未知なる道のり☆①小学校編~生きる意味を教えてくれたマリンバ~
マリンバ&カーヌーン奏者、鈴木未知子の
音楽人生を簡単にご紹介します。
未知子が何を感じ、どんな経験をし
音楽家人生を歩んでいるのか書いてみます。
もしも誰かの何かになれたら嬉しいです☆
ピンクレンジャーになりたい
千葉県船橋市に生まれ、生後間もなく母子家庭となり、母方の祖父母の家で育つ。こどもたちのヒーロー”戦隊もの”の主役たちが学校の先生。
特に音楽の先生のピンクレンジャーに憧れた。
保育園に河合音楽教室が併設され、放課後遊びの延長で歌ったり、オルガンでみんなで演奏したりした。
ピアノが友達
小学校にあがると、近所のピアノ教室に通うことに。課題を弾くのも、流行の曲や合唱の曲を弾くのも大好き。
でも、友達がコンクールを受けたり、作曲をしたり、教室でケーキを食べた話を聞く度、うらやましくて、「教室を変えたいなぁ」と思いながら、
祖父母に言えず、通う日々。
あなたしかピアノ弾ける人いないの?
小学校3年生の秋。合唱祭でピアノの伴奏者に選ばれて、喜んでレッスンへ。「あなたしかピアノ弾ける人いなかったの?」
衝撃の一言だった。私が伴奏のオーディションに出ると報告しなかったことが不服だったらしいが、だったらそういうことがあったら言ってねと先に行っておけばいいのに。習ってるのは先生なのに。それでも辞めなかった。
びっくりしすぎて、帰り道、コンビニに寄り道。
お小遣いでポッキーを買って、ブランコで食べてから帰った。
お父さん居ないから買えないんでしょ?
小学校5年生の梅雨。私は死のうとした。11年の人生を自ら終わりにしようと思った。生きている意味は何なのか真剣に考えたけど、わからなくなった。「みんなズボンなのに、こんな寒い日もスカートしか履かないなんて、鈴木さんはお父さんが居ないから買えないんでしょ?」
そういったのは、まさかの担任である。
まさに〈女王の教室〉のような教室だった。先生は絶対でそんなことを言ったら、良いも悪いも分からない子供たちはその生徒をいじめる。
もう思いだせないことも多いが、相当苦しくて、休み時間はずっとトイレにこもり、お昼休みはみんなに見つからないところまで逃げていた。
給食は「好きな人と食べましょう」という意味の分からにルールで、いつも一人で食べていた。
死を決意したその日に
今日帰ったら、あの高台に行って死のうかと考えながら、下駄箱を出ようとしたとき、現れたのは吹奏楽部の顧問の先生だった。
音楽委員会だった私が、月に1回の発表会で活動する私を見て、スカウトに来たのだ。「リズム感良いから、パーカッションやらない?」青天の霹靂だった。死ぬ気になったなら、新しい自分を始めてみるのもいいのかもしれない。そう思った。本当にただそれだけだった。
楽しい。
音楽室を開けると、河合音楽教室で幼稚園時代一緒に遊んでいた、お姉さんがいた。「みっちゃん!一緒に打楽器やろう☆」
久しぶりに学校で人と話した。それだけで嬉しかった。
始めて触ったのはボンゴ。ラテンの手で叩く楽器。小さいほうだ。
吹奏楽で有名な「アフリカン・シンフォニー」。ただひたすら同じリズムを先輩たちと叩くだけ。それが楽しかった。
打楽器に夢中
それから、休み時間は一瞬でもいいから音楽準備室へ行った。6年生が4人もいたので、私の担当は小物打楽器。でも先輩たちが卒業したら、ドラムやティンパニー、鍵盤打楽器だって弾けるようにならなければいけない。
超途中入部の私は、4年生のパート仲間とたくさん練習した。
私がどんどん質問するので、先生が楽器の教則本をたくさん購入してくださり、独学でどんどん吸収していく。
もはや、手を挙げても完全に居ないことにされる授業すらどうでもよくなり、授業中でも机の下でドラムの8ビートを練習した。引き出しにはいつも教本が入っていた。給食も急いで食べて音楽室に直行した。
周りの目が変わっていく
「お前、すげーじゃん!!!変わったな。俺、ファンになるわ!!!」
そう言ったのは、6年生のムードメーカの先輩。学校集会で演奏する私を見て、みんなの前でそう発言する。
それからクラスのみんなの反応が変わった。少しだけ生きやすくなった。
自信
市内の学校や、市民団体など、ジャンル問わず一同に会する「千人の音楽祭」。そこで私は合同小・中学校吹奏楽でモンキータンバリンを叩いた。
〈身体全体で表現するように〉と顧問の先生から言われていた私たちは「踊りあかそう」でいつもどおり踊りながら叩いた。
「みんな彼女たちのように楽しそうに!」そう指揮者の先生が声をかけてくれた。「あなた音楽のセンスがあるわ」そう他の学校の先生に褒められた。
初めて、自分が存在している意味が分かった瞬間だった。
部活に燃える夏休み
小学校6年生になり、パートリーダーに。
初めてのマーチングコンテストに出ることに。猛特訓だった。
部活に夢中で、朝から晩まで練習していた。部活のない日も校庭に遊びに来てるていで、本当は自主練。みんなで時間をかけて作り上げる歓び。青春。
初出場ながら、関東大会まで出場。先生の友人たちもたくさん助けてくれて、大人と一緒に作り上げた定期演奏会。吹奏楽への夢に溢れていた。
私の人生は音楽と共にあるのだと、そう確信した。
失格。それがすべての始まり
ソロコンに出演することになった私。その時小太鼓とマリンバで迷ってマリンバを選ぶ。正直、小太鼓は難しいと思った。とはいえ、マリンバはほとんど弾いたことがなく、祖母に小さなマリンバを買ってもらって、冬休み必死に練習した。
コンクール当日。まさかの結果だった。時間制限を超えてしまって、失格。非常に悔しかったが、その時声をかけてくれたのは、現市立船橋高校の名物顧問、当時海神中学校顧問であった高橋健一先生だった。
なんと海神中学校を学区ギリギリで選べた私。しかも同じ小学校から行くのは私と、クラリネットの他のクラスの友人のみ。中学デビュー。
部活の楽しさに比べ、教室とのギャップはすごくて、笑った記憶はほとんどない。でも悔しいから絶対に休まなかった。そんな息が詰まるような日々からようやく解放される。
苦しみからの逃げるための手段だった吹奏楽。
中学校はパラダイスだった。
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