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週報20240527-0602

この週報はアーティスト井口真理子が、福岡県宗像市大島という離島を舞台に、「一日も無駄にせず、慈しんで生きる」というモットーのもと暮らす、その記録である。
毎週末に、先週号を振り返りつつ、当週号を書き綴る形式のため、配信は1週間ずらしている。
マガジンのサブタイトル「心技体」は、今年の書初であり、その1年における自分との約束である。

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5月第5週、6月第1週。仕事、制作、暮らし、旅行。今週もめまぐるしく時はかける。

個展制作に向けて、スタジオを再整備。
何事も、段取り8割。
限られたスペースで作品保護を叶えながら、目一杯の作品数、円滑に制作を進めていくためには、動線を万全にすることが肝要だ。
未来の自分が作業しやすいように。

「この工程のときはここにソーホース出せるように」とか「一旦絵具が乾いたら作品を逃せる場所をつくる」とか様々である。塗りの途中、隣の作品に絵具が飛び散らないように、養生手段も考案しておく。

そうして、全ての作品が壁面に収まるように。
作品を引っ掛けるための部品は、職人の友人にいくつか作ってもらったストックがあるが、足りなければ自分でつくる。

そうして出来あがったスタジオをぐるり眺めて、一呼吸。
よし、これで思う存分、加速していける。

早速制作に、と行きたいところだが、今週締め切りの書類業務や、デザイン業務など諸々あり、そちらから着手。
これらの仕事は全て、自分のやりたいことの一環だ。つまり、「潰しのきく仕事」は一切ない。どれも自分にしかできない、自分の作品・世界観につながる、そして深化させる仕事だ。だからやりがいがあるし、責任もある。

デザイン、といっても、縁もゆかりもない業種や企業へ、仕事と割り切って自分の世界観と無関係なアートワークを描いて納品する、ということは私はできない。
それは、よい/わるい、というのではなくて、できる/できない。もしくは、やりたい/やりたくない。という問題にすぎない。
割り切ってライスワークとして絵を描くのが好き、楽しいという人もいるだろう。
私にとって絵はライフワークである。金銭交換はあくまで自分軸から可能となる。
ライスワークとしての絵仕事: 需要に応える
ライフワークとしての絵仕事: 需要をつくる
という具合だろうか。

こんな世界があるよ。ほお。こんな世界があるんだ。この世界を味わいたいな。

そう思ってもらえて作品やデザイン、ディレクションを買ってもらえること。それが自分軸でやるプロフェッショナル・アーティストの仕事。
そしてその需要は、なによりもまず、自分自身の核から生まれてくる。

「これが見たい」
「これを世にひっぱりだしたい」

という絵なり映像なり、物理的な目には見えないイメージやアイデアが精神の目には見えている。それを、物理的な世界に落としこんで、物理的な目で見たいのだ。

自分が見たい。見て満足したい。それが先頭。
自己満足、という言葉はわるいもんじゃないと思う。
条件があるとすれば、その自分が、自分だけではないこと。
自分の中に、宇宙があることだ。真の自己満足とは、宇宙満足なのだ。

私は自己芸術惑星に忠義を尽くして生きている、というとやや大げさかもしれないが、逆にそうでない仕事をするのは今世のミッションに反した気分になり、やる気が出ない。
しかし、そうした独自の仕事を打ち立ててやっていくには、割り切ってする仕事とは異なるエネルギーや努力や実力、また運の要素などがかなり必要となる。岡本太郎が「芸術家は全宇宙を背負って生きているんだ」というような言葉を遺していたが、そのニュアンス、わかるなぁ。

まあ、芸術家だけでなく、みんな宇宙を背負って生きているんだけどね。
気づくか、気づかないかは、その人次第だ。

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週末は、東京へ。
2ヶ月ほど離島にこもっていたので気分転換として。

突然だが、私は江戸が好きだ。
もっと言えば、江戸っ子の文化、美意識、精神性が好き。粋ってやつだ。

好きになったきっかけは時代小説。山本周五郎の小説を2年半ほど前から愛読している。
現代のジェンダー観点からすれば、時代遅れと言い捨てられてしまいかねない、男女のふるまい。
男は守り、女は支える、という価値観。
貸し借りリテラシーを支える、義理人情。
それらは、依存度が高まると一気に人間関係を腐敗させるリスクがあるが、一方で人と人を深く結びつけ、豊かな共生社会を築く効用もある。

今回、深川江戸資料館に行ってきた。
足を踏み入れた瞬間、江戸時代にタイムスリップしたかのような錯覚に襲われる。とても楽しい。江戸好きにはたまらない空間だ。
驚いたことに、室内に建造された江戸様式の建物、靴を脱げば中に上がれる。しかも、展示してある調度品も触れてよし、ときている。
開館したのが約40年前で、その当時は江戸様式の家具をつくれる職人さんたちが現役で、新調もメンテナンスも可能だったそうな。現在はそうした職人さんがほとんどいなくなってしまったので、再現不可なものも多く、展示品の貴重さに心して触れる。また、中には実際に江戸時代に作られた調度品もあり、それらも見て触れることができる。

江戸っ子たちは、さぞグルメだったにちがいない

学芸員さんたちは(もちろん)江戸愛に満ちている方ばかりで、いろいろな雑学を教えてもらえて楽しかった。お話する中で、「当時の人々は、本当にモノを大事にしていた」という話題になり、モノを大切にする人は、人も大切にするのではないかな、と。
それは現代にも通じる部分が多いのではないか。
逆に人を大切にする人で、モノを大切にしない人をあまり見たことがない気がする。
壊れても、直して使う。すぐに捨てない。
なんだか、人間関係にもあてはまりそうじゃないか。
完全に壊れたモノは潔く手放すのも、同じく。

とはいえ、現代はあまりにもモノが溢れてしまった。
人間関係もネットやSNSによって溢れてしまっている。

そんな私たちにとって、あまりモノがなかった時代の人々が、周りのモノや人を大切にしていた姿勢から、学ぶべきものは多いのではないだろうか。
取捨選択し、その上で、選んだモノや人を大切にする。
この時代にはなかなか難しいことかもしれないが、意識したいところだ。

江戸のスピリッツを求めて下町をぶらぶら散策していると、すてきなお土産屋さんが。
ご夫婦で何十年も切り盛りされており、近所の子どもたちの憩いの場にもなっている。駄菓子なんかも売っていて、なんだか懐かしい雰囲気。
あさりの佃煮や、手拭いなんかを買いながら、ご夫婦とお話した。
昔は、こうした下町情緒溢れるお店が何軒もあったが、高齢化と後継者不足ですっかり減ってしまったのだそう。

人生の大先輩のお話は貴重だ。

「おかげさま」という言葉の意味を、教えてもらったり。

わるいことが起きても、それを裏返せば、おかげさま。
おかげさまは、かみさまで、みんなについておられる。
気づくか、気づかないかは、その人次第。

などなど。人生訓をたくさんお土産にいただいてココロ満タン。

新陳代謝の激しい東京で、もちろん江戸時代当時のモノはほとんど存在していない。
けれど、江戸っ子の粋たるものは、人のココロの中に今も息づく。

2泊3日のショートトリップはまるで幻のようにあっという間で、本当に楽しくて、しあわせだった。

おかげさまですな。

感謝を胸に、離島に帰還。

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