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週報20240513-19

この週報はアーティスト井口真理子が、福岡県宗像市大島という離島を舞台に、「一日も無駄にせず、慈しんで生きる」というモットーのもと暮らす、その記録である。
毎週末に、先週号を振り返りつつ、当週号を書き綴る形式のため、配信は1週間ずらしている。
マガジンのサブタイトル「心技体」は、今年の書初であり、その1年における自分との約束である。

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5月第3週、早くも、3周目である。
先月、自分の許容量を無視して詰め込みすぎた結果、手を負傷した経緯を持つ身にとって、それはもはや焦燥に駆られる経過ではない。

当初の計画であれば、個展制作に向けてキャンバスも全て張り上げ、下地塗布も完了し、各作品の下描き工程も完了して着色を進めているはずではあったが、怪我による想定外の遅延。それでも今週、なんとかジェッソ工程までは進められた。
普段私は生成りキャンバスではなく、コーティング処理をされているキャンバスを使用しているが、そこからさらに、絵具の発色性/定着性/耐久性向上のためにジェッソを複数層に分けて塗る。ジェッソは水を混ぜて使うのだが、濃すぎても薄すぎてもいけない。自分の手がこれくらいだ、という塩梅を一番知っているのでハケを持つ手と相談しながら濃度を決める。気温や湿度、乾燥時間にも気を配る。

丁寧に、そして手早く塗ることが重要で、もたもたしていると先に塗った部分が乾燥してしまいムラになるし、雑に塗るなどもってのほか。下地の凹凸面は、そのまま、のちの絵筆による描き心地を左右する。心を込めて手を動かす。

先週まで手の治療を続け、今週もテーピングやアイシングなどしながら再開を試みた。キャンバス張りを一部失敗して、やり直してみようとするものの、やはり痛みが走る。もうこれ以上その工程にかかずり合ってはいられない、ということで、手の負担がキャンバス張りよりは比較的ましなジェッソ塗布工程を進めたのだった。

しかし、やはり張り直したいキャンバスに意識が向く。
キャンバス張り器とガンタッカは、テンションが上手くかかれば本来さほど力はいらないとはいえ、やはり手が完治していないので不安になる。
そこで救世主が登場するのだが、それはのちに触れることにする。

右手はかなり回復してきたが、左親指が使えず、掴むような動作ができない。指一本ですら、ありとあらゆる動作に必要不可欠な存在なのだ。
健常時には当たり前に享受しているその尊い存在に、ただただ愛しく大切にしなければという想いが募る。
怪我というのは、カラダによるアタマとココロへの定期的な「当たり前じゃないよキャンペーン」のようなものなんだよな。

そう、怪我をしたことによって、より一層、心技体への意識が高まったではないか。それはただ純粋に収穫であったといえよう。
そうさ、予定通りいかなかったからといって、なんだ。
他に得たものが沢山あるではないか。うむ。失ったものより得たものに焦点を当てよう。落ち込んだって仕方ない。切り替え切り替え。

得たもののひとつに、読書の時間がある。
手が思うように動かせずにいた期間、以下の良書に恵まれた。
「宇宙からの帰還」/ 立花隆 著
「動物農場」/ ジョージ・オーウェル 著
「1984年」/ ジョージ・オーウェル 著

最近、年下の聡明で素敵な友人と、読書交流というか交換をしている。
初回は、私から彼女に「サピエンスの未来」/ 立花隆 著 を貸したのがきっかけで、今度は彼女が「動物農場」を貸してくれたのだった。初めてオーウェルを読んだらあまりの面白さに魅せられて、続けて「1984年」を購入し、読んでいる。
各書の紹介や感想を述べだすと、とんでもない長文になること必定、というわけで、本号では割愛したい。

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それはある日の朝。
いつものように、7時から島内ラジオ体操に行き、8時からは地域見守り隊として子どもたちの登校を応援したあと、あまりに天気がよいので、ふと海岸まで散歩してみた。
すると、なんとまあ絶景かな。快晴、そよぎ風、寒くも暑くもなく最適温、その上、凪ときている。宝石のようにキラキラと輝く水面を眼前にし、そこにただ佇んでいるだけで、幸せ成分と呼べるような何かが身体中をくまなく満たしていくような。
あまりの気持ちのよさに、うっとりしてしばらく海をぼんやりと眺めていた。そして、午後には本を携えて、ひとり気ままに海を眺めながら読書しようと思い立った。
その日の午後、珈琲豆をミルで挽き、淹れたての珈琲に、鍋で温めたミルクを合わせてホットカフェオレをつくり、保温水筒に入れて、準備万端。
昼食にはKAIKYUさんでホットサンドをテイクアウトし、朝方腰掛けた海岸沿いまで赴く。海を眺めながら、平日昼間にゆっくりとおいしいものを食べられるなんて、なんという贅沢だろう。
これも怪我していなかったら、制作や時間に追われて部屋に引きこもっていたかもしれない。
食後は木陰に移動し、持って来たホットカフェオレを飲みながら、「1984年」を読み耽った。

