。



苦しくなったとき、悲しくなったとき、辛くなったとき、不安でたまらないとき



そんなときは自分の心の中の聖域へと帰ればいい。



許されて、元気になって、よし頑張るぞってまた出発して


何度も何度もそうできる場所。



あの頃の“帰る場所“とは違うけれど


家族は自分を許すことの大切さを確かに私に教えてくれたんだ。



時間はかかってもいい。


少しずつ手探りで


あの頃家族がしてくれたように


精一杯受け止めてくれたように


今度は私自身が自分のことを許していこう。




もし自分のことを許せるようになったら



いつかまた家族のもとに帰ろう。


あの頃言えなかった“ありがとう“を伝えに。




P・S

この詩は私にとっての子供の頃の“帰る場所“(家族とその経験)をもとに書きました。生まれ育った背景は人によって違うと思います。でもどんな人にも帰る場所って必要なのかなと思います。心の帰る場所。それは一番身近である自分自身の心の中につくれると思っています。そんな場所を探すきっかけとなったら幸いです。

この記事が参加している募集

スキしてみて

もしヒントになったり、背中を押したいと思ってくださったら、サポートいただけるとありがたいです。