時折、海岸に目をやっては、たゆたう波の動きに心を奪われる。
吸い込まれる、といったほうが正しいだろうか。
吸い込まれ、海の中を泳ぐ。魚のように。胎児のように。
普段地上で生活しているものの、やはり太古の記憶でも蘇るのか、水の中に入りたくて仕方なくなる。ちゃぽちゃぽちゃぷん、という、まろやかな波が打ち寄せる音はまるで子守唄のようにやわらかく、意識を包んでいく。

海は、宇宙をあらわしている。

宇宙人の気持ちになって再度海を眺める。
ああ、まことに、美しい星だ。
意識存在の全てが、このいっとき、美によって浄化される。宇宙の見えない偉大なエネルギーのようなものを感じる。
目に映る世界は、その人の精神に染み込んで行き、無意識のうちにその核心を醸成していく。悪いものをみれば悪化し、良いものを見れば良化する。いたってシンプルなことだ。

目に見える世界と、目に見えない世界は、つながっているのだ。

私は視覚に敏感というか繊細なセンサーが搭載されている(し、年々その精度があがっているような気がする)。映画で残虐なシーンや血生臭い描写に差し掛かるときなどは見るに堪えない。後々残像に悩まされるので、そういうときは大体いつも手で目を覆っている。逆に、美しいものを観たり聴いたりして、あまりにも琴線に触れるような瞬間に立ち会うと、涙がひとりでに溢れてしまう。

大島では、美しいもので溢れている。澄み渡る空、輝く星空、御神木に包まれる神社、光り輝く海、まろやかな潮風、畑に宿る生命たち、平和に暮らす地域猫たち。そして、島の人々のあたたかい心。

植物たち、動物たち、虫たち、魚たち、そして人間たち、生き物みんなでこの美しい世界を、地球を、楽しみ慈しみ幸せになるためにこの瞬間があるんだな、そんな詩的なことを真面目に実感してしまう。幸運だな。

その日は、夕方まで快晴が続き、御嶽山頂上まで行ってみると、今年最高といっても過言ではないほどの夕日を拝むことができた。
水平線に溶けていくピンクバター。太陽は光の反射によってか、マフィンのような形をしていた。沖ノ島、月もくっきりと見え、三者とも画角に収まるマジカルポジション。

なんというか、「地球大満喫」の一日だった。
そんな幸福感に包まれて帰宅すると、友人から一通のメールが届いていた。
「祝12345」と。
ん?一体なんの暗号や?と思ったら、どうやらその日が「私が地球に滞在して12345日目記念日」ということらしい。なんと。

今日のこの奇跡のような一日の所以が、すとん、と腑に落ちた瞬間だった。感謝。合掌。ラブ。

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週末は、パートナーKがはるばる仕事帰りに6時間以上もかけて大島まで来てくれた。
フェリー最終便はもちろん終了しているため、夜中に海上タクシーで海を渡って来てくれたことに感極まるワタシ。闇夜に光る船が近づいてくると、思わず波止場でうるうる。
互いのライフワーク/ライフスタイルを尊重している私たちは、現在、多拠点/遠距離。
されどハートはいつもそばに…….これ以上書くのは照れくさいので割愛…….//////
束の間のひとときだったけれど、両日快晴で気持ちの良い大島日和をふたりで満喫できた。
制作においても、手の不自由な私に代わって力のいる作業をやってくれたり。本当に助かった。感謝してもしきれないマイヒーローなのであった。

大島の魚たち、そして畑で育てた野菜たちを料理して、大島の味覚を存分に楽しんでもらえるよう、おもてなし。
好きな人と、おいしいものを食べる。
シンプルで、最高に幸せなことだ。

心意気で、いただいた鯛。余す所なくいただきました。

いっぱい話していっぱい笑って、あっという間だった。
思い出を両手いっぱい、お土産に。最終便フェリーを見送る。
ちょうど島の夕方18時のメロディーが流れだす。
別れのBGMが、泣き虫に追い討ちをかける。

こんなにフレキシブルに関係性を構築できる人は、なんと貴重でありがたいのだろうと改めて思う。
ひとりの時間も好きだし、ふたりの時間も大好き。
理解、尊重、対等が土台にある関係性。独自性豊かなパートナーシップ。

感謝の気持ちをいつまでも大切にして。
チャージ満タン。ありがとう。

さあ、またエンジンかけていきますか。

